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第拾ノ弐幕中ノ中 − 鵺 −

吐息も凍える、冬夜。招かざる大陸からの使者が、帝都に姿を現し、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕中の中編。。。


 人々が寝静まった、深更。

 ヒュ・・・ンンッ・・・

 凍てついた大気を劈き、白銀の閃光が、煌く。

 ヒュッ、、、ビュゥッ、、、ンッ・・・

 幾筋も、幾筋も。

 それは屋根の上から、木陰から、塀の向こうから。

 同じ標的に、向けられた、【殺意】そのものだった。

 大地を蹴って、右へ左へと軽やかにその殺意を躱せば、獲物を見失った白銀の閃光は、無機質な正体を晒すこととなる。

 大地に突き刺さっているのは、投擲する、ただそのためだけに作られた、小指程はありそうな太さの、長い針だ。

 大地に深々と突き刺さっているのを見ると、当たれば身体を貫通するだろう。

 それすらも、嘲笑うかのように立ちはだかっているのは、

 ハッ、、、ハッ、、、

 これもまた、闇夜に銀波を放つ、大狼であった。

 ― 生きながらにして死地に在る、我らだが、、、、 ―

 闇の中、仲間が【闇針】でもって仕留めようとするその様子を、彼方の老松の梢から見つめていた【者】は、

 ― 化物め、、、 ―

 目を眇めた。

 その姿を捕らえたと思った瞬間、寸でのところで身を翻す。

 闇針イエンシン

 異形をも、仕留めると言う、特殊な針だ。

その闇針が、澄んだ音を立てて、弾かれる時さえある。

 ― 先の蛮族掃討戦で暗躍した、【蛮狼】。その記述はあったが、、、なんとしてもここを、抜けなければ、、、 ―

 この国の住人になりすましたところで、その鼻は、敏感にこちらの臭いを嗅ぎ分けることができるようで、執拗に追い立ててくるのを見ると、どうやら【目的のもの】は、この都で間違いはないらしい。

