第拾ノ壱幕中ノ後 ― 隠鬼 ―
大地に穿たれた、深淵。そこは鬼の途。悠霧を追った燕倪と伯は、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十ノ一幕中の後編。。。
「ぬぉおあッ」
突然、放り出されたと思ったら、強か腰を打った。
手を着いた先は、冷やりとした大地。
「何がどうなってんだが、、、ん?」
その膝に、垂れているものがある。
「注連縄、、、?」
落ちた拍子に外れてしまったらしい。
真新しい稲藁で、作られていた。
辺りを見回せば、前方から微かに明かりが差し込んでいる。
腕を見れば、その肌を覆っていたはずの触手もそっくり剥がれ落ちたのか、悠霧が眠っていた。
ほっとしたのも束の間、
「ぁあうっ」
頭を打ったのか、傍らで頭を押えている者が、呻いた。
「大丈夫か、伯?」
「ん、、、」
涙を堪えて、伯が頷く。
出てきたと思ったところは、岩と土の壁。
悠霧を背負うと、這うようにして、狭い穴倉の中を上り始めた。
蜘蛛の巣が不快に顔に当たり、行く手を木の根が邪魔をする。
脇差で切り払いつつ抜け出せば、星夜に樹海が鬱蒼と広がっていた。
「うっ、、、」
ぶるりとやったのは、何も夜のせいではない。
うっすらと積もった雪が、大気を凍えさせるのだ。
「おいおい、どこなんだ、ここは、、、」
肩を擦りながら辺りを見回しても一面、なだらかな白樺の原生林。
突然の人の出現に、それまで餌を探して歩き回っていた野鼠は巣穴に駆け込み、それを狙っていた梟は音も無く、森の深みへと消えて行った。
迂闊に足を進めようものなら、深く積もった枯れ葉に足を取られる始末。
あてもなく行くのも、とさすがの燕倪も困った時、
「、、、、、」
伯がふわりと木の枝に舞い上がった。
そのまま、するすると遥か高みへと登って行くことしばらく、
「あ、、、」
伯が、指を差した。
「灯りか?!」
ふわり・・・ふわり・・・
高みから舞い降りながら、
「、、、、、」
こくり、、、
頷いた。
よくよく眼を凝らせば、薄く積もった雪の上、点々と足跡らしきものが続いている。
「お前、ほんと頼りになるな」
「うぐぐ、、、」
ぐしぐしと力強くその頭を撫でると、いつものように小脇に抱え、足跡を辿るように、伯が見た灯りの方へと、歩き出したのだった。
「言っただろう?人里に降りてはいけないと、、、」
キギュ・・・
涙目になっているのは、大人の膝ほどにも満たない、一つ目の子鬼。
その枯れ木のような腕を取って、摺った薬草を塗っている者がいる。
「人の子の中には、お前を快く迎え入れてくれる子もいよう。だが、大きくなるにつれ、物事を知れば、歪むものもある」
布で巻いてやると、そっと子鬼の肩を擦った。
「お大事に」
ぺこりと頭を下げ、子鬼が雪の上を走ってゆく。
小さな小さな足跡が、彼方の闇の中へと消えて行った。
燃え上がる炎に、木の枝をくべながら、肩に掛けていた長衣を掻き合わせる。
落ちたその影には、一対の角が、生えていた。
― 一通り北の地も回った。古の御陵も検めた事だし、そろそろ南へ下ろうか、、、 ―
ぼんやりと思い出すのは、懐かしい顔ぶれ。
そして、預けたその子の、顔。
― 達者にやっていると、いいけれど、、、 ―
まだ、半月も経っていないというのに、決心が鈍ってしまいそうになって、頭を掻いた。
指先を、色素の薄い髪が、滑ってゆく。
「、、、、、」
その手が、止まった。
微かに耳に聞こえてくるのは、人の足音。
人里を遠く離れた、こんなところに?
鬼面の男は、炎を背に振り向いた。
「お、、、?!」
どこともしれぬ山奥に、赤々とした炎の色。
その心細さも手伝って、ついつい足が速まり、
「!!」
焚火を背に立つ、墨色の衣の主に眼を凝らす。
闇の中、ばさらに伸びた色の薄い髪に、
「そ、、、」
その名を呼ぼうとして、伯に袖を引かれた。
「、、、、、」
こちらを見上げて、むっ、としている。
― そ、そんなはずないよな。それじゃあ、、、 ―
よくよく見れば、突き出した一対の角が見えるではないか?
大きく、削り開けられた牙の羅列。
思わず腰の業丸の柄に手を置いたところで、
「君は、、、」
その声に、聞き覚えがあった。
「さ、、、」
はっとして、口を開きかけたその顔に、
ギキキキィイ―――ッ
「うぬぁッ」
頭上から飛びついたものがある。
仰け反ったその顔を引っかいているのが、
「ああ、だめだって言ったそばから、、、」
あの子鬼と知って、駆け寄った。
咄嗟の事に宙を掻く燕倪から、子鬼を引き離せば、
「やはり、実敦殿、、、」
顔に引っ掻き傷を作った燕倪が、なんとも言えぬ笑顔を見せた。
「すまないね。人の子が投げた石に当たったこの子鬼を、今し方まで手当てをしてやっていたところなんだけれど、、、おや、、、」
その背に背負われている者を見て、実敦は深紅の眼を眇めた。
「悠霧。これはいったい、、、」
「なんとも俺の方も、どこから話せばいいのやら」
「とにかく、火のそばへ」
斑模様の毛皮を敷いたそこに腰を下ろせば、焚かれた炎によって、凍えた体が解れていく。
膝に入った伯の温もりが手放し難く、身じろぐのも構わず腕に閉じ込めれば、さすがの伯も燕倪の冷えた体を察してか、
「、、、、、」
おとなしくなった。
寝床に設えたのか、土を盛って枯れ草を敷いたそこに、実敦は蓑、そして山猫の毛皮を敷くと、悠霧を寝かせた。
深紅の眸が、涙の跡を見つけ、
「、、、、、」
そっと己の長衣を掛けた。
程なくして、椅子代わりの倒木に腰を下ろすと、
「呑むかい?体が、温まるよ」
炎の側に置いてあった竹筒を、手渡した。
口に含めば、
「ぐっ、、、」
喉を、焼く。
「う、、、なんとも、辛い」
「大陸の白酒だ。帝都に出回っている、体を冷やす酒とは違う」
燕倪から返されたそれを、実敦は受け取った。
一口、二口やってから、
「しかし、何年振りだろうね。随分と背が伸びて、一瞬、誰か分からなかったよ」
数えれば、実敦は三十路を幾らか過ぎた辺りだろうか?
