第壱幕 ― 花燈籠 ―
蒼奘が友、燕倪に浮かぶ死相に気付いた伯は、燕倪と共に宮中に赴くが、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第壱幕。。。
薄らと、庭の池に氷が張った朝だった。
その薄氷の下に緩慢ながら緋鯉が泳ぐのを、追う者がいる。
「ふぉぉ、、、」
浅葱の綾紐で結わえた群青色の髪、菫の大きな眸。
素足で飛んだり跳ねたりしつつ、庭先を舞う、伯。
まるで重さが無いのか、氷はひび一つ入らない。
風に舞った昨夜の雪の残りか、屋根から下りてくれば、ゆったりとした水干の袂でそれを捉えては身を翻し、袖をふわりと振って空に放す。
そうすると、風が待っていたかのように天高くへと舞い上げる。
陽射しを浴びて、舞うその姿に、
「伯、今日は随分と機嫌がいいのだな」
燕倪が、声をかけた。
「、、、、、、」
じっとその顔を見つめ、たっと縁側に舞い上がる。
「お、おい」
袖を翻して駆け込んだ先が、御簾をまだ下ろしたままの蒼奘の部屋で、
「蒼奘、俺だ。見舞いに来てやったぞ」
声をかければ、
「あいもかわらず、律儀な男だ、、、」
案内の女が、するすると御簾を上げると仄の暗い寝室に光が差し込んだ。
「宮中に上がりたくないという口実かと思えば、まさか本当に、、、」
苦笑した燕倪が見たものは、
「上がりたくなければ、ないと、そう言うがな。今日こそは人の身が、恨めしいものだ、、、」
寝着を纏い、肩に単を纏ったその姿。
その胸の中には伯が逃げ込んでいて、解けかかった水干の肩紐を、やんわりと結び直してやっているところであった。
喉に布を巻いているところを見ると、相当、具合が悪いらしい。
「これは見舞いの酒だが、、、どうする?」
「ほう、、、菊の香りがするな。どれ、燗をつけて、、、」
「いけません」
いつの間にか縁側に現れたのは、異相の美姫。
「汪果」
「毎晩遅くまで、雪見と言っては若君と庭にお出になられたからです。風邪が治るまで、このお酒は蔵に、、、」
「かぅぅ、、、」
腕に中から手を伸ばしていた伯が、悲しそうな声を上げたが、燕倪の顔を見てまた逃げ込んでしまう。
その髪を撫でながら、
「仕方あるまい。では、茶を」
「かしこまりました」
去って行くのを見送って、燕倪は火鉢の側に腰を下ろした。
「今日は伯が一段と怯えるが、お前がこんな姿だからか、、、?」
「いや、、、」
ひどく澄んで、冷たい色を宿した双眸が燕倪を見つめる。
「ふん、、、」
すぐに柔わらいで、
「お前の顔を見て、だ」
「俺の?」
「死相がでておるのだよ」
「お、、、俺に!?」
「ああ、心当たりはないのかね?」
「無いに決まっているだろうっ」
「そうか、、、」
すぐに見上げてくる伯と眼差しを交わす。
「そうか、とは、冷たい奴だ。近々、俺は死ぬと言うのか?」
「まあ、そうなるのが理というものだ。故の死相」
「悠長な、、、なぁおい、何か手はないのか?」
「ふむ、、、心当たりが無いのなら、無い」
「何とかしてくれ。お前、占術、得意だろう?見舞いの代償が、己が命とは、高くつく」
「この状態ではまともな卦など読み解けぬさ。起き上がるだけでも全身が痛んで、結構、しんどい、、、」
「いっそ見舞いなど、来なければ良かった、、、」
ぶつぶつ言うその前に、茶と菓子が運ばれた。
落雁を砕いて欠片を、雛のようにせがむ伯の口に運んでやりながら、
「まぁ、そう言うな。私でなくても、適任な者がおるではないか?」
「あ?」
青い唇に笑みを刷きつつ、
「伯よ」
「伯が?」
「その顔に死相が出ていると、すぐさま私に知らせてきたのだ。しばらく、連れて歩くといい」
「だが、、、」
