第拾ノ弐幕前 ― 血胡弓 ―
誰に見取られるでもなく、大陸は神皇が後宮で娘が一人、人知れず息絶えた。遠く海を渡った帝都では、天狐遙絃が悪夢に見舞われ、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕前編。。。
いろとりどりの花々が、揺れている。
暗い水面に、柔らかな光を放つ、灯篭だ。
それが、幾つも浮かんでいた。
儚げに揺れるその明かりが、月の無い闇夜にささやかな抵抗でもしているのか、ぼんやりとした光源となって、白亜の離宮や渡殿の姿を、朧げに浮かび上がらせる。
巨大な湖を思わせるそこには、大小様々な離宮や音楽堂、釣殿、四阿屋らが、渡殿によって結ばれ、点在していた。
陽があるうちに臨めば、湖面に佇む瀟洒なそれら建物の他、四季の野草が植えられた浮島や、鶴が遊ぶ奇岩群が目を引く事だろう。
計算し尽くされ、整然と配置された、造形美。
それを目の当たりにすれば、成し得た労力と膨大な年月が想像に余りあり、舌を巻かずにはおられないだろう。
陽の光の入り方、風が吹きぬけて奏でる音、緩急をつけて注ぎ込まれて清水に揺らめく、水草の動き。
ここでは、意のままに操ることが困難な自然ですら、持ち得ているその全てを、余すところ無く、引き出されるのだ。
風の無い、今日のような闇夜の晩を、除いては、、、
ヒュ…ヒユァアアア…
どこかから湖面を渡る、胡弓の哀しき調べが、聞えてくる。
息を潜めるようにして、祈り暮らす者達も、この時ばかりは耳を傾け、遠く離れた故郷に暮らす一族を想い、涙しているのかもしれない。
咽び無くかのような胡弓の音には、そんな啜り泣きが、混じっているようだった。
ここは、後宮。
蛮族と呼称される、異民族の姫らが集められた、そのまま哀しき園だ。
渡殿に、ぽつぽつと吊るされた吊燈篭に、灯りが燈される事はまず無い。
ここでは、その誰もが、神皇の目に留まる事を拒んでいる。
頑なな華達は、故郷を遠く離れても、今だ一族の誇りと共に在ると言う、その証拠なのかもしれない。
ヒュォアア…ワンッ…ビィイン…ッ
引き攣るような音色が、闇夜を劈く。
続いて、
カツッ…ン…
小さく、乾いた音が、聞えてきた。
音は、無数に点在する離宮の一つから、した。
震える手から取り落とされ、淡く翠を帯びた御影石の床に当たり転がったのは、弓。
「けふっ、けほっ、、、こふッ、、、」
ビシャッ…
続いて、生暖かいものが、口を押さえた手を伝い、床を染めた。
薄闇の中、そのまま闇が床を舐めるように広がれば、鉄錆に似た香りが、辺りに漂う。
長椅子から、床に崩れ落ちた華奢な体が、血溜まりの中、肩で息をしながら蹲っていた。
透けるように白い肌を持つ、うら若い娘であった。
「う、くっ、、、」
肺が、鷲掴みにされているように、痛む。
服の上から、胸元を押さえるが、今日の鈍痛は、いっこうに治まる気配が無い。
「ふっ、、こ、ふっ、、ゴホッ、、、」
そればかりが、せり上がる不快感が止まらない。
喉に、ひりつく痛みが増す。
そのまま、喉から体が裂けてしまうのではないか?
ついには、耐え切れず、血溜まりに伏せてしまう。
いつもなら、多少の吐血の後、痛みも、波が引くかのように治まってくれるのだが、
「くぅっ」
食いしばった歯の間から、堪らず苦鳴が漏れた。
痛みが、頭頂部まで突き上げる。
まるで心臓が肥大して、体中にあるかのように、ドクドクと早鐘を打つ。
耐え切れなくなった体が、今にも激痛に、破裂してしまいそうだ。
可憐な唇から、しとどに溢れる血潮に、泡が交じった。
血溜まりの中、白い手が、爪が折れるのも構わず、固い床を掻き毟る。
「ぐっ、、、つぁッ、、、」
苦鳴は、獣じみたものに、変っていた。
体が内側から、焼かれている。
目尻に涙が滲み、頬を濡らしていった。
どうして、こんな目に遭わねばならないのだろうか?