かつての穏やかな口調そのままに、向かいの燕倪を、実篤は鬼面越しに見つめた。
「五、六年は経っていると思います」
「ああ、もうそんなに、、、」
「先日、悠霧から実敦殿のお話を聞いて、懐かしく思うていた所です。まさか、こんな早くお目に掛かれるとは、なにやら狐にでも抓まれているようで、、、」
「おれもさ。燕倪」
何も変わらぬ、穏やかな眼差しのその人に、
「あの、そこでつかぬ事を伺いますが、ここは、その、どこら辺で?」
切り出した。
一瞬、きょとん、とした実敦に、燕倪は事の次第を掻い摘んで語った。
やがて、
「そう言うことだったのか。都守が、、、」
合点がいったのか、実敦が頷いた。
「君達が出てきた穴は、ちょうど、おれが塞ぎ直した穴でね」
「穴?あの、注連縄が張られていた、、、」
「この世ではないどこかに繋がっている、なんとも厄介な代物だ。どうも【とんでもないもの】の通り道でもあるから、その瘴気で中からよく抉じ開けられてしまってね。百余年に一度の【星の御渡り】もあったから、心配で離れられなくて、、、」
小枝を炎にくべながら、
「放っておいてでもして活性化してしまったら、とんでもない化生が這い出してきてしまう事もある。在来の神霊達も、落ち着かないんだ」
見上げ先、ひっそりと静まり返った冬夜を占める、深い闇。
深紅の眸には、自由に舞い踊る神霊や精霊の姿が、見えているのかもしれない。
「こうして、時々、見回りに足を運んでいるのさ」
そのために、この国を回っているのだと実敦は言った。
「注連縄なら、出てきた拍子に、、、」
なんとも罰が悪そうに燕倪が言えば、実敦は首を振った。
「それは、大丈夫。恙なく【星の御渡り】も済んだし、何より、そこのおちびさんが、中から浄化してくれたからね」
「んがっ」
指を差された伯が、思わず犬歯を剥いた。
おちびさん、が気に障ったらしい。
「分かるので?」
「都守のところの神霊だろ?こんな大きな影を持つ童、人であるはずもないよ」
実敦の深紅の眸には、燕倪には見えない大地に黒々と伸びる巨影が、見えているのかもしれない。
「神が通れば、それだけで浄域には違いない。穴は、内側から閉じられているから、しばらくは心配ないのだけれど、、、」
少し言いづらそうに、顎に手を置いた実敦。
訝しげな眼差しの燕倪に、
「閉じられたとなると、なぁ。都までは、上手く潮と風を捕まえたとしても早船でも、四日」
「四日?!」
「ここは、北部の五百来だ。最寄りの大きな港まで、歩いて三日は掛かる。馬なら、そうだな。山を幾つ越えるか。駆け通して、まぁ君でも八日は見ないと、、、」
改めて、とんでもない所に吐き出されたものだと、実感した。
そして、
「さすがに、そんなに勤めを空けたら、、、」
頭の中で、今にも喚き散らしそうな従兄弟の顔を思い出して、燕倪は項垂れた。
顎の下で、伯が窮屈そうに身じろぎ、
「あ」
思い出したのは、いつか遠野から羽琶を連れてきた、事。
「なぁ、伯」
「、、、、、」
夜露に濡れた黒曜石にも似た眸が、見上げてくる。
「お前、化身を解いて都まで送って、、、痛ぐッ」
伯の頭突きに、鼻を押える燕倪。
伯は、
「、、、、、」
腕を跳ね除けると、今度こそ手近な枝の高みへと舞い上がってしまった。
その様子を眺めていた実敦は、
「神霊に、無理強いはいけないよ。燕倪」
やんわりと、そう言った。
「ですが、、、」
「本当は、明日にしようと思っていたのだけれど、もう一つ塞がないといけない場所が残っているから、そこから送ってあげるよ。あの小鬼が心配で、ここから離れられなかったってのもあるんだけど、君に飛びかかれるんだもの。もう安心だ」
「はぁ、、、あの、でも送るって、どうやって?」
「ああ。墨依湿原は大きくて安定しているから、おれも時々使っているんだ。何か出て来たとしても、君とあの子なら心配なさそうだし、、、」
見上げた先の、白樺の梢。
仰向けになっている伯の背が、見えた。
「出てくるとか、安定とか、一体何がなんだか、、、」
炎で橙に染められた、燕倪の彫深い顔。
顎を膝に預けた実敦の、
「手っ取り早く言えば、鬼の途を渡るのさ。君達が渡って来たように、、、」
どこか愉しそうな、声音。
「お、俺達が渡ってきたのが、鬼の道?」
― そういや、死人還りになるとか何とか言ってたな、蒼奘、、、 ―
顎に手をあて、
「、、、、、」
今度は燕倪、黙り込んだ。
「忙しい男だね、君は、、、」
くすくすと笑いながら、
「不安定な空間同士を、ちょっと繋げるだけだよ。こんな小さな鬼窟に繋げるなんて事、さすが都守と言いたいところだけれど、どうやら、それを成したのは、この子みたいだね」
伯を見つめた。
「お前が、繋げたのか?」
燕倪も、その視線に釣られて伯を見上げたが、
「、、、、、」
案の定その背中は、うんともすんとも、言わない。
「まぁ、墨依湿原なら、おれも繋げる事が可能だから、安心するといい」
実敦は、褐色の肌をした手を、伸ばした。
傍らで昏々と眠る、悠霧。
「人の中にこそ、お前の居場所があると思ったけれど、、、」
その艶やかな黒髪を撫でながら、
「結局おれは、お前の事を何も考えてなかったのかもしれない」
溜息が一つ、毀れた。
一度、闇に囚われた者は、呼びかけたところでそう易々と目覚める事は出来ない。
それを実敦は、知っていた。
「軋、、、」
その呟き。
「お、、、」
実敦の足元から、闇色の体に、無数の小さな星の輝きを持つ者が、立ち昇った。
ゆらゆらとした、【陽炎の如き者】。
「それは、、、式神ですか?」
燕倪がまじまじと見つめれば、
「いや、そのままおれの半身さ、、、」
実敦が、にこりとして言った。
体が、どこか薄く、透けて見えた。
「ん?」
眼を瞬かせる燕倪の足元へ、舞い降りた者がある。
伯だ。
「んんー」
しゃがみこんで、指を差す。
その指先に、
「あ、影が、無い、、、?」
実敦の足元に在るはずの影が、無くなっていた。
「式神は、どうも信頼がおけなくてね」
「自らの影を、式神として、、、」
― そんな事が、、、 ―
絶句したまま、濃い眉を寄せる燕倪を察し、
「あまり深く考えるな、燕倪。おれが武官の君に言える事としたら、自分の眼にしたものを疑うな。それらをそのまま呑み込む事が、森羅万象を解する一番の早道さ」
「はぁ、、、」
「さあ、それでは急ごうか。さすがにそう長い間、おれももたない」
実敦は、苦笑しながら立ち上がった。
その背に続きながら、
「、、、、、」
後ろを振り向いた、鈍色の眼差しの先。
― これで、良かったんだろうか、、、? ―
眠る、悠霧の姿があった。
ゆらめく陽炎に守られながら見るその夢は、どんな夢なのだろうか?