― それを、散らばっている者達に、伝えなくては、、、 ―

 この場から離れる隙を探っていれば、

「がら空き、ですよ」

「、、、、、」

 振り向きざまに、闇針を投擲。

 その切先を、肩越しにいなした相手が、闇の中で微笑むのが、見えた。

 手に、幅広の無骨な大太刀を、握っている。

 ぎらついている。

 禍々しいまでに。

 老松から、路地に着地。

 足音も、吐息すら殺した相手は、そのまま人の形をした影であった。

 身体の線こそ、すっぽりと頭頂部より被った涅色の衣が、夜に融け、染まっているのだ。

「、、、、、」

 優美すらある微笑を浮かべ、築地塀の上にいた痩躯が、路地へと舞い降りる。

「大陸の【鵺】が、この倭で、いったい何を嗅ぎまわっておいでで?」

「、、、、、」

 暗い眸が、敵を見つめている。

 幾度となく、死地を潜り抜けてきた直感が、告げている。

 生かすつもりはない、と。

 爪先から、総毛立つ、感覚。

「、、、、、」

 本能が、戦いたい、と言う。

 投擲の瞬間を見せぬ造りの、衣。

 その布の中、無数の闇針を指の間に挟みこみながら、背を丸めた。

 大気が、張り詰めた。

 ― 来る、、、 ―

 大太刀を握る手に、男は力を込める。

 一回り、鵺が、広がった ――― かに、見えた。

 ふわりと、袖が広げられたのだ。

 刹那、銀の雨のように降り注ぐ、無数の闇針。

 男は、大太刀を振った。

 風が、巻いた。

 不可視の一太刀。

銀の雨は、大地を穿ち、太刀は、空を斬った。

 布が、ひらりと舞い落ちる。

 その向こう。

 彼方の屋敷の屋根に、遠ざかる鵺が、見えた。

 本能を捻じ伏せ、任務を全うすること、したのだろう。

「、、、、、」

 慌てることもなく男は、大太刀を持つ手首を、返した。

 手の中で、白銀の大弓へと変化すると、足元に落ちている闇針を一本、つがえた。

 その細腕からは到底想像できぬ程、強く、弓が引かれ、撓る。

 遠ざかるその背に狙いを定めると、

「、、、、、」

 右目を眇めた。

 闇色の眸が、銀灰に透けてゆく。

 瞳孔が、細く引き絞られ、

 ヒヒュ・・・ッ・・・ン

 放たれる、矢。

 視線の彼方で、鵺が一人、銀の閃光に刺し貫かれ、崩れる様が、見えた。

「ふ、、、ぅ、、、」

 薄い唇から、細く、息が吐き出す。

 大弓を下ろすと、一振り。

 それは、手の中にすっぽりと収まる程の花切鋏へ。

 木賊色の狩衣、その懐にしまったところで、

 ククゥウウ・・・っ

 軽やかな足音が、駆け寄ってきた。

 数匹の大きな狼が、その口を、爪を、朱に染めている。

 中には、傷を負っているものもいるが、男を見つめる青い双眸は、穏やかであった。

 それぞれが、それぞれの目的を、達したのだろう。

 頼もしくも、狼を見つめた時だった。

 ヒヒュゥ・・・ウンンッ

「ッ、、、」

 上空に、何かが打ち上げられる音が、響いた。

 振り向いた先、

 ― しまった、、、 ―

 細く空へと上がった、光の筋。

 小さく弾けて消えるその狼煙に、思わず舌打ち。

 ウゥウウ・・・

 喉の奥で唸り声を上げながら、牙を剥く狼達と共に、

「、、、、、」

 男、胡露は、光が掻き消えた後も尚、夜空の一画を、睨むのだった。




― む、、、―

 帝都への街道を行く旅人が、夜露避けの菅笠を上げた。

 前方に、黒々と見えるのは、闇夜に眠る帝都だ。

 その上空で、光の筋が、弾けた。

 目を凝らせば、その余韻か、淡紅色の煙が、たなびいてみえた。

― 紅煙の烽火。近頃、狼が出没すると耳に挟んではいたが、やはり、ここに、、、 ―

 旅人は、目を擦り擦り、街道にしゃがみ込んだ。

 脚絆を確かめ、草鞋の紐を結わえ直す。

手甲の捲れを直しつつ立ち上がると、そのまま帝都への道を取り、しばらく行ってから、無人の街道を脇に、逸れた。

薄っすらと霜を降ろした、田畑。

その畦道を行けば、簡素な竹垣根の家々が、ぽつりぽつり。

畦道沿いに引かれた水路から、水の流れる音が、聞えてくる。

大きな樫の木下に、傘を頂いた、地蔵が一体。

その先にある民家郡を横切ると、そのまま裏手に広がる林に入った。

 人の手が入った山とて、夜ともなれば、鬱蒼として、闇が濃い。

 その中を旅人は、おおよそ、常人とは思えぬ脚力でもって、帝都に背を向け、疾駆を始めた。

 白々と残る残雪を跳ね上げながら、熊笹の茂みを揺らすその姿は、さながら一陣の風だ。

― さて、相手は、古の蛮狼。幾人の同胞はらからが、この地に残っているか、、、 ―

 薄笑みを口元に湛え、旅人は、駆ける。

 主と、仲間の元に、烽火が上がった場所を、伝えるために。




 白銀の狼に導かれるようにして、帝都は西の白季門を潜った、胡露。

 閑散とした闇夜に、時折、乾いた冷たい風が舞う中、開けた空き地へと踏み込んだ。

 畦道に、ぽつり、と、とり残されたのは、白木蓮の巨木。

 今はまだ、葉を落とし、寒々しいその辺り。

 白い薄霧が、茫洋と蟠るようにして、漂っている。

 狼達が、一様に立ち止まり、耳を下げた。

 胡露の目の前で、霧が濃淡を滲ませると、人の形を取って、抜け出してくるところであった。

「、、、、、」

 青い。

 涼しげな眸は、瑠璃一色。

 そのまま、よく研磨された瑠璃を、嵌め込んでしまったかのようだ。

 真冬と言うのに、長身でしなやかな肢体には、簡素な闇色の薄絹を数枚、纏うだけ。

 くせの無い、真珠色の髪を、そのまま腰まで垂らしている。

 どこか痩せぎすで、それでいて中性的な容貌の主が、

「しばらくぶりですね、、、」

 現れた男に向かって、静かに声を掛けた。

 胡露が大地に膝をつき、

「やはり、貴女でしたか、、、」

 拱手。

 眼を伏せると、

「久闊でございます。翠雲ツィユン公主」

 深々と、頭を垂れた。

 一方、公主と呼ばれた主は、堅苦しさから口元に薄く笑みを刷くと

「【青目】で、構いませんよ、玄胡露」

 気遣いは無用だと、手を振った。

「なれば、お言葉に甘えまして、、、」

 胡露は顔を上げると、改めてその相手を見つめた。

 ― 青目。獣神らによって組織される元老院の一柱であり、北の大地を治める、狼精筆頭、、、 ―

 多くの風狼に傅かれる者こそ、大陸は北東部、翠雲の大地に生きる獣の長で、その地仙。

【青目】。

 天津国に籍を置いたものならば、知らぬ者はいない。

 風狼を束ねるにしては、少しばかり線が細いが、見てくれで力の優劣を判断する事は、愚かだ。

 天津国には、赤子のような外見の神が、その微笑み一つで、竜巻を召喚することなど、ざらなのだから。

「玄家が、下賜された天領を返納し、大地に降りたこと、花王から聞き及んでおります。その後、一族は息災で?」

「はい。皆、散り散りにはなりましたが、古参の獣神、地仙らのご厚意により、眷族に迎えていただきました。かく言うわたしも、こちらの地仙の庇護にあやかっております」

「それは、何より」

「しかしながら、青目。天津国に居られるはずの貴女が、御自ら、参られるとは、、、」

 それまで、まっすぐに胡露を見つめていた眸が、伏せられた。

「我が良人おっとは、周知の通り、翠族の始祖。その直系の娘は、すなわち、我が娘、、、」

 長い睫毛が、ふるり、また、ふるり、と揺れた。

「押し寄せる人の群れに、一度は大敗を喫しはしましたが、此度、娘が、入内を拒むのであれば、、、」

 感情の一切を窺わせない、貌。

その高く通った鼻梁に、皺が寄った。

 薄い唇から鋭い犬歯が覘けば、周りに控えていた風狼達も呼応して、低く唸りはじめた。

 しかしながら、感情をあらわにしたのも、一瞬の事。

 すぐに感情の一切を掻き消すと、

「二年前、奉華門を潜った娘は、病身。その身を押して、自ら後宮に入りました。しかし、哀しみに膿んだ大気に蝕まれ、天命を待たずして、人知れず果てました」

 淡々とした口調で、そう告げた。

「そう、でしたか、、、」

 大草原で、家畜を追って暮らす、騎馬牧民。

 その一つである、翠族。

 風狼が庇護する彼らを、胡露も、見知っていた。

 北の大草原を拠点とする蛮族らの首魁、との記述が神都に残るが、敵ながら勇猛果敢で、大軍を前にしても臆する事無く、最後の一騎に至るまで、まさに獅子奮迅の働きをし、他の民族らを鼓舞したと言われている。

 十数年かかったと言われる大陸北部平定の原因は、神出鬼没で将軍らを苦しめ続けた、北の雄【翠族】にあると言っても、過言ではないだろう。

「貴方もご存知の通り、翠族は代々、直系の末の男子が長子。早く生まれた男子は、皆、他の地へと流れます。娘の将来を悲観した長は、何の悪戯か、落雷にあって命を落とし、眼を病んだ先代は、誰とも口をきかなくなりました」

「、、、、、」

「長子となる末の弟はまだ幼く、神皇に番う年頃の娘と言えば、、、」

「青目、、」

 胡露は、眸を伏せた。

 皮肉とも言える因果に、同情、したのかもしれない。

「しかし、、、翠族の元に、使者が参って、暴かれたのですか、、、?」

「いえ。たとえ、爪を剥がされようとも、喉元に刃を押し当てられたとしても、それはありません。翠雲の地に生きるものは等しく、一族の誇りと共に生きております」

「これは、とんだ失言を。お詫び致します」

 青目は、構わないと、首を横に振る。

 薄い胸の前で腕を組むと、長い睫毛がふるりと揺れた。

 肌と同じ色の、薄い唇。

 少しだけ、何かを考えるような仕草で、下唇を噛んでから、

「ここ百年、神皇の側近に屍鬼が一人、名を連ねています」

 静かに、そう口を開いた。

「屍鬼、、、」

 屍鬼しき

 文字通り、人や獣の屍に巣食う、鬼を指す。

 また、意図的に魂魄を屍に定着させる術法によって、生み出される式神も、屍鬼に含まれる。

「屍鬼ならば、上からの追手がかかっても、おかしくはないはずでは?」

 返魂は、現世において外法であり、禁じ手。

 場合によっては、天津国の神々から討伐の命が下る場合も、あると言う。

「今回は、掟通りに翠雲を去った者達の足取りを、調べたようです。平素、隠密部隊【鵺】を束ね、自らも神都の守【導師】として神皇に仕えており、その姿勢は、どこまでも忠実。神都では、別段、何を企むわけでもない、、、」

「、、、、、」

「それ故、少々厄介と言いましょうか。その力は悪鬼、意志は、人。何の理に属すのかすら、分からぬ有様。それ故、天津国の諸神も、静観せざるおえないのです」

「悪鬼で、人、、、」

 胡露の瞳孔が、針のように細く絞られる。

 胸中には、未知なる相手と対峙することになるかもしれぬ高揚感と、

― なんだ、この、感覚は、、、? ―

妙な胸騒ぎが、入り混じっていた。

 堪えきれず、鋭い犬歯を覗かせた、胡露。

 獰猛な獣性を覗かせる眼差しを、青目はまっすぐに受け止めつつ、

「、、、、、」

 首を、振った。

 それ以上、詳細を口にすることはできないと言う、意味であった。

「青目、、、」

 思わず、細い眉を寄せた胡露に、

「縁とは、しきもの、、、」

 どこか、意味深な微笑みでそれだけを呟くと、青目は胡露に、背を向けた。

 そのまま、薄霧が漂い始めた一画へと、足を踏み出す。

「青目、教えてください。貴女はこれより、どうなさるおつもりですか?」

 その霧の奥へと薄れてゆく華奢な背中へ、問えば、

「鵺が嗅ぎつけた以上、ただ、その一声を待ちます。理不尽な契約を、力で捻じ伏せる準備は、できております」

「ッ、、、」

 胡露は、その言葉に耳を疑い、戦慄した。

 返答次第では、武力行使も辞さないつもりなのだ。

 最悪の場合、地仙である遙絃が、青目を阻むだろうが、

「青目、、、」

 冷たい汗が、頬を伝った。

 地仙級の力が、この帝都でぶつかりでもしたら?

