第拾ノ弐幕中ノ前 − 思ひ色 −
花守見習いの少年、宵藍。一族の言いつけを守りながら、年老いた花守を助けて暮らしていたが、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕中の前編。。。
顔を、あげてはならない ――
ここは、結界外。
人柱の守護も、無い。
声を、紡いではならない ――
この地は、最果て。
地仙同士の繋がりは、あまりにも脆弱。
その守護にも、頼れない。
自由を、嫉んではならない ――
ただ、じっと息を潜めるしかない。
追手に見つかれば最後、連れてゆかれる重き扉の向こうは、血の通わぬ鬼畜の園と聞く。
【掌握される者】と、【掌握する者】。
古の契約に取り決めされた、それが運命。
今更、覆すことは、できない。
【契約】は、【掟】を搦めとった。
【掟】は、一族の誇りだ。
例え、最後のひとりに、なったとしても、、、
後ろ手に扉を閉めると、白い息が、大気に滲んだ。
指先が、冷たい。
手を擦りながら、暮らし慣れた屋敷を見回した。
「、、、、、」
いつもと、同じだ。
凛として瑞々しい椿、まっすぐに空を仰ぐのは枯芙蓉、鋭い棘を持つ葉の下で可憐に揺れる柊、薄紅を散らす山茶花、そして、一際目を引くのは、俯きがちに蕾を結ぶ、鮮やかな蒼い芥子だ。
ふいに、足元で木枯らしが巻いた。
木の葉に交じって、ちらほらと、白いものが舞い上がっていく。
門の脇に植えられた、冬桜の花弁だろう。
「ほぅ、、」
小さな溜息が、思わず、毀れた。
屋敷の塀の内には、季節の花の香りが、満ちていた。
その香りに、安心、する。
少し、はしたないか、と逡巡しつつも、指先に走った鋭い痛みに、手を袖に入れた。
懐手は、温かい。
母屋への小路を行きながら、屋敷へ戻る道中考えていた事が、再び首を擡げてきた。
思わず、
「、、、、、」
唇を噛み締めた。
どこでも同じだと、思った。
屋敷のうちでは、自由にできる。
だが、
― これでは、どこにいったって、、、 ―
もう一度、噛み締めるように、口の中で繰り返した。
それは今まで、幾度と無く、繰り返した事だった。
何よりも、自分自身に言い聞かせるために、、、
鐘の音が、瀟々と聞えてきた。
見上げれば、雲が橙に焼けている。
濃紺に染まった東の空と、夕暮れの西の空が鬩ぎあい、その狭間を、ちょうど雁の群れが行くところだった。
北へ、向かっている。
その向こう。
嶮しい弩欒山系の向こう側には、紺碧の海が大地を割り、広大な陸地が、在る。
「、、、、、」
大陸。
瞼を閉じれば、若草色の豊かな故郷が、今でもまざまざと、蘇る。
故郷を離れて、随分経つと言うのに、噎せ返るような草の香りが、鼻腔に残っているような気がした。
抜けるような、青い空の下。
野生の馬が草を食み、羊達が水場を求め、長い列を作る。
風にそよぐ、一面緑の大草原。
その中で、冴え冴えと白銀の輝きを放つのは、銀狼達だ。
草原の、絶対的な捕食者。
美しい、その毛並み。
気高い大地の覇王として、生態系の頂点に君臨する孤高の存在。
その遠吠えは、いつだって耳に、心地良い。
ささくれだった心も、訪れる闇夜への不安も、何もかもが、すべて凪いでゆく。
物心ついたときから、その声は、身近にあったせいもある。
けして、怯えるものではない。
夜の帳が降りる時分、必ず聞えてくる遠吠えは、一族の守となりかわる、【合図】だ。
決まって祖父の左の膝で、聞いた。
そして、右の膝には――
「、、、、、」
そこで瞼を、押し開けた。
草の香りは掻き消え、噎せ香る花々の匂いが、宵闇に沈まんとする冷えた大気に、濃厚に溶けていた。
「宵藍」
しゃがれた声が、掛かった。
扉の前、足元に落ちた影をいつまでも見つめていた少年は、我に返って顔を上げた。
枯れ枝のような痩躯が、花園から母屋を繋ぐ渡り殿の一画に、佇んでいた。
「老爺、、、」
屋敷の外では、終始黙っていたためか、声が、掠れた。
「ああ、寒かっただろう?」
佇んだままの少年の傍に、足早に老人が歩み寄る。
この屋敷、永寿宮の主である、【花守】。
見慣れた顔が、
「風邪をひく前に、中へ、、、」
優しく微笑み、そっと肩を押した。
じんわりと伝わるその手の温もりが、【今】を、伝えてくるようだった。
「こう急に冷え込むと、節々が悲鳴を上げる。お前がいてくれて、助かったぞ、宵藍」
「あ、いえ、、、」
老いた花守に変わり、季節の花々を御所に献上しに行った、帰りであった。
とは言っても、決まった時刻に門前で、顔見知りの役人に渡すだけなのだが、
「御上は、白い花がお好きだと聞く。丹精込めて育てた椿に、冬桜の花枝、お気に召されるといいが、、、」
「あの立派な花枝ならば、香りも良いはず。見事な枝ぶりでしたから、きっと、お気に召されることでしょう」
それでもその後、あたりをぐるりと散歩するのが、ささやかな楽しみでもある。
道を行き交う旅装束の一団や、煌びやかな装飾の車、肥馬を操る武官に、年頃も近い童達の姿。
賑やかな帝都の喧騒に揉まれれば、今在る場所こそが、己が生きている場所なのだと、思えた。