「エンゲ、、、」
燕倪の袖を、伯が引いた。
二人の視線の先で、
「ああ、軋」
実敦が、背中越しに声を掛けた。
「くれぐれも火を、絶やすなよ」
「、、、、、」
物言わぬ己が半身、影。
それに短く命じると、一行は改めて、白銀の雪原に足を踏み入れたのだった。
白銀の雪が、跳ね上がり、はらはらと大地に舞い戻る。
「あれだけ見ると、まるっきり子供だなぁ」
燕倪が、髪に乗った雪を払いながら言えば、
「この世に生まれ出でた喜びを、謳歌しているのさ」
傍らの実敦が、鬼面の奥で、その切れ長の眸を眇めた。
先行する、伯である。
寒さを感じないのか、肩紐は解けかけ、広がった襟からは薄い胸元が、覗いている。
「五感いっぱいに、この世を感じるための器を、得ているのだからね」
「そういえば子供の頃、日が暮れるのを疎ましく思いながら、野を駆け回っていたものです」
かつて、伯のように見るものすべてに興味が湧いた時期が、あった。
「何が愉しかったのか、今となってはもう、思い出せないんですが、、、」
実敦の手が、白い大地に長く伸びた青き綾紐を、拾い上げた。
跳んだり跳ねたりする伯の黒髪が、今は長く背に流れている。
「おれ達は、いつの間にか当たり前に埋没して、忘れてしまう。そうして忘れたものの方が、得るものよりも、いつの間にか多くなっていく、、、」
緩やかな傾斜に、霜を下ろした緑が覗いていた。
窪地の底には、凍りかけた小川が流れている。
「もうあと半月もすれば、ここは雪に埋まってしまうだろう」
膝まで沈みながら沢まで降りれば、苔生し、雪を頂いた小さな木枠のようなもの。
簡素な作りの、白木で作られた鳥居だ。
その向こうから、ちょろちょろと水が、湧き出している。
「伯、、、?」
舞い降りた伯が、そこを覗き込んだ。
岩と岩の間の闇には、光苔の淡い輝きが滲んでいる。
手を、流れる清水に手を伸ばし、
「おやめ。【星の御渡り】で、活性化してい、、、」
「ぃぁあッ」
実敦の静止虚しく、仰け反った。
「お、おいおいっ」
「ひぎぃい、、、」
崩れ落ちるその身を抱きとめれば、腕の中で指を咥える、伯。
その手の甲から、紅の血潮が、滴った。
「まったく、お前って奴はっ」
懐紙でもって強く押さえれば、白地にじわりと朱が、滲んだ。
くったりとしたまま、虚ろな眼差しの伯を覗き込み、
「大丈夫か?」
「、、、う」
焦点が合ったのを確認して、小さな安堵の溜息だ。
「無茶するなよ、こんな時に、、、」
燕倪の視線の先で、伯は、無事な左手で胸元を寛げ始めた。
薄い胸が覗くと、長く垂れた翡翠の連珠が見えた。
「外すんだな?」
「ん、、、」
燕倪の無骨な指先が、勾玉の一つを摘み上げた。
そのまま首から抜いてやれば、黒髪は群青に染まり、漆黒の眸は菫色へと、明ける。
枝分かれした一対の角も異形の、その姿。
「ほぅ、、、」
実敦の唇から、感嘆の溜息がこぼれた。
懐紙から抜かれた手指の傷は失せ、炯々と光る眸が燕倪を見上げると、
「んっ」
無造作に、腕を突き出した。
「ここに入れるのか?分かったよ」
袖に翡翠輪を入れて、甲斐甲斐しくも襟を合わせ、肩紐を結んでやった。
「ほら、いいぞ」
「ん、、、」
伯は、燕倪の腕から立ち上がった。
再び、向き合おうとする華奢なその肩に、実敦の手が掛かった。
「だめだよ。ここを、完全に祓ってしまえば、この山は死んでしまう」
「まぅ、、、」
小首を傾げた伯に、目線を合わせると、
「いいかい?長いこと【渡り】をしていて、知り得た事なのだがね。これは、大地の膿のようなものなんだ」
「膿、ですか、、、?」
「ああ。溜まった膿は、どこかに出さなければならない。溜め込めば、そこは奈落に堕ちる、、、」
「奈落、、、?」
「蝕み、侵蝕し、巣食う、厄介なもの。それが意思を持てば、とんでもない禍神ともなるのかもしれない。だからここは、完璧に綴じては、いけないんだ」
「しかし、噴出す瘴気による怪異の心配は無いのですか?」
「程度にもよるが、この程度ならな。それに、この辺りは山と瘴気が鬩ぎ合うから、よりいっそう豊かでもあるんだ。一概に全てを清め祓えとは、言えないのだよ、燕倪」
実敦が、辺りを見回せば、
「なんとも摩訶不思議な、、、」
「、、、、、」
燕倪と伯も、つられて視線を廻らせた。
うっすらと揺らめく【陽炎のような者達】が、見えたような気がして眼を凝らすが、そこには緩やかな斜面が延びているだけだった。
「病に遭って、免疫や耐性をつけるようなものさ。ここ以外にも、この国には幾つもそんな場所がある。おれの手に負えるうちは、これからも世話を焼いていくつもりだ」
「それで、飛び回っておられるわけで、、、」
ややあって、
「、、、いや」
薄い口元が、淡く笑みを浮かべようだった。
それは、どこか自嘲気味な、笑み。
深い、柘榴石の如き眸が、燕倪を見つめた。
「何というのか、、、」
鬼面の下。
口元に刷かれた笑みが、少し罰の悪い、そんな苦笑に変わると、
「逃げたのさ」
「逃げた、、、?」
「ああ」
骨ばった指先が、ばさらに流れる金色の髪を、抓んだ。
「都にいた頃は、この髪もね、染めていたんだよ。おれの髪、黒かったろう?」
「、、、、、」
「その眸」