「何、蒼奘のところの式だと言えば、それで済むだろう」
「伯が俺の言うことを聞いてくれるとは思えぬが」
「そんなことは無い。伯は、お前を気に入っている」
こほこほと、口元に袖を当てて咳を繰り返えす蒼奘。
汪果が用意した脇息に肩肘をついて楽にすると、茶を一口啜り、
「伯、私の代わりに、頼まれてくれるか、、、?」
髪の紐を結い直しながら深い黒瞳で見つめれば、伯もまたじっと蒼奘を見上げる。
「しばらく、そうさな、、、二日、三日、この燕倪に付いてやってはくれぬかな?」
「、、、、、」
「その死相が晴れるまで、だ」
「、、、、、」
「お前は、死相の相手を見極めればそれでいい。後は、燕倪の業丸が斬り拓く、、、」
「、、、、、」
こくり、、、
頷いた伯は、ぎゅっとその胸に腕を回してしがみついた。
「伯、、、」
「何やら、お前達を引き離すようでひどく後味が悪い、、、」
親子の今生の別れのような、それを目の当たりにした気分だったのだろう。
かつて、蒼奘のこんなにも慈愛に満ちた眼差しを、燕倪は見たことがあっただろうか?
それは、どこか愛しい者を見つめるようなものにも似ていて、燕倪は頭を振った。
「これを、、、」
汪果が捧げ持つ漆の箱から勾玉と瑠璃の管が交互に通った首飾りを取り出すと、伯に掛けてやる。
すると髪と瞳は黒く染まり、一見、どこにでもいるような童の姿へ。
とことこ、と燕倪の傍らにて端座すれば、そう目立つ事もない。
「良い仔だ、、、」
そっと手を伸ばして頬をさすると、両手でその手を取って小さく、きゅう、と声を漏らした。
「伯の食事は酒でいい。下手な食べ物を食べさせると、祟るやもしれぬ」
「な、、、」
「だから寝る前には、良い酒をたっぷり呑ませてやってくれ。一合も呑めば、朝までは起きぬ」
「う、うむ」
「それと、伯は、、、やはり、もう一人世話役をつけよう。琲瑠」
庭先に忽然と現れた女。
どこにでもいるような風体だが、
「お、おなごでは、こ、困る。屋敷には時折母上が見えられる。伯ならまだしも、いろいろうるさい、、、」
「では、琲瑠」
「え」
もう一度見れば、そこには同じような顔立ちの男が一人。
「まったく、お前には驚かされる」
「牛車を用意しよう。それまで、ゆるりとしていけ。私は、、、悪いが休ませてもらうぞ、、、」
こほこほと咳き込みつつ、御簾の向こうに消えると、伯はしばらくその方向を見ていたが、すぐに燕倪の衣の袖を掴み、肩の辺りに背を預けた。
燕倪は、その伯の頭を無骨な大きな手で撫でると、
「よろしく頼むぞ、相棒、、、」
己が命綱を言葉とは裏腹に、不安げに見つめたのだった。
「なんなんだ、これはいったい、、、」
恙無くその日を終えようとしていた夜更け。
琲瑠に、伯に酒を呑ませるのを頼み、燕倪が寝所に戻ると、奇妙な光景が広がっていた。
「お召しになったお酒に、少々混じり物があったようでして、、、」
「それで、宙に浮くと言うのか?混じり物?都一と謳われる籐満酒造の一等品だぞ」
「主は、若君がお召しになるものには、厳選に厳選を重ねておられますから、大陸の皇帝とて、目にすること叶わぬ代物でございます。お言葉ですが、この都の酒では到底、、、」
苦笑を浮かべた琲瑠と、呆気にとられた燕倪。
二人の視線の先、寝所の天井辺りに、ふわりふわりと浮かぶ伯を見つめた。
その目は据わり、頬は朱鷺色に、可憐な唇は今、への字に曲がっている。
明らかにむっとした様子で、燕倪を睨み据えている。
「た、祟られるのか?」
「質はともかく、たくさんお召しになられましたから、そのような心配はございますまい」
「ん?」
見れば、大振りの瓶子が七、八本空になって転がっていた。
「、、、、、」