しかし、
「、、、、、」
今だ、ぼんやりとしている少年の眸に揺れるのは、一抹の寂しさだった。
老いた花守の乾いた唇が、しゃがれた声を、紡ぐ。
「姉姫の心を、、、」
「っ、、、」
弾かれたように顔を上げた、少年。
その大きな黒瞳を見つめ、花守は、
「大陸から、早くに離れた儂が言うのも、どうかと思うが、、、」
そこでいったん言葉を切った。
長い白眉の下にある、大きな眸は、
「酌んでおやり、、、」
亡き祖父に、良く似ていた。
少年は、再び、俯いた。
やがて、
「、、、、、」
小さく頷いた。
骨ばった、大きな冷たい手が、そっとその髪を撫でる。
祖父のものと良く似た、けれど、祖父よりもすんなりとしたその手は、花々を慈しむ大地の香りが、した。
長く、夕日に影が伸びる往来を、牛車が行く。
手に鞭を持ち、牛を追う童。
ぎしぎしと車輪が軋む、小気味良い音色の中、車に寄り添うように歩いていた大柄の男は、鼻先を掠めた微かな臭いに、素早く辺りを見回した。
「、、、、、」
一瞬、横切ったかに見えた影はすでに無く、寒々とした風が、吹き込んでくるだけだった。
憂いに沈んだ眼差しが鋭く眇められ、
「銀仁、、、」
物見が少し開いて、声が掛かった。
陰陽頭天羽充慶と、目があった。
「充慶殿、、、」
正体も定かではないうちに、なんと言っていいものか。
銀仁は、浅く息を吐いた。
一方、充慶は、星が煌き始めた空を見上げると、
「風が、澱んでいる、、、」
顎を撫でながら、そう言った。
「風、、、、」
釣られて、銀仁も空を見上げた。
時折、体ごと攫われてしまいそうな強い風が吹き荒ぶ中、鼻を鳴らしてみたが、先ほど捉えたような気配は、嗅ぎ取れなかった。
「何か、良からぬ事が、近づいていると、、、?」
空を睨むように目を眇めた銀仁に、
「そんな気がするだけだ、、、」
充慶は、苦笑を浮かべた。
「虫の知らせ、のようなものだ。杞憂に終われば、それに越したことはない」
時折、白々としたものが舞い散るのを眺めながら、
「先代都守が在れば、、、」
思わず、口を突いてでた言葉に、充慶は頭の後ろを、掻いた。
子供のようなその仕草に、
「先代、、、?」
銀仁も、興味をそそられた。
「先の都守。清々しい風を纏う、女性だった。風伯と会話する、そんな稀有な資質を持った方でな」
「風伯と会話、、、」
「ああ。あの人がいたのなら、、、つい、そう、考えてしまったのだよ。儂も、年を喰ったものだ」
風伯。
それは気紛れな、風の精霊。
そこらかしこにいるのに、語りかけても素知らぬ顔で、傍らを擦り抜けてゆく。
深い皺が刻まれ、髪にも白いものが交じる天羽充慶であったが、思慮深い眼差しが、いつになく、澄んで見えた。
そう、まるで、少年のように。
「その方は、、、」
詮索するのもどうかと戸惑いつつも、この時ばかりは銀仁も、好奇心を隠せなかった。
なにせ、この世の習いから言えば、あの【異形の都守の養母】に当たるのだから。
もっとも、それは、【異形】となる以前の【蒼奘】の【養母】、なのだが、、、
充慶の眸が、もう一度空を見上げた。
重そうな灰色の雪雲が、いつの間にか、東の山稜より、こちらに迫っていた。
「もう随分と前に、亡くなった。先の帝が幼くして崩御され、後を追うように、すぐに、、、」
「高齢だったので?」
銀仁の問いに、
「いや、、、」
頭を振ると、充慶は物見窓の縁に頬杖をついた。
視線を宙に彷徨わせながら、
「何をどうしたものか、いつまでも、若かった。齢は、七十を数えていたかもしれん。それなのに、見てくれば二十歳そこそこだった。神霊の加護の賜物か、不老不死ではないかと噂される程でな」
「不老不死、、、」
人であるのなら、俄かには信じがたい事であった。
目を丸くする銀仁を他所に、
「両目は、生まれつきの【破眼】。神霊に好かれると思えば、化生とも親交深く、そのまま正邪を、、、陰と陽の理を、その身に併せ持つような方でなぁ、、、」
破眼。
場所によっては、邪眼や蛇眼、覇王眼とも呼ばれる。
神々からの【福音を告げる者】、または【災厄の予兆】とも言われ、そのまま崇められる対象にもなれば、忌み嫌われるものでもある。
さしもの銀仁も話には聞いた事があるが、実際、目にした事はなかった。
「得意とするのは、呪術。だが、実際はどうだ。手解きもそこそこに、当時修業生だった儂に教えてくれた事と言えば、酒の呑み方よ。懐かしいものだ。あの頃はまだ、陰陽寮も星読寮も、互いにうまくやっていたのだよ、銀仁」
在りし日のその人を思えば、平素、宮中で引き結ばれている口元が、自然に緩んでしまうようだった。
陰陽寮では統括として、威厳に満ち溢れている充慶が、この時ばかりは少年のように、目を輝かせている。
それが銀仁には珍しく、不思議に感じだようだった。
― 会ってみたいものだ、、、 ―
思わず、そう心の中で呟き、そして、驚いた。
誰かに会ってみたいなど、この国に流れ着いてから今まで、思ったことなど、一度も無い。
生きる事への後ろめたさと、負い目を感じていた自分の中で、心境の変化が少なからずあったのだろうか?