覗き込めば、光が入って青みを帯びた鈍色を、さらけ出す。
「禍色などと呼ばれた君なら、分かるはずだ、、、」
「、、、、、」
「一度も、疎ましく思った事は?」
「それは、、、」
口篭った燕倪に、実敦は浅く頷いてみせた。
「この目も、髪も、肌の色だって、生まれつきさ。天羽の血筋は、代々陰陽道や暦道に精通した家系。その威光もあって、前世は鬼神などと言われ、捉えようによっては箔ともなるが、それが、、、なんとまぁ、くだらなく思えてね」
「、、、、、」
ついには、掛ける言葉も無く、黙りこんでしまった燕倪。
実敦は、構わずその先を続ける。
「返って、さらけ出した姿に恐怖を抱く者達の反応の方が、自然と言うのか、新鮮というのか。それもあって、おれはこの国を行脚しているのさ。あのちっぽけな箱社会から、抜け出したくて、、、。これは、そのまぁ、態の良い口実って奴だ。稚拙だと、笑うかい?」
「実敦殿、、、」
「それでもね、思わぬ収穫はあるものだね。こんな姿でも歓迎してくれる人々も出来たし、なによりも、この世は人だけのものではないのだと、知り得た、、、」
「そう、でしたか、、、」
淡々と話す実敦の口調に、迷いや戸惑いは無い。
どこか晴れやかさすら感じさせる、そんな言葉であった。
実敦は、伯を見つめた。
澄み渡った黎明を思わす菫色の眸が、見上げてきた。
「伯、と言ったね」
「ぁ、、、」
その人の手に、長く垂れたものを見て、伯は首の後ろを探った。
やや癖のある群青の髪が、背に流れている。
膝を着いた実敦が、その手を取った。
細い手首に結んだのは、
「この先、【君の道】が途切れぬように、、、」
青い綾紐。
「、、、、、」
どこか不思議そうに手首の綾紐と、実敦の顔を交互に眺める、伯。
「それは、、、?」
鼻息荒く、ぽっかりと覗いた暗がりに向かう伯を他所に、燕倪が尋ねれば、
「おまじない」
実敦のが、人を食ったような笑い声で、応えた。
「おまじない、、、」
呟いたところを、
「っ、、、分かった分かった」
袖を引く手に、急かされた。
「下がっておいで」
懐から取り出されたのは、小振りな瓢箪の連なり。
朱、墨、紺と、漆が塗り分けられている。
その一つ。
墨色の口を外すと、実敦は同色の液体を湧き出し、水が溜まる場所に垂らした。
「墨依湿原へ繋ぐ、呼び水だ」
透明な清水が薄墨色に染まり、すぐに
「おお?!」
渦を巻いた。
そのまま風が巻き、ぽっかりと闇色の穴が顔を覗かせる。
「いいかい。くれぐれも暴れるんじゃないぞ。さっきは、上手くいったみたいだけどね。流れに任せるんだ。さもないと、どこに吐き出されるか、おれも保障はできん」
「はぁ」
淵に立ったって覗き込めば、
― 咄嗟とはいえ、こうして改めて見てみると、とんでもないところに飛び込んじまったものだな、、、 ―
さすがに渦巻く闇に、躊躇。
足元からじわじわと総毛立つ感覚が、全身を包むまで、そう時間は掛からないことだろう。
自然、燕倪の手は、大太刀業丸へと伸びた。
その柄頭に触れれば、
カタ・・・タ・・・
微かに、業丸が鞘を鳴らした気がした。
― 業丸が、在る、、、 ―
全身を呑み込もうとしていた震えは、辺りを占める寒気に変わっていた。
「エンゲ」
耳元で弾けた、澄んだ声音。
いつの間にか背に攀じ登った伯の、僅かな苛立ちをそれに感じ取れば、
「実敦殿、あの、悠霧を、、、」
燕倪は、実敦に向かって、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ、、、」
燕倪の事だ。
あの状態の悠霧を残し、ここを去るにあたって、罪悪感があるのだろう。
― まったく、この男は、、、鬼窟を渡らんとしているのに、他人の心配か、、、 ―
実敦は、思わず口角を上げた。
一歩、足を踏み出した燕倪の耳に、
「おれは最初から、頼る相手を、違えたのかもしれないね、、、」
実敦の、溜息交じりのそんな言葉が、頭上彼方へと取り残されていくのだった。
足元から吹き上げる、生温い風。
その風圧に、眼も空けていられない。
ただ、凄まじい速度で落ちていく。
肩にしがみつく力が、徐々に弱くなり、
「ぐっ」
燕倪は、業丸を掴んだままの腕を、伯の腰に回して引き寄せる。
一瞬、胃の内容物までも、込み上げるような不快な香りが鼻先をつき、
「つっ」
瞼を押し上げた先に、黒い壁から染み出す巨大な深緑の鉤爪を、見た。
そいつが闇を引き裂いて、出てこようとしている。
総毛立つ、感覚。
風圧に、ひどく眼が乾くのに、閉じる事が、出来ない。
不可視の何かで強張った四肢が、落ちてゆく中、盛り上がった頭部のようなものと、切れ目が入った目のような部分が、赤光を放ちながら開こうとして、
「メ、、、」
「おっ?」
視界を、幼い手によって奪われた。
伯の手によって、両目が覆われたのだ。
「何するんだ、伯?」
首を振る燕倪を他所に、
「、、、、、」
伯は、見る。
こちらを見つめ、瞬きを繰り返す、その存在を。
意味を探し、渇望するそれは、
― オンナジ、、、真名、ヲ、知らヌ、存在、、、 ―
「伯?」
燕倪の右脳の後ろ辺りで、伯の声が聞こえた気が、した。
― 、、、、、 ―
「黙るなよ。お前なんだろ?」