やがて、
「げふ、、、」
吐息をもらすと、ふよふよと舞い降り、
「若君」
琲瑠が用意した狩衣を広げて抱きとめると、くるりと包まり、大人しくその腕の中。
そっと机帳で囲まれた寝床に寝かせれば、もうすやすやと寝息を立てている。
「それは、蒼奘の、、、?」
「ええ。日がな一日中、主様の側から離れぬのでお一人でお休みなられるのは心細かろうと、一枚頂いてまいったのです」
「用意のいい事だな、、、」
御簾で仕切られた向こうが、急拵えの燕倪が寝所。
「俺も休むよ。明日は早くから宮中に上がらなくてはならぬ故」
「おやすみなさいませ」
細い瞳をさらに眇めて、火の明かりの元に座した従者に背を向け、横になる。
遠くに響く野犬の遠吠えに聞き耳を立てていると、すぐに眠気が支配した。
夜半、ふと目を覚ました燕倪は、御簾越しに琲瑠の姿を捉えた。
見つめたその人は、その姿勢のまま朝まで、眠る伯を見つめていたのかもしれない。
ただひっそりと、微笑み浮かべ端座しているその姿を視界に捉えながらも、燕倪は、重くなる瞼を押し上げる事ができなかった。
そのまま再び、まどろみの中へ。
『燕倪殿、その童はどうされたのじゃ?』
『、、、、、』
『登台せぬ都守殿の式とは、本当かの?』
『宮中に何か怪しき卦でも立ったと言うが、何故?それより当の蒼奘殿は?』
日がな一日中、そういう事になった。
幸い伯は、一言も言葉を発することも無く、燕倪が政務中は廊下にひっそりと座っているなど、それなりに式神のようだ。
蒼奘が先に文を飛ばしたのか、具合の優れぬ蒼奘に代わって宮中の異変がないかを調べるため、信頼のおける燕倪に預けたという届出が出され、即、受理された。
しかし、暇を持て余す公家連中にとっては格好の的。
伯の周りには終始、人垣が絶えない。
帰りしな、燕倪と共に牛車に乗っていた伯が、
「あぁう、、、」
覗いていた物見から身を乗り出そうとした。
車を止めると、外に走り出して、
「お、おい、伯っ」
見れば、駆けて行くその先に、大きな黒い狗。
橋のたもとで、ちょこなんと座っている。
往来の人も避けて通るその狗に伯が駆け寄ると、燕倪の心配他所に尾を振ってその腕に抱かれてしまった。
そろそろ空が茜に染まる逢魔が刻だと、ぐずる伯を牛車に戻せば、狗はその様子を琥珀色の瞳でもって、どこか寂しそうにこちらを見つめていた。
「形は大きいが、ずいぶんとおとなしい狗だったなぁ、、、」
物見から外を眺めている伯に言ったところで、
「、、、、、」
反応、からっきし。
がっくり、肩を落として、
「相変わらず冷たいな、相棒、、、」
苦笑交じりの溜息だ。
話しかけても一言も発せず、燕倪が姿を現すまでその場を動かぬ伯に異変があたったのは、翌日の宿居の最中であった。
遠く響く狗の遠吠え。
さして珍しいものでもなかったが、傍らに座っていた伯がゆらりと立ち上がった。
「伯?どこに行く?」
「、、、、、」
ひたひたと、裸足のまま廊下から庭へ出た。
そのまま伯の背に付いて行けば、見上げる程に巨大な門が見えてきた。
燻された木肌も重厚な大檜の柱には、青銅の扉。
平素、固く閉ざされたままの不浄門。
宮中で死した者が、運び出される時だけに開く、死者の門だ。
伯の歩みは止まる事無く、その門の方へと歩いていく。
篝火が焚かれた門の両脇にいる検非違使が、燕倪の姿に会釈した時、伯の水干の袖が振られた。
「あれは、、、」
下弦の月が赤々と冴え、大気も凍えるその夜の闇に、巨大な闇色の獣が蹲っていた。
良く目を凝らさねば見えぬその獣は、今、伯が投げたと思われる札三枚によって、陽の光にも似た輝きに当てられ、動けずにいる。
「燕倪、、、」
低い、その美声は、、、?