怒りとも憎しみともつかない、否、その両方とも思えるどす黒いものが、腹腔深くから、首を擡げてくる。
体が弱いのは、生まれつきだ。
痛みと共に、生きてきた。
声を殺し、耐える事なら慣れている。
それは、自分が生きるための、痛みだから。
ひゅう、と喉が鳴った。
「が、、、っ、、、」
ぼたぼた、と、今までに無いほどの血潮が、顎先から滴る。
薄紅色だったはずの舞衣も、新雪のような肌だと羨まれた指先も、視界も、何もかもが、無情にも赤黒く、塗りつぶされてゆく。
「はぁ、、、がふっ、、、ぁ、、、っ」
こめかみのあたりが、熱く、痛みに合わせて脈打っている。
貌を顰めながらも、肺腑に空気を送ろうと、口を大きく開いた。
意識せずともできていた呼吸すら、ままならない。
肺は、切れて噴き出した血液ですでに、溢れかえっているのだろう。
手足が冷え切ってゆく感覚の中、涙で濡れている頬だけが、熱かった。
「、、、、、」
叫びたい。
今まで、耐えてきたものは、守ってきたものは、いったい何だったのだ?!
神と言うものがいるのなら、問いたい。
大罪を負っていると言うのなら、その罪の名を聞かせてほしい。
この痛みは、自分から全てを奪い去る痛みだ。
そう、全てを、、、
― ッ ―
込みあげる感情に、身を委ねた刹那、痛みに濁っていた眸が、ふいに見開かれた。
そこには、澄みきった夜空を思わせる濃紺の眸が、静かに揺れていた。
「あ、、、」
顎先が床につくと、震えていた指先が、止まった。
瞼の向こう。
白々とした光が、溢れてくる。
突如、脳裏を過ぎった、その姿。
今、前頭葉の辺りから抜け出して、目の前に、佇んでいる。
物言わず、こちらを見つめるその人が、穏やかに微笑んでいた。
「ああっ」
痛む胸に押し寄せるのは、他でもない。
無上の懐かしさでもあり、愛おしさ、だ。
それが、今にも濁流となり、堰を切って溢れ出してしまいそうだった負の感情を、いとも容易く宥めてしまう。
娘は、もどかしそうに口を何度か開け閉めし、
「、、、、、」
やがて、覚悟を決めたかのように、視線を逸らせ、俯いた。
血塗れた床につけた、頬。
その横顔はかつて、【よそ風に揺れる芙蓉の如し】と賞賛された、清楚でたおやか、そのものであった。
淡紅色の薄い唇が、微かに震えた。
肺腑に残っていた最後の吐息が、
「ティエ、、ラ、、、、」
静かに、吐き出された。
全身を苛んでいた痛みが、急速に遠退いていく。
そして意識もまた、視界を白く覆いつくさんとする光の中に滲むように、溶けていった。
風も無いのに、ふわり、と窓に掛かっていた、絹布が揺れた。
はたして、こんなにも、暗かっただろうか?
