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第拾ノ弐幕中ノ前 − 思ひ色 −

花守見習いの少年、宵藍。一族の言いつけを守りながら、年老いた花守を助けて暮らしていたが、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕中の前編。。。


 顔を、あげてはならない ――

 ここは、結界外。

 人柱の守護も、無い。

 声を、紡いではならない ――

 この地は、最果て。

 地仙同士の繋がりは、あまりにも脆弱。

 その守護にも、頼れない。

 自由を、嫉んではならない ――

 ただ、じっと息を潜めるしかない。

 追手に見つかれば最後、連れてゆかれる重き扉の向こうは、血の通わぬ鬼畜の園と聞く。

【掌握される者】と、【掌握する者】。

 古の契約に取り決めされた、それが運命さだめ

 今更、覆すことは、できない。

【契約】は、【掟】を搦めとった。

【掟】は、一族の誇りだ。

 例え、最後のひとりに、なったとしても、、、

 

 

 

 後ろ手に扉を閉めると、白い息が、大気に滲んだ。

 指先が、冷たい。

 手を擦りながら、暮らし慣れた屋敷を見回した。

「、、、、、」

 いつもと、同じだ。

 凛として瑞々しい椿、まっすぐに空を仰ぐのは枯芙蓉、鋭い棘を持つ葉の下で可憐に揺れる柊、薄紅を散らす山茶花、そして、一際目を引くのは、俯きがちに蕾を結ぶ、鮮やかな蒼い芥子だ。

 ふいに、足元で木枯らしが巻いた。

 木の葉に交じって、ちらほらと、白いものが舞い上がっていく。

 門の脇に植えられた、冬桜の花弁だろう。

「ほぅ、、」

 小さな溜息が、思わず、毀れた。

 屋敷の塀の内には、季節の花の香りが、満ちていた。

 その香りに、安心、する。 

 少し、はしたないか、と逡巡しつつも、指先に走った鋭い痛みに、手を袖に入れた。

 懐手は、温かい。

 母屋への小路を行きながら、屋敷へ戻る道中考えていた事が、再び首を擡げてきた。

 思わず、

「、、、、、」

 唇を噛み締めた。

 どこでも同じだと、思った。

 屋敷のうちでは、自由にできる。

 だが、

 ― これでは、どこにいったって、、、 ―

 もう一度、噛み締めるように、口の中で繰り返した。

 それは今まで、幾度と無く、繰り返した事だった。

 何よりも、自分自身に言い聞かせるために、、、

 鐘の音が、瀟々と聞えてきた。

 見上げれば、雲が橙に焼けている。

 濃紺に染まった東の空と、夕暮れの西の空が鬩ぎあい、その狭間を、ちょうど雁の群れが行くところだった。

 北へ、向かっている。

 その向こう。

 嶮しい弩欒どらん山系の向こう側には、紺碧の海が大地を割り、広大な陸地が、在る。

「、、、、、」

 大陸。

 瞼を閉じれば、若草色の豊かな故郷が、今でもまざまざと、蘇る。

 故郷を離れて、随分経つと言うのに、噎せ返るような草の香りが、鼻腔に残っているような気がした。

 抜けるような、青い空の下。

 野生の馬が草を食み、羊達が水場を求め、長い列を作る。

 風にそよぐ、一面緑の大草原。

 その中で、冴え冴えと白銀の輝きを放つのは、銀狼達だ。

 草原の、絶対的な捕食者。

 美しい、その毛並み。

 気高い大地の覇王として、生態系の頂点に君臨する孤高の存在。

 その遠吠えは、いつだって耳に、心地良い。

 ささくれだった心も、訪れる闇夜への不安も、何もかもが、すべて凪いでゆく。

 物心ついたときから、その声は、身近にあったせいもある。

 けして、怯えるものではない。

 夜の帳が降りる時分、必ず聞えてくる遠吠えは、一族の守となりかわる、【合図】だ。

 決まって祖父の左の膝で、聞いた。

 そして、右の膝には――

「、、、、、」

 そこで瞼を、押し開けた。

 草の香りは掻き消え、噎せ香る花々の匂いが、宵闇に沈まんとする冷えた大気に、濃厚に溶けていた。

宵藍シャオラン

 しゃがれた声が、掛かった。

 扉の前、足元に落ちた影をいつまでも見つめていた少年は、我に返って顔を上げた。

 枯れ枝のような痩躯が、花園から母屋を繋ぐ渡り殿の一画に、佇んでいた。

老爺らおいえ、、、」

 屋敷の外では、終始黙っていたためか、声が、掠れた。

「ああ、寒かっただろう?」

 佇んだままの少年の傍に、足早に老人が歩み寄る。

 この屋敷、永寿宮の主である、【花守】。

 見慣れた顔が、

「風邪をひく前に、中へ、、、」

 優しく微笑み、そっと肩を押した。

 じんわりと伝わるその手の温もりが、【今】を、伝えてくるようだった。

「こう急に冷え込むと、節々が悲鳴を上げる。お前がいてくれて、助かったぞ、宵藍」

「あ、いえ、、、」

 老いた花守に変わり、季節の花々を御所に献上しに行った、帰りであった。

 とは言っても、決まった時刻に門前で、顔見知りの役人に渡すだけなのだが、

「御上は、白い花がお好きだと聞く。丹精込めて育てた椿に、冬桜の花枝、お気に召されるといいが、、、」

「あの立派な花枝ならば、香りも良いはず。見事な枝ぶりでしたから、きっと、お気に召されることでしょう」

 それでもその後、あたりをぐるりと散歩するのが、ささやかな楽しみでもある。

 道を行き交う旅装束の一団や、煌びやかな装飾の車、肥馬を操る武官に、年頃も近い童達の姿。

 賑やかな帝都の喧騒に揉まれれば、今在る場所こそが、己が生きている場所なのだと、思えた。

 しかし、

「、、、、、」

 今だ、ぼんやりとしている少年の眸に揺れるのは、一抹の寂しさだった。

 老いた花守の乾いた唇が、しゃがれた声を、紡ぐ。

「姉姫の心を、、、」

「っ、、、」

 弾かれたように顔を上げた、少年。

 その大きな黒瞳を見つめ、花守は、

「大陸から、早くに離れた儂が言うのも、どうかと思うが、、、」

 そこでいったん言葉を切った。

 長い白眉の下にある、大きな眸は、

「酌んでおやり、、、」

 亡き祖父に、良く似ていた。

 少年は、再び、俯いた。

 やがて、

「、、、、、」

 小さく頷いた。

 骨ばった、大きな冷たい手が、そっとその髪を撫でる。

 祖父のものと良く似た、けれど、祖父よりもすんなりとしたその手は、花々を慈しむ大地の香りが、した。

 