だとしたら、それは、、、
「お、、、」
ふいに、巻いた風に、あかいものが舞った。
ひとひら…ふたひら…
銀仁の足元に舞い寄ってきたものは、どこかの庭先にでも咲いたのか、寒椿の花弁であった。
それが、強い風に攫われ、空高く、舞い上がってゆく。
もうすぐ、屋敷に着くと言う、その寒空の下、
「あっ、、、銀仁っ」
銀仁の姿に大きく手を振ったのは、門前で馴染みの庭師と談笑していた、あとりであった。
大方、庭師らの後について回っていたのだろう。
木々の手入れをする匠の技はいつ見ても、あとりの好奇心を刺激するらしい。
「父上っ」
あとりが、駆けて来る。
朱華に梔子の段の唐衣は、手鞠と雉を縫い取ったそれは上等なものだ。
手毬の細やかな糸巻きから、雉の翼の細部に至るまで、職人の技がいたるところで窺える。
姉姫と同じく、そろそろ年頃を迎えるのだから、屋敷の内で歌や筝に親しんで欲しい、と言う、母、津々螺の、せめてもの想いが、現れているのだろう。
「おお、あとり」
充慶が、あとりの姿に破顔し、牛車を止めさせた。
衣の裾を摘んで、元気いっぱいに駆けてくる姿など、肺を止んでいた頃のあとりを知る者ならば、驚嘆せずにはいられない快復ぶりだろう。
心得た銀仁が簾を上げれば、浄衣姿の充慶が、往来に降り立ち、
「父上、銀仁も、おかえりなさい」
「ああ、ただいま、あとり」
額に掛かる前髪を払ってやりながら、目を眇め、我が子を迎えた。
「、、、、、」
銀仁は、その傍らであとりに頷き、陰陽頭から少年、そして、父親の顔になった充慶の横顔を、なんとも穏やかな心持で眺めた。
白い息を吐きながら、頬を朱鷺色に染めたあとりは、
「こんな早い時間に、二人揃ってなんて、珍しい」
青みを帯びたその眸でもって、二人を交互に見つめる。
華奢なその肩を押して、屋敷へと向かいながら、
「たまには、あるものだよ、あとり。こんな日のために、我らは皆、骨を折っているのだから。なあ、銀仁、、、?」
充慶は、銀仁に問うた。
「ああ」
大きく頷けば、あとりの大きな眸と、目があった。
勝気で、それでいて深く澄んだ黒瞳は、そのまま吸い込まれそうだ。
あとり。
小さき、銀仁の主。
その傍らに、在れる。
この先、迷いや憂いが消える事はないのかもしれない。
けれど、
― 己が心を偽らずにいられるのは、あとりがいるからだ、、、 ―
今は、素直にそう思えるのだ。
すぐ傍らで、背の高い銀仁を見上げたあとりが、
「なんだか、ひなたぼっこしている猫のような顔をしておるぞ、銀仁」
笑って、そう言った。
「そうか、、、」
銀仁も、思わず苦笑を浮かべ、顎先を撫でた。
今の自分の顔は、あとりの言う通り、なのだろう。
そんな心持、なのだから。
屋敷の前で、
「充慶殿。お帰りなさいませ」
腰の曲がった老いた庭師が、頭を下げた。
道具を背負った、孫と思われる若者二人も、その傍らで揃って頭を下げた。
「ああ、与助殿。いつも、世話になっている。この寒さだ、脚を傷めていると聞いた。車を出そう。乗って行くといい」
「お気を使わないでください。このお庭に寄せてもらえる事が、わたしの誇りでもあります。それで、十分でございますよ」
手を振って断ると、杖を手に、一礼。
「それでは、これで失礼させていただきます。雪が深まる前に、寄らせて頂きます。姫様、鷺草のお話の続きは、また、、、」
「うん。柊殿も、梅殿も、またね」
「姫様、その呼び名は、、、」
顔を見合わせ、思わず苦笑した、若者二人。
たまたま喧嘩したおりに、別々に柊と梅を手入れしているところをあとりに見られ、そのまま呼び名になったらしい。
一行は往来を、北へ向かって歩いていった。
二人の孫に付き添われ、遠ざかるその背をしばらく見送っていた充慶が、ふと、
「あとり、何やら与助殿の背中に、影があるようだが、、、」
問うた。
あとりは、頷くと、
「父上、与助殿の奥方が、病で苦しんでいるのだ。庭師には、楓と紅葉の見分け方や、花々に纏わる物語を、たくさん聞いた」
充慶を見つめた。
「ふむ、、、」
一際強い光を放つ、その眸。
「父上は、あとりが病に倒れれば、たくさん符をくれた。心強かった。符は、父上からの励ましの手紙だと、母上が言った。だから、快癒の符を、あとりにも教えて欲しいのじゃ」
意志が、そうさせるのだ。
「もちろんだ、あとり。病に打ち勝ったお前の励ましなら、効果は絶大だろう。書いてやりなさい」
「うんっ」
あとりは、充慶の袖を掴んだまま、門を潜った。
銀仁は、その父子の様子を、少し後ろに下がって見つめていた。
下男が庭先で落ち葉を掃く音に、姉姫が爪弾く筝の音が、交じる。
忙しない足音に続いて、おしゃべりな侍女達の紅の袴と白い単が、屋敷のあちこちで見え隠れする。
すっかり冬支度を終えた、庭。
雪吊や、冬囲いも済んだ庭木らが、いよいよ冬の到来を歓迎しているようだ。
大池には、今年もやって来た鴛鴦が羽を休め、湖畔では、どこから迷い込んだのか一匹の野良猫が、池に落ちたその影に釣られ泳ぎ寄る鯉には目もくれず、じっと二羽を凝視している。
平穏な日常の風景が、炊事の煙を上げる母屋を背景に、広がっていた。
「、、、、、」
そんな中で、銀仁は一人、口元を引き結んだ。
先程気付いた黒い気配も、充慶が感じ取った違和感も、穏やかなこの風景を目の当たりにすれば、
― 本当に何事も無ければ、いいのだが、、、 ―
思わずそう願わずには、いられなかったのだった。
臥待月が、ようやく顔を覘かせた、深更。
頼りない星月の明かりが、湖面に揺られている。
ここは、浮き御堂を頂く、青梅池。
その昔、仙洞の敷地内にある千年杉の頂に、降り立った天女がここで、口を濯いだとされる。
当時は、満々と澄んだ水を湛えていたのかもしれないが、今は、見る影も無い。
暗い水面に面した、その濡縁に、
「、、、、、」
黒い影が、陽炎の如く立ち昇った。
一度、霧のように散ったかと思えば、再び集まり、
ゆらり…
女の姿となった。
長い垂髪は、艶々と濡れびかり、銀の光沢を放つ。
青白い肌は、陶器の滑らかさで、抱きしめたら、折れてしまいそうな程に華奢なその身に纏うのは、唐衣
黎明を表す濃紫に、天の川が銀の錦となって縫い取られ、番いの白鷺がその中を、翼を並べている。
ふわりと袖が振られると、
「ふぅ、、、」
赤々とした唇から、細い溜息が毀れた。
どこか恨めしげに月を眺めてから、
「、、、、、」
再び、その身を冷たい水底に沈めんと、濡縁に身を寄せた。
伸ばした指の先で、水が、跳ねた。
指先から全身に、刺すような痛みが、奔る。
冷たい。
「、、、、、」
実際には、その記憶だけが遠く、残っている。
もう一度、手が、水を掻いた。
指先に纏わりつくような、感触だけが、残った。
もう一度、女は貌を上げた。
細い月は、変らず同じ場所で、こちらを見つめている。
ふいに、女の眉が、苦しげに寄せられた。
次の臥待月の頃には、この池は、厚い氷に鎖されることだろう。
― その前に、せめて、もう一度だけ、、、 ―
しばらくの間、
「、、、、、」
無言で月を眺めていたが、女は、想いを振り切るように固く瞼を閉じ、貌を背けた。
その頬を、一筋の涙が、滑り落ちる。
足元に蟠るのは、波打つ、闇。
そこに、足を踏み出そうとして、
「っ、、、」
振り向いた。
風の音に、衣擦れの音が、混じっていた。
「遅くなった、、、」
男がひとり、闇の中から抜け出してくるところであった。
髪は、烏帽子に仕舞われ、怜悧な細面に、月明かりが陰影を落とす。
凍える冬夜に、燃えるような臙脂の長絹が、鮮やか。
浮御堂に現れたのが、幽鬼の如き姫ならば、こちらは、人の姿をして現れた、鬼神と言ったところだろうか?