「蒼奘?!」
見れば伯が漆黒の双眸を向けたまま、
「この狗、逃すなよ、、、」
「お前、どうして伯の、、、」
「憑代として最適だと、そう言っただろう?さすがに病に侵されぬ体は、冴えが違うわ」
もう一枚札を投げると、
ギィイイイェエエエッ
その体が引きつったように痙攣した。
「燕倪様ッ」
「おい、検非違使、その篝火を消せ」
「は、、、」
伯に言われ一瞬呆気にとられた二人に、
「とにかく言うとおりにしろ」
「は」
燕倪の一押しで篝火を大地に倒して踏みつける。
「ここではお前の業丸が抜けぬ。引きずりおろすぞ」
伯の手がすんなりと手首まで大地に差し込まれると、巨大な根がうねりつつ迫り出した。
「おお?!」
「遷都以前よりこの地にあった齢五百年の橘の木よ。その神通力、借り受けた」
生き物のように撓むと、獣に絡みつき、
ギャンッ
大地に叩きつけた。
それでもなお立ち上がり牙を剥く、黒き獣。
グギガガガアアアッ
「ぐ、、、なんて咆哮だ、、、」
その声が、紛れもない怨嗟であると、肌に奔る悪寒で嫌でも分かる。
柄頭に手を置き、身構える燕倪の傍らで、伯が人の悪い笑みを浮かべた。
「その声、お前にしか聞こえぬよ、、、」
「何?!」
どういうことだ、と問う前に、もう一度咆哮が襲った。
顔を顰める燕倪に、
「お前の一族に向けられた恨み辛みだ。それを獣に巣食わせた輩がおるようだな、、、」
伯は、うっそりと言った。
「何故、俺なんだ?!」
「簡単だ。備堂の一族の中でも、お前は帝の信頼も厚い。そのうちうっかり左大臣になどなられては、困る者がおるのだろう」
「別に俺は、、、」
燕倪が生まれた頃既に、権力争いにおける勝者であった備堂家。
その夭折した先の天皇に代わって、当代醐耀天皇の後見役を勤めた太政大臣備堂尚継康成を、伯父に持つ。
渦中にいる者は気にも掛けぬが、この燕倪、年頃も同じ帝をかつては友と呼び、共に育ったような男なのだ。
「待てよ。すると、術者は、、、」
「一族に名を連ねる者の企みであろうよ」
「、、、、、」
一瞬、憂いに沈んだその顔を、伯の一瞥。
「ふ、、、お前でも、神妙な顔をするのだな?」
「からかうな、こんな時にっ」
伯の顔なのに、その笑みを刷いた容貌は、まぎれもなく蒼奘のもの。
「誰か、知りたくはないか?」
「知ったところで、俺がどうこうすると思うか?こんな時に、くだらぬっ」
むっとした様子で頭を掻き毟った。
「今、月を隠す。月の光は魂魄を惑わし、夢に誘うでな。しくじるな」
どこか満足気に頷いた蒼奘。
「お前が言うことはよく分からんが、姿が見えるものなら斬れぬものなど、無いよ」
「いつもながら、頼もしいかぎりだ、、、」
短く呟いた後、その唇に押し当て空に投げた札は、変じて雲となった。
盛り上がり、うねりながら漆黒の雲龍となったそれは、月の光を阻むべく駆け上り、そしてその巨体で、月を隠してしまった。
「今よ、、、」
「おぅ」
太刀の鯉口を斬ったその瞬間、
「な、、、」
白い水干が阻むように舞い込んだ。
