第拾幕後 ― 銀杏 ―
異界の楔である瑚麝姫を燕倪と伯に任せた、蒼奘。ひとり、異界に残った蒼奘は、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十幕後編。。。
「お前、今なんつった?」
それは以前にも聞いた事のあるような言葉でもあったが、聞きなれない音を含んでいた。
見上げた相手は、どこか遠くを見つめている。
その視線の先。
「おおっ?!」
水面には霧を頂き、うぞうぞと骸達を吐きだす湖面が、淡く輝き出した。
オオオォォォ・・・ン・・・
その巨大な輝きが水飛沫と共に迫り出すと、一瞬にして霧は霧散し、這い出しかけていた骸の群は、塵芥の如く砂と化す。
「伯?!」
突き出した吻。
透き通った巨躯に刻まれる翠の鱗に、深紫の背鰭が長く迫り出した。
身震いすれば、深紅の鬣が長く尾まで流れる。
四枚だった鰭は六枚に数を増やし、のっぺりとした印象であったその巨躯は、どこかほっそりとして見えた。
オ・オオォォ・・・オオ・・・
長く伸びた尾鰭を力任せに打ち付けると、透明に澄んだ雫が撥ね、骸に降り注ぐ。
ギキッ・・
クゥゥ・・・
ァアアア・・・ッ
次々と砂塵と化す骸達の断末魔の中、蒼奘は池へと歩き出した。
その後に続いた燕倪の、
「なんとも、凄まじいなぁ、、、」
感嘆の溜息を、背中越しに聞いた。
「憂さ晴らしにはなろうよ、、、」
他人事のような呟きに、
「お前のせいだろうが、、、」
燕倪は小さくひとりごちると、伯を見上げた。
冷たい水飛沫の中、蒼奘が腕を伸ばせば、
キキュ・・・
その鼻先を押し当て、岸に身を寄せる。
「先に行け、燕倪、、、」
「お前は?」
伯が差し向けた鰭を伝い、鬣を掴んでその背に乗ると、腕を組んだままの蒼奘は顎で池の向こうを指し示した。
「ん、、、?」
眼を凝らせば、手に琵琶を掴んだ女と、枯れ枝のような法師が佇んでいる。
「伯、、、」
蒼奘の目配せに、
「おいっ、まだ、あいつらがいるじゃないかっ!!わっ、、、伯、待てっ」
伯が、ふわりと舞い上がった。
「燕倪、瑚麝姫を頼んだぞ」
「待てっ、伯!!まだ厄介なのが残っ、、、」
ク・・・オオオォオオ・・ンン・・・
突き出した吻が、湖面にのめった。
「い、息を止めるんだ、瑚麝姫っ」
燕倪は水の衝撃に備え眼を閉じ、姫を抱えている腕に力を込めたのだった。
「さて、、、」
ひとり、取り残された蒼奘は、池の畔。
夜霧を渡るかのように、対岸に佇んだ二つの人影が、舞い寄ってきた。
「楔を欠けば、じきにこの世界は崩れよう。この異界を補完していたその方らも、呑まれるか、彷徨うか、、、」
うっそりと言えば、
「なに、楔に足る人柱に、挿げ替えれば良いだけの事、、、」
法師が、笑って言った。
「神霊を操るようだが、二度はないよ」
湖面に靄が掛かった。
眼を凝らせば、無数に張り巡らされた細やかな糸が見える事だろう。
糸は、黒髪を逆立てた琵琶弾きの両の手から伸びていた。
燐の如く青白き炎揺らめくその眼は、光を失ったのでは無かったか?