 

 

 長く、夕日に影が伸びる往来を、牛車が行く。

 手に鞭を持ち、牛を追う童。

 ぎしぎしと車輪が軋む、小気味良い音色の中、車に寄り添うように歩いていた大柄の男は、鼻先を掠めた微かな臭いに、素早く辺りを見回した。

「、、、、、」

 一瞬、横切ったかに見えた影はすでに無く、寒々とした風が、吹き込んでくるだけだった。

 憂いに沈んだ眼差しが鋭く眇められ、

「銀仁、、、」

 物見が少し開いて、声が掛かった。

 陰陽頭天羽充慶と、目があった。

「充慶殿、、、」

 正体も定かではないうちに、なんと言っていいものか。

 銀仁は、浅く息を吐いた。

 一方、充慶は、星が煌き始めた空を見上げると、

「風が、澱んでいる、、、」

 顎を撫でながら、そう言った。

「風、、、、」

 釣られて、銀仁も空を見上げた。

 時折、体ごと攫われてしまいそうな強い風が吹き荒ぶ中、鼻を鳴らしてみたが、先ほど捉えたような気配は、嗅ぎ取れなかった。

「何か、良からぬ事が、近づいていると、、、?」

 空を睨むように目を眇めた銀仁に、

「そんな気がするだけだ、、、」

 充慶は、苦笑を浮かべた。

「虫の知らせ、のようなものだ。杞憂に終われば、それに越したことはない」

 時折、白々としたものが舞い散るのを眺めながら、

「先代都守が在れば、、、」

 思わず、口を突いてでた言葉に、充慶は頭の後ろを、掻いた。

 子供のようなその仕草に、

「先代、、、?」

 銀仁も、興味をそそられた。

「先の都守。清々しい風を纏う、女性ひとだった。風伯と会話する、そんな稀有な資質を持った方でな」

「風伯と会話、、、」

「ああ。あの人がいたのなら、、、つい、そう、考えてしまったのだよ。儂も、年を喰ったものだ」

 風伯。

 それは気紛れな、風の精霊。

 そこらかしこにいるのに、語りかけても素知らぬ顔で、傍らを擦り抜けてゆく。

 深い皺が刻まれ、髪にも白いものが交じる天羽充慶であったが、思慮深い眼差しが、いつになく、澄んで見えた。

 そう、まるで、少年のように。

「その方は、、、」

 詮索するのもどうかと戸惑いつつも、この時ばかりは銀仁も、好奇心を隠せなかった。

 なにせ、この世の習いから言えば、あの【異形の都守の養母】に当たるのだから。

 もっとも、それは、【異形】となる以前の【蒼奘】の【養母】、なのだが、、、

 充慶の眸が、もう一度空を見上げた。

 重そうな灰色の雪雲が、いつの間にか、東の山稜より、こちらに迫っていた。

「もう随分と前に、亡くなった。先の帝が幼くして崩御され、後を追うように、すぐに、、、」

「高齢だったので?」

 銀仁の問いに、

「いや、、、」

 頭を振ると、充慶は物見窓の縁に頬杖をついた。

 視線を宙に彷徨わせながら、

「何をどうしたものか、いつまでも、若かった。齢は、七十を数えていたかもしれん。それなのに、見てくれば二十歳そこそこだった。神霊の加護の賜物か、不老不死ではないかと噂される程でな」

「不老不死、、、」

 人であるのなら、俄かには信じがたい事であった。

 目を丸くする銀仁を他所に、

「両目は、生まれつきの【破眼】。神霊に好かれると思えば、化生とも親交深く、そのまま正邪を、、、陰と陽の理を、その身に併せ持つような方でなぁ、、、」

 破眼。

 場所によっては、邪眼や蛇眼、覇王眼とも呼ばれる。

 神々からの【福音を告げる者】、または【災厄の予兆】とも言われ、そのまま崇められる対象にもなれば、忌み嫌われるものでもある。

 さしもの銀仁も話には聞いた事があるが、実際、目にした事はなかった。

「得意とするのは、呪術。だが、実際はどうだ。手解きもそこそこに、当時修業生だった儂に教えてくれた事と言えば、酒の呑み方よ。懐かしいものだ。あの頃はまだ、陰陽寮も星読寮も、互いにうまくやっていたのだよ、銀仁」

 在りし日のその人を思えば、平素、宮中で引き結ばれている口元が、自然に緩んでしまうようだった。

 陰陽寮では統括として、威厳に満ち溢れている充慶が、この時ばかりは少年のように、目を輝かせている。

 それが銀仁には珍しく、不思議に感じだようだった。

 ― 会ってみたいものだ、、、 ―

 思わず、そう心の中で呟き、そして、驚いた。

 誰かに会ってみたいなど、この国に流れ着いてから今まで、思ったことなど、一度も無い。

 生きる事への後ろめたさと、負い目を感じていた自分の中で、心境の変化が少なからずあったのだろうか?