「翠雲の大地が、ここ帝都が、戦火に見舞われるとしても、貴女は、、、」

 その言葉が白く、夜気に滲んだ。

「、、、、、」

 青目の足が、止まっていた。

 ゆっくりと振り返ると、残酷なまでに青く澄み渡った眸が、すぐに掻き消えるその吐息を見つめ、

「涙に暮れる我が子を見て、どうして高みの見物でいられましょうや?」

 冷ややかな一蔑となって、投げかけられた。

「くっ、、、」

 もどかしく、奥歯を噛み締めた、胡露。

 やはりその想いで、青目は、地上に降りたのだ。

 白銀の毛並みの大狼に守られ、消え去る、その姿。

 ― その一言で、帝都が、、、 ―

 青目が大狼を従え、掻き消えた後も、

 ― そんな事が、赦されると言うのだろうか、、、?! ―

 胡露はまんじりともせず、薄霧が晴れてゆく様を、見つめていたのだった。




                       ※




 首筋に、纏わりつくのは、

 ― ? ―

 視線。

 心地悪さに、泡肌が立つ首の後を擦りながら、素早く左右を窺った。

「、、、、、」

 けれど、そこには見慣れた帝都の喧騒が、広がっているだけだった。

 ― 気のせい、か、、、 ―

 酒甕を積んだ荷車や、反物を背負った行商、見回りの武官連中の姿に慌てて脇道に逸れるごろつき、肩に野猿を遊ばせた猿回し、などなど。

 別段、変わった様子は無い。

 腕に抱えなおしたのは、大陸の蒸留酒、白酒ぱいちゅうだ。

 老いた花守の寝酒で、馴染みの酒蔵へ使いに出るのが、宵藍の役目でもあった。

 昨夜ちらついた粉雪も、日中の陽射しで幾らか溶けてはいたが、通りを吹き付ける風は、やはり冷たい。

 思わず背筋を丸めると、自然と早足になってしまった。

 花守はきっと今頃、室内に入れた牡丹の鉢の手入れをしている頃だろう。

 火桶によって、温かく保たれた室内で育てられる牡丹は、年明け、この界隈で暮らす娘たちの花簪として、振舞われる。

 花の盛りに手折るのは気が引けるが、閑散とした屋敷に、晴着姿の娘達が集まれば、これまた別の花が咲いたようで、それは賑やかなものだ。

 一度、

『丹精込めて作った牡丹を、手折るのですか?』

 と聞いた事がある。

 花守は笑って、

『毎年、帝都のどこよりも早く、春を告げにきてくれるでなぁ』

 そう、言った。

 幾度か目にしているが、娘達のそのおしゃべりは小鳥の囀りにも似て、春が一足先にやってきたような、そんな心持にさせてくれるのだった。

 そんな事を考えながら、先の辻を曲がった。

 荷車が行き交う大通りよりも、少し細いが、入り組んだ路地を行った方が、早い。

 人気の無いそこは、手入れが十分になされていない築地塀や、竹垣が目立つ。

 背の高い庭木で、空は狭く薄暗いが、蝋梅、梅、木蓮や槿、金木犀に海棠などが居並び、いつ来ても、目を愉しませてくれる。

 今日も、甘く、それでいて深みのある香りが漂ってきた。

 築地塀から乗り出すように咲き群れる、白椿。

 日陰に残った雪の上に、白い花弁が散っている。

 ずしりと重い瓶子を抱き直し、眼差しを足元から前方に据えた時だった。

「っ、、、」

 思わず、びくりと身を竦めてしまったのは、前方に人が立っていたからだった。

 咄嗟に、視線を足元へ。

 大柄な黒い影が、大地に伸びている。

「、、、、、」

 相手が、動く様子はない。

 大の大人二人が肩を並べて歩くのがやっと、と言う狭さだ。

 宵藍は、会釈すると、右の竹垣に寄ってすれ違う事にした。

 できるだけ身を縮めて、やり過ごそうとして、

「もし、、、」

「ッ」

 低く、くぐもった声に続き、大きな手によって、肩を掴まれていた。

 咄嗟のことに、心臓の鼓動が、大きく跳ね上がる。

 取り落としそうになった瓶子を胸に掻き抱き、顔を上げれば、

「!?」

 息が、止まった。

 頭からすっぽりと、全身、涅色くりいろの布によって覆われている。

 肩幅から窺える、がっしりとした体躯が、ゆったりとした布地の動きのせいで、ずっと大きく見える。

 吐く息のせいか、眼前に垂らした布の向こうに、人の顎先が見えるのが幸いだが、眼差しはこちらからでは窺えない。

 窺えないのに、動けない。

 見えない視線に、射竦まれている。

 それでも、心を奮い立たせ睨みあげれば、

「、、、、、」

 布越しでも、目が合っているような気がした。

 長く垂らした前髪の間から、青く、どこまでも深く透けるのは、空色の眸。

 涅色の衣の男は、大きく頷いた。

「問おう。その眸。草藍ツォイランの縁者か?」

「!!」

『あなたはっ、、、、』、そう喉までせり上がったところで、飲み込んだ。

 声をあげてはいけない ―――

 ぎり、と奥歯を噛み締め目を伏せると、肩を捩って走り出した。

 入り組んだ路地を、駆ける、駆ける、駆ける。

 冬でも青々と、葉を茂らせたままの大柑子。

 朽ち掛けた土壁の向こうから、路地へと飛び出したその枝に頬をしたたか引っ掛けたが、顔を顰めただけで、駆け抜ける。

 得体の知れぬ恐怖で、振り向く事も、できない。

 右へ、左へ。

 また、左へ。

 荒い息遣いと、鼓動が、体中に反響しているようだ。

 路地が、少し広くなる。

 手入れのされた築地塀が、両脇に聳える。

 もう少しで、花守の屋敷が面した大通りに、出る。

 いつもは煩わしい人々の喧騒に、早く包まれたい。

 そうすれば、少しは安心する。

 風にはためく狩衣の袖が、はたはたと、耳につく。

 じわりと、弱い涙が視界を滲ませた時だった。

「こちらへ、、、」

 聞きなれた、声音に続き、

「はっ、、、」

 体ごと脇道に引きずり込まれた。

 視線が、白一色に包まれる。

 鼻腔をくすぐるのは、深く落ち着く、荷葉の香り。

 ― この香り、、、 ―

 顔を上げようとして、

「今しばらく、動かないで、、、」

 短く、告げられた。

 抱き抱えられたまま、小さく戸が閉まる音がした。

 そっと、肩に回されていた腕が、外される。

 傾きかけた扉の隙間から、外の気配を窺う若者の横顔は、

 ― 胡露どの、、、 ―

 確かに、その人だった。

「、、、、、」

 しばらく、聞き耳を立てていたが、宵藍の視線に気付くと、

「こちらです、宵藍殿、、、」

 いつもの優しげな微笑みで、ついてくるように、と促した。

 地味な灰浅葱の狩衣姿が、金柑や柚子と言った柑橘系の樹木らが、野放図に植えられたここでは、よく映える。

 手入れがされていないのか、行く手を塞ぐ中、胡露は枝を摘んでどけながら、

「ご存知だとは思いますが、棘が鋭いですから、、、」

「、、、、、」

 宵藍を、導く。

 ふかふかとした枯葉に、足を取られながら、辺りを見回す。

 土壁に沿って、黒松が植えられ、頭上を覆わんと枝を広げる大柑子の木々と相まって、鬱蒼としている。

 冬とはいえ、ここは緑が、深い。

 ここは、いつの間にか、うち捨てられた町家だろうか?