生前、舞を嗜むと言うその男に、女が縫って贈ったものだ。
どこか、酷薄な笑みすら口元に湛えて、浮島から、平橋を、こちらの浮御堂へ。
真紅に染められた唇が、込みあげる想いに堪えきれずに、震えた。
冷えた大気を吸い込み、そして、
ヒギア…ッ!!
引き攣るような己の声に、女は、唇を押さえた。
声帯が、かつてのように機能していないことに、動揺したのだろう。
「、、、、、」
だが、呼ばれた【名】を、男は確かに聞いて、頷いた。
動じるでもなく、古ぼけた浮御堂に至ると、女の元へ。
「気にするな、、、」
「、、、、、」
女は、口を袖で押さえたまま、涙で潤んだ眸を向けた。
眸は、哀しい色を、帯びていた。
「そなたの声を、私は違えぬよ」
唇の端を、僅かに吊り上げると、男は手を差し伸べた。
おずおずと、女は手を伸ばす。
まだ、水に濡れたままの指先を、
「約束を破るような男に、見えたか?」
男の親指が、擦った。
闇色の眼差しに見つめられれば、
ア…
待てど暮らせど、現れなかった【あの日】を思い出し、水底へ帰ろうとしたのを見透かされた気がして、何とも恥ずかしい気持ちになった。
女が、慌てて、首を振る。
それは、幼い子供の仕草に、似ていた。
「では、行こうか、姫、、、」
その手を引いて、男はゆっくりと歩き出す。
浮御堂を出、いくつも掛けられた橋を、女の歩幅に合わせて、渡る。
池の浅瀬。
葦の茂みで寄り添うようにして眠る、葦鴨。
葉を落とした木々の下では、夜露を結ぶ苔蒸した大地が煌き、梢では木兎が、首を傾げている。
その上を、星が、幾つも流れた。
水の中から眺めるのとは、まったく違う風景。
それなのに女は、
「、、、、、」
繋がれた指先を、見つめている。
そこから温もりが、じんわりと伝わってくる。
かつてのその人よりも、ずっと、すんなりとした背中。
腕や肩は、もっと逞しかった。
それでも、
「姫、、、?」
視線を感じて、男が振り向けば、
「、、、、、」
女は黙って、なんでもない、と首を振った。
再び俯いて、頬が緩んでいる自分に、気がついた。
不思議だった。
たった数日前、出会ったばかりだと言うのに、、、
その日、女は、浮かび上がった池の畔で、この男と会ったのだ。
『そろそろ逝く気になったか、、、? 』
声を掛けられたことにも驚いたが、初めてにしては、ずいぶんと不躾な言葉だと思った。
だが、その闇色の眸に、投げかけられた言葉とは別の何かが窺えて、一つ、我侭を言ってみせたのだった。
そう、、、
あの日、叶えられなかった、【最後の願い】、を。
「うう、、、」
太刀に手を掛けたまま呻き、思わず肩の辺りを擦った。
― あいつ、あんな薄着で、よく、、、 ―
眺めた先の、平橋の上。
ちょうど、男が女を振り返ったところであった。
古ぼけた薬師堂の軒庇の下。
座るに調度いい庭石に、腰掛けている。
「ん、、、」
小さな声が、すぐ傍らで、漏れた。
膝に背を預け、身を丸めるように、大きな瓶子を抱いている。
― 今さっきまで起きていたと思えば、いい気なもんだ、、、 ―
群青の髪と、翡翠の一対の角が、寝息と共に揺れている。
無骨な手が、その髪に触れ、頭を撫でた。
宵闇に沈む時分、蒼奘の屋敷を訪ねたのだが、珍しく伯がその袖を引いているところに、出くわした。
話を聞けば、幽鬼との約束を果たしに行くと言う。
相手が相手だけに、伯を置いていきたい、蒼奘。
そして、自分も行くと言って聞かない、伯。
蒼奘は存外、伯の胸の内が分からぬのかもしれないが、燕倪は、何故だか伯の様子を見て、すぐに検討がついた。
蒼奘に、『来るな』と言われた事が、伯にしては、単純に嫌だったのだろう。
そして燕倪は、その伯に乗っかった。
青梅池に眠る姫の話は、帝都に住む者ならば、知らぬ者はいない。
その姫が、現れると言うのだ。
気にならない、はずがなかった。
伯は自分が見ているから、と蒼奘を言い包めての同行となった次第である。
― しかし、なぁ、、、 ―
顎先を撫でながら、燕倪は周りを眺めた。
二人を取り囲むように、円が描かれている。
大地が、濡れているのだ。
場所を定めると蒼奘は、伯の翡翠輪を外し、酒でもってぐるりと円を描かせた。
『伯が描き、結んだ結界だ、、、』
『だが、これじゃ、丸見えじゃないか。隠れなくていいのか?』
これといった遮蔽物は、無い。
白い花をつけた、柊の青々とした茂みがあるくらいだ。
蒼奘は腕を組むと、怪訝な顔の燕倪を、冷ややかに一蔑し、
『伯がいる限り、ここは、浄域。姫からは、見えはしない。ここを、出るな、、、』
そう言い放つと、浮御堂を伺いながら、平橋の方へと歩み去ったのだった。
必要ないと言われたが、万が一の業丸の出番を考えれば、伯の酒の相手をするわけにもいかず、杯に酒を満たしてやっては、現れ出でた青梅池の姫の姿を探して、目を凝らしていたわけだが、、、
「、、、、、」
「ぅ、、、ん、、、」
傍らで、掛けられた衣を巻き込むように、己が肩を引き寄せる、伯。
案の定、同行した事に満足したのか、青梅池の姫を見るでもなく、眠ってしまった。
お陰で、燕倪の長衣は、伯の体に掛けられることとなった。
病とは無縁の、半神体であると知ってはいても、この男の性分で、
― 寝顔だけは、どこからどうみたって、いっぱしのガキ、だよな、、、 ―
どうにも、割り切れるものではないらしい。
安らかな、その寝顔を見つめていると、
「お、、、」
衣擦れの音が、徐々に近づいてきた。
顔を上げれば、池の畔を、女の手を引いた蒼奘が、こちらに向かってくるところであった。
思わず大きな体を縮こませ、息を潜めたのは、烏帽子を頂いたその姿が、まるで別人のようであったからだ。
陽炎のように揺らめく、青梅池の姫。
その名は悲恋の末、伏され、知る者は数少ない。
燕倪も、知らぬ。
知っていたとしても、戯れに口にしてよい名では、ないだろう。
― だが、どうだろう?姫は、幸せそうだ、、、 ―
燕倪の目には、うっすらと透けて見えるのに、その頬が、ほんのりと上気しているような、、、?