その一閃。
「か、、、ぅ、、、」
赤々とした飛沫が、翡翠勾玉の首飾り共々、飛び散った。
「伯ッ」
庇ったその巨大な獣は、伯の体を抜けた閃光を受けると高く跳ね上がり、そのまま闇に紛れてしまった。
「逃げたぞっ」
咄嗟の事に、検非違使がその場から逃れるようにあたふたと獣を追って行く中、
「何故、、、おまえ、、、」
呆然とした燕倪は、胴を割られて痙攣を繰り返すその童を見下ろし、震える声でその肩に触れた。
― 俺は、なんてことを、、、こんな、幼子を、、、 ―
「かふ、、、か、、、」
ごぼ、血泡を吹くその瞳から、涙が溢れ、
「伯、、、」
そのまま、あっけなく頭を垂れてしまった伯を腕に、項垂れるしかできずにいた。
「一足、遅かったか、、、」
声に振り向けば、開くはずのない不浄門が、音も無く開いていた。
その門を潜り現れたのは、狩衣姿の蒼奘。
「随分と、迎えに来るのが遅れてしまったな、伯、、、」
「蒼奘、、、」
物言わぬ、その体。
蒼奘が代わって、その袂で抱き上げる。
白き衣の袖にじんわりと、朱が滲んだ。
「帰ろう、、、」
燕倪に何も言わず蒼奘が背を向けると、忽然と牛車が現れた。
行灯を手にした琲瑠が、いつものように淡く微笑みながら燕倪に会釈をして、主のために簾を上げた。
「蒼奘」
たまらず名を呼べば、僅かに首を捻った男が、
「安心しろ。死相は去った、、、」
ただ、それだけを言い残し、車に乗った。
「そ、、うではなく、、、そうでは、ないだろうッ」
憤りと申し訳なさ。
優しげな響きさえ残して、その男は去ってしまう。
「蒼奘ッ」
いっそなんて事を、と胸倉を掴んでくれたら、どれ程気が休まるか?
その仔を奪った俺を赦さぬと、人らしく恨み言一つこぼしてくれれば?
握り締めた拳。
己がした事をと焼き付けねばと振り返れば、
「お、、、」
あったはずの血溜まりは、忽然と消え、何時閉まったのか、不浄門も固く閉ざされたままであった。
傾いた板戸の隙間から吹き込んだ風。
四方に据えられた灯明が、掻き消えた。
「ぁあ、、、」
印を結び、祭壇の前で端座していた紫紺の薄絹被った者がよろめいた。
仄の暗い古びた庵であった。
その後方で腕を組んでいた男は、口髭を忌々しそうに扱きつつ、その者を睨み据えた。
小紋を散らせた浅葱色の直衣が、その身に纏わりつくようなそんな気品を漂わせた、到底こんな廃屋など似合つかわしくない男であった。
「しくじったのか、、、」
低いその声音に、薄絹を纏った者は慄いた。
「も、申し訳ございませぬ、、、よもや、魂移しをしてこようとは、、、」
「東国一の怨み屋も、そんな程度か、、、」
「お赦しくださいまし。幸い、業丸にて連れの者が手傷を負ったようでございます。すぐに別の鬼を仕立てて、、、」
「、、、、、」
震える女の声であった。
はらり、、、
太刀の柄でその薄絹を払えば、額から赤紅の血を滴らせた若い女の顔。
その女の細い顎を上向けると、闇の中で男が低く、
「では、そなた自身が鬼となれ、、、」