「これで逃げ場を失ったぞ、笛吹き。共に音を奏でた仲だ。おとなしく、その身を楔と成さしめるのであれば、五体満足にして屋敷をうろつくぐらいは許してやるが、、、」
無腰の楽師に、法師の舌なめずりが、問うた。
どこか淫靡な眼差しが、弄るように睨めるのを、
「せっかくの誘いだが、、、」
楽師は胸に手をやって応じた。
穏やかな眼差しで、二人を見つめ、
「すでにこの身は、楔でな。他に懸想は、できぬのよ、、、」
低く言い放った。
「そうか、それは残念だ、、、」
琵琶弾きの深い溜息が、細やかな糸に変わった。
「若い後家を、ちょいと手入れして作った式神よ、、、」
その身がどす黒く染まったと思いきや、細かい繊毛が全身を覆い、衣を突き出して伸びた手足が、人の体と蜘蛛の脚を持つ異形の姿へ。
「屍鬼か。道を違えたな、法師よ、、、」
「御仏はお仕えしても、わしに何も語ってくれなんでな」
からからと声を上げるその口に、乱杭歯が覗いた。
「琵琶女、わしを謀りおった若造に、口の聞き方から教えてやれ」
琵琶弾きが跳ね上がった。
そのまま空中でぴたりと止まると、
ギギィィイイガガ――ッ
口から放たれた細い輝きが、幾重にも伸びてゆく。
棒立ちの蒼奘の周りに、白い靄が出来たかと思えば、
「成る程な。腹に溜め込んだ魂魄に、蟲の精を混ぜたのか、、、」
指に触れたふわりとした、感触。
繊手から滴る温い朱が、ひたひたと湖面を打った。
異形が、糸の束に手を掛ける。
「知らぬ存ぜぬとは言え、この地に業深い瑚麝姫に比べるまでもないが、その魂の波動は中々のものだ。それなりに、この都に業も深いと見た。それがあれば、崩れ行くこの異界を安定させ、現世に舞い戻る事ができようよ」
異形、琵琶女が、それを引き絞った。
収縮する白い靄に包まれると、靄に紅い血潮がじわりと滲んだ。
「ふ、、、その上で、ゆっくりと、新しき生きた楔を見つければいい」
輝き、舞い出る魂の輝きを待って、法師は紫の舌で唇を弄った。
舌に甘いその味を、忘れる筈もない。
初めてその甘やかな輝きを口にしたのは、いつのことか?
寒い冬の夜に、軒下に置き去りにされたままの赤子が腕の中で息絶えた、あの日であったか?
彷徨い出でた輝きを消え去るその前に捕らえて口にした、甘美なまでに満ち足りたあの瞬間を、法師の舌は忘れる事が出来なかった。
魂を喰らい、長き時を生きるうちに眼をつけた、まだあどけない姫。
異界を開き、その楔とするのなら、現世との結びつきが強い者でなければならない。
「亡き尭元公のお館に出入りしていた者で、お愛智の方様との仲を知らぬ者はおらんかったでな。瑚麝姫を訪ねて、あの男がここを訪れた時には肝を冷やしたが、手も足も出ずに帰参したるその顔、尭元公に見せてやりたかった、、、」
法師は、槇廼尭元の荒ぶる血を引く者に、眼をつけた。
この国にあって現世との楔にするのなら、これほどの憑坐は見当たらなかった。
「よもや、瑚麝姫を攫われるなどとは思わなかったが、これからはもう少しわしも修行を積まねばなるまいな。しかし、、、」
久々の倭の国、その帝都に現れ出でた、あの日。
篠笛の音と共に現れた、楽師。
「他に使い道もあろうと招き入れたおぬしから、こうも早くその身を裂きて魂を取り出す事となろうとは、、、」
その魂の輝きに、喉を鳴らせた時だった。
「このまま現世に舞い戻り、瑚麝姫が味わった“永劫の今”を、汝らに与えてやるのも一興かと、思うていたが、、、」
鬱々とした声音が、響き渡った。
琵琶女が、腕を振った。
「何、、、?!」