 その濃い緑の中、朽ち掛けた屋敷が、ひっそりと眠っていた。

 胡露は、朽ちた井戸の前で足を止めた。

 崩れかけたその井戸には、くたびれた筵が、掛けてあった。

 それをどけると、大地にぽっかりと空いた、闇が現れる。

 そこに梯子が、掛けられていた。

「説明は、後で。足元に気をつけて」

 背を押されながら促されて、

「、、、、、」

 宵藍は、困惑した視線を向けた。

 無理もない。

「永寿宮の裏手の屋敷に繋がっていますから、心配いりませんよ。わたしも、すぐに行きますし、、、」

 屋敷を訪れる時と寸分変わらぬ、にこやかな笑顔。

 宵藍は、その笑顔に促されるまま、梯子に手と足を、掛けたのだった。




 暗い。

 目が慣れるとか、そう言う問題ではない。

 温く、澱んだ大気と共に、濃厚な闇が、横穴の奥に塗り込められている。

 見上げれば、頭上遥かに、小さな光の入り口が見えた。

 ― あんなに、遠い、、、 ―

 それが、失われた。

 胡露が、筵を掛けたのだろう。

 暗闇の中、梯子の軋む音だけが、わんわんと反響する。

「、、、、、」

 ただ、じっと待っているだけでも、総毛立つ。

 思わず、腕を擦った。

 この闇は、怖い。

 夜がもたらすものとは、違う。

 光を知らぬ、常闇だ。

 縋るように上を見上げたが、胡露の姿を捉えることはできなかった。

「宵藍殿、ご心配なく。わたしには、見えていますから、、、」

 身を強張らせる姿に気付いたのか、慮る胡露の声が降ってきた。

 程なくして、傍らに降り立つと、

「このお屋敷は、わたしの主が所有のものでございます。主は土竜道もぐらみち、などと呼んでおりますが、、、帝都の地下には、水脈が幾つも走っているのは、ご存知ですか?」

 宵藍は、闇の中で頷いた。

 その手に、冷やりとした手が重なり、

「さ、こちらですよ」

 引かれるままに、歩き出した。

 表面は冷たいが、触れ合えばすぐにぬくもりを生む。

 それが、右も左も分からぬ闇の中で、何よりも心強い。

「水脈は、日々流動するもの。ここは、水脈がずれたことにより、水が通わなくなって久しいそうです。井戸が枯れれば、便利さに慣れた人々は不便だと手放します。そういった古い屋敷が、帝都には、意外にあるものです」