しかし、声はそれっきりで、後は轟々と腹腔を震わせる風の音と、落ちて行く、その感覚。
「、、、、、」
群青の髪を巻き上げられる中、伯は眼を眇め、吹き上げる風の奥を、睨んだ。
闇に生まれ、闇に囚われた者を尻目に、彼らの道を抜け、
ピショ・・・ンン・・・
滴り落ちた呼び水が、その奔流を引き寄せる音が、聞こえた。
風の音が、いつの間にか雨音のような水の音に変わった。
そして、
「む、、、」
静寂と共に伯の手が離れ、眼を開けば、前方に白い水干が舞い降りるところだった。
「着、いたのか?って、ぬわっ」
足を取られ、手をつきそうになって気がついた。
膝まで、黒い泥に埋まっている事に。
「あ、、、」
さらには、濡れた袖を見て、項垂れた。
今日の日のためにと、母が送って寄越した、直衣。
淡い翠の発色も見事な山絹の布地に、銀糸で縫取られた花鳥も、跳ねた墨色の雫によって見るも無残な有様だ。
― ま、こうなりゃ、仕方ないよな、、、 ―
気を取り直して見回した辺りには、濛々とした霧と薄闇に包まれており、ところどころにこんもりとした瀬と、倒木が窺える。
伯は、すぐ近くの倒木に腰を下ろしていた。
「おい、伯。何か、引っ張るもの、、、」
調度良い枝などは、無い。
ぬかるむ大地と、いつの頃ともしれぬ巨木の屍。
その、子供の太腿はあろうかという枝を、伯が手折れるとは到底思えなかった。
「その髪紐でもいい。俺を引っ張ってくれないか?」
「、、、、、」
伯は、手首の結えられたままの髪紐を見つめ、燕倪を見つめる。
そして、
「、、、、、」
ふるふる・・・
首を、横に振った。
案の定のその反応に、
「そうだろうよ」
燕倪、溜息を一つ。
仕方なく足元を踏み固めるつもりで、少しずつ足を抜く事にした。
幼い頃、田圃ではまった事を、思い出した。
足が浮く場所を探りながら、地道に瀬に向かう。
けれど、足の下で草履が抵抗となって、思うようにはいかない。
「しかし、墨依湿原に、違いはなさそうだが、いったいどこから出てきたのやら、、、」
伯によって視界を奪われたために、肝心なところを見逃してしまったような心持だ。
「しかも、こうも暗いと、抜け出す自信もねぇな」
草履を諦めれば、ようやく足が泥から抜けた。
袴の裾が黒々とした泥に染まり、足首に纏わり付くのが、ひどく不快。
のろのろと瀬に上がれば、
「あふ、、、」
あくびをしながら伯が、眼を擦っている。
その隣に腰を下ろし、
「明けるまで、動かず待っていた方がいいかもしれんな、、、」
生温い、瘴気を含む大気のお陰か、辺りはさほど苦になるような寒さではなかった。
燕倪は、うつらうつらと船を漕ぎはじめるこの童を、鈍色の眸で見つめた。
聞きたい事は山ほどあるが、先ほどのように首を振られて終いだとも、分かっている。
ぼんやりと眺めた先の、墨色の水面。
白い背鰭が、幾つも線を引いて泳ぎ寄っては、去ってゆく。
前方から濃い霧が、渡って来た。
足元から、何かが這い上がるような、毛穴が総毛立つような感覚が、じわりじわりと昇ってきて、
「なんだぁ?」
燕倪の手は、業丸の柄へ。
腰を浮かせれば、
くん・・・
鼻を鳴らせた伯が、いつの間にか燕倪の袖を掴んで、迫る霧の中を見つめていた。
― 何だか、妙な雰囲気だ、、、 ―
前に出ようとする伯を背中に押し込みながら、濃い霧に呑み込まれる。
四方も頭上も、足元ですら、一面の白い靄に覆われ、
くすくす・・・
どこか愉しげな笑い声が、肘の辺りで聞こえた。
伯が手を伸ばし、【おいでおいで】を、している。
「伯っ」
不意に、砂気を含んだ風が吹きつけ、片袖で顔を覆えば、
「ヒライタ、、、」
燕倪の背から抜け出す伯の群青の髪が、長く靡いた。
「どこ行く?!おいっ、待てッ」
掴もうと伸ばした指先を、風によって巻き上げられたその髪が、弄うように擦り抜けて、
「たまには俺の言う事も、、、」
燕倪はたまらず袖を払うと、吹き付ける風の中へと消え行こうとするその背へ向かい、大地を蹴った。
春の野に吹くそよ風に遊ぶような、伯の歩み。
一方、冬夜の嵐が吹きすさぶその中を行くかのような、燕倪の重い足取り。
指先を擦り抜ける、群青の髪。
はたはたと、靡くその長袖を、
「聞けよッ」
燕倪の指先が絡めるように、捉えた。
ぐっ、と後ろに引かれた伯の体は、そのまま風に弾かれて、燕倪の腕の中へ。
「きぅっ」
受け止めた際に、強か、背中を打った伯が呻くのも構わず、その細腰を抱いたところで、風が止み、
「むっ、、、」
霧が、晴れる。
視界が、白一色に覆われていた。
― なんだ、、、 ―
「ううううっ」
腕の中でむずかる伯に、視線を落とせば、
「うおっ」
思わず、後じさって、尻餅をついた。
足元を、さらさらと覆ってゆく白い砂が、急勾配の斜面を滑って行く。
見上げれば、延々と斜面は続き、そのまま大地が斜めになってしまったかのような不可思議な感覚であった。
白い傾斜の大地は、そのまま白い大気に溶け込んでいて、燕倪は眩暈すら覚えた。
くん・・・
膝に座る伯が、鼻を鳴らしている。
「知っていたのか、お前は?」
「、、、、、」
それには答えず、ふわりと袖を翻し燕倪から離れれば、伯は指を差す。
白い大地に、幾筋もの帯が刻まれ、それがこちらに近づいてくる。