一言、二言。
蒼奘が、何やら声を掛けているようだが、その声は低く、音だけが微かに夜気を渡って聞えてくる。
その都度、女は頷いたり、首を振ってみせたり、傾げたりと、童女のような仕草をしてみせた。
それが何とも、幸せそうだと、見えたのだ。
枯草を踏む足音をさせ、二人が、燕倪と伯の前を通り過ぎる。
緊張に、息を止める、燕倪。
「、、、、、」
だが、その心配を他所に、二人は薬師堂を通り過ぎ、弓形の湖畔を、鐘楼のある方へと進んでいく。
ほっ、と息を吐いた時だった。
「ぅ、、、」
背中から、冷たい夜風が吹き込んできた。
ぶるっ、と肩を震わせた矢先、
「ふぇ、、、っ、、、ふぁっ、、、」
むず痒さが、鼻腔を突いたのだった。
「ぶぇっくしょいッ!!」
大きなくしゃみに、女は貌を上げた。
月光に照らし出された、その貌は、
ギギ…ッ
たおやかだった女のものではなかった。
心情を表してか、口は耳まで裂け、黄色く濁った白目が、辺りを忙しなく窺っている。
だらしなく顎の下まで垂れた舌までもが、水を差された憤怒に、蛇のような撓りをみせた。
裂けた目尻から、つつ…と赤い筋が頬へと滑り落ちようとして、
「姫、、、」
冷たい指先が、それを掬い取った。
見上げれば、臥待月をちょうど頭上に頂いた男が、闇色の眼差しで、静かに見つめていた。
「次のこの月まで、花は、我らを待つまい、、、」
「っ、、、」
そのまま肩を抱かれれば、女の表情は、すぅ、と安らかなものへと戻っていった。
そして、男に背を押されるまま、再び歩き出す。
目を閉じて、男に身を預けるように歩く女とは対照的に、
「、、、、、」
後方、古びた薬師堂脇に鋭い一蔑を与える、男。
その先で、まさに燕倪が大きな肩を竦め、片手拝みで謝っている。
傍らでは、ぽう、とした寝惚け顔の伯が、目を擦り擦り、酒が残ったままの瓶子を、抱え直しているところだった。
溜息を吐きたいのを堪えつつ、薄闇の中、朽ちかけた鐘楼へ向かう。
青梅池は、かつての寺院跡であるが、いわくつきのため、いつしか【都守預かり】となった。
人柱による結界、その一端を担っていた場所、と言う事もあるだろうが、その方が事情を知る者達には、都合が良かったのだろう。
星読寮より管理の人手を出しているが、最低限の手入れのため、草木の勢いがある春先から夏にかけては、雑草が野放図に生い茂り、歩くのもやっとの有様。
だが、草木も枯れるこの季節は、不思議なもので、それも反って風情に変わる。
枯れ芒が風に揺れ、乾いた音をさせれば、狐が顔を覘かせる。
柔らかな落葉の大地に、斑に残った残雪は、仄白い光源となって夜道を朧げに照らしだす。
時には、塒に潜り込む無粋な輩もいるようだが、
「、、、、、」
「、、、、、」
この瞬間、触れ合い伝わる温もりは、二人だけが感じているものであり、時間、そのものだった。
傾きかけた、鐘楼。
そのすぐ隣に、覆う勢いで大きな椿の木が、湖に迫り出すように茂っていた。
深緑の固い葉の中の、いたるところに、闇でも鮮やかな真緋が、弾けている。
甘く深い香りが、湿気を帯びた夜気に、そこだけ立ち込めているようだった。
椿だ。
水面に、浮かぶものもあれば、足元に散ったものもある。
「、、、、、」
喉が、震えそうになるのを堪え、女は、唇を強く、噛む。
一人では、どうしても足を運ぶことができなかった、場所であった。
まだ若かった女は、夜半、屋敷を抜け出しては、この場所を訪れた。
そしてここは、初めて互いの想いを重ねた、大切な場所となったのだ。
― 今でも、わたくしは、、、 ―
現れなかった男を想い、女は、手を伸ばす。
優しく、夜露を結んだ花弁に触れれば、後方から腕が、伸びた。
思わず振り向けば、その人が高いところに咲く一輪を、手折るところだった。
「そなたの、思ひの色、か、、、」
一際強い、火の色をした、椿。
男は、余計な枝と葉を落とすと、女の髪を一筋手に取り、器用に枝で掬い取ると、その耳の上辺りに挿してやった。
じわりと潤んだ、眸。
堪らず俯くと、
「良く、似合っている、、、」
低い声音が、鼓膜を震わせた。
『貴方には、燃えるようなこの色が、本当に良く似合う』
いつか、同じ事を言われたのを、思い出した。
「、、、、、」
女は、涙を湛えた眸で、男を見つめた。
あの日、この場所で、離れてしまった心をもう一度繋ぎとめる事はできなかったけれど、涙で滲んだ視界の中、向き合った男は、愛しい背の君であって、懐かしい微笑みを浮かべていた。
― 嗚呼、許泰さま、、、 ―
胸の内。
暗い水面に、陽の光が差し込むように、穏やかな光で、満ちてゆく。
大きく息を吸い込めば、爪先が、大地から離れる。
ぷち…ぽっ、ちっ…ぷち、んっ…
椿の簪に触れた指先から、泡が弾けるような軽やかな音が、体内を満たしながら、響いてきた。
ふわりと舞い上がり、陽炎の如く揺らめいていた女が、燃えるような火の色一色に、染まってゆく。
思ひの色。
椿の簪に手を触れたまま、
「、、、、、」
女は最後まで黙ったまま、真っ直ぐに天を、仰いだのだった。
火の色が、一際強く輝いた後、微かな水音を残して、闇に滲むように掻き消えていく。
「、、、、、」
想いが弾ける様を、蒼奘は、無言で見つめていた。
湿気を含んだ冷たい風が、長絹の袖を巻き上げ、吹き抜ける。
名残のように甘く立ち込める香りを、大地に散っている花弁を供に、空へと攫ってゆく。
それからしばらくの間、椿の傍らに佇んでいたが、
「、、、、、」
烏帽子を懐に仕舞うと、踵を返した。
枯葉を踏む乾いたその音が、近づいてくる。
「お、、、」
薄闇の中、目を凝らせば、長い銀の髪の主が、こちらに向かってくるところだった。
燕倪は、体勢を変え、今度は膝にだらりと身を預けるようにして眠る伯の肩を、揺さぶった。