血溜まりは掻き消え、確かに刻んだはずの肉片、髪の一筋も残ってはいなかった。
「楔とは、現世と異界を繋ぐものでもある。楔を失った今、ここは、現世と完全に切り離された、、、」
呆然とする二人を他所に、
「それとも、自らが楔となるか?できはしまいよ。人ならざる者となったその身に、楔の資格などはないからな。彷徨い出る先は、無限坂の水底か、、、」
その声音が、続けた。
俄かに殺気立ち、辺りを見回す法師と琵琶女に、
「正直なところ、人の身は気苦労が多くてな、、、」
深い溜息が、宵闇に滲んだ。
「我が手足でありながら、その力を行使するには、この身ではいささか役不足の上、この世ではどのような顛末が待つのか、想像もできぬ。だが幸い、ここはあの世とこの世とも、真に異なる世だ、、、」
珍しく饒舌な、蒼奘の声音。
「貴様、、、いったいっ、、、」
耐え切れずに、叫んだ法師。
琵琶女が上空から見回すが、その姿はどこにも見受けられない。
それなのに、その声だけが、届くのだ。
「汝らが私欲の為に抉じ開けた、この世界。どうなろうとも、懸念するに値せん。調度、我が真名は、この手の内にあることだしな、、、」
唄うように、
「遠慮はいらん。焼払え、八火業焔衆、、、」
告げる。
八柱の鬼神が、轟々と燃え盛りながら、靄の掛かった空を破って現れ出でた。
金色の後光を纏ったその将が、その身を赤、橙、紫、青、白、銀、紫、金の焔と化す。
入り乱れるようにして、異界の空を奔れば、屋敷は噴煙を上げて空を焦がし、池は沸騰を始めた。
池の底で、今だ眠っていた亡者共の断末魔に混じって、琵琶女の劈くような怨嗟の声が響き渡る。
弄るように肌を舐める業火に、骨まで軋ませ、
「ぎぃあああ―ッ!!あぐがっ、あがわあああッ」
のた打ち回る法師の赦しを乞うその声を、苔むした巨岩の影で、背を預けたままで聞いていた。
「憂さ晴らし、にもならんな」
その手には、香炉が一つ。
燻らせる香りの靄がたなびく様を、金色に染まった眸がうっそりと眺めながら、
「魔道に落ちた汝らの席など、都合よく冥府にあると思うなよ、、、」
燃え盛り、崩壊を始めた異界の空を見つめた。
剥がれ落ちように垂れ込めた薄墨色の空の向こう。
押しつぶさんと、闇が迫って見える。
その闇に、何を見たのか青い唇が、酷薄に吊り上り、
「鬼であるなら、鬼のままで逝け、、、」
くつくつと喉を鳴らすその音だけが、燃え盛る業火の海に、響いている、、、
「燕倪様、、、」
その声に、
「むっ、琲瑠?」
眼を開いた。
廃墟の跡地、その池を覆うようして、翠の巨躯が伸びている。
キキ・・・キュウ・・・
「ご無事で何よりでございます」
労わるかのように、伯の吻を擦りながら琲瑠が微笑んだ。
「戻って来たのか、、、」
袖を見ても、濡れた形跡が無い。
異界の水面に沈んで、正にほんの一瞬の事であった。
肺腑に冷たく染み渡る夜気に、ほっと息をついたのも束の間、
「瑚麝姫、眼を、、、」
燕倪は、背に負ったその人を、揺さぶった。
「ん、、、」
被せられた打掛の中から顔を覗かせ、
「嗚呼、、、」
冴え冴えと、中天高くに掛かった望月を見上げ、瑚麝姫は息を呑んだ。
その空には、すべてを仄白く見せる靄も夜霧も、存在しなかった。
月夜にはらはらと、黄色の葉舞う、大銀杏。
頬に冷たい、夜風の感触。
草陰にて刹那を謳歌する蟲の声を聞いたのは、いったいどれ程ぶりだろう。
ほろほろと鳴くあの鳥は、いったい何と言う名であったか。
星とはかように瞬き、彩変えるものだと、教えてくれたあの人の名は、なんであったろうか?