「、、、、、」

 先を行くその背中すら見えないが、その声にほっとする。

 常闇に、呑まれてしまいそうな心も、繋がれている。

 ― どうせ、何も見えないのなら、、、 ―

 宵藍は、目を閉じた。

 手を引かれるまま足を動かせば、幸福感に満ちているおのが気持ちに、気がついた。

 それを意識して、思わず頬が上気する。

「、、、、、」

 背中を向けているため、気付かれることはないだろうが、

「悪戯な主が、屋敷の者を撒く時に利用するものでして、、、まさかこんな役に立つとはおもいませんでしたよ」

「、、、、、」

 胡露の口から出た『主』に、どきりとした。

 宵藍は知らぬ、その相手。

 花守は、会った事があるようだが、宵藍が、その相手について尋ねた事は無い。

 胡露に対して抱いている気持ちを、花守に気付かれてしまいそうで、

「、、、、、」

 それが、できない。

 肩から垂らした黒髪に、思慮深げな灰恢色の双眸。

 普段、親しく言葉を交わす相手が花守だけのため、度々訪れるこの物腰柔らかい若者に、特別な思いを抱いてしまうのも、無理ないことなのかもしれない。

 そんな胸中など、露知らず、

「廃屋の庭木の手入れにと訪れてみれば、あなたが見えた。あの男に、心当たりがおありで?」

 胡露の澄んだ声が、尋ねた。

「、、、、、」

 首を横に振れば、

「そうですか。最近、帝都もなかなかに物騒なようですね。あのような風体の輩が徘徊しているようですから、人気のない路地は避けた方がいいでしょう」

 淡々とした、忠告が降ってきた。

 こくりと頷き、慌てて、相手が見えていない事に気がついた。

 代わりに強く手を握れば、

「ええ、そうして下さい」

 手の甲に触れている指先でもって、とんとん、と軽く擦られた。

 この深い闇の中でも、伝わった事が素直に嬉しくて、

「、、、、、」

 宵藍は思わず、俯いてしまうのだった。




 固く閉じられた門扉を叩けば、しばしあって、

「誰かな?」

 しゃがれた花守の声が、掛かった。

「花守、胡露でございます。宵藍殿も一緒です」

「今、開けよう」

 細い路地には、冷たい風が吹き抜けるだけで、幸い、人気は無かった。

 木戸が開くと、胡露はまず宵藍を入れ、外を窺った後、扉を閉めた。

 手を、土で汚した痩躯が、

「何か、あったようだの?」

 細い溜息と共に、出迎えた。

老爺らおいえ、、、」

 ずっと黙っていたせいか、掠れた声が、花守を呼んだ。

「何があった?」

 手拭いで汚れを拭うと花守は、そっと宵藍の肩を抱いて、擦ってやった。

「妙な、風体の男に、、、草藍の縁者かと、尋ねられました、、、」

「む、ぅ、、、」

 花守の手が、一瞬止まり、表情が強張った。

 しかし、すぐに、

「お前に使いを頼んだわしが、悪かった。しばらく屋敷から、出るでないぞ」

 眉を寄せると、なんとも寂しげな顔で、そう言い聞かせた。

 宵藍が、こくりと頷くのを見届けて、

「ここまで送り届けてくれ、礼を申しますぞ」

 花守は、頭を垂れた。

 胡露は、

「ちょうど、近くを通ったところでしたから、お気になさらず。しかし、年の暮れともなると、懐具合が寂しくなるのか、なかなか物騒ですな」

 首を横に振った。

「ともあれ、何事も無くて、良かった」

 そして、にこりとして、宵藍を見つめると、

「わたしは、これにて、、、」

 男の問いかけの件には何も触れず、踵を返した。

 その様子に、なんとも言えぬ寂しさが込みあげて、

「あ、、、胡露どのっ」

 宵藍は、その名を呼んだ。

 門に手を掛けたところで、振り向いたその人に、

「あの、、、あ、ありがと、ございました」

 宵藍もまた、頭を下げる。

「いえ、、、」

 物静かな、それでいて穏やかな声音が、還ってくると同時に、

 カタタ…リ…

 木戸が閉じられた音が、聞えてきた。

 花守が、閂を閉めると、

「今日はわしが、茶を淹れような」

 深い溜息と共に、瓶子を抱いたまま突っ立っている宵藍に、そう言ったのだった。




 胡露が恵堂橋を渡ったのは、夕暮れが迫る時分であった。

「、、、、、」

 優美なその貌が、今日は心なし、暗かった。

 気分が、優れないのだ。

 白い息を吐きながら、人々が忙しなく行き交う中、

「おや、、、」

 橋桁から、身を乗り出すようにしている者に、気がついた。

 その傍らに立って、

「何が、見えるのです?」

「ッ」

 声を掛ければ、掛けられた方は、弾かれたように身を捩った。

 と、その拍子に手を滑らせ、

「!!」

 傾ぐ、体。

 眼下を流れる冷たい川へと、落ちるその前に、

「危ない」

 胡露の手が伸びて、引き寄せた。

「、、、、、」

 後襟を掴まれたまま、無言で睨むのは、

「飛び込むおつもりで、若君?」

 水干を纏った、伯である。

 脛を出した寒々しい姿を見ると、屋敷を抜け出してきたのだろう。

 いつものように、鋭い犬歯を見せところで、苦笑した、胡露。

 そっと川面を覗き込めば、

「ああ、白鷺の羽根」

 洲になっているところに、白い羽根が一枚だけ、引っかかっていた。

 さすがに、人目があるところでの跳躍は、禁じられているらしい。

 人がはけるのを、待っていたのだろう。

 しかし、そうこうしているうちにも流されてしまうのではないかと、橋桁に齧りついていたのだった。

 おかしなものを欲しがるものだと思いながら、傍らでじっと、羽根を眺めている伯に、

「お屋敷になら、熊鷹、鸚鵡、孔雀に鳳と凰の羽根も、ございます。要りようとあらば、差し上げますが?」

「、、、、、」

 伯は、無言で頭を振った。

 どうしても、あの羽根が欲しいらしい。

「困りましたねぇ、、、」

 胡露は、空を見上げた。

 幾つも、風が行くのが、視えた。

 白い、しらうおのような姿をしているものから、大きな龍のようなものまで、その姿は大小様々だ。

 胡露は、そっと眼を閉じた。

「、、、、、」

 伯が、胡露を見上げ、釣られるように空を、見上げた。

 ― 我が声に耳を傾ける、天駆ける神の末、、、 -

 思念が、大気を渡る。

「?!」

 伯が、思わず身を竦めた。

 そのすぐ鼻先を、鼬のような姿の風の精が、吹き抜けていった。

 頭上高くでは、大気がざわめき、

 ― その白き翼に、今一度風をはらみ、幼神の御前へ、、、 ―

 一陣の風となって、巻いた。

 びゅっ、と傍らに吹き降りてきた風に、

「お、、、」

 伯は、細く長い尾を幾筋も引いた、大きな蝶を、視た。

 それが、水面に吹きつけ、無数のしらうおの如き姿で群れ広がると、今度は数匹の獣の姿となり、旋風となった。

 あちらこちらで旋回すれば、葉を落とした柳の並木や土手の枯れ草が、盛大に揺れはじめた。

 人々が襟元を掻きあわせ、背を丸めていそいそと歩み去る中、

「あ、、、」

 くるり…くるくる…

 伯の鼻先に舞い寄る、白き羽根が、一枚。

「ふぉお、、、」

 両手で受け取ると、黒目を大きくして、その羽根を覗き込む。

 表情は無いが、羽根の根元を摘んでくるくるとやる姿に、方法はどうあれ、一先ず満足を見た、胡露。

 ― お変わりなく、無邪気なことで、、、 ―

 薄い口元を思わず綻ばせ、屋敷へと足を進めようとして、

「?」

 袖を、引かれた。

 見れば、袖を掴んだままそっぽ向いた伯が、

「、、、ガ、ト」

 小さく、礼を言ったところだった。

「お安い御用で、若君、、、」

 胡露はそう言うと、歩き出した伯と共に、往来へと出た。

 何に使うかは一向に不明だが、

「、、、、、」

 視線の端で窺えば、くるくると羽根を回し、ご機嫌だ。

 ほどなく、古びた外観の天狐の屋敷に、着いた。

 傍らにいた伯を見つめれば、漆黒の眸と、目が合った。

「メ、、、」

 伯が、胡露の左目を指差した。

 今日は、隻眼ではなかった。

 二つの眸が、揃って動いている。

「ああ、、、」

 胡露は軽く目元を押さえると、

「これは、義眼ですよ」

 小さく、伯に囁いてよこした。

「ぎ、が、、、ぅ?」