「、、、、、」
もはや燕倪は、何も言わなかった。
その手に抜き放たれた、銀の輝き。
伯は、ちぎれ雲のように辺りに漂う靄に、両手を差し入れた。
引き出された指には、細く長い氷柱のようなものが、青白い輝きを放っている。
その姿には迷いも、相手に対する遠慮も、微塵も窺えない。
水干の袖が、振られた。
ギュオオッ・・・
ギギッ・・・
眼下に迫っていた二筋がまず、砂塵を巻き上げた。
― いよいよ、化け物のお出ましかっ ―
巨体が、大地の上でのたうつその脇を、残りの一筋が擦り抜けた。
オオッ・・・オオオッ・・・
長い背鰭が見えた刹那、
「ぬんッ」
燕倪は、身を倒しながら業丸を振った。
― こいつはっ ―
空を切る感触と共に見たのは、業丸の刃を、身を捩って避けた赤黒い巨体の腹、であった。
ドッ――オォオオ―――ッ
砂塵を巻き上げながら、砂の大地に飛び込む、その姿。
燕倪は、眼窩の奥で炯々と輝く赤光を見て、背筋に冷たいものが流れるのを感じていた。
今まで相対した、そのどれとも、異質。
額の、一角。
― 野郎。こちらの力量を、試してやがるな ―
眼下彼方で、砂塵巻上げのたうつ、甲冑をそのまま纏ったような二匹の骸骨魚とも、明らかに格が、違う。
砂の帯は、伯が群青の髪を振り乱しながら投げる氷塊をことごとく避け、やがて、のたうつ二匹を引き連れるようにして深みへと消えた。
― 来る、、、 ―
燕倪は、柄を握る手に力を込める。
何が何だかは、分からない。
唯一分かっている事、それは、身を守る事に全神経を集中しなければならないことだけだ。
からからに渇いた厚い唇から、細く、吐息が洩れた。
鈍色の眸が、青く沈んで眇められる。
業丸の切先が、熱く灼熱しているのが、分かる。
まるで己の血管が、脈打っているようだった。
遠く、砂を掻く音が、聞こえてくる。
足の下に、微かな振動を、捉えた。
青鈍が散った、灰恢色の瞳孔。
それが開いた、刹那、
オオオ・・・ンッ
足場が崩れ、突き出した吻が砂諸共呑み込まんとする。
燕倪の身は、すでに空中にあった。
呑まれ、大地が緩むより先に、地を蹴ったのだ。
その手は、柘榴石が埋め込まれた柄頭に、置かれている。
視線の先で、降り立つ先の砂の斜面が、抉れた。
突き出したのは、巌の如き、吻。
奔る、閃光。
「ッ」
無言の気合と共に、その突き出した吻に、叩き込んだ。
手応えは、
― 何ッ?! ―
その通り、砂の感触。
白砂となって崩れ去ったのは、吻の形でもって盛り上がった砂塊だけではなかった。
足場であったはずの斜面が、大きく抉れたのだ。
さかしまに斜面を転げ落ちゆく、まさにその鼻先に、赤光鋭い眼窩が見えた。
一角と、棘の羅列である背鰭が、鰓の辺りから大量の砂を吹き上げながら、
・・・・・
こちらをじっと、見つめている。
降り注ぐ砂の中、視界が白く塞がれるのを感じながらも、業丸を握り直し、
「伯ッ」
その姿を探した。
「ハぁクッ」
しかし、一度バランスを崩してしまえば、その姿を捉える事は容易な事ではなく、、、
斜面に漂う千切れ雲の中へと転がり込むのを、自分では止める事ができなかった。
赤光がそのまま嵌め込まれた、落ち窪んだ眼窩。
瞳孔鋭いその視線が、さかしまに斜面を転がり落ちてゆく脆弱な人間を睥睨し、
・・・・・
それも束の間、鼻先に降ってきた白い人影に、眼を眇めた。
眼前に躍り出たのは、
「、、、、、」
伯。
燕倪が下方の千切れ雲に消えるのを視線の端で見届けつつ、間髪入れずに袖を振った。
翻る水干の袖から、幾筋もの閃光が、迸る。
捩じれた氷柱を思わすそれは、大人の中指程の大きさの氷鉄とでも呼ぼうか?
オオ・・・ゥウ・・・
一角が、大きく身震いすれば、
「、、、、、」
巨躯を押し包むようにして、白き砂の波が、その身を包み込んだ。
手応え無く、氷鉄が、砂に吸い込まれて行く中、伯は漂う薄い霧を蹴って、舞い上がる。
「、、、、、」
睨んだ先に、延々と続く、白い砂の斜面。
風も無いのに描かれてゆく風紋が、無数の蛇の群を思わせる。
クン・・・
気配を探ろうと鼻を鳴らしたところで、
― 伯 ―
名を、呼ばれた。
「、、、、、」
それまでの執着は、どこへやら。
伯は、興が剃れたかのように群青の髪を靡かせると、足下に蟠る濃い千切れ雲へと飛び込んだのだった。
「、、、、、」
不安定な足場は、浮遊しているようでもあり、それは水に浮かんでいるような感覚にも似ている。
― ああ、、、そうだ。ここは、、、 ―
肌を舐める、纏わりつく温いそれは、紛れも無い、闇。
今、立つそここそが、起点。
誰が呼んだか、それは、夢の通い路。
いつものように、ふらりと足を踏み出そうとして、
「あ、、、」
傍らを、黒衣の若者が横切っていった。
ばさらに靡く髪は金色、そこから一対の細い角が伸びている。
こちらに気づいている様子は、無い。
黙っていれば、そのまま行ってしまう袖を、
「あ、兄上っ」
たおやかな手が、咄嗟に掴んだ。
「、、、、、」
夢と言う名の異界で交わる、夢と夢。
他人の夢に干渉出来る者、【夢見】だけが出来る【夢結び】。
ゆっくりと振り向いた鬼面のその人が、
「ああ、小姫。お前、いつからそこにいたんだい?」