「よっとっ」
燕倪の手が、くるりひらりと舞い落ちる銀杏の葉を一つ、摑まえた。 「ほら、、、」
大きな手の中のそれを、瑚麝姫の手が包み込んだ。
すべらかで、夜露に濡れた銀杏の葉。
さ・・・ら・・・さ・・・
砂が擦れる音が、耳の奥でした。
さら・・・さ・・さら・・・
それは、止まっていたはずの時が遡る、音。
瑚麝姫が、燕倪の肩に頬を摺り寄せる。
しっかりと握り締めた銀杏の葉と、広いその背の温もりを感じながら、
「燕倪、、、」
溜息のような声音が、ひとつ、洩れた。
― この背で逝けるのなら、きっと、、、 ―
背に回していた手指を、細やかな粒子が滑って行く感触。
「瑚麝姫っ」
弾かれたように振り向いた燕倪は、その人の貌が、
ほろり、、、
淡く微笑むのを、見た。
「ご、、、」
肩、背、腕、手指。
伝い、こぼれ落ちる、細やかな砂の粒子。
「あ、、、」
足元に蟠ったかと思えば、衣も共に朽ち果てて、白き砂と化す。
それは、たった一瞬の出来事。
こんもりと蟠るその砂を、震える手で掬い上げれば風が巻き、銀杏の葉と共に舞い上がった。
月光に、銀の帯が銀杏を抱いて、夜の闇へと溶けて行く。
「、、、、、」
こんなにも唐突で、呆気ないものなのだろうか、、、?
まるで、夢。
その人の温もりも声も、まざまざと覚えているのに、そのどこにも存在しない。
何も、残さない。
「ああっ、、、ああぁあぁああっ!!」
夜空への咆哮と共に、握り締めた両の拳。
やり場の無いもどかしさ。
「ああッ、ガぁああッ」
大地を穿つのは拳と、そして、、、
「あぁあああッ」
頬に伝い、顎先から滴るそれをきっと、泪と呼ぶのだろう。
クキュ・・・
僅かに身じろいだ巨躯を、傍らに立つ琲瑠が制した。
大銀杏が舞い散るその下で、慟哭に暮れる燕倪を、一人と一柱は、今は見つめることしか出来なかった。
どこからともなく、風が巻いた。
影を落とす大銀杏の暗がりから、闇がひとつ、人の形を取った。
黒髪を夜風に弄らせて、月明かりの中へと歩みだしたのは、蒼奘。
キクク・・・
のそりと鎌首を擡げた伯の、
「待たせたな。伯、、、」
その吻を擦って、言った。
みるみる収縮する巨躯が、人の手足となり、大地に着く前に抱きとめたのは、琲瑠であった。
首に翡翠輪を掛けると、己が上着で抱き包む。
伯は、その琲瑠の首に齧りつくと、蒼奘が燕倪の元へ行くのを、黙って見つめていた。
「燕倪、、、」
「ぐっ、、、ぅっ、、、」
「、、、、、」
「ぅっ、、ううっ、、」
両の拳を地につけ、嗚咽を堪えるその友に、蒼奘の手が伸びた。
「つっ」
凄まじい力で引き上げられ、
「終ったのだっ」
その叫びに、鼓膜を打たれた。
「蒼、奘、、、」
「言わせるな、、、」
冷ややかな眼差しに、明らかな苛立ちが、宿っていた。
「、、、帰るぞ」
すぐに手を離した横顔は、
「あ、、、ああ」
見慣れた男のものであった。
歩き始めたその背を見つめ、
― あいつも、、、 ―
握り締めた拳を、ゆっくりと開いた。
袖で顔を拭うと、一行の後に続いた。
頭が、重かった。
喉が、焼け付くように痛んでいる。
胃の腑が灼熱したままで、縋るように業丸の柄に触れた。
いつもの冷やりとした感触だけが、そこに残っていた。
朽ちかけた門を潜ったところで、伯の大きな眸とぶつかった。
「、、、、、」
だがそれは、燕倪の肩の向こうを見つめているだけであった。
思わず振り向いた先に、
「あ、、、」
はらはらと夜風に散る大銀杏と、その頭上に掛かった、冴えたる望月。
当たり前過ぎて、たわいも無く見過ごしていた、時の移ろい。
気づかせてくれたのは、いったい誰であったのか?