 だとしたら、それは、、、

「お、、、」

 ふいに、巻いた風に、あかいものが舞った。

 ひとひら…ふたひら…

 銀仁の足元に舞い寄ってきたものは、どこかの庭先にでも咲いたのか、寒椿の花弁であった。

 それが、強い風に攫われ、空高く、舞い上がってゆく。

 もうすぐ、屋敷に着くと言う、その寒空さむぞらの下、

「あっ、、、銀仁っ」

 銀仁の姿に大きく手を振ったのは、門前で馴染みの庭師と談笑していた、あとりであった。

 大方、庭師らの後について回っていたのだろう。

 木々の手入れをする匠の技はいつ見ても、あとりの好奇心を刺激するらしい。

「父上っ」

 あとりが、駆けて来る。

 朱華に梔子の段の唐衣は、手鞠と雉を縫い取ったそれは上等なものだ。

 手毬の細やかな糸巻きから、雉の翼の細部に至るまで、職人の技がいたるところで窺える。

 姉姫と同じく、そろそろ年頃を迎えるのだから、屋敷の内で歌や筝に親しんで欲しい、と言う、母、津々つつらの、せめてもの想いが、現れているのだろう。

「おお、あとり」

 充慶が、あとりの姿に破顔し、牛車を止めさせた。

 衣の裾を摘んで、元気いっぱいに駆けてくる姿など、肺を止んでいた頃のあとりを知る者ならば、驚嘆せずにはいられない快復ぶりだろう。

 心得た銀仁が簾を上げれば、浄衣姿の充慶が、往来に降り立ち、

「父上、銀仁も、おかえりなさい」

「ああ、ただいま、あとり」

 額に掛かる前髪を払ってやりながら、目を眇め、我が子を迎えた。

「、、、、、」

 銀仁は、その傍らであとりに頷き、陰陽頭から少年、そして、父親の顔になった充慶の横顔を、なんとも穏やかな心持で眺めた。

 白い息を吐きながら、頬を朱鷺色に染めたあとりは、

「こんな早い時間に、二人揃ってなんて、珍しい」

 青みを帯びたその眸でもって、二人を交互に見つめる。

 華奢なその肩を押して、屋敷へと向かいながら、

「たまには、あるものだよ、あとり。こんな日のために、我らは皆、骨を折っているのだから。なあ、銀仁、、、?」

 充慶は、銀仁に問うた。

「ああ」

 大きく頷けば、あとりの大きな眸と、目があった。

 勝気で、それでいて深く澄んだ黒瞳は、そのまま吸い込まれそうだ。

 あとり。

 小さき、銀仁の主。

 その傍らに、在れる。

 この先、迷いや憂いが消える事はないのかもしれない。

 けれど、

 ― 己が心を偽らずにいられるのは、あとりがいるからだ、、、 ―

 今は、素直にそう思えるのだ。

 すぐ傍らで、背の高い銀仁を見上げたあとりが、

「なんだか、ひなたぼっこしている猫のような顔をしておるぞ、銀仁」

 笑って、そう言った。

「そうか、、、」

 銀仁も、思わず苦笑を浮かべ、顎先を撫でた。

 今の自分の顔は、あとりの言う通り、なのだろう。

 そんな心持、なのだから。

 屋敷の前で、

「充慶殿。お帰りなさいませ」

 腰の曲がった老いた庭師が、頭を下げた。

 道具を背負った、孫と思われる若者二人も、その傍らで揃って頭を下げた。

「ああ、与助殿。いつも、世話になっている。この寒さだ、脚を傷めていると聞いた。車を出そう。乗って行くといい」

「お気を使わないでください。このお庭に寄せてもらえる事が、わたしの誇りでもあります。それで、十分でございますよ」

 手を振って断ると、杖を手に、一礼。

「それでは、これで失礼させていただきます。雪が深まる前に、寄らせて頂きます。姫様、鷺草のお話の続きは、また、、、」

「うん。柊殿も、梅殿も、またね」

「姫様、その呼び名は、、、」

 顔を見合わせ、思わず苦笑した、若者二人。

 たまたま喧嘩したおりに、別々に柊と梅を手入れしているところをあとりに見られ、そのまま呼び名になったらしい。

 一行は往来を、北へ向かって歩いていった。

 二人の孫に付き添われ、遠ざかるその背をしばらく見送っていた充慶が、ふと、

「あとり、何やら与助殿の背中に、影があるようだが、、、」

 問うた。

 あとりは、頷くと、

「父上、与助殿の奥方が、病で苦しんでいるのだ。庭師には、楓と紅葉の見分け方や、花々に纏わる物語を、たくさん聞いた」

 充慶を見つめた。

「ふむ、、、」

 一際強い光を放つ、その眸。

「父上は、あとりが病に倒れれば、たくさん符をくれた。心強かった。符は、父上からの励ましの手紙だと、母上が言った。だから、快癒の符を、あとりにも教えて欲しいのじゃ」

 意志が、そうさせるのだ。

「もちろんだ、あとり。病に打ち勝ったお前の励ましなら、効果は絶大だろう。書いてやりなさい」

「うんっ」

 あとりは、充慶の袖を掴んだまま、門を潜った。

 銀仁は、その父子の様子を、少し後ろに下がって見つめていた。

 下男が庭先で落ち葉を掃く音に、姉姫が爪弾く筝の音が、交じる。

 忙しない足音に続いて、おしゃべりな侍女達の紅の袴と白い単が、屋敷のあちこちで見え隠れする。

 すっかり冬支度を終えた、庭。

 雪吊や、冬囲いも済んだ庭木らが、いよいよ冬の到来を歓迎しているようだ。

 大池には、今年もやって来た鴛鴦が羽を休め、湖畔では、どこから迷い込んだのか一匹の野良猫が、池に落ちたその影に釣られ泳ぎ寄る鯉には目もくれず、じっと二羽を凝視している。

 平穏な日常の風景が、炊事の煙を上げる母屋を背景に、広がっていた。

「、、、、、」

 そんな中で、銀仁は一人、口元を引き結んだ。

 先程気付いた黒い気配も、充慶が感じ取った違和感も、穏やかなこの風景を目の当たりにすれば、

 ― 本当に何事も無ければ、いいのだが、、、 ―

 思わずそう願わずには、いられなかったのだった。

 

 

 

 臥待月が、ようやく顔を覘かせた、深更。

 頼りない星月の明かりが、湖面に揺られている。

 ここは、浮き御堂を頂く、青梅池。

 その昔、仙洞の敷地内にある千年杉の頂に、降り立った天女がここで、口を濯いだとされる。

 当時は、満々と澄んだ水を湛えていたのかもしれないが、今は、見る影も無い。

 暗い水面に面した、その濡縁に、

「、、、、、」

 黒い影が、陽炎の如く立ち昇った。

 一度、霧のように散ったかと思えば、再び集まり、

 ゆらり…

 女の姿となった。

 長い垂髪は、艶々と濡れびかり、銀の光沢を放つ。

 青白い肌は、陶器の滑らかさで、抱きしめたら、折れてしまいそうな程に華奢なその身に纏うのは、唐衣

 黎明を表す濃紫に、天の川が銀の錦となって縫い取られ、番いの白鷺がその中を、翼を並べている。

 ふわりと袖が振られると、

「ふぅ、、、」

 赤々とした唇から、細い溜息が毀れた。

 どこか恨めしげに月を眺めてから、

「、、、、、」

 再び、その身を冷たい水底に沈めんと、濡縁に身を寄せた。

 伸ばした指の先で、水が、跳ねた。

 指先から全身に、刺すような痛みが、奔る。

 冷たい。

「、、、、、」

 実際には、その記憶だけが遠く、残っている。

 もう一度、手が、水を掻いた。

 指先に纏わりつくような、感触だけが、残った。

 もう一度、女は貌を上げた。

 細い月は、変らず同じ場所で、こちらを見つめている。

 ふいに、女の眉が、苦しげに寄せられた。

 次の臥待月の頃には、この池は、厚い氷に鎖されることだろう。

 ― その前に、せめて、もう一度だけ、、、 ―

 しばらくの間、

「、、、、、」

 無言で月を眺めていたが、女は、想いを振り切るように固く瞼を閉じ、貌を背けた。

 その頬を、一筋の涙が、滑り落ちる。

 足元に蟠るのは、波打つ、闇。

 そこに、足を踏み出そうとして、

「っ、、、」

 振り向いた。

 風の音に、衣擦れの音が、混じっていた。

「遅くなった、、、」

 男がひとり、闇の中から抜け出してくるところであった。

 髪は、烏帽子に仕舞われ、怜悧な細面に、月明かりが陰影を落とす。

 凍える冬夜に、燃えるような臙脂の長絹ちょうけんが、鮮やか。

 浮御堂に現れたのが、幽鬼の如き姫ならば、こちらは、人の姿をして現れた、鬼神と言ったところだろうか?