「おい、伯、、、」
「ん、、、」
しかし、目覚める気配は無い。
仕方なく、伯を腕に抱き上げたところで、
「用は済んだ。帰るぞ、、、」
蒼奘の声が掛かった。
「おう」
立ち上がれば、寒さで固まった筋肉が、いたるところで悲鳴をあげた。
肩を並べ、往来へ面した門へと向かう途中、
「なぁ、俺には、赤く光ったようしか見えなかったが、青梅の姫は、、、」
燕倪が、蒼奘に尋ねた。
「、、、、、」
無言の闇色の一蔑に、
「さすがにあの距離じゃ、ぼんやりとしか見えん」
燕倪は、懲りずに食い下がった。
気まずい沈黙に、耐え切れなかったのだ。
そもそも伯に乗っかったと言うのと、先のくしゃみが、尾を引いている。
蒼奘は、闇色の眼差しを前方に据えながら、
「、、、流れに還った、とでも言おうか、、、」
「あ?」
鬱々とした声音が、それに応えた。
葉を落とした木立を抜ければ、薄闇の中、青白く浮かび上がって見えるのは、朽ち掛けた築地塀に、門。
その向こう。
牛車の前で、提灯を手にした琲瑠が、いつもの困ったような顔で、微笑んでいる。
「ぅ、、、」
小さい声が、漏れた。
伯が、燕倪の肩で、目を瞬いている。
そのまま、鼻先を肩に摺り寄せながら、小さな犬歯を見せて、欠伸を繰り返す。
ずり落ちそうになっている長衣を、蒼奘の指先が掬い上げると、角を隠すように覆った。
まだ、眠気を帯びた菫色の眸が、とろりと蒼奘を映す。
「想念とは、純粋な想い。性質の悪いものは、そうそうない。赤子のようにひたむき故に、な、、、」
「そう、なのか、、、?」
よく分からない、とばかりに首を傾げる燕倪を他所に、蒼奘は、そっと伯の額に触れ、
「ああ。気が済めば、自ずと泣き止むものだ、、、」
「ん、、、」
頬に触れた。
すると、伯は再び、燕倪の肩に頬を預け、瞼を閉じてしまった。
「もう、現れないのだな?」
念を押すように、問えば、
「ああ」
蒼奘が、頷いた。
「ふむ、、、」
どこか釈然としないまま、門を潜ると、琲瑠が頭を下げて、三人を迎えた。
淡い木賊色の長衣を、蒼奘の肩に掛けつつ、
「ささ、お寒かったでしょう?火桶を積んでございますから、暖をおとりくださいまし、、、」
卒がない。
「俺はいいよ。歩いて帰るから」
そう断る燕倪を、
「せめて、屋敷の前に着くまで、その肩を貸してやってくれ、、、」
先に乗り込んだ蒼奘が、引き止めた。
右肩を見れば、伯の寝息が首筋を、くすぐっている。
燕倪が伯を腕に乗り込むと、引戸が閉められ、簾が下ろされた。
赤い炭が入った火桶を中央に、腰を下ろせば、ぎしぎしと車輪を軋ませながら、動き出す。
吊るされた提灯から滲む、橙の光が、辛うじてお互いの輪郭を浮かび上がらせる。
眠る伯に遠慮してか、互いが沈黙を守る中、
ゥウォオオオオン―――
遠く、遠吠えが聞えてきた。
どこかで、その遠吠えに応える声が重なるのを聞きながら、
「最近、野犬が帝都近郊でやたら目撃されているらしいぞ」
「、、、、、」
燕倪が顔を上げれば、蒼奘は物見を少し開き、外を窺っているところであった。
隙間から、冷たい夜風が細く、忍び入ってくる。
「群れられちまったら、女子供はひとたまりもない。近いうちに、駆除に乗り出すだろうよ」
「放っておけ、、、」
「あ?」
蒼奘は、静かに物見窓を閉めながら、
「じきに、片が付く、、、」
燕倪を、見つめた。
「どういうことだ?」
「あれらは少なくとも、人を、襲わぬ」
ぬけぬけと、そう言い放つ相手を、
「どうして、言い切れる?」
鈍色の眸が、睨みつけた。
うっそりと視線を外すと、蒼奘は背を壁に預け、横を向いた。
「そもそも、犬ではない。あれは、狼だ、、、」
「狼、、、」
あんぐりと口を空けてしまった、燕倪。
狼。
それは、人里には滅多に下りてこない、獣の名だ。
「おいおい、そりゃ、余計に厄介だろう?」
「心配するな。そこいらの餓狼とは違う」
「どう違うってんだ?犠牲者が出てからじゃ、遅いんだぞ」
まるで、他人事のような口ぶりに、燕倪の口調が荒くなる。
闇色の眼差しが、燕倪に向けられる。
燕倪も、逸らすようなことはしない。
少しでも引っ掛かりを覚えると、どんな相手であろうが、まっすぐに、挑むような眼差しを、向ける。
それは、燕倪と言う男の性格を、そのまま現しているのかもしれない。
― まったく、、、そのまま腰に帯びた太刀のような男だな、、、 ―
蒼奘の口元に、いつもの薄笑みが、刷かれた。
根負けしたかのように、
「大陸の、草の香りがするのだ、、、」
静かに、吐き出した。
「大陸、草?」
「ああ。大陸から、遥々海を渡り、やって来たのだろう。誇り高い、草原の主よ。そうさな、虎精と並び称される、狼精とでも、言おうか、、、」
「狼精、、、虎精っていったら、銀仁か。では、人の姿にも?」
「どうであろうな、、、」
細く、息が吐かれた。
こればかりは本当に、知らぬのかもしれない。
燕倪は、低く呻いた。
「お前は、気掛かりではないのか?」
「草原の主は、風狼とも呼ばれる。この国を訪れたのは、故あっての事だろう。そのまま風だ。いつかは、他へ流れるもの、、、」
「だから、ほうっておけ、か」
「必要ならば、しかるべき措置をとる。今は、その段階ではない。ただ、それだけだ、、、」
「ふむ、、、」
腕を組んだまま、燕倪は押し黙った。
ぎしぎしと、心地良い振動が伝わる中、遠く、異国の狼達の遠吠えが、重なった。
鬼気迫るもの、と言うより、どこか哀愁を帯びたようにも聞える。
存外、蒼奘の言う通り、いきなり襲い掛かってくるようなものでは、ないのかもしれない。
それでも、と思ったところで、ゆっくりと牛車が止まり、
「燕倪様、お屋敷に着きましたよ」
聞きなれた琲瑠の声が、掛かった。
四半刻は、経っていたのだろうか?