袖を掴む末の妹を見て、微笑んだようだった。
「また、夢路に遊んでいるの?」
穏やかなその声音に、
「兄上こそ」
勝気な、澄んだ声音が、応じた。
くつくつと喉を鳴らしながら、
「すっかり顔色も良くなって、嬉しいよ。あとり」
その手が、あとりの頭の上に、置かれた。
とたんに、可憐な唇を尖らせると、
「兄上。あとりは、いつまでも子供じゃありませぬ」
黒目がちの澄んだ眸が、鬼面の兄を見上げて言った。
「ああ、そうだったね。おれの中では、まだ、、、」
「あっ」
そうして抱き上げたあとりの姿は、晴れ着姿の、大人の腰ほどにも満たない童女の姿であった。
腕の中で青々と澄んだ黒瞳が鬼面を覗き込めば、幼い手が冷たい無機質のその頬に掛かった。
朱色の隈取。
その内側から覗く、深紅の眸に向かって、
「かように恐ろしい鬼面をつけて、兄上のお心が知れませぬ」
「この面はおれを隠し、内面を晒す。おれに、必要なものでね、、、」
「兄上がおっしゃる事、あとりには、わかりませぬ」
膨れ面。
「それでいい、、、」
兄の腕に抱かれ、歩き出すままに辺りを見回せば、闇が和らいでゆく。
「ん、、、」
ふいに、どこからか舞い込んだ薫風が、あとりの頬を弄った。
差し込む日差しに見上げれば、木漏れ日の中に、薄紅色の天蓋が、芳しい香りと共に揺れている。
その中を、丸々とした鶸が、枝から枝へ。
花の蜜を求めては、互いに囀りながら、木々を渡ってゆくのが、見えた。
「ここは、、、」
突如として開けた世界に、見覚えがあった。
延々と山裾に広がるなだらかな丘陵には、そよ風にきらきらと細波を刻む、湖。
そして、むせ返すような春の芽吹きの中には、淡い桃色がいたるところで、弾けていた。
花桃香るその里は、
「花鳥の庄、、、」
あとりの名を冠した里であり、まだ皆共に帝都に在った頃、二人の兄と、姉と共に行った、母の故郷。
「あとりっ」
すぐ上の姉の声に首をめぐらせれば、池の畔で、敷かれた緋毛氈の上で琴を爪弾く母と、鞠を持ったその人の姿。
傍らには、書物に眼を落とす、二の兄の姿があった。
「何をしているの?こっちよっ」
珍しく上機嫌な姉姫の声音に、あとりもつい、嬉しくなる。
年頃を迎え、屋敷にこもりがちな姉姫よりも、鞠を蹴るのが上手な御転婆なかつてのその姿の方が、あとりにとっては馴染み深い姿であるのかもしれない。
「あまい夢を、小姫、、、」
抱き下ろされれば、裳裾が乱れるのも構わず、草原を駆け出した。
大地を捉えた、素足で感じる、しっとりと冷たいその感触。
すべらかで柔らかい、草花の香り。
そして、
「行ったわよっ、あとりっ」
金糸銀糸も鮮やかな糸巻きの鞠が、高く高く舞い上がった。
「ほら、しっかりっ」
大きく広げられた、腕。
大気を張らんで広がった袂に、抱きとめられれば、
「凄いわ、あとりっ」
姉姫の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「姉さま、もう少し手加減して、、、」
そう声を上げようとして、振り向いた。
「実敦兄さま、、、?」
自然と、その頃呼んでいた呼び名が、口をついた。
一際大きい花桃の、見事な枝ぶりの下。
腕を組み、微笑むその人。
そして、その腕に抱かれた、鬼面。
若草に染められた狩衣を纏い、ばさらの髪を風に遊ばせている。
陽の光の眩しさに、眇められたままの紅の眸は、父充慶の眼差しに、よく似ていた。
その人が、ただ、そこに在る。
それだけで、安心する。
あとりは、着物の襟が肌蹴るのも構わず、腕に抱いた鞠を大きく、蹴り上げたのだった。
花桃の木の向こう側から、
「子らの夢とは、いいものだ、、、」
低い声音が、こぼれた。
痩せぎすな体躯が木陰から抜け出すと、その長い指先が、遠目に家族を見守る少年の、腕に抱かれた鬼面を、取り上げた。
前髪が顎先まで長く垂れ、その顔を窺い見る事は、叶わない。
ただ、炯々と輝く眸が、血の如く赤かった。
穏やかな笑みを湛える少年の肩を叩くと、
「当人が望むままに、見せてもくれる、、、」
実篤は、燦然と輝くこの世界に背を向けるようして、歩き出した。
鬼面はいつの間にか、その顔を覆っている。
振り返る事無く踏み出す、草履の下。
確かだった大地の感触が喪失するまで、そう時間はかからなかった。
陽が翳ったような感覚に辺りを見回せば、忽然とあの世界は消失し、代わって残された鏡らを無数に目にすることだろう。
その一つには、夢に遊ぶ妹の笑い声が、聞こえている。
実敦は、光届かぬ夢路の、更に奥へと足を進める。
無数の輝きは彼方の頭上で輝き、やがて現れたのは、陽炎の揺らめき。
肩先に触れれば、耳元に怨嗟の声音が響き、劈くような悲鳴が、頭の中に鳴り響く。
― さすがに、深い、、、 ―
顔の前に持ってきた己の指先が、見えない。
ふいに誰かが、裾を掴んだ。
ヒオオ・・ヒヒヒ・ィイイ・・・
袖は引かれ、首には生臭い息遣いを感じる。
― 夢魔、、、 ―
夢魔。
― 夢路に囚われ、肉体朽ち果てた、還る光を失った者達の成れの果て。ここは、その澱み、、、 ―
闇の中、茫洋と浮かぶ鬼面の目は、艶やかな深紅を湛え、辺りを睥睨した。
異形と罵られたその眸には、何が映るのか?