【命ある者】がこの場に居たのなら、闇が濃くなったような、そんな錯覚さえ覚える事だろう。
窓の向こうから、さらなる闇と静寂が、忍び込んできたかのようだった
そして、闇と静寂はそのまま、床に伏した哀れな娘を腕に抱き、
「、、、、、」
深く深く、更けゆく夜の帳に、沈んでいくのだった、、、
もの哀しく噎び泣いていた胡弓の音色も絶えれば、辺りは無機質な静寂に、包まれる。
高い塀で囲まれた後宮、それを鐘楼より眺めていた男は、闇に溜息を滲ませた。
「あともう少し、だった、、、」
呟きとは裏腹に、惜しいという感情を微塵も感じさせない、抑揚に欠けた口調であった。
冷え冷えとした夜気が、痛いほどに張り詰めている。
「世を儚み、自身の境遇に憂い憂いて幽鬼に堕ちれば、良い手駒になると思ったんだが、、、」
本当に、【あともう少し】、だった。
胸騒ぎに似た、高揚感。
生まれ出でたばかりの幽鬼は、式神として使役するには格好な条件を、兼ね備えている。
彼らが属するのは、現世と常世の狭間。
言わば、神霊達にとっても管轄外のため、どう扱おうが、後腐れがない。
「まったく、時間だけを、取らせてくれた、、、」
誰に言うでもなく、ひとりごちると、男は肩に掛けていた長い布を、半顔に巻きつけ始めた。
調度、左側。
耳の後ろから額に掛けて、目を覆うように。
シュッ…シュッ…
小気味良い絹擦れの音が、響く。
布を巻きつける手馴れた様子は、まさに流れるような所作であった。
首の後、髪の中に隠れるように結ぶと、男は、暗い湖面が広がるその場所を改めて見つめた。
広大な後宮にあって、高い塀で囲まれている、その一画を。
高い塀の内へと至る入り口には、物々しい松明が焚かれ、屈強な武官らが守っている。
そこには、白粉や紅が放つ特有の匂いは無く、華美な衣装を纏う者もいない。
故郷を想い、さめざめと、泣き暮らす者が殆どだ。
高官に取り入り、神皇の寵愛を得んとする者や、他者と競い勝つ事に、存在価値を見出す女達とは、空気からして異質な、空間であった。
「、、、、、」
それを、職業柄、出入りを許されているこの男は、肌で感じていた。
もちろん、先刻、息絶えた女が誰なのかも、把握している。
― 今宵は、新月。他の姫君らの安息に水を差すのも、気が引ける。明日、検めに行くか、、、 ―
後宮に住まう者から湧き上がる【怨嗟】は、神皇に向けられるものであってはならない。
捻じ曲げてでも、己が被らねばならないものだ。
それが、男が負っている肩書きの、対価だった。
男は物見窓に、背を向けた。
真鍮の囲いに嵌め込まれた紫紺色の硝子、その中でゆらゆらと頼りなげに揺れる炎が、地上へと続く螺旋階段に、影を落とす。
カツカツ、と長靴の踵を鳴らせながら、
― しかし、、、 ―
男は、ぼんやりと考える。
あの娘は、蛮族の姫の中でも、一番聞き分けが良かった。
全てを諦めている、そんな様子の者なら、今まで幾度と無く目にしてきている。
だが、
― あれは、、、確かに受け入れようと、していた、、、 ―
娘は、一目で違うと知れた。
清楚な外見からは想像も出来ないが、置かれた境遇を受け入れ、理解しようとしていた感があった。
ただ、漠然と世を儚み、諦めた【生きながら死んでいる者】とは違う。
傍から見れば【生きながら死んでいる者】と変りないのかもしれないが、男は娘から、宿命に抗ってまでしても生きたいと言う気負い、その匂いを、嗅ぎ取っていた。
― だからこそ、、、 ―
思わず唇の端が、吊り上がる。
薄い唇に、酷薄な笑みが、湛えられていた。
― その魂魄が、瓦解する様を見たかった、、、 ―
己が死に直面した、まさにその時、用意された無情なる宿命を前に、無力感に打ちひしがれた娘は、失意の内に負の感情に呑み込まれ、そして、幽鬼へと堕ちる、、、はずだった。
「、、、、、」
しかし、実際はどうだ。
鐘楼の遥か高みから、男は確かに、視ていた。
絶望や恐怖、怒りや憎しみ、その痛みに呑まれんとした刹那、娘を【あるがまま】に繋ぎ止めたものがあった。
それは、何だったのだろう?