蒼奘相手に思案していたせいか、思っていたよりも早く、着いた気がした。
「おう」
己が長衣に包まった伯を、そのまま静かに座っていたところに寝かせてやる。
深い眠りに就いてしまったのか、起きてぐずる気配もない。
薄く、口を開けた無防備そのものの寝顔を見つめれば、
「良く寝てやがる、、、」
思わず、笑みが毀れた。
そのまま、足音を忍ばせて降りると、
「何かあれば、絶対知らせろよ。蒼奘」
釘を刺す。
「ああ、、、」
蒼奘が頷いたのを確認し、燕倪は牛車から離れた。
「お疲れ様でございました。燕倪様、おやすみなさいませ」
いつものように、深々と頭を下げる、琲瑠。
「じゃあな、琲瑠」
「はい。それでは、これで、、、」
ゆっくりと遠ざかる、牛車を見送って、
「さむっ、、、」
己が肩を、擦る。
湿気を帯びた夜気が、刺すように、冷たい。
背を丸め、門のうちへと飛び込もうとした、その鼻先、
「ん?」
白いものが、ちらついた。
見上げた、夜空。
差し込む月明かりで、青鈍に透けるその眸が、鈍色へ変わる。
闇が、濃くなる。
そこに、
「お、、、」
白い吐息が、滲んだ。
眇めた眼差しの先。
重い雲に隠れた星月に代わって、細雪がはらはらと、大地へ舞い降りてくるところだった。
― 雪は、好きだ、、、 ―
肩先や髪に、粉雪を遊ばせ、琲瑠は思わず口元を、緩めた。
― 大気が澄んで、遠くまで良く見えるから、、、 ―
闇の中でも、琲瑠の目は、彼方の山稜の輪郭を、見通しているのかもしれない。
川のせせらぎが、近づいてくる。
休もうと、足を止めようとする牛を追いながら、恵堂橋を渡れば、屋敷まで、後もう一息だ。
前方彼方に篝火が、見えた。
夜更けと言う事もあって、人気の無い大通りは、ひっそり閑と静まり返っている。
人影が動いたような気がして、
「、、、、、」
琲瑠は、目を凝らした。
そして、すぐに、
「ほ、、、これはこれは、、、」
頭を下げた。
青白い狐火が宙に浮かべば、唐衣の女が一人、古びた屋敷の門前で、こちらも深々と頭を垂れたところであった。
都守の屋敷より程近い、天狐遙絃の屋敷。
凍える冬夜だと言うのに、屋敷のうちには燦々と陽光が降り注ぎ、小鳥たちは競って囀っている。
狂い咲く、花々。
極彩色の彩りが、地平線に溶けている。
その大地を、白い人影が歩いている
烏帽子を懐に、手には、扇子。
月明かりには目立たなかったが、陽光の中で見る臙脂の長絹には、唐草と孔雀の縫い取りが織り込まれ、今にも羽ばたきそうだ。
「ようやく現れたと思うたら、今日はまた珍しく、華美な装いじゃないか」
いつもの皮肉を、唇の端を吊り上げただけでいなし、四阿屋で待つ遙絃の向かいに腰を下ろしたのは、
「誰ぞ、気にかかる姫でも口説きに行っていたのかぇ、蒼奘?」
その人であった。
翡翠を削り、彫り出された桃の枝の細工も精緻な長椅子の肘掛に凭れ、
「そんなところだ、、、」
うっそりと、青い唇を歪めてみせた。
「しかし、どこかで見た様な、、、」
遙絃が眉を寄せれば、
「布津稲荷に、舞と共に奉納された、長絹だ。神主に無理を言って、借り受けた、、、」
「ふん。悪かったな、社には寄り付かぬ祭神で、、、」
不在がちな己の社が出所だと、痛いところを衝かれる結果となった。
紺碧の眼差しの先で、月色に透ける長い髪が、さらりと肩から胸元へと、滑り落ちてゆく。
「伯は、どうした?」
辺りを見回しても、その姿が無い。
珍しいこともあるものだと、問えば、
「幽鬼の姫との逢瀬に、共に行くと聞かぬで、連れては行ったが、、、」
その皮肉にも、相手は口元を、僅かに歪めただけであった。
「ほ、いわくつきのその長絹と言い、その幽鬼、、、青梅の娃斐螺姫か?」
最近になって現れた、青梅池の畔に佇むと言う、幽鬼。
娃斐螺姫。
姉姫の元に通うようになった、かつての恋人。
嫉妬にその身を焦がし、ついには身投げしたという、いわくつきの姫だ。
蒼奘が頷き、
「正確には、幽鬼ではない。水面に漂っていた想念が、長い年月のうちに洗われ、流れ着き、再び姫の姿をとったものだ、、、」
「魂の方は、どうした?」
「冥府に辿りついた、という鬼録は、なかった。とうの昔に、昇華したのだろう」
彼方の地平線を遠く、眺た。
いつもあるはずの山々は姿を消し、平坦な大地が延々続いている。
「して、その姫の願いは?」
「臥待月の晩に、椿を愛でたい、と、、、」
「で、手を取り、花見に興じてきたわけかぇ、、、」
遙絃が、『物好きめ』と薄く笑う。
それには応えず、
「先ほどから、胡露の姿が無いようだが、、、?」
そう、問うた。
広大なこの世界は、遙絃が形成する結界であり、異界。
そのまま、術者の力を現すものだ。
そして、異界はもとより、核となる【楔】による影響が大きい。
地仙級ともなれば、なおさらだ。
どうやら漂う違和感の元凶を、蒼奘は、ここにはいない相手と踏んだらしい。
遙絃は『出掛けている』とだけ、言った。
ぐっ、と大きく伸びをすれば、花簪が抜け、蜂蜜色の豊かな髪が、踝まで流れ落ちた。
ふわりと、腰の後ろで九尾が揺れ、小さな犬歯を剥いて、欠伸をひとつ。
乾いた音を立てて転がった花簪もそのまま、長椅子に寝そべると、大海を思わす紺碧の双眸が、蒼奘を見つめた。
潤み、煌く眸でもって、
「【鵺】が、放たれた」
語尾が、掠れた。
欠伸がもうひとつ、喉からせり上がり、手の甲で、黄金に彩られた蟲惑的な唇を隠す。