 生前、舞を嗜むと言うその男に、女が縫って贈ったものだ。

 どこか、酷薄な笑みすら口元に湛えて、浮島から、平橋を、こちらの浮御堂へ。

 真紅に染められた唇が、込みあげる想いに堪えきれずに、震えた。

 冷えた大気を吸い込み、そして、

 ヒギア…ッ!!

 引き攣るような己の声に、女は、唇を押さえた。

 声帯が、かつてのように機能していないことに、動揺したのだろう。

「、、、、、」

 だが、呼ばれた【名】を、男は確かに聞いて、頷いた。

 動じるでもなく、古ぼけた浮御堂に至ると、女の元へ。

「気にするな、、、」

「、、、、、」

 女は、口を袖で押さえたまま、涙で潤んだ眸を向けた。

 眸は、哀しい色を、帯びていた。

「そなたの声を、私はたがえぬよ」

 唇の端を、僅かに吊り上げると、男は手を差し伸べた。

 おずおずと、女は手を伸ばす。

 まだ、水に濡れたままの指先を、

「約束を破るような男に、見えたか?」

 男の親指が、擦った。

 闇色の眼差しに見つめられれば、

 ア…

 待てど暮らせど、現れなかった【あの日】を思い出し、水底へ帰ろうとしたのを見透かされた気がして、何とも恥ずかしい気持ちになった。

 女が、慌てて、首を振る。

 それは、幼い子供の仕草に、似ていた。

「では、行こうか、姫、、、」

 その手を引いて、男はゆっくりと歩き出す。

 浮御堂を出、いくつも掛けられた橋を、女の歩幅に合わせて、渡る。

 池の浅瀬。

 葦の茂みで寄り添うようにして眠る、葦鴨。

 葉を落とした木々の下では、夜露を結ぶ苔蒸した大地が煌き、梢では木兎みみずくが、首を傾げている。

 その上を、星が、幾つも流れた。

 水の中から眺めるのとは、まったく違う風景。

 それなのに女は、

「、、、、、」

 繋がれた指先を、見つめている。

 そこから温もりが、じんわりと伝わってくる。

 かつてのその人よりも、ずっと、すんなりとした背中。

 腕や肩は、もっと逞しかった。

 それでも、

「姫、、、?」

 視線を感じて、男が振り向けば、

「、、、、、」

 女は黙って、なんでもない、と首を振った。

 再び俯いて、頬が緩んでいる自分に、気がついた。

 不思議だった。

 たった数日前、出会ったばかりだと言うのに、、、

 その日、女は、浮かび上がった池の畔で、この男と会ったのだ。

『そろそろ逝く気になったか、、、? 』

 声を掛けられたことにも驚いたが、初めてにしては、ずいぶんと不躾な言葉だと思った。

 だが、その闇色の眸に、投げかけられた言葉とは別の何かが窺えて、一つ、我侭を言ってみせたのだった。

 そう、、、

 あの日、叶えられなかった、【最後の願い】、を。

 

 

 

「うう、、、」

 太刀に手を掛けたまま呻き、思わず肩の辺りを擦った。

 ― あいつ、あんな薄着で、よく、、、 ― 

 眺めた先の、平橋の上。

 ちょうど、男が女を振り返ったところであった。

 古ぼけた薬師堂の軒庇の下。

 座るに調度いい庭石に、腰掛けている。

「ん、、、」

 小さな声が、すぐ傍らで、漏れた。

 膝に背を預け、身を丸めるように、大きな瓶子を抱いている。

 ― 今さっきまで起きていたと思えば、いい気なもんだ、、、 ― 

 群青の髪と、翡翠の一対の角が、寝息と共に揺れている。

 無骨な手が、その髪に触れ、頭を撫でた。

 宵闇に沈む時分、蒼奘の屋敷を訪ねたのだが、珍しく伯がその袖を引いているところに、出くわした。

 話を聞けば、幽鬼との約束を果たしに行くと言う。

 相手が相手だけに、伯を置いていきたい、蒼奘。

 そして、自分も行くと言って聞かない、伯。

 蒼奘は存外、伯の胸の内が分からぬのかもしれないが、燕倪は、何故だか伯の様子を見て、すぐに検討がついた。

 蒼奘に、『来るな』と言われた事が、伯にしては、単純に嫌だったのだろう。

 そして燕倪は、その伯に乗っかった。

 青梅池に眠る姫の話は、帝都に住む者ならば、知らぬ者はいない。

 その姫が、現れると言うのだ。

 気にならない、はずがなかった。

 伯は自分が見ているから、と蒼奘を言い包めての同行となった次第である。

 ― しかし、なぁ、、、 ―

 顎先を撫でながら、燕倪は周りを眺めた。

 二人を取り囲むように、円が描かれている。

 大地が、濡れているのだ。

 場所を定めると蒼奘は、伯の翡翠輪を外し、酒でもってぐるりと円を描かせた。

『伯が描き、結んだ結界だ、、、』

『だが、これじゃ、丸見えじゃないか。隠れなくていいのか?』

 これといった遮蔽物は、無い。

 白い花をつけた、柊の青々とした茂みがあるくらいだ。

 蒼奘は腕を組むと、怪訝な顔の燕倪を、冷ややかに一蔑し、

『伯がいる限り、ここは、浄域。姫からは、見えはしない。ここを、出るな、、、』

 そう言い放つと、浮御堂を伺いながら、平橋の方へと歩み去ったのだった。

 必要ないと言われたが、万が一の業丸の出番を考えれば、伯の酒の相手をするわけにもいかず、杯に酒を満たしてやっては、現れ出でた青梅池の姫の姿を探して、目を凝らしていたわけだが、、、

「、、、、、」

「ぅ、、、ん、、、」

 傍らで、掛けられた衣を巻き込むように、己が肩を引き寄せる、伯。

 案の定、同行した事に満足したのか、青梅池の姫を見るでもなく、眠ってしまった。

 お陰で、燕倪の長衣は、伯の体に掛けられることとなった。

 病とは無縁の、半神体であると知ってはいても、この男の性分で、

 ― 寝顔だけは、どこからどうみたって、いっぱしのガキ、だよな、、、 ―

 どうにも、割り切れるものではないらしい。

 安らかな、その寝顔を見つめていると、

「お、、、」

 衣擦れの音が、徐々に近づいてきた。

 顔を上げれば、池の畔を、女の手を引いた蒼奘が、こちらに向かってくるところであった。

 思わず大きな体を縮こませ、息を潜めたのは、烏帽子を頂いたその姿が、まるで別人のようであったからだ。

 陽炎のように揺らめく、青梅池の姫。

 その名は悲恋の末、伏され、知る者は数少ない。

 燕倪も、知らぬ。

 知っていたとしても、戯れに口にしてよい名では、ないだろう。

 ― だが、どうだろう?姫は、幸せそうだ、、、 ―

 燕倪の目には、うっすらと透けて見えるのに、その頬が、ほんのりと上気しているような、、、?