最後まで人たらんと、乗り越えたその強さは、どこからくるのだろう?
腕を組みなおしながら、考える。
― もし、その強さがあったのなら、、、あの時、自分は、、、 ―
不意に、
≪ アケワタセ… ≫
「ッ」
ずきん、と、左目の奥が、痛んだ。
頭蓋をわんわんと反響させる程、甲高い耳鳴りが、弓で掻き鳴らされるように【声】となる。
≪ アケワタセ… ≫
もう一度、同じ言葉が、奏でられた。
思わず、巻きつけたばかりの布地の上から、左の半顔を押さえた。
抑えた手の平、その下が、灼熱している。
熱い。
熱く、じっとりと手の平を濡らしてゆく。
血の雫が、手首に巻かれた布に吸われ、黒い染みを作った。
冷や汗が頬を伝い、堪らず男は歯を剥いた。
眉を寄せ、肩で息をする。
「、、れ」
血の気を失った唇が、震えた。
「黙れッ」
短く、吼えた。
引き攣るような痛みは、左目の灼熱と共に、霧散。
鳴り響いていた音≪こえ≫も、沈黙していた。
「はぁ、、、は、、、ぁ、、、、、」
冷え冷えとした大気に、けして白くはならない冷たい息が、吐き出される。
呼吸を整えると、男は何事もなかったように押し黙り、
「、、、、、」
暗紫に彩られた闇の中へと、溶け込んでいったのだった。
翌朝。
「結構、気に入っていたのだが、、、」
血塗れた胡弓を眺め、男は転がっている弓を手に取った。
馬の尾の房は、すっかり赤黒く変色し、こわばっている。
折れそうな程細い指先で、慈しむように撫でれば、房に塗られた膠の名残が、ざりざりとした感触を伝えてくる。
冷たくなって、息絶えている屍には見向きもせず、男はその腕に胡弓を抱くと、背を向けた。
冬の冴え冴えとした朝陽が、若草色に染められた絹布を巻き上げ、薄暗い部屋に差し込んだ。
そのまま、
「、、、、、」
眩い光に照らされ、思わず貌を顰めた、男。
痩せぎすで華奢な体躯には、赤黒く染められた布を幾枚も巻きつけるようにして、纏っている。
若い。
角度によっては少年にも、青年にも、見える。
朝陽を浴びて、銀の光沢を放つのは、この国では珍しい、薄墨色の肌だ。
細い首の辺りで揺れるのは、やや青みを帯びた鼠色の髪。
同色の、細い剣眉の下で、深紅に縁取られた長い睫毛が揺れた。
右目は、冷たく澄んだ氷湖を連想させる、水縹。
左目は、布が耳の辺りから額にかけて布で覆われ、窺えない。
「、、、、、」
光に背を向けるように、足早に離宮から退散しようするその背中に、
「導師」
低く、抑揚に欠けた声が掛かった。
頭頂部から足元まで、涅色の長衣ですっぽりと覆った者が数名、屍の周りに佇み、これも表情の窺えない布の奥から、視線だけを送ってくる。
ひどく緩慢な態度で、肩越しに振り向くと、
「古の時代、蛮族らと交わした不可侵の契約は、今だ、その効力を持つ」
薄い唇が、酷薄な笑みを湛えた。
「それでは、、、」
僅かに、肩を揺らす者達に、
「探せ。この世の果てまでも。王は、直系の姫をご所望だ」
言い捨て、導師は離宮を後にする。
キュィイッ…
きつく張られた一の絃が、鋭く伸ばされた爪先で辿られれば、血塗れた胡弓は悲鳴じみた音色を放つ。
その音色を、爪弾く感触を、愉しみながら、導師はくつくつと喉を鳴らした。
鏡のように凪いだ、湖面。
水面下では、底知れぬ深みに差し込む陽の光が、青々とした光を幾重にもくゆらせている。
そこに映るのは導師の、怜悧な容貌。
だが、
「、、、、、」