忌むべき色と思い込んでいた眸を、初めて綺麗だと言ってくれたのは?
その誰かの名を、この先、燕倪が忘れることはないだろう。
「この世は本当に、綺麗だ。なぁ、瑚麝姫、、、」
燕倪の小さなその呟きに、琲瑠の肩に顎をのせていた伯だけが、
「、、、、、」
こくり、、、
頷いたのだった。
※
「蒼奘、、、?」
青空の下、白い浄衣姿の男が大銀杏の下に腕を組み、佇んでいる。
うっそりと貌を向けたのは、
「天部清親、、、」
何故か、右近衛府中将に対していつもその呼び名の、都守であった。
訝しげな表情で歩み寄り、そっとその髪を一房手に取った。
「どうしたんだ、この髪、、、」
「織部の一人に無理を言ってな。辛夷で染めたのだが、色が落ちてきたようだ、、、」
「鉛色だな」
「、、、、、」
珍しくからからと笑う女丈夫に、今日は返す言葉もないらしい。
「あ」
気を悪くしたのかと、槌を持つ人夫らが、屋敷を取り壊す様を眺めるその端正な横顔に、
「やはりお前は、月色の髪の方が似合うぞ」
事情を知らぬ清親は、ぽつりと言った。
「染めずとも、お前はそのままで、、、」
「、、、、、」
「お、お前が取り壊しに付き合っていると聞いて、屋敷も近いから見物に来たのだ。珍しい事もあるものだと、、、」
「祓い清めは終えたと言われても空恐ろしいと、取り壊しに立会う筈の神祇官と陰陽師に、散々泣きつかれてな、、、」
渋々、立会人となったらしい。
「そうか、、、」
「一旦更地に戻し、日を見て、地鎮のための社を建てるそうだ」
清親は、運び出される材木を眺めながら、
「木を植え、花鳥も集えば、子らの遊び場にもなる。何がこの屋敷を魍魎屋敷と呼ばせしめたかは知らぬが、賑やかになれば、慰めにもなろうよ」
ぐっと、伸びをした。
背に束ね流した黒髪、その椿油の香りが、辺りに漂った。
傍らの女丈夫を一瞥して、
「何か、用があったのではないのか、、、?」
鬱々と尋ねた。
「あ、いや、、、実は、燕倪が物忌みなど、珍しくてな。都守なら、何か知っているかと、、、」
「物忌み、、、」
どうも、ここ数日屋敷に篭っているらしい。
「通年皆勤のあの男だ。これが、宮中でもちょっとした噂になっていてな。それが鳳祥院の耳にも入ったのだ」
「御上に、、、」
「事情も知らぬのに顔を出して、余計に燕倪の気に障るような事になったらと、、、」
これでも珍しく気を揉んでいるようで、何があったのかを尋ねるため、こうして足を運んだらしい。
宮中では、若き武官らの信頼厚い右の姫中将。
いや、今となっては信念を貫くその物怖じせぬ姿、鍛錬欠かさぬ武術の腕前で、鬼中将の名の方が定着しつつあるのだが、今日は見る影も無い。
友を案じるそんな清親の胸中を他所に、蒼奘が鼻で笑った。
「おい、、、」
さすがに憮然とした清親に、
「わざわざ足を運んでくれた者に対し、気に障るもなにもあるまいよ、、、」
やんわりと、低い声が、応じた。
「都守」
「あやつは、そう言う男だ、、、」
どこかで、『先生』と呼ぶ声がした。
また、蛇でも出たか、と粉塵の中へ向かうその背を見送って、
「そう言えば、そうであったな」
清親は、門前に待たせてあった青鹿毛の肥馬のもとへ。
梔子に紅葉を染めた狩衣の袖をはためかせ、颯爽と騎乗の人となった。