「ええ。適当な宝珠を、入れているだけです。本物は、地仙が耳環になさるとかで、返して下さらなくて、、、」

 苦笑した胡露にしかし、伯は、

「、、、、、」

 首を傾げた。

 どうして遙絃がそんな事をするのかが、いまいち、理解できなかったのだろう。

 説明したところで、まだ幼い伯に、理解できるとは思えなかった。

「、、、、、」

「、、、、、」

 沈黙が、二人の間に流れる。

 やがて、

「、、、、、」

「おや、、、」

 どこか憮然と様子で、伯は一人、歩き出した。

 胡露の微笑、その意図に、気づいたのだろう。

 西の山稜に沈まんと差し込む、橙の光。

 往来の何もかもが染まってゆく中、華奢な肩を精一杯怒らせ、その光芒へと溶けゆく小さな背中を見送って、

 ― どうにも、いけない。若君とは、やはり、馬が合わないと言うのか、、、 ―

 胡露は、小さな溜息を、吐いたのだった。




「嗚呼、若君。いつの間にか姿が無いと思ったら、今日は、どちらにお出掛けに?」

 都守の屋敷の門前には、案の定、篝火の仕度をする琲瑠の姿。

「、、、、、」

 いつもの事でそれには応えず、門を潜ると、気に入りの楓の木のある木立へ、入った。

 季節はずれの風鈴や銅鐸、鈴が結ばれた梢に登ると、そこに髪紐でもって、白い羽根を結びつける。

 よくみると、楓の木の窪みには、団栗や椎の実、松笠、赤い小石、貝殻などが詰め込まれている。

 気に入ったものを、集めているのだろう。

 幼神とは言え、子供とあまり大差ないらしい。

「、、、、、」

 風に、白い羽根がゆらゆらと揺れるその様を、眺めていると、

「伯、、、」

 木立の下に、蒼奘が立った。

 戻ったと聞いて、足を運んだのだろう。

 伯の手が、伸びた。

 掬い取るように、長く垂らしたままの髪を、絡めとる。

「紅い、か、、、?」

 木立に差し込む、燃えるように赤い夕陽によって、色素の抜け落ちた髪が、赤々と染まっていた。

 蒼奘が腕を伸ばし、伯の脇に手を入れて、抱き下ろす。

「、、、、、」

 そのまま腕に座らせ、するりと、胸に掛けていた翡翠輪を外す。

 ぶるぶると首を振れば、ややくせのある群青色の髪が、背に流れた。

 大きく欠伸をする伯を腕に、蒼奘は大池の畔へ、出た。

 薄く、空を覆い始めた雲を夕陽が赤々と、焼く。

 池で羽根を休めていた数羽の白鷺が、塒へと急ぎ、飛び立った。

 浮島へ渡り、平橋を母屋への階に向かう中、

「荷葉の香りが、するな、、、」

 ふと蒼奘が、呟いた。

 伯が、くんくん、と自分の袖の辺りで鼻を鳴らす。

 その様子に、

「珍しい事もあるものだ、伯。相手は、胡露であったか、、、、」

 穏やかな闇色の眼差しを向ければ、伯の喉が小さく、

 クルル…

 と鳴いた。

 その喉鳴りがいかにも、【不本意】、だと物語っている。

 階の先で、母屋の奥より現れた汪果が、膝をついた。

「若君、お帰りなさいまし。化身されたまま、そのような薄着でお出掛けになられて、、、お寒うございましたでしょう?」

 蒼奘が草履を脱がせば、伯は、汪果の膝へ。

 汪果は、その小さな足を絹布で拭ってやりながら、

「おささの仕度が、整っております。若君のお好きな天津国の花糖衣も、ご用意しておりますよ」

「ん、、、」

 小さく応じた伯を見つめ、微笑んだ。

 一方、蒼奘は、濃紺の宵闇を従えた北の空を見つめながら、

 ― 胡露が、天狐の元に戻った、か、、、 ―

 耳を、澄ましていた。

 往来の喧騒遠い、都守の屋敷。

 ここ数日、ちょうど今時分から聞えていた遠吠えが、今日は聞えない。

「、、、、、」

 冷えた欄干に手を置き、眼差し遠く、彼方を眺めていれば、素足で床を歩くひたひたという足音と共に、袖が、引かれた。

 軒庇に吊るされた、透かし灯篭に揺れる、焔。

 その、頼りない光源の中に在っても鮮やかな菫色の眸が、蒼奘をまっすぐに見上げていた。

「月が中天に掛かるころ、私は出掛けるが、お前は、、、」

「、、、、、」

 こくり…

 伯はただ小さく頷いて、その袖を掴んだ。

「そうか、、、」

 蒼奘は伯を袖に、歩き出す。

 その少し後に、衣擦れの音をさせながら、薄紅色の唐衣を纏った汪果が、従った。

 同じ頃、門前では琲瑠が、大きく伸びをしていた。

 篝火の仕度を、終えたところであった。

 肩を揉みながら、空を見上げる。

 薄雲の向こう、朧に瞬く星々が、霞んで見えた。

 月が現れるまでは、まだ大分、時間がありそうだ。

 白い吐息が、上空から吹き降ろす風によって、掻き消えた。

 どこか遠く、鐘の音が重なり聞える、逢魔が刻であった。




 古びた門が、蝶番の軋む音をさせ閉じられる。

 橙一色に染められた外の世界とは、別次元としか思えぬ世界が、広がっていた。

 延々と、彼方まで続くのは、季節を忘れた花々の狂乱だ。

 その中を、額から後頭部へと張り出した、見事な巻き角の山羊らが、渡ってゆく。

 胡露は、視線をその先へ。

 青々とした隆起を空に刻んだ山脈は、今日はどれも白々と雪を頂いている。

 術者の微細な心情を、察したのか、

 ― 少しばかり長く、傍を離れていたようだ、、、 ―

 小さく吐息が、薄い唇から漏れた。

 編んで、長く垂らしていた髪紐を解くと、砂色の癖の無い髪が背に流れ、銀毛で葺かれた獣の耳が、頭上に現れる。

 太く立派な尾を、一振りすると、

「、、、、、」

足早に、朱塗りの母屋へと向かった。

 どこか閑散とした屋敷の内を、見回せば、

「お帰りなさいませ」

「ああ、胡露さまが、お戻りになられた、、、」

「お戻り、お戻りよ」

 まるで息を吹き返したかのように、煌びやかな衣を纏った侍女らが、柱廊に現れた。

 その中から抜け出し、傍らに従った女がいる。

「お帰りなさいまし、胡露大人。我が君は、玥珀古堂にお篭りでございます」

潤星ルンシン

 いつかの、狐火を従え、往来で都守が戻るのを待っていた女であった。

 野狐筆頭、名を、潤星と言う。

「わたしの留守中、地仙に変わりは?」

 胡露の問いに、細く、切れ上がった眼を眇め、

「相変わらず、悪夢に魘されておいでです、、、」

 首を振ってみせた。

「そうか、、、」

 格子戸の向こう。

 庭先では、優雅に水を浴びる白孔雀の番いが、仲睦まじく互いの毛づくろいをしているところだった。

 その小川に掛かった橋を渡り、その先の回廊を左へ折れる。

 金色の花弁を持つ、蓮花。

 その水面は、瑞雲たなびく青空であった。

 雲間で遊ぶ龍魚らの、藍や白金しろがね、朱金、翠の鱗が、陽光に煌く。

 広大なその蓮池の先。

 白い、大小二つの月が寄り添うその下へ。

 弓なりの、優美な曲線を持つ石橋を渡ると、翡翠色も鮮やかな絹羽鳥の羽で葺かれた、離宮の姿。

 蔦を長く伸ばす時計草が、飴色の巨木を組んで造られた離宮の至る所で、青々と咲き群れている。

「、、、、、」

 質素な外観とは裏腹に、離宮の内部は細部に渡り、螺鈿でもって矢車草を思わせる幾何学的模様が描かれている。

 角度によって変わる輝きは、星の瞬きにも似ていた。

 その冴えた輝きの中、翡翠を削り創られた麒麟の像や、縦横斜めと無数の絃が張られた楽器のようなもの、真っ二つに割れた石版や、青鋼製の古の硬貨、幅広の大太刀などが、ところ狭しと並べられている。

 辰砂の釉薬鮮やかな、長壷の間を擦り抜け、奥へと出れば、

「、、、、、」

 視界が、開けた。

 蓮池を一望できる、最奥の間。

 卓子からだらしなく伸びた絵巻が、幾重にも重なるその上。

 腕に頬を預け、眼を閉じているのは、天狐遙絃。

 卓上から、足元へと伸びている絵巻の内容は、

 ― これは、古戦を描いたもの、、、 ―

 太古の時代、神々が二つに割れて、長き大戦に突入した時代があった。

 胡露がまだ幼い頃、一族の長老より聞いた話を、思い出した。

 散らばる絵巻、その中の、一つ。

 一際、眼を引くのは、蒼い雪を頂いた氷山だ。

 氷山を挟んで、獣神と、闇色の炎のようなものが描かれている

 その足元で、祈りを捧げるのは、人間の姿か?