 一言、二言。

 蒼奘が、何やら声を掛けているようだが、その声は低く、音だけが微かに夜気を渡って聞えてくる。

 その都度、女は頷いたり、首を振ってみせたり、傾げたりと、童女のような仕草をしてみせた。

 それが何とも、幸せそうだと、見えたのだ。

 枯草を踏む足音をさせ、二人が、燕倪と伯の前を通り過ぎる。

 緊張に、息を止める、燕倪。

「、、、、、」

 だが、その心配を他所に、二人は薬師堂を通り過ぎ、弓形の湖畔を、鐘楼のある方へと進んでいく。

 ほっ、と息を吐いた時だった。

「ぅ、、、」

 背中から、冷たい夜風が吹き込んできた。

 ぶるっ、と肩を震わせた矢先、

「ふぇ、、、っ、、、ふぁっ、、、」

 むず痒さが、鼻腔を突いたのだった。

 

 

 

「ぶぇっくしょいッ!!」

 大きなくしゃみに、女は貌を上げた。

 月光に照らし出された、その貌は、

 ギギ…ッ

 たおやかだった女のものではなかった。

 心情を表してか、口は耳まで裂け、黄色く濁った白目が、辺りを忙しなく窺っている。

 だらしなく顎の下まで垂れた舌までもが、水を差された憤怒に、蛇のような撓りをみせた。

 裂けた目尻から、つつ…と赤い筋が頬へと滑り落ちようとして、

「姫、、、」

 冷たい指先が、それを掬い取った。

 見上げれば、臥待月をちょうど頭上に頂いた男が、闇色の眼差しで、静かに見つめていた。

「次のこの月まで、花は、我らを待つまい、、、」

「っ、、、」

 そのまま肩を抱かれれば、女の表情は、すぅ、と安らかなものへと戻っていった。

 そして、男に背を押されるまま、再び歩き出す。

 目を閉じて、男に身を預けるように歩く女とは対照的に、

「、、、、、」

 後方、古びた薬師堂脇に鋭い一蔑を与える、男。

 その先で、まさに燕倪が大きな肩を竦め、片手拝みで謝っている。

 傍らでは、ぽう、とした寝惚け顔の伯が、目を擦り擦り、酒が残ったままの瓶子を、抱え直しているところだった。

 溜息を吐きたいのを堪えつつ、薄闇の中、朽ちかけた鐘楼へ向かう。

 青梅池は、かつての寺院跡であるが、いわくつきのため、いつしか【都守預かり】となった。

 人柱による結界、その一端を担っていた場所、と言う事もあるだろうが、その方が事情を知る者達には、都合が良かったのだろう。

 星読寮より管理の人手を出しているが、最低限の手入れのため、草木の勢いがある春先から夏にかけては、雑草が野放図に生い茂り、歩くのもやっとの有様。

 だが、草木も枯れるこの季節は、不思議なもので、それも反って風情に変わる。

 枯れ芒が風に揺れ、乾いた音をさせれば、狐が顔を覘かせる。

 柔らかな落葉の大地に、斑に残った残雪は、仄白い光源となって夜道を朧げに照らしだす。

 時には、塒に潜り込む無粋な輩もいるようだが、

「、、、、、」

「、、、、、」

 この瞬間、触れ合い伝わる温もりは、二人だけが感じているものであり、時間、そのものだった。

 傾きかけた、鐘楼。

 そのすぐ隣に、覆う勢いで大きな椿の木が、湖に迫り出すように茂っていた。

 深緑ふかみどりの固い葉の中の、いたるところに、闇でも鮮やかな真緋あけが、弾けている。

 甘く深い香りが、湿気を帯びた夜気に、そこだけ立ち込めているようだった。

 椿だ。

 水面に、浮かぶものもあれば、足元に散ったものもある。

「、、、、、」

 喉が、震えそうになるのを堪え、女は、唇を強く、噛む。

 一人では、どうしても足を運ぶことができなかった、場所であった。

 まだ若かった女は、夜半、屋敷を抜け出しては、この場所を訪れた。

 そしてここは、初めて互いの想いを重ねた、大切な場所となったのだ。

 ― 今でも、わたくしは、、、 ―

 現れなかった男を想い、女は、手を伸ばす。

 優しく、夜露を結んだ花弁に触れれば、後方から腕が、伸びた。

 思わず振り向けば、その人が高いところに咲く一輪を、手折るところだった。

「そなたの、思ひの色、か、、、」

 一際強い、火の色をした、椿。

 男は、余計な枝と葉を落とすと、女の髪を一筋手に取り、器用に枝で掬い取ると、その耳の上辺りに挿してやった。

 じわりと潤んだ、眸。

 堪らず俯くと、

「良く、似合っている、、、」

 低い声音が、鼓膜を震わせた。

『貴方には、燃えるようなこの色が、本当に良く似合う』

 いつか、同じ事を言われたのを、思い出した。

「、、、、、」

 女は、涙を湛えた眸で、男を見つめた。

 あの日、この場所で、離れてしまった心をもう一度繋ぎとめる事はできなかったけれど、涙で滲んだ視界の中、向き合った男は、愛しい背の君であって、懐かしい微笑みを浮かべていた。

 ― 嗚呼、許泰さま、、、 ―

 胸の内。

 暗い水面に、陽の光が差し込むように、穏やかな光で、満ちてゆく。

 大きく息を吸い込めば、爪先が、大地から離れる。

 ぷち…ぽっ、ちっ…ぷち、んっ…

 椿の簪に触れた指先から、あぶくが弾けるような軽やかな音が、体内を満たしながら、響いてきた。

 ふわりと舞い上がり、陽炎の如く揺らめいていた女が、燃えるような火の色一色に、染まってゆく。

 思ひの色。

 椿の簪に手を触れたまま、

「、、、、、」

 女は最後まで黙ったまま、真っ直ぐに天を、仰いだのだった。

 

 

 