酷薄とすら思える笑みを湛えた唇とは対照的に、白日の下に晒された右目には、どこか悲痛な感情が、揺れているようだった。
温かい。
それは、全体重を掛けていても、感じる温もりだ。
弾力があって張りが、ある。
親指を重ね、両手で包み込むように力を込めている。
薄霧立ち込める空間であった。
首を、
「、、、、、」
「、、、、、」
絞めている。
絞めているのは、馬乗りになった黒髪の長い、女。
絞められている相手は、抵抗するでもなく、横たわっている。
黒白の輪郭だけという姿なのに、女の手の中に、気道が空気を求める生々しい反応を伝えてくる。
己が首を絞める女を、無意識に傷つけないためか、輪郭だけの相手は自身の腕に爪を立てている。
「くっ、、、」
噴き出す汗が、涙と相俟って、女に苦鳴を漏らせた。
早く、終わらせてやらなくてはならないのに、終わらない。
終われない。
もどかしさで、手が震えた。
じっとりと噴き出した汗で、手から力が、抜けそうになる。
その腕に、温もりが触れた。
「ヒュ、、、」
「ぁ、、、」
目が、合った。
いや、ずっと、合っていた。
その全てを焼き付けるために、瞬きすら、忘れていた。
気負い、焦るその心を宥めようと、
「んっ」
横たわった相手は、女の細腕を弱々しくも優しく、擦った。
女の顔が、
「ううっ」
とたんに歪む。
折れそうになる心を奮い立たせ、唇を咬んだ。
細く眇められた眸は、苦痛に喘いでいても、澄んでいる。
穏やかすらある眼差しを受け、
「ぐぐうッ」
「、、、、、」
八重歯が、
ぶつり、と薄皮を突き破れば、舌先に血の味が、広がった。
指先が、柔らかい皮膚に食い込む。
腕が、ぶるぶると震える。
見開いた、眸。
目尻が裂けて、血が滲む。
ギギ…ッ
手の中で、骨が軋んだ。
微かに唇の端を震わせると、
「、、、、、」
横たわっている相手は、眸を閉じた。
女は、一度強く首を振ると、
「があぁぁあッ」
猛々しくも哀しく、吼えたのだった。
「う、、、はっ」
手が宙を掻き、固く閉じていた瞼が、瞬きを繰り返す。
天蓋には、見慣れた深紫の牡丹が咲き乱れていた。
どのような造りなのか、天蓋から迫り出した、牡丹を閉じ込める透明な半球体の向こう側では、蒼い胡蝶が、雪色の鱗粉を撒き散らしながら、優雅にひらひらと、舞っている。
淡い色合いの紗を重ねた、帳。
それが降りたままの寝台から、
「くそっ、、、」
遙絃は跳ね起きた。
いつも、誇らしげにぴんと張った大きな耳は今、完全に伏せられ、天狐の名に違わず、ふさふさとして堂々たる九尾は、柳腰の後ろで力なく項垂れていた。
ビッ…
握り締めた帳が、鋭い爪によって、引き裂かれる。
噴き出した汗が、雪色の肌を、滴り落ちていった。
「はぁ、、、はっ、あ」
薄闇の中、白い寝着の裾が、長く靡いた。
「くうっ、、、」
遙絃は寝室の窓辺に縋ると、月の光を吸収し、淡く白光する夜光石の壁に、握り締めた拳を打ちつけた。
何度も、何度も。
― いっそ、、、切り落としてしまおうか、、、ッ ―
あの日、終わったはずなのに、今尚続いている、これは悪夢だ。
温もりも、弾力も、まざまざと思い出せる。
残って、いる。
睨み据えた両の手が、忌々しい。
「、、、、、」
気を、紛らわせなくては、切り落としかねない、心持ちだった。
両手から、視線を逸らそうと、遙絃は、窓の向こうへと視線をやった。
紺碧の夜空に在って、この大地に迫る勢いの、橙に翠の縞の入った大きな星。
円形の淵も歪な、クレータだらけの青白い星が、それに重なっている。