知らぬ仲ではないはずだと気づかされ、どこか晴れ晴れとした清親の声音が、
「不覚だ」
晩秋の空の下、言葉とは裏腹に、凛と響いたのだった。
けたたましい馬の蹄の音に、慌てた様子で若衆の籐那が走り出してきた。
ひらりと袖を翻し、轡を取ったのは、
「あ、、これはっ、天部様っ」
清親であった。
「久しいな、籐那。燕倪は、どうしている?」
その問いに、一瞬凍りついた籐那は、
「そ、それが、、、一応、物忌みと、、、」
「ああ。だが、いったいどうしたと、、、」
「あの、、、」
なんとも言えなくなって口籠る。
「上がらせてもらうぞ」
「あっ、、、」
青鹿毛の愛馬、於碕の轡を籐那に取らせると、さっさと庭から回り込んだ。
― 何か、あったと言うのか、、、 ―
籐那の凍りついた表情に、自然足が早くなる。
「燕倪、私だ」
がらんとした母屋へ声を掛けると、昼だと言うのに寝着姿の男が、寝癖のついた髪をそのまま姿を現した。
「おお、珍しいな、清親」
無精髭の生えた顎先を撫でながら、庭先の清親に向かって片手を上げた。
「具合が悪い、訳でもなさそうだな、、、」
別段目立った外傷も見受けられないし、病でもなさそうだ。
友の訝しげな眼差しに、
「ああ、至って健康さ、、、」
あくびを噛殺した。
「ただの中弛みか?」
憤然とした清親に、庭へと続く階段に腰を下ろした燕倪は、
「それがなぁ、大変だったんだ。人手が無くてな」
ぼんやりとした顔で、雲が行く様を眺めて言った。
「人手、、、?」
首を傾げた清親は、
「ああ。急に、籐那の実家の牛が産気づいたってんで、、、」
「それで物忌みか?!」
信じられぬその言葉に、呆れた。
「いや、それだけじゃない」
ふいに思い出したかのように、神妙な顔をするものだから、
「うん?」
つい、気を弛めたのがまずかった。
「逆子でな」
「貴様っ」
清親の手が、今度こそ燕倪の胸倉を掴んで揺さぶった。
「うわっ、な、なんだよっ」
「牛如きに頭を悩ませたと言うのか、この私がっ」
「悩む?お前が?なんでまた?」
相変わらず能天気な燕倪の問いに手を離すと、
「もういいっ!!帰るっ」
「なんだ。夕餉くらい、たまにはいいだろう?」
片腕に抱いていた、大きな和紙の包みを投げた。
「鳳祥院からだ。有難く受け取れっ!!」
「お、、、」
胸に投げ渡されたのは、色鮮やかな秋桜の束。
見ていれば、それだけで顔がほころんでしまいそうな、花の色に、
― 案外あいつは、鋭いな、、、 ―
もう、気安く友とは呼べぬその人を、想った。
多少の怪我なら飄々と出仕する燕倪の事、物忌みなどと届けを出すのなら、心労の方だろうと、その人は感づいたのだろう。
青鹿毛に乗って、門を潜るその背に、
「清親、ありがとな。明日からは、ちゃんと出仕するからっ」
燕倪は、大きく声を掛けた。
「ふんっ、、、」
肩を怒らせ、往来へと消えたその人を見送ってふと、
「あ、、、」
気がついた。
「そういや花器なんて、あったか?」
軒庇の下に、秋桜が風に揺れている。
芒とツルウメモドキ、ユキヤナギが、辰砂の釉薬深い楕円形の花器に、共に生けられている。
「すっかり白くなってきたな」
結局、花器は見つからず、夕暮れを待って蒼奘の屋敷を訪れた燕倪であった。