滲んだ涙が、長い睫毛に珠となって、結ばれた。
一方、
「神都、奉華門が開いた、か、、、」
低いその声音には、どこか穏やかな響きが、含まれていた。
蒼奘の視線は、赤瑪瑙の巨岩を削り出し、造られた卓上に注がれている。
長い指先が、卓上に咲き群れるように刻まれた、冷たき大輪の薔薇に、触れた。
滑らかな花弁の感触は、まさに生花のそれで、甘く、深く、肺腑に染み入る香りは、そのまま赤瑪瑙の薔薇が放つものであった。
天津国の天匠が腕を揮えば、冷たき石も、自らを花であったと錯覚してしまうのかもしれない。
「あやつらも、胡露同様、鼻が利く」
侍女が差し出した煙管を受け取り、
「すでに、大陸中を探しあぐねたはず、、、」
唇から細く吐き出したのは、紫苑色の煙であった。
蒼奘は、というと、
「ほぅ、、、」
他人事のように薔薇を愛でつつ、相槌を打っている。
相変わらずのその様子に、華奢な肩を竦めた、遙絃。
蓮を模った、翠水晶の灰受けの縁に、煙管を打ちつけながら、
「以前あった人柱の結界は、もう無い。大陸に比べ、歴史が浅いこの国では、地仙同士の繋がりも、希薄だ。庇護も、加護も無い【あれ】を、鵺らが見つけるのも、時間の問題」
溜息混じりに、吐き出した。
「天狐、、、ここは、――」
言わんとしている事をすでに察してか、何の感情を窺わせない、ただただ穏やかすらある闇色の眼差しが、遙絃をひた、と見据えた。
「そもそも、そなたが負うた地だ。そなたが拒めば、そのように結界が発動しようよ、、、」
「都守、私は、、、」
何かを言わんとした遙絃だったが、溜息を一つ。
卓子に肩肘をつくと、手のひらに頬を預けてしまった。
その仕草は、ひどく幼く見えた。
もどかしげに、何度もカツカツと、煙管を縁に打ちつけながら、紺碧の双眸が上目遣いに睨んでくる。
『分かっているだろう?』とでも、言いたげに。
蒼奘は薄笑みを浮かべたまま視線を外すと、彼方に静止したままたなびく雲を、眺めた。
ただ、そこに在るだけの、雲。
動く事も無く、さりとて消える事すら、許されない。
― まるで、、、 ―
何を思ったのか、その眼を眇めると、
「その実、何がどうなろうとも、そなたには、関心がないのだろう?」
鬱々と、そう言い放った。
つい、口を突いて出た言葉であったが、
「、、、、、」
ぎり、と短く、何かが擦れる鈍い音が、した。
遙絃が、奥歯を噛み締めたのだ。
秀麗な貌から、いつもの余裕の笑みが、掻き消えていた。
針のように細く引き絞られた瞳孔が、射抜くように蒼奘の横顔に注がれれば、世界はそのまま音を、色を失い、凍りつく。
大気は、外気のそれよりも重く冷たく張り詰めて、吐き出した吐息は、そのまま霜となり、吸い込めば肺腑からその身を、凍てつかせよう。
黒白に沈んでゆく無機質な世界で、二人の姿は、さながら氷像のようであった。
しかし、それも一瞬の出来事。
「ふん、、、」
遙絃が、鼻で、笑った。
世界が色を、取り戻す。
何事も無かったかのように息を吹き返した世界を、遙絃は、ぐるりと眺めながら、
「ああ。お前が言わんとしている通りだ。人々を導くなんぞ、そんな殊勝な考え、私には、端からない、、、」
からりとして、それでいて残酷に響く、言葉であった。
この地に降り、時には世話を焼いてはみたが、それ程心を傾ける事も無かった。
ただ漠然と、地仙と言う役柄を、演じていただけなのかもしれない。
唇に浮かんでいるのは、そのまま自嘲気味な笑み、であった。
それを突きつけられた瞬間、腹腔深くから憤怒が込みあげたが、今は不思議と、心は穏やかであった。
押し寄せた感情の波は、どこかに浚われ、穏やかに凪いだ紺碧の眸が、蒼奘を見つめた。
相手は、遠く、彼方の空を眺めたまま、相変わらず感情の一切を、窺わせない。
伯を共に訪れる時は、この限りではないのだが、伯を地に縛るそれ以前、
― 私としたことが、すっかり忘れておった。元々、こやつは、与し難い相手であった、、、 ―
【地仙】と【都守】として対峙して来た頃は、それは扱い難い相手でもあった。
下手な小細工は、返って逆効果になると踏むと、
「だが、胡露は違う。今回は、事情がある」
遙絃は、心情を吐露した。
なまじ、その方が、効果があるかもしれない、そう思った。
自分が、胡露と共に在って変わったように、この相手もまた、そうなのかもしれない。
不変なものなど、ないはず。
ならば、それに掛けるしか、なかった。
― 私は、地仙だ。これは、人の間で交わされた、契約。動くわけには、いかん、、、 ―
闇色の眼差しが、遙絃に注がれ、
「ああ、そう言えば【あれ】は、犬神筋であったなぁ、、、」
青い唇の端が、吊り上った。
合点がいった蒼奘に、遙絃は素直に頷いてみせた。
「だから、多少は荒れるだろう。すべては【あれ】次第だ。それだけを、お前に言っておく」
椅子が、引かれる音と共に、長身が立ち上がった。
「、、、、、」
白と言うより、銀に近い髪が、靡く。
侍女の案内を待たずに往来に面した門へと遠ざかるその背中越し、
「、、、心得た」
一拍置いて、低い声音だけが鬱々と、応じたのだった。
思ひ色。。。
緋の色に掛けた、古き時代の言葉、だそうで。。。
先日、たまたま知ったのだったけれど。。。
思いを言葉だけでなく、それ以外でも伝えようとした古人の直向さには、脱帽。。。