袖を払えば、
「今更、縋るな。足掻いたところで、その目に、ここから抜け出す救いの光は差し込まなぬ」
後方で、何かの呻き声が上がった。
ズズ・・・ズ・・・ピ・・ショ・・・
ズ・・・ズ・・シャ・ズ・・・ズズ・・・
何かが、這いずる音が重なる。
頭上を覆いつくさんとする陽炎の如き靄は、闇の中で灰恢色の乳房のように垂れ込め、鈍い音と共に確かな質感が、実敦が踏みしめる地に蟠る。
オ・・ゥゥアア・・・
足元に這い寄る無数の気配に、乾いた溜息が鬼面からこぼれた。
「やれやれ。鬼の邪魔を、するもんじゃない」
だらりと下げた右の衣の袖から、光の連なりが、伸びた。
ヒィアア・・・アア・・・ッ
ウァ・・・ァア・・・
白くまろやかなそれは、
「鮫人の泪。人の生を終え、海神に仕える魂がいると言う。彼らが人であった頃を思い出し、さめざめと泣けば、その想いが砡と生って浜に打ち上げられるのだと言う、、、」
白珠、真珠の連なりであった。
褐色の指先が、一粒一粒手繰れば、
シャ・ラ・・・ラ・・ジャラ・・・ジャ・・
砡が触れ合い、擦れる音が、辺りに響いた。
耳に心地良い、どこかで聴いた波の音にも、いつか聴いた風の音にも似た、音色。
暗黒の中に茫洋と、儚くも確かな光を滲ませる、そんな乳色の輝きと相俟って、生者を押し潰さんとする気配達の動きが、
ア・・アア・・・イァ・・・ゥウ・・・ホ・・・
止まった。
ホゥ・・・ホ・・・
やがて、一様に揃って揺れる気配が、伝わってきた。
実篤は、手にした大粒の真珠の数珠を肩から長く、その身に掛けた。
「祈ろうか。お前達が望み描く、その夢のために、、、」
喉を押えれば、低く朗々とした声が、大気を震わせた。
ひぃ ふぅ みぃ よ い む な や ・・・
真珠の頼りなげな輝きを纏い、手繰りながら、夢路の更なる深みへ。
ホホホ・・ホホホホ・・・ホ・・・ホゥ・・・
互いに溶け合いながら揺らめく、灰恢の靄。
それが、果たして夢魔と呼ばれる者たちか?
・・・ そ を た は く め か う お え に さ り へ て の ま す あ せ ゑ ほ れ け
靄立ち込める、闇のさらにその奥へ、
― 夢に眠れ、深く、、、孤独さえも、手放して、、、 ―
鬼面の男、更なる夢路の深みへと、足を踏み入れる、、、
手放せ・・・と、闇が言った。
「、、、、、」
それでも良いと、今は素直にそう思った。
塞いだ、耳。
固く閉じた瞼と、唇。
膝を引き付けて、全てを否定すれば、やがてこの世界に同化し、自我を失う事だろう。
忘れてしまえば、暗がりの中こそが、相応しい居場所なのだと、きっと思えてくる。
全てを委ね、任せ、投げ出し、棄てる。
― なんだか、ひどく、、、疲れたな、、、 ―
その通りだ・・・と、闇が囁いた。
縋った手に、振り払われたような、そんな喪失感。
お前が悩み、苦痛に叫んでいたとて、あの者は知らぬ顔だ・・・
ぼんやりと脳裏を過ぎったのは、異形の童の貌であったか?
― どうして、、、いつも、、、 ―
それとも、厄介者とばかりに突き倒しながら、あの冷たく暗い土蔵へ閉じ込めた者の、顔であったか?
いや、その土蔵から引き上げてくれた、懐かしいあの人の姿であったのかもしれない。
とろりと体内を満たす、闇の雫。
手足の微かな痺れは、その闇に分解されているからだろう。
それを、融けると言うのか、浸蝕されると言うのか。
ひたひたと、満たされてゆくように、闇色に塗りつぶされる、感触。
― あぁぁ、、、 ―
涙はきっと、寒空の下、捨てられた時に、とうに枯れた。
怒りや憎しみは、かび臭い土蔵の中で、欠落した。
今はただ、虚しさだけが、胸中を占めている。
― 繰り返し、繰り返す、、、 ―
意識など、いっそこのまま砕けてしまえ。
浮かび上がる事など、もう二度とないように。
闇を、吸い込んだ。
肺腑深くへ招き入れれば、頭が重く、意識は更に沈んでいった。
― もう、何も、、、 ―
考えなくていい・・・
闇と同調し、同化してゆく。
その言葉は、己のものか、闇のものか?
ただ、無へと還る安らぎは、絶対だ。
それを、何故人々は、恐れるのだろう?
恐ろしいのは、喉元を通り過ぎる、ほんの一瞬。
同化してしまえば、時によって薄れゆくように、何も恐れる事などないというのに・・・
最後の溜息。
全てを吐き出すため、唇が薄く開き、
「【知る】者は、【知らぬ】者からしたら、【恐ろしい】者、、、」
その耳に、声が、届く。
闇のどこかでする、声が、、、
闇と同化してゆく最中、その声だけが、わんわんと体じゅうに響いている。
「それを知るお前は、強い、、、」
耳を塞いでも、すぐ近くで鼓膜を震わせるような、そんな声。
やめろ・・・
揺れて、
やめ・・・ろ・・・な・・・ぃ・・で・・・
揺さぶられて、
も・・・やめ・・・
鬩ぎ合う心が、
ァ・・・ああ・・・
まだ、どこかに、在ると言うのか?
「まったく、どうしてだろうね。いつもいつも、手放してから、気づくんだ、、、」
降り注ぐ雨ように、その言葉は闇となった者のどこかを、
「おれにお前は、眩しくて、、、」
穿つ。
それは、雲間から差し込む一筋の陽の光にも似た、
「その姿に、感銘すら受けた事を、、、」
目映いばかりの、詞の光芒。
それを受けてざわめくこの心は、誰のもの?
あ・・ああっ・・・
闇に融けた眼が、彷徨い、
どう・・・し・・・て・・っ・・・
探す。
失った手足の感覚を、今程取り戻したいと思った事は、ないだろう。
貴方が、どうし・・て・・・こ・・こに・・・
声にならぬその叫びは、誰のもの?
突然、都に行けと言われ、ついに厄介者だと捨てられたのだと喉まで出掛かって、それでも呑み込んだ、あの夜。
それは、その人の言葉で、それを確かめたくなかったからだ。
それを思い出し、闇は、
・・・・・
息を潜めた。
揺れてくれるな、と、、、
闇であろう、と、、、
幼い頃から鬼を祓うための道具として扱われ、大人の顔色を窺いながら生きてきた悠霧は、手にしたものを手放さねばならぬ辛さを、やるせなさを、誰よりも知っているから、、、