その口を押さえると、薄絹を絡めとった刀身が、鈍色に煌いて、
「うぅうくッ、、、」
背から脇腹までをも貫いた。
薄絹が塗れて重くなった時、ようやく男は太刀を引き抜き、女を置いて外へ出た。
大気が冷え冷えと凍える、夜。
男は茂みに用意してあった油壷を庵に撒いて、そして馬を繋いだ木に掛けてあった行灯を、無造作に放り投げた。
立ち上る炎に怯えた馬の首筋を撫でて、いなしながら、その庵が炎に巻かれるのを見届ける。
程なくして、
ギキ・・・イイイイッ・・・
炎に焼かれ傾き、重さに耐え切れず軋む、柱や梁の、悲鳴。
まるで女の断末魔のようで、男は、端正な口元に侮蔑の笑みを浮かべたまま、馬の腹を蹴った。
山村に住まわせた女の元に通うために。
「、、、、、」
牛車の中、そっとその青褪めたままの頬を擦っていると、袖に滲んでいた血は、霞んでいく。
深く斬られ、内臓も覗いていた体はしかし、その人の腕の中で何事も無かったかのように再生していった。
だが、それとは裏腹に体は重く冷たく、確実に死に向かって行く。
「魂が、、、抜けておる、、、」
ぽつりと呟いた蒼奘。
そっと胸に手を置くが、その先に感じられるはずの肝心な魂の輝きが、無い。
「都守、、、」
程なくして屋敷に着く辺り女の声がして、牛車が止まった。
垂髪も長々と地に這う程の十二単の女が、古びた屋敷の門前にひっそりと佇んでいた。
「天狐の使いか、、、」
その両肩の辺りに青々と狐火が灯っていた。
「若君を呼びに無限坂を下るのならと、主様がこれを、、、」
「痛み入る、、、」
琥珀色の双眸をした女が捧げ持つのは、この季節だというのに、四季折々の花で拵えた燈籠。
どのようにして編まれてあるのか、その骨組み、枠、すべてが彩り違う花々で出来ていた。
そしてそのどれもが互いの彩を引き立て、香りは絡み合い、一つの機能としての自覚か、月明かりの中に茫洋と輝き、浮かび上がる。
淡く桃色に染まった大輪の牡丹が、開かれた花の燈籠の中で仄白い燐光をちらつかせ、甘い香りと共に煌々と光っている。
長い柳の枝で編まれた燈籠の柄を取ると、
「これは良い香りだ」
「主が丹精込めて育て、合わせた花でございます。花は生き物。お急ぎくださいまし、、、」
「ああ、日を改めて礼に参ろう。主殿に、どうかよしなに、、、」
「はい、、、」
深々と一礼すると、その姿は狐火そのものとなって屋敷の門の中へと消えていった。
灰褐色の湖面に、太陽が遠く浮かんでいた。
鈍色の空には、まぁるく満ちた月が二つ。
そのか細い月光の中、白い布に黒字で○を描かれたものを顔の前に垂らし、右前で合わせた死装束の者達が列を成して湖面を沈むことなくしずしずと歩いている。
大人も子供も男も女もいる。
皆、一様に無言だ。
案内の者がいるわけでもないのに、その足取りは何かに導かれるように一定の速さを保っていた。
彼方。
何も無い。
ただ、湖面だけが果てしなく広がっている。
その限りなく広がる湖面のどこに行くのか?