「髪と糸では、やはり勝手が違うらしい、、、」
肩に掛かる斑の、それでも鉛色なら褒められたものである己が髪を抓みながら、蒼奘が言った。
そんな相手にしみじみと、
「今となっては、黒髪の楽師殿が恋しいよ」
「どういうことだ、、、?」
「殊勝なまでに、おとなしくなさっておられたわけだろ?」
燕倪の声に、蒼奘は鼻で笑った。
「さすがに名うての弾き手に歌い手。生半な篠笛の音では、共にと誘うてはくれぬであろうからな、、、」
「だが、中々、あれだけのものは吹けぬぞ、、、?」
「それだけ良い品と言うわけだ。妹を想う兄の憐憫が、篠笛を泣かせるのよ、、、」
「妹、兄、、、」
手にした包みを、燕倪の膝へ。
その包みから出すと、頭の部分に鷹羽の紋を見た。
「う、、、羽琶殿の笛ではないか?!」
「気づいておらなんだのか。お前らしいな、、、」
「どうしておまえが、これをっ、、、」
口を顔にして言うのを、愉しげに眺めながら、青い唇に杯をつけた。
その様を肴に、もう少し眺めているつもりだったのだが、
「主様、、、」
新たな瓶子を持ってきた琲瑠によって、やんわりと窘められた。
「先日、わたしめが主様の文を預かり遠野へ、お伺いしたのですよ」
「礼も、まだであったからな。反物を幾つか、贈らせてもらったのだ、、、」
「そうだったのか。言ってくれれば、、、」
「あの化生共。それなりに用心深く、屋敷のうちに入れるは、一人と決めておってな。運良く最奥の間へ通ったところで、、、」
「運良く、、、?」
「まあ、大概の者は、四季襖の間の前に酒にやられるか、馳走によって足を止められる、、、」
「馳走も酒も、一人では味気無いぞ」
真面目な顔をして、そんな事を言う燕倪を、蒼奘は良く知っているとでも言うような口ぶりで、
「それとも、琵琶弾きの虜となるか、、、」
どこか意味深な眼差しを、くれた。
「おいおい、俺を朴念仁か何かみたいな目で見るなよ」
「ボクネンジン、、、」
縁側で、汪果に大粒の葡萄を剥いてもらっていた華奢な背中が、呟いた。
「聞こえているぞぉ、伯」
睨んだ先の背中が、微かに震えている。
「四季襖に通されると、お前も味わったであろう?」
意識は白昼夢の如く漂い、まざまざと美しき四季の移ろいの中に入り込んだ。
「ああ。あの時、業丸の鞘鳴りに気づかなかったら、、、」
「四季襖。その世界に魂は囚われ、法師に喰われるのを待つばかり、、、」
「何?!」
叫んだところで、腕を擦った。
名にも知らなかったとは言え、さすがに泡肌が立った。
「四季襖を抜ければ、こちらのものだと思うていたが、庭で足を止めた時には、正直ここまでかと肝を冷やしたよ、、、」
「庭、、、?」
「渡殿に焚かれていた香、覚えているか?」
「ああ。麝香が深いあれか、、、」
「大陸の氷湖に沈めた香木と、変異種の雌鹿の角を合わせたものだ。酔神香などと呼んでいたが、その香に遊べば同じく、やはりこれも魂が口から抜けでる代物だ、、、」
「そうなのか。いつかの霊紫に比べたら、そうでもなかったぞ」
広大な、あの庭。
霧に包まれ、世界がまるでそこにあるとでも言うような、、、
しかし、一抹の寂しさがどうしても拭い去れなかったのは、何故だったのだろうか?