 火の色が、一際強く輝いた後、微かな水音を残して、闇に滲むように掻き消えていく。 

「、、、、、」 

 想いが弾ける様を、蒼奘は、無言で見つめていた。

 湿気を含んだ冷たい風が、長絹の袖を巻き上げ、吹き抜ける。

 名残のように甘く立ち込める香りを、大地に散っている花弁を供に、空へと攫ってゆく。

 それからしばらくの間、椿の傍らに佇んでいたが、

「、、、、、」

 烏帽子を懐に仕舞うと、踵を返した。

 枯葉を踏む乾いたその音が、近づいてくる。

「お、、、」

 薄闇の中、目を凝らせば、長い銀の髪の主が、こちらに向かってくるところだった。

 燕倪は、体勢を変え、今度は膝にだらりと身を預けるようにして眠る伯の肩を、揺さぶった。

「おい、伯、、、」

「ん、、、」

 しかし、目覚める気配は無い。

 仕方なく、伯を腕に抱き上げたところで、

「用は済んだ。帰るぞ、、、」 

 蒼奘の声が掛かった。

「おう」

 立ち上がれば、寒さで固まった筋肉が、いたるところで悲鳴をあげた。

 肩を並べ、往来へ面した門へと向かう途中、

「なぁ、俺には、赤く光ったようしか見えなかったが、青梅の姫は、、、」

 燕倪が、蒼奘に尋ねた。

「、、、、、」

 無言の闇色の一蔑に、

「さすがにあの距離じゃ、ぼんやりとしか見えん」

 燕倪は、懲りずに食い下がった。

 気まずい沈黙に、耐え切れなかったのだ。

 そもそも伯に乗っかったと言うのと、先のくしゃみが、尾を引いている。

 蒼奘は、闇色の眼差しを前方に据えながら、

「、、、流れに還った、とでも言おうか、、、」

「あ?」

 鬱々とした声音が、それに応えた。

 葉を落とした木立を抜ければ、薄闇の中、青白く浮かび上がって見えるのは、朽ち掛けた築地塀に、門。

 その向こう。

 牛車の前で、提灯を手にした琲瑠が、いつもの困ったような顔で、微笑んでいる。

「ぅ、、、」

 小さい声が、漏れた。

 伯が、燕倪の肩で、目をしばたいている。

 そのまま、鼻先を肩に摺り寄せながら、小さな犬歯を見せて、欠伸を繰り返す。

 ずり落ちそうになっている長衣を、蒼奘の指先が掬い上げると、角を隠すように覆った。

 まだ、眠気を帯びた菫色の眸が、とろりと蒼奘を映す。

「想念とは、純粋な想い。性質の悪いものは、そうそうない。赤子のようにひたむき故に、な、、、」

「そう、なのか、、、?」

 よく分からない、とばかりに首を傾げる燕倪を他所に、蒼奘は、そっと伯の額に触れ、

「ああ。気が済めば、自ずと泣き止むものだ、、、」

「ん、、、」

 頬に触れた。

 すると、伯は再び、燕倪の肩に頬を預け、瞼を閉じてしまった。

「もう、現れないのだな?」

 念を押すように、問えば、

「ああ」

 蒼奘が、頷いた。

「ふむ、、、」

 どこか釈然としないまま、門を潜ると、琲瑠が頭を下げて、三人を迎えた。

 淡い木賊色の長衣を、蒼奘の肩に掛けつつ、

「ささ、お寒かったでしょう?火桶を積んでございますから、暖をおとりくださいまし、、、」

 卒がない。

「俺はいいよ。歩いて帰るから」

 そう断る燕倪を、

「せめて、屋敷の前に着くまで、その肩を貸してやってくれ、、、」

 先に乗り込んだ蒼奘が、引き止めた。

 右肩を見れば、伯の寝息が首筋を、くすぐっている。

 燕倪が伯を腕に乗り込むと、引戸が閉められ、簾が下ろされた。

 赤い炭が入った火桶を中央に、腰を下ろせば、ぎしぎしと車輪を軋ませながら、動き出す。

 吊るされた提灯から滲む、橙の光が、辛うじてお互いの輪郭を浮かび上がらせる。

 眠る伯に遠慮してか、互いが沈黙を守る中、

 ゥウォオオオオン―――

 遠く、遠吠えが聞えてきた。

 どこかで、その遠吠えに応える声が重なるのを聞きながら、

「最近、野犬が帝都近郊でやたら目撃されているらしいぞ」

「、、、、、」

 燕倪が顔を上げれば、蒼奘は物見を少し開き、外を窺っているところであった。

 隙間から、冷たい夜風が細く、忍び入ってくる。

「群れられちまったら、女子供はひとたまりもない。近いうちに、駆除に乗り出すだろうよ」

「放っておけ、、、」

「あ?」

 蒼奘は、静かに物見窓を閉めながら、

「じきに、片が付く、、、」

 燕倪を、見つめた。

「どういうことだ?」

「あれらは少なくとも、人を、襲わぬ」

 ぬけぬけと、そう言い放つ相手を、

「どうして、言い切れる?」

 鈍色の眸が、睨みつけた。

 うっそりと視線を外すと、蒼奘は背を壁に預け、横を向いた。

「そもそも、犬ではない。あれは、狼だ、、、」

「狼、、、」

 あんぐりと口を空けてしまった、燕倪。

 狼。

 それは、人里には滅多に下りてこない、獣の名だ。

「おいおい、そりゃ、余計に厄介だろう?」

「心配するな。そこいらの餓狼とは違う」

「どう違うってんだ?犠牲者が出てからじゃ、遅いんだぞ」

 まるで、他人事のような口ぶりに、燕倪の口調が荒くなる。

 闇色の眼差しが、燕倪に向けられる。

 燕倪も、逸らすようなことはしない。

 少しでも引っ掛かりを覚えると、どんな相手であろうが、まっすぐに、挑むような眼差しを、向ける。

 それは、燕倪と言う男の性格を、そのまま現しているのかもしれない。

 ― まったく、、、そのまま腰に帯びた太刀のような男だな、、、 ―

 蒼奘の口元に、いつもの薄笑みが、刷かれた。

 根負けしたかのように、

「大陸の、草の香りがするのだ、、、」

 静かに、吐き出した。

「大陸、草?」

「ああ。大陸から、遥々海を渡り、やって来たのだろう。誇り高い、草原の主よ。そうさな、虎精と並び称される、狼精とでも、言おうか、、、」

「狼精、、、虎精っていったら、銀仁か。では、人の姿にも?」

「どうであろうな、、、」

 細く、息が吐かれた。

 こればかりは本当に、知らぬのかもしれない。

 燕倪は、低く呻いた。

「お前は、気掛かりではないのか?」

「草原の主は、風狼とも呼ばれる。この国を訪れたのは、故あっての事だろう。そのまま風だ。いつかは、他へ流れるもの、、、」

「だから、ほうっておけ、か」

「必要ならば、しかるべき措置をとる。今は、その段階ではない。ただ、それだけだ、、、」

「ふむ、、、」

 腕を組んだまま、燕倪は押し黙った。

 ぎしぎしと、心地良い振動が伝わる中、遠く、異国の狼達の遠吠えが、重なった。

 鬼気迫るもの、と言うより、どこか哀愁を帯びたようにも聞える。

 存外、蒼奘の言う通り、いきなり襲い掛かってくるようなものでは、ないのかもしれない。

 それでも、と思ったところで、ゆっくりと牛車が止まり、

「燕倪様、お屋敷に着きましたよ」

 聞きなれた琲瑠の声が、掛かった。

 四半刻は、経っていたのだろうか?