紅と翠がゆらゆらと交じりあい、たゆたい揺れるのは、オーロラだ。
荒ぶる胸中とは裏腹に、己が作り出した世界は、静寂で満ちていた。
平素は賑やかな野狐達も、今頃、それぞれの寝床で安らかな夢に遊んでいることだろう。
彼らの存在を思い出せば、しっとりと湿気を帯びた夜気を、ようやく素肌に感じることができた。
夜光石の壁の冷たさが、握り締めた手から、染み入ってきた。
夢よって調律され、同調していた感覚が、徐々に切り離され、現世に戻ってくる。
遙絃は、白くなるまで握り絞めていた拳を、ゆっくりと開いていった。
揺れては、いけない。
自分が揺れては、慕い、仕えてくれる彼らの安寧を、守ることができない。
「ふ、ぅ、、、」
静まりかえった屋敷の中、遙絃は、深く息を吐き出した。
忌々しさは、疲労感と脱力感に、変りつつあった。
「、、、、、」
それまで伏せられていた獣の耳が、跳ね起きた。
聞き覚えのある足音と、陶器が触れ合う音が、近づいてきた。
獅子が、鞠で遊ぶ様子を描いた、衝立の向こうから現れたのは、隻眼の優男。
砂色の髪を背に流し、漆黒の寝袍を纏い、盆を手にしている。
「、、、、、」
腕に頬を預け、力なくこちらを見つめる遙絃の視線を感じながら、胡露は寝室脇に置かれた卓子の上で、ただ黙々と茶器を操り始めた。
「、、、、、」
「、、、、、」
互いに、声を掛けるでもない。
茶器が触れ合う音と、芳しい香りが、今ある音の、すべてであった。
やがて、
ジ…ジジ…
微かに、茶葉が開く音が、聞えてきた。
胡露が、無言で蓋碗を差し出した。
遙絃も、黙ってそれを受け取ると、手で包み込.む。
じんわりと手のひらから伝わる温かさに、
「ほぅ、、、」
思わず弱い溜息が、漏れた。
蟲惑的な唇を寄せ、立ち上る湯気と共に一口啜れば、冷え切った体を内側から温めてくれる。
強張ったままだった遙絃の肩から、力が抜けるのを確認して、
「遙絃、、、」
胡露は、ようやく声を掛けた。
「、、、大丈夫だ」
いつもは涼しげな紺碧の双眸に滲む、疲労感。
けれど口調は、いつもの尊大すらある天狐遙絃のものだ。
顔には出さないが、胡露は内心、ほっとしていた。
それから、遙絃が無言で茶を啜る様子を、見守りながら、
― ここしばらく、頻発している、、、 ―
胡露は、ここ数日の出来事を反芻していた。
遙絃は、時折、今日のように魘される。
魘される理由は、話さない。
胡露も、聞き出そうとは思わないが、尋常ではないその姿を目にすると、なんともいたたまれなくなる。
以前、そんな胡露の心中を察してか、
『これは、私が、負うべきものの一つだ』
遙絃は、そう言って、少し寂しそうに笑った事があった。
理由はどうあれ胡露は、遙絃なりの、負うべきものへの覚悟を、そこに垣間見た。
それからと言うもの、魘され始めれば、胡露は遙絃を起こすような事はせず、我に返るのを見計らって、茶を淹れることにしている。
過剰な優しさも、介抱も、その覚悟の前で遙絃は、望まないだろう。
「、、、、、」
ふと、紺碧の眸と、ぶつかった。
視線の先で遙絃は、一度、唇から碗を放すと、
「お前の淹れてくれた茶は、本当に、温まる、、、」
その目を眇めて、そう言った。
「それは、何より、、、」
胡露も、隻眼銀恢のその眸でもって、見つめ返した。
月のない夜空を映す、大海原。
その色を宿した紺碧の眸も、この時ばかりはいくらか、安らいで見えた。
以上、序章部分【無題】を添削し、再度載っけっております。。。