 ― 天山、、、? ―

 何か、引っかかりを覚え、近づこうとして、

「ん、、、」

 小さな声を、聞いた。

 胡露は足音を忍ばせ、その傍らへ。

 ずり落ちていた掛布を、華奢な肩に、かけてやる。

 ― おや、、、 ―

 豊かな金髪が、結われることも無く、垂らされているのに、気がついた。

 普段から胡露が結うため、侍女らに、触らせなかったのだろう。

「、、、、、」

 胡露の指先が、髪を掬い上げると、そっと背中へと払った。

 無防備な、その寝顔。

 指の背で、陶器のように白い頬に触れれば、長い睫毛がふるりと、揺れた。

「、、、胡露」

 潤んだ眸が胡露の姿を捉えると、髪を掻きあげながら、長椅子に背を預け、

「戻ったのか、、、」

 白い細首を晒し、仰け反る。

 頭痛がするのか、額を揉む遙絃に、

「このようなところで、、、寝台へお連れ致しましょう、地仙」

 恭しく、手を差し伸べた。

 額を揉む手指の間から、紺碧の一蔑が投げかけられ、

「いい。それよりも、そちらはどうだ?」

 頭を振りながら、顎を引く。

 その横顔が、胡露には少し、やつれて見えた。

「正直、あまり芳しくは、ありません」

「そうか、、、」

 遙絃の、花桃色に染められた長い爪が、卓子の隅に用意されたままになっている、緋水晶で作られた酒器を、指差した。

 心得たもので、胡露が青鋼製のゴブレットを差し出す。

 酒器を傾け、青乳色の液体が細く注がれれば、強い芳香が辺りに漂った。

 細やかな気泡が立ち上り、弾ける音を聴きながら、

「鵺らも既に、倭の地を踏んでおりました。それどころか、帝都にいることを嗅ぎつけたようで、、、」

 遙絃が唇を湿らすのを、見守った。

 赤い舌先で、酒に濡れた唇を弄りながら、

「今更、他へ流すにしても、この国は狭すぎる、か、、、」

 それまで充血し、潤んでいた眸に、いつもの覇気が戻ってきた。

「ええ。当人が望めば、別、ですが、、、」

 胡露は、青目との会話を、掻い摘んで話した。

「ふん、、、」

 その言葉に、遙絃の唇が、歪んだ。

「青目。望めば【契約】をも覆さん、か、、、。正直、それほどまでとは。まったく、泣かせてくれる」

「、、、、、」

 遙絃は、大きく伸びをすると、長椅子から立ち上がった。

 長く、豊かな蜂蜜色に透ける髪が、さらさらと背に流れるまま、蓮池に迫り出した平舞台へ。

 飴色の檜に施された螺鈿の細工が、さながら宇宙に散らばる星のように、燦々と降り注ぐ陽光に、瞬く。

 その中を、薄紅、鶸、浅葱の薄絹を重ねて着崩し、その上から月白の長衣を羽織った遙絃が、絹擦れの音をさせながら、歩いてゆく。

「地仙、本当に、よろしいのですか?」

 少し後に付き従いつつ、胡露は、欄干に肘をついた遙絃を、伺い見た。

「ああ。栄えるにしろ、滅ぶにしろ、見届けるのが、役目だ。もっとも、眼に余るような所業に及べば、相手が大陸であれ、狼精筆頭であれ、この限りではないが、、、」

 秀麗な横顔はまっすぐに、空と水面みなもが融ける七色の水平線を、見つめている。

 光芒が極彩色の錦となって、幾重にも絡み合い、水底へと差し込んでは、交じり合う。それらは、水中で揺らめいては、鏡面の如きその湖面の下、光の波となった。

 時折、こちらまで差し込む光の帯が水面を通し、遙絃の横顔を照らしていく。

 その都度、紺碧の眸は光を受けて煌き、縁取る長い睫毛は、ふるり、またふるりと、揺れるのだった。

 穏やかな、静寂。

 世界は、どこまでも静かだった。

「、、、、、」

「、、、、、」

 訪れた静寂に、掛ける言葉を捜していれば、

「お前は、どうするんだぇ?」

 反対に遙絃に、尋ねられた。

「、、、、、」

 咄嗟の事に黙ってしまった、胡露。

 ― わたしは、どう、したいのだろう、、、 ―

 さすがに、尋ねられてすぐに、答えが出るようなものではなかった。

 俗に、人間らに犬神と呼ばれるものは、虎精や狐精、化猫といった獣のように、神通力を帯びた状態の犬科を指す。

 胡露もまた、その流れを汲む。

「、、、、、」

 尚も、押し黙る胡露に、

「おいおい。お前と私の仲だ。今更、遠慮はいらんぞ」

「、、、、、」

 苦笑した遙絃が、振り返った。

「、、、、、」

 言葉に詰まる、胡露。

 自分でも答えが、見えなかった。

 銀恢の眸を見つめながら、欄干に肘を預け、頬杖をつくと、

「お前の好きにしたらいい」

 慈愛に満ちた眼差しでもって、そう言った。

「遙絃」

 思わず、その名を呼んだ胡露であったが、

「ふ、、、」

 次の瞬間、端整な口元から笑みが、毀れていた。

 場合によっては打って出る、と言ったばかりの相手とは思えぬ変わり様に、その昔、手酷いめにあわされた事を、思い出した。

「なんだ?」

 好意に水を差され、とたんに眉間に皺を寄せた、遙絃。

「いえ。いつか、わたしを叩きのめした方の言葉とは、思えなくて、、、すいません」

 遙絃は、類稀な神通力の持ち主だ。

 手合わせした事のある胡露は、それをよく知っている。

 それなのに、妙な気の回し方をする。

 主として命じれば済むことなのに、力ずくではしない。

 そこに、好奇心が鬩ぎあっているのだが、させたいように、させる。

 遙絃が、野狐らに慕われる理由のひとつでもあり、彼らに接する際の遙絃なりの指針、のようなものだった。

 不器用なりの、優しさ。

 それが少し、可笑しかった。

「あの、、、あの時は、死に急いでいるお前が、単純に気に食わなかっただけだ」

 胡露の言葉を受け、憮然とした様子で、顔を背けた。

 その横顔が心なし、紅潮している。

 照れくさかったのかもしれない。

「、、、、、」

「、、、、、」

 胡露が、その傍らに立った。

 肩を並べ、欄干に腕を預けると、

「わたしはあなたに出会うまで、誇りこそが生きる意味なのだと、信じて疑わなかった」

遙絃が見つめる水平線の彼方を眺めた。

「地に落ちて、その誇りさえも失った。その上、あなたに、負けた、、、」

「ふん、、、」

「初めて味わった、屈辱。その恥辱の中、『ただ、生きろ』と言われ、生かされ、困惑したものです」

「、、、、、」

『ただ、生きろ』

 その言葉通り、意味など無い。

 縛られる誇りも、掟も、守るべき者も、無い。

 無くても、生きろ。

 当時の胡露は、地上で芽吹いた花精を狩っては天津国の神々に引き渡す探花使長として、その名を知られていた。

 神意に実直な性格から、行く行くは地上に降り、人々を導く地仙格に推挙されるとも言われた程だった。

 ただ一度、情を掛けた半花精が、目付けにつけた探花使と共に、地上で殺傷騒ぎを起こすまでは。

 責任を問われ、地上に堕とされた胡露は、そこで初めて遙絃に出会ったのだった。

「あの時のわたしには、あなたに抗う術も、拒む力も、自らに幕引く気力すら、残っていなかった、、、」

『そこで、呼吸しているだけでいい』

 胡露を、文字通り叩きのめした遙絃は、そう言い放って、姿を消した。

 残された胡露は満身創痍のまま、地に伏し、陽が暮れてはまた昇る様を、幾日も幾日も、眺めていた。

 一つとして、同じ形のものはない雲が行き、その違いすら指摘できずに過ぎ去る日々の中、その一瞬一瞬、姿を変えゆく夕暮れや朝焼けが、世界が、【ただ、美しかった】。

 何も背負っておらずとも、時は流れていく。

 自らの命を絶ったところで、それは変らないだろうと思っていた。

 この世にいても、いなくても。

だが、

「わたしは、気づかされた、、、」

不変なものなど何も無いと、だからこそ一瞬一瞬がこんなにも美しいのだと、そして、それを目の当たりにしたのも、まさに今、こうして呼吸しているからだと、素直にそう、思えた。