 蒼奘相手に思案していたせいか、思っていたよりも早く、着いた気がした。

「おう」 

 己が長衣に包まった伯を、そのまま静かに座っていたところに寝かせてやる。

 深い眠りに就いてしまったのか、起きてぐずる気配もない。

 薄く、口を開けた無防備そのものの寝顔を見つめれば、

「良く寝てやがる、、、」

 思わず、笑みが毀れた。

 そのまま、足音を忍ばせて降りると、

「何かあれば、絶対知らせろよ。蒼奘」

 釘を刺す。

「ああ、、、」

 蒼奘が頷いたのを確認し、燕倪は牛車から離れた。

「お疲れ様でございました。燕倪様、おやすみなさいませ」

 いつものように、深々と頭を下げる、琲瑠。

「じゃあな、琲瑠」

「はい。それでは、これで、、、」

 ゆっくりと遠ざかる、牛車を見送って、

「さむっ、、、」

 己が肩を、擦る。

 湿気を帯びた夜気が、刺すように、冷たい。

 背を丸め、門のうちへと飛び込もうとした、その鼻先、

「ん?」

 白いものが、ちらついた。

 見上げた、夜空。

 差し込む月明かりで、青鈍に透けるその眸が、鈍色へ変わる。

 闇が、濃くなる。

 そこに、

「お、、、」

 白い吐息が、滲んだ。

 眇めた眼差しの先。

 重い雲に隠れた星月に代わって、細雪がはらはらと、大地へ舞い降りてくるところだった。

 

 

 

 ― 雪は、好きだ、、、 ―

 肩先や髪に、粉雪を遊ばせ、琲瑠は思わず口元を、緩めた。

 ― 大気が澄んで、遠くまで良く見えるから、、、 ― 

 闇の中でも、琲瑠の目は、彼方の山稜の輪郭を、見通しているのかもしれない。

 川のせせらぎが、近づいてくる。

 休もうと、足を止めようとする牛を追いながら、恵堂橋を渡れば、屋敷まで、後もう一息だ。 

 前方彼方に篝火が、見えた。

 夜更けと言う事もあって、人気の無い大通りは、ひっそり閑と静まり返っている。

 人影が動いたような気がして、

「、、、、、」

 琲瑠は、目を凝らした。

 そして、すぐに、

「ほ、、、これはこれは、、、」

 頭を下げた。

 青白い狐火が宙に浮かべば、唐衣の女が一人、古びた屋敷の門前で、こちらも深々と頭を垂れたところであった。

 

 

 

 