よくよく目を凝らせば、遠くに小さな黒い一団がいくつも、同じ方向に向かっているのが見えるだろう。
彼らも同じ装いで、同じ目的でもってそこを渡るもの達だと、考える者はいまい。
皆、何も見えては居ないのだから。
湖面の下には、皆の影が、落ちている。
あるものは胸を押さえ、あるものは足を引きずり、五体のいずれかが欠けている者もいる。
それでも体は進んでいく。
その群れの一つ。
巨大な黒影が、湖面の下で蠕動していた。
列はそのまま、湖面の下では巨影の中で、他の影達が怯えていた。
程なくして、列から、一つの小さな体が抜けた。
巨影も、その体に続いた。
「、、、、、」
伯であった。
邪魔そうに顔の前にある布を外すと、ひたひたと湖面を歩きはじめた。
しかしすぐにしゃがみ込んでしまう。
両手で湖面を掬う仕草を繰り返すと、灰色を帯びた水が、その手の中でさらさらと砂と化した。
「あ、、、」
いらだったのか手を払うと湖面の下で影が身震いし、その衝撃か、大きな波が起こった。
突如としてその巨大な波に呑まれていく人の群れ。
そして、その騒動に目覚めたのか、巨大な背びれが四方より現れ、迫ってきた。
それは、湖面の主だったのか?
巨大な顎が湖面から迫り出すと、どす黒い鼻面が覗いた。
漆黒の闇を詰め込んだ眼窩を持つ、髑髏の形相をして、体は骨ばった深海魚のようであった。
四匹の髑髏魚が伯を飲み込む刹那、
ギィグガガゴゴゴォオオオ・・・
湖面下の巨大な影が、伯を包み込むように迫り出し、翠の透明な鱗と紫の背鰭を持つ者として一体と化した。
巨体にぶつかる手前で、その四匹は触れる事も構わず大きく仰け反ると、眼窩から赤黒い血を流しながら、湖底へと沈んでいってしまったのだった。
人々の群れも、その髑髏魚の引波に呑まれてしまったのか、すでに忽然と消え去ってしまい、世界には、それだけが残った。
ぽつねんと残った巨大なものは、湖面の上を這いながら、− 突き出した頭部なのか − 突起を巡らせて、しばしその空間に遊んでいたが、
くん、、、
不意に鼻を鳴らした。
いや、鼻なのかは定かではない。
突起が、そのような音を立てたのだ。
のそり、、、
突起が振り向くと、ゆるゆると這うように両脇に突き出した鰭状のもので体を押し始める。
すん、、、すんすん、、、
香りに導かれるまま、進むことしばらく、
「こんなところに、、、」
まるでかくれんぼをしている子を見つけた親のような、どこか暢気な、そんな声音。
突起が、覗き込むように湖面に近づいた。
そこに立っている男が誰なのか思い出せなかったが、その手に持った花の鮮やかさ、香りの芳しさにくったりと体を伸ばし、湖面に腹を付ける。
「死者の目にも花の色、色鮮やかに映り、その鼻にも、香りは届く。幽世にも、成る程、花は咲くからな。故に、現世において弔いは、花、と相場が決まっている、、、」
手に花燈籠を持った男が、湖面にしゃがみ込むと、手を伸ばした。
その手が、翠の鱗を持つ透明な粘塊質の巨体の腹に入ると、
伯
そう名を呼んだ。
粘塊質の中から、白い手が伸びる。
膝を抱えた姿勢でうっそりと、顔を上げた童の姿が、ゆらりゆらりと陽炎のように現れた。
その手が男の手を取ると、死装束の伯が太陽のある湖面へ。
たちまちにして足元となった月の世界。
そこには、翠の巨体の姿は無く、巨影だけが広がっていた。
「ぁあ、ぅう、、、」
すんすんと花燈籠に顔を近づける伯を、そのまま袂に抱くと、
「無理をさせたな。赦しておくれ、、、」
その群青色の髪に頬を寄せた。
きつく抱くものだからたまらず身じろいだ伯も、すぐにおとなしくなり、鼻を鳴らしてその人の香りと温もりを確かめる。