「ですから、今は、、、」

 遙絃の傍ら。

 視線は遠く、遥か彼方を見つめたまま、

「わたしは、やはり、わたしで在りたい」

 低く、それでいて澄んだ声音が、告げた。

 隣で、その言葉を聴いていた遙絃は、

「、、、そうか」

 唇の端を少しだけ吊り上げ、浅く、頷いた。

「同じ祖に連なる、よしみ。出来ることなら、力に、、、」

 それだけ言うと、胡露は傍らの遙絃を見つめた。

「あなたの眷族に加えてもらい、あまつさえ、その庇護の下に在ると言うのに、随分と勝手な事ばかり並べ立てているというのは、重々承知。それでも、、、―――」

「胡露」

 大気が凜と震え、その名が呼ばれた。

 紺碧の眸が、銀恢の眼差しを―――、包み込む。

「二度も言わせるな」

 呆れたような、それでいて、胡露の性格を良く知っているとばかりに響く、言葉であった。

「あ、、、」

 思わず、ぴんと張ったままだった、獣の耳を伏せる、胡露。

 その肩に手を置いて、

「気負うなよ、私の前では」

 遙絃は無邪気な子供のような笑みを残すと、母屋とを繋ぐ渡殿へ向かい、歩き出した。

 普段は、遙絃の影のように仕えているせいか、誰に対しても差し障り無いない受け答えをする、胡露。

 今日は、その本意に触れ、満足したのだろう。

 ふわり、ふわり、と、遙絃の尾が揺れている。

 遙絃に、何かを返そうと口を開き、

「っ、、、」

 言葉が見つからず、胡露は、口を閉じた。

 結局、悪夢について一言も口にしなかった、遙絃。

 遙絃の性格上、胡露が尋ねれば、隠さずに答えるだろう。

 別段、強がっているわけでもない。

 現に、遙絃は強い。

 心身、共に。

 それは、遙絃の伴侶となった胡露が、一番良く知っている。

 その遙絃が、今回ばかりは、さすがにひどく参っているように、思えた。

『これは、私が、負うべきものの一つだ』

 何度も反芻した、その言葉。

 遙絃の言葉には確かに、【覚悟】と【深入りするな】と言う気遣いが、垣間見える。

 胡露にしても、自分の方から、出逢う以前のことを尋ねるようなことはしないため、真相は未だ、謎のままだ。

 ― いつか、悪夢から覚める日が、来るといいのだが、、、 ―

 それだけを、切に願っている。

 そして、出来ることなら、少しでもその荷を背負わせて欲しいと、思っている。

「、、、、、」

 渡殿を、母屋へと、遠ざかるその背中。

 今はまだ、追うことが出来ず、

― 遙絃、、、 ―

 胡露は、その名を己が心に、刻みつけるのだった。




 冴え冴えとした銀波を放つ半月が、空の高みに掛かっている。

 星々も霞む、煌々とした月夜であった。

 白々とした輪郭を、くっきりと刻むのは、点々と浮かぶ雲の群れ。

 遥か高みから睥睨する月を覆わんとして、追いすがっているようにも見える。

 風も止んだ静かな夜に、時折ちらほらと白いものが舞えば、そのまま大地に蟠る。

 そこを、軽やかな足取りで歩くものが、いる。

 タタ・・タタタ・・・タタ・・・タタタ・・・

 白い息を吐き、大地に蟠った粉雪を舞い上げて走り寄るのは、狼だ。

 それも、一頭や二頭ではない。

 数十頭はくだらない。

 あるものは木陰から、あるものは先にある土手から、またあるものは民家の垣根を越えて、木々の梢から跳躍してくるものもいる。

 それが、集まらんとしている。

 帝都西部、白季門の先。

 街道から幾分外れにある、農閑期を迎えた田畑跡であった。

 ハッ、、、ハッ、、、

 冬夜の静寂の中、それらの息遣いだけが、音と言う音の、すべてであった。

 銀狼らの視線の先。

 開けた田畑の暗がりから、一際、大きな銀狼が、抜け出してきた。

『、、、、、』

 透ける様に青い目を、している。

 その姿に、どこからどもなく現れ、集まった狼らは、一応に太い尾を上げると、耳を伏せた。

 こちらへと歩んでくる銀狼の姿が、月光を浴びて淡く、闇に滲んだ。

 そのまま、月光を長く従えたかと思うと、それは、薄衣の裾となった。

 また、別の光の一端は、すらりとした手足となり、長き髪となった。

 寛衣の襟を正すと銀狼―――、青目は、狼らの前で腕を組んだ。

 ゥゥクォォオオ・・・ン

 ウゥウ・・・ウォフッ

 ククク・・・

 一様に、上目使いで甲高い声を上げる、狼ら。

 それらの声に耳を傾けることしばし、

「、、、分かりました。皆、苦労を掛けます。引き続き、頼みますよ」

 淡く微笑みながら、労いの言葉をかけた。

 甘えるような仕草で鼻を鳴らすと、狼達は闇の中、散り散りに駆け出していった。

 大地に、銀色しろがねいろの風が、巻く。

「、、、、、」

 軽やかな足音が、遠ざかってゆくのを耳にしながら、

「青目、久しいな、、、」

「、、、、、」

 低く、声が掛かった。

 反射的に、瞳孔が、針のように引き絞られた。

 眼光鋭く、辺りを見回せば、

「そなた、は、、」

 畦に、伐採を免れた白木蓮の巨木。

 小さな新芽を幾つも結んだその幹に、もたれている者が、いた。

 闇夜にも、白々と浮かび上がる、その姿。

 纏っているものこそ、地味な闇色の狩衣だが、青目や風狼の鼻が、その気配を嗅ぎ取れないわけがなかった。

 さしもの青目も眉を寄せ、身体を向けた時、だった。

「、、、、、」

 その闇色の袖に、白い小さな手が掛かっていることに、遅まきながら気がついた。

 おずおずと、その背中から顔を覘かせたのは、

 ― 幼、神、、、 ―

 三叉に割れた、一対の翡翠の角。

 ややくせのある群青色の髪は、背にばさらに流した、男童。

 菫色の大きな眸で、

「、、、、、」

 じっとこちらを見つめている。

 ― 結界を、その身に張っていた、、、幼神を、従えて、、、? ―

 青目は視線を逸らさず、くん、と鼻を鳴らせた。

 見まごうことなき、どこにでもいる人間だと、五感が伝えてくる。

 ― しかし、人の身でそのような事が、、、 ―

 眼を、凝らしたところで、

 ― もしや、、、 ―

 白木蓮のちょうど、真上。

 陽炎のように茫洋と、八柱の将が控えていた。

「冥真君、、、」

 その名に、無言で青い唇を歪めた、蒼奘。

「天狐はともかく、玄胡露。よもや、貴殿までも、この人の都にいたとは。それに、その脆弱な氣。人の器で、いったい?」

 困惑を隠せない、青目に、

「預かっている。少々、事情があってな、、、」

 蒼奘は、闇色の眼差しで、応えた。

 青目の視線が、再び、伯へ。

「、、、、、」

 伯が、身じろぐ。

「その、幼神も、、、?」

 青目の眼差しが、自分に向けられると分かると、

「、、、、、」

 再び、蒼奘の背中に隠れてしまった。

「そのようなものだ、、、」

「貴殿が、珍しいこともあるものですね」

 対峙している相手の事を、良く知っているとでも言うような口振りに、

「不変なものなど、この世のどこを探しても、見当たらぬものだ。そなたの、心変わりのように、、、」

「、、、、、」

 闇色の眼差しが、黙らせた。

 沈黙が風となって、粉雪と共に、吹き込む。

 凍てついた大気が、張り詰めていた。

「何をするも、構わんが、、、」

 それは、低く腹腔を震わせる声音であった。

「我は、この人の身で帝都を負うた、、、」

 腕を組んだまま微動だにしない、青目の前までくると、

「この地は、我らが知るよりも、複雑だ。私と、天孤の手を、煩わせてくれるなよ、、、」

 それだけを言って、傍らを通り過ぎた。

 その姿を追った視線が、

「、、、、、」

 菫色の双眸と、ぶつかった。

「っ、、、」

 一瞬、大海の深みにいるような、そんな映像が、脳裏を占め、霧散した。

 袖を掴んだままの伯は、後を振り向いたまま、以前、青目を見つめている。

 感情の一切を窺わせない、能面のような貌だが、

 ― あの幼神、海皇の縁者のようだけれど、、、 ―

 その菫色の眸の中に、青目は、僅かな感情の起伏を、見た。

 垣間見えた、好奇心のようなものに、手を振れば、

「、、、、、」

 少しだけ蒼奘を見上げ、すぐにまた、青目を見つめてくる。

「ふ、、、」

 青目は、思わず引き結んだ唇を、綻ばせた。

 伯が、そっと袖から手を出し、小さく応えたのだ。

 ― 完全に縛られてはいないようだが、、あのような姿で大地に留め置くとは、冥真君、なんとも酷なことを、、、 ―

 青目の視界の端。

 闇の中で、影が、身じろいだ。

 一度、大きく身を震わせると、力強い馬蹄の音を辺りに響かせた。

 蒼奘の元に駆け込んできたのは、青乳色の鬣に深紅の眸、漆黒の肥馬、鋼雨。

 蒼奘が騎乗の人となると、伯がひらりと舞い上がり、その膝へ。

 小柄なその姿は、広い背に隠れ、すぐに見えなくなった。

「、、、、、」

 遠ざかる馬蹄の音を聞きながら、青目は、帝都に背を向ける。

 薄霧漂うその先へと身を潜めながら、青目は自らの胸に、手を置いた。

 そして、

「心変わり、ですか、、、」

 天の高みに在った頃を思い出し、ぽつりとそう、呟いたのだった。



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