「いつまでも、この岸辺に佇んでいたい。いや、、、佇んでいてやりたいと、そう思ったんだ、、、」
夜霧に包まれたその世界は、
「瑚麝姫の世界、そのすべてであったからな、あの庭は、、、」
「ああ、そうか、、、」
最奥の間、双血鶴の間から見える、全てであった。
「誰も来ぬ奥の院に、ひとり。現世の時間軸と切り離されても、時には人恋しく、思うことだろうて、、、」
「なんとも不憫な、、、」
大銀杏のその下。
花ほころぶように、ほろり、微笑んだその姫を、その温もりを、燕倪は思い出していた。
「鈴の音が聞こえなかったら、俺は今もあの庭に立っていたんだろうな、、、」
我にと返らせしめた、羽琶の鈴の音。
しみじみとその篠笛の包みを見つめてふと、
「わざと落としたんだろ?」
見つめた先で、蒼奘が杯に口をつけたところだった。
「いや。香炉にな、少し香木を加えた時に、偶然、、、」
「何をくべたのだ?」
「青角の骨」
「ああ?!」
先の一件で青き角を捜し、川辺で骨を拾っていたのは他でもない燕倪と、
「伯、、、」
その人であった。
「お前、大猪の遺骨を持ち出して来たのか、、、」
汪果に指を拭いてもらって、伯が歩いてくる。
そのまま燕倪の膝に座ると、
「なくなる、のが、ぃやだった、、、」
額を、その肩に押し付けた。
「伯、、、」
ほんの少しでもいいから、何か側に置いておきたいと、思ったのだろう。
燕倪は、確かに背にあった瑚麝姫を、思い出した。
手のうちから、零れ落ちてゆくその様を、、、
ほんの少し心を重ねただけなのに、消え行くその身に縋り、その人が生きた証を探したのでは無かったか?
燕倪は、その手を伯の肩に置いた。
布地の下、その華奢な肩は、仄かに温かかった。
「その欠片を、伯が、私の衣の袖に忍ばせたのだ、、、」
「お前を連れては、いけないから、、、?」
こくり、、、
頷いた、伯。
「そうか。お守り、だったんだな」
燕倪の呟きに、
「大いに役に立ったよ。漂い出た霊紫が、あやつらから我が身を隠してくれたからな、、、」
「それでお前も無事に、、、って、そんな事もできるのか?」
「酔神香に勝る、霊紫だ。酔うたとも気づかぬ者に幻術を掛けるなど、造作も無いこと、、、」
瓶子を傾けた蒼奘が、青い唇を吊り上げた。
なみなみと満たされた杯を差し出せば、たおやかな手が受け取った。
「お、、、」
ほろり、笑ったその人が、
「瑚麝姫、、、」
紅の単を纏ったその姫に、見えたような、、、
眼を瞬かせるその鼻先を、
「やっ」
「痛てっ」
ぴしゃりと叩いた手があった。
からり・・・
螺鈿で秋明菊が描かれた杯を投げ出し、そのままぱたぱたと庭へ出て行く伯を、琲瑠が慌てて追いかけて行った。
鼻先を押さえた、燕倪。
その杯を満たしながら、
「深く想い念じれば、伯は心を映す。忘れたのか、、、?」
闇色の眼差しが、ひた、と見つめてきた。
「だからって、叩くことはないだろぉ」
「我らが、その姫にばかり構うたと、妬いているおのだよ、、、」
「ふん。やはり、子供だなぁ」
その涙目では、いささか説得力に欠ける燕倪の様に、蒼奘がくつくつと喉を鳴らし、酒に濡れた床を拭いていた汪果は、肩を震わせた。
「なんだよ、二人して、、、」
憮然とした燕倪を他所に、
「いやなに、、、」
― お前も伯も、そう変わらぬような、、、 ―
花器に揺れる秋桜を眺めながら、その後に続く言葉を、酒で飲み下したのだった。