 都守の屋敷より程近い、天狐遙絃の屋敷。

 凍える冬夜だと言うのに、屋敷のうちには燦々と陽光が降り注ぎ、小鳥たちは競って囀っている。

 狂い咲く、花々。

 極彩色の彩りが、地平線に溶けている。

 その大地を、白い人影が歩いている

 烏帽子を懐に、手には、扇子。

 月明かりには目立たなかったが、陽光の中で見る臙脂の長絹ちょうけんには、唐草と孔雀の縫い取りが織り込まれ、今にも羽ばたきそうだ。

「ようやく現れたと思うたら、今日はまた珍しく、華美な装いじゃないか」

 いつもの皮肉を、唇の端を吊り上げただけでいなし、四阿屋で待つ遙絃の向かいに腰を下ろしたのは、

「誰ぞ、気にかかる姫でも口説きに行っていたのかぇ、蒼奘?」

 その人であった。

 翡翠を削り、彫り出された桃の枝の細工も精緻な長椅子の肘掛に凭れ、

「そんなところだ、、、」

 うっそりと、青い唇を歪めてみせた。

「しかし、どこかで見た様な、、、」

 遙絃が眉を寄せれば、

「布津稲荷に、舞と共に奉納された、長絹だ。神主に無理を言って、借り受けた、、、」

「ふん。悪かったな、社には寄り付かぬ祭神で、、、」

 不在がちな己の社が出所だと、痛いところを衝かれる結果となった。

 紺碧の眼差しの先で、月色に透ける長い髪が、さらりと肩から胸元へと、滑り落ちてゆく。

「伯は、どうした?」

 辺りを見回しても、その姿が無い。

 珍しいこともあるものだと、問えば、

「幽鬼の姫との逢瀬に、共に行くと聞かぬで、連れては行ったが、、、」

 その皮肉にも、相手は口元を、僅かに歪めただけであった。

「ほ、いわくつきのその長絹と言い、その幽鬼、、、青梅の娃斐螺姫えいらひめか?」

 最近になって現れた、青梅池の畔に佇むと言う、幽鬼。

 娃斐螺姫えいらひめ

 姉姫の元に通うようになった、かつての恋人。

 嫉妬にその身を焦がし、ついには身投げしたという、いわくつきの姫だ。

 蒼奘が頷き、

「正確には、幽鬼ではない。水面に漂っていた想念が、長い年月のうちに洗われ、流れ着き、再び姫の姿をとったものだ、、、」

「魂の方は、どうした?」

「冥府に辿りついた、という鬼録きろくは、なかった。とうの昔に、昇華したのだろう」

 彼方の地平線を遠く、眺た。

 いつもあるはずの山々は姿を消し、平坦な大地が延々続いている。

「して、その姫の願いは?」

「臥待月の晩に、椿を愛でたい、と、、、」

「で、手を取り、花見に興じてきたわけかぇ、、、」

 遙絃が、『物好きめ』と薄く笑う。

 それには応えず、

「先ほどから、胡露の姿が無いようだが、、、?」

 そう、問うた。

 広大なこの世界は、遙絃が形成する結界であり、異界。

 そのまま、術者の力を現すものだ。

 そして、異界はもとより、核となる【楔】による影響が大きい。

 地仙級ともなれば、なおさらだ。

 どうやら漂う違和感の元凶を、蒼奘は、ここにはいない相手と踏んだらしい。

 遙絃は『出掛けている』とだけ、言った。

 ぐっ、と大きく伸びをすれば、花簪が抜け、蜂蜜色の豊かな髪が、踝まで流れ落ちた。

 ふわりと、腰の後ろで九尾が揺れ、小さな犬歯を剥いて、欠伸をひとつ。

 乾いた音を立てて転がった花簪もそのまま、長椅子に寝そべると、大海を思わす紺碧の双眸が、蒼奘を見つめた。

 潤み、煌く眸でもって、

「【鵺】が、放たれた」

 語尾が、掠れた。

 欠伸がもうひとつ、喉からせり上がり、手の甲で、黄金こがねに彩られた蟲惑的な唇を隠す。

 滲んだ涙が、長い睫毛に珠となって、結ばれた。

 一方、

「神都、奉華門が開いた、か、、、」

 低いその声音には、どこか穏やかな響きが、含まれていた。

 蒼奘の視線は、赤瑪瑙の巨岩を削り出し、造られた卓上に注がれている。

 長い指先が、卓上に咲き群れるように刻まれた、冷たき大輪の薔薇そうびに、触れた。

 滑らかな花弁の感触は、まさに生花のそれで、甘く、深く、肺腑に染み入る香りは、そのまま赤瑪瑙の薔薇が放つものであった。

 天津国の天匠が腕を揮えば、冷たき石も、自らを花であったと錯覚してしまうのかもしれない。

「あやつらも、胡露同様、鼻が利く」

 侍女が差し出した煙管を受け取り、

「すでに、大陸中を探しあぐねたはず、、、」

 唇から細く吐き出したのは、紫苑色の煙であった。

 蒼奘は、というと、

「ほぅ、、、」

 他人事のように薔薇を愛でつつ、相槌を打っている。

 相変わらずのその様子に、華奢な肩を竦めた、遙絃。

 蓮を模った、翠水晶の灰受けの縁に、煙管を打ちつけながら、

「以前あった人柱の結界は、もう無い。大陸に比べ、歴史が浅いこの国では、地仙同士の繋がりも、希薄だ。庇護も、加護も無い【あれ】を、鵺らが見つけるのも、時間の問題」

 溜息混じりに、吐き出した。

「天狐、、、ここは、――」

 言わんとしている事をすでに察してか、何の感情を窺わせない、ただただ穏やかすらある闇色の眼差しが、遙絃をひた、と見据えた。

「そもそも、そなたが負うた地だ。そなたが拒めば、そのように結界が発動しようよ、、、」

「都守、私は、、、」

 何かを言わんとした遙絃だったが、溜息を一つ。

 卓子に肩肘をつくと、手のひらに頬を預けてしまった。

 その仕草は、ひどく幼く見えた。

 もどかしげに、何度もカツカツと、煙管を縁に打ちつけながら、紺碧の双眸が上目遣いに睨んでくる。

『分かっているだろう?』とでも、言いたげに。

 蒼奘は薄笑みを浮かべたまま視線を外すと、彼方に静止したままたなびく雲を、眺めた。

 ただ、そこに在るだけの、雲。

 動く事も無く、さりとて消える事すら、許されない。

 ― まるで、、、 ―

 何を思ったのか、その眼を眇めると、

「その実、何がどうなろうとも、そなたには、関心がないのだろう?」

 鬱々と、そう言い放った。

 つい、口を突いて出た言葉であったが、

「、、、、、」

 ぎり、と短く、何かが擦れる鈍い音が、した。

 遙絃が、奥歯を噛み締めたのだ。

 秀麗な貌から、いつもの余裕の笑みが、掻き消えていた。

 針のように細く引き絞られた瞳孔が、射抜くように蒼奘の横顔に注がれれば、世界はそのまま音を、色を失い、凍りつく。

 大気は、外気のそれよりも重く冷たく張り詰めて、吐き出した吐息は、そのまま霜となり、吸い込めば肺腑からその身を、凍てつかせよう。

 黒白こくびゃくに沈んでゆく無機質な世界で、二人の姿は、さながら氷像のようであった。

 しかし、それも一瞬の出来事。

「ふん、、、」

 遙絃が、鼻で、笑った。

 世界が色を、取り戻す。

 何事も無かったかのように息を吹き返した世界を、遙絃は、ぐるりと眺めながら、

「ああ。お前が言わんとしている通りだ。人々を導くなんぞ、そんな殊勝な考え、私には、端からない、、、」

 からりとして、それでいて残酷に響く、言葉であった。

 この地に降り、時には世話を焼いてはみたが、それ程心を傾ける事も無かった。

 ただ漠然と、地仙と言う役柄を、演じていただけなのかもしれない。

 唇に浮かんでいるのは、そのまま自嘲気味な笑み、であった。

 それを突きつけられた瞬間、腹腔深くから憤怒が込みあげたが、今は不思議と、心は穏やかであった。

 押し寄せた感情の波は、どこかに浚われ、穏やかに凪いだ紺碧の眸が、蒼奘を見つめた。

 相手は、遠く、彼方の空を眺めたまま、相変わらず感情の一切を、窺わせない。

 伯を共に訪れる時は、この限りではないのだが、伯を地に縛るそれ以前、

 ― 私としたことが、すっかり忘れておった。元々、こやつは、与し難い相手であった、、、 ―

 【地仙】と【都守】として対峙して来た頃は、それは扱い難い相手でもあった。

 下手な小細工は、返って逆効果になると踏むと、

「だが、胡露は違う。今回は、事情がある」

 遙絃は、心情を吐露した。

 なまじ、その方が、効果があるかもしれない、そう思った。

 自分が、胡露と共に在って変わったように、この相手もまた、そうなのかもしれない。

 不変なものなど、ないはず。

 ならば、それに掛けるしか、なかった。

 ― 私は、地仙だ。これは、人の間で交わされた、契約。動くわけには、いかん、、、 ― 

 闇色の眼差しが、遙絃に注がれ、

「ああ、そう言えば【あれ】は、犬神筋であったなぁ、、、」

 青い唇の端が、吊り上った。

 合点がいった蒼奘に、遙絃は素直に頷いてみせた。

「だから、多少は荒れるだろう。すべては【あれ】次第だ。それだけを、お前に言っておく」

 椅子が、引かれる音と共に、長身が立ち上がった。

「、、、、、」

 白と言うより、銀に近い髪が、靡く。

 侍女の案内を待たずに往来に面した門へと遠ざかるその背中越し、

「、、、心得た」

 一拍置いて、低い声音だけが鬱々と、応じたのだった。


思ひ色。。。

緋の色に掛けた、古き時代の言葉、だそうで。。。

先日、たまたま知ったのだったけれど。。。


思いを言葉だけでなく、それ以外でも伝えようとした古人の直向さには、脱帽。。。

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