「伯、さぁ、行こう、、、」
二つの影がそのまま溶け合い、彼方の白い太陽へと続く坂を上り始めると、俄かに黒い雲が湧き雷雨となった。
が、花燈籠を持つ者には、風、雨、雷、そのいずれも白い繭の如き光に包まれ、歩みを阻む事は出来なかった。
御簾の向こうの闇から現れた蒼奘は、すぐさまその足で己が寝所に向かった。
手には花燈籠を持ったまま、乱暴に御簾を掴み上げると、そこには伯が横たわっていた。
「主様、、、」
隅に置かれた行灯に燈る薄明かりの中、伯に付き添っていた汪果と琲瑠が主を見上げた。
「下がれ」
一礼して出てゆく二人と入れ替わりにその傍らに座すと、白い繊手をその胸元に当て、しばらくしてそっと手を引いた。
その金色に染まったままの眸に滲んだのは、紛れもなく安堵、そのもの。
伯の寝着の襟を正し、掛けていた衣をそっと胸元まで引き上げると、花燈籠を軒下に吊るした。
後は傍らで、夜空が白々と明け、薄桃色の雲たなびく彼方の山々が現れる様を、御簾越しに眺めている、、、
「、、、、、」
明け方、勤務を終えて宮中から帰宅し、結局一睡もできぬまま燕倪は、蒼奘の屋敷の前に立っていた。
目の下には隈を刻み、白目は赤々としていた。
まんじりともせずに腕を組み、ここまで言葉を探して歩いて来たのだが、結局の所、掛ける言葉も見つからず。
どうしたものか、時分は、あんな事があった翌昼であった。
結局、黒い獣を討ち果すことは出来なかった。
追っていた検非違使も、さらに四散した為に、すぐに見失ってしまったと言う。
往来の人々の視線も気付かぬほどに、眉間に皴を刻んでいると、
「燕倪様、主がお待ちかねでございます」
ふいに見知った水干を纏った若い男が立っていた。
「琲瑠、、、」
「いつまでもそうして門の前にいらっしゃっては、往来の方々も不審がられましょう」
小首を傾げて向こうを見つめるため、振り向けば、道行く人々との眼差しに慌てて背を向けた。
「ここは知らぬ者はいない都守蒼奘様がお屋敷。ささ、燕倪様、いつものように、、、」
ようはさっさと中へ、そう言いたいらしいのだが、いつもは一声掛けただけで案内の者を待たずして入るのに、今日の燕倪は琲瑠に背を押されるようにして中へ。
よく手入れされた山野草が茂る小道を行けば、
「待っていたとは、蒼奘は、、、」
「お待ちかねでございます」
「、、、、、」
それ以上何も言えずに薄く氷が張ったままの池に出た。
阿四屋の先、渡殿伸びる母屋に、艶やかな紅の衣を肩に羽織った白い髪の美丈夫が、佇んでいた。
「燕倪、遅かったな、、、」
「蒼奘、、、」
「浮かぬ顔だな。道中、何かあったか?」
こんな時に存外意地悪い、と見つめた先に、
「あ、、、」
御簾越しに大杯を干したのか、げふ、と霊紫を吐く伯の姿。
「は、、、は、、、」
「菊の香りも七日までだと、花守が言っていた。お前の酒、先に呑んでいたぞ」
御簾を上げれば、けろりとしたもので、伯が杯を叩いて催促。
その伯の背中を抱くように座ると、大振りの瓶子を燕倪に渡す。
「、、、、、」
何も言えず燕倪が酒を注ぐのを、菫色の眸が見つめている。
やがて満たされた杯は、その可憐な手によって軽々と上げられ、酒は一息で呑み干された。
「まふ、、、」
「それくらいにしておけ、伯」
髪を撫でながら杯を取り上げると、汪果が運んできた膳から、瑠璃の食器を手にし、蒼奘自ら匙を持つ。
とろりと、海松色を帯びた乳白色の粥。
磯の香りが、ぷんと漂った。
「それは?」
「今朝方、今居の浜に上がった黒鮑だ。人の手には直接触れさせず、やわく炊いて、すりおろし、粥状にしたものでな。神饌料理の一種よ、、、」
それを赤子にするように口に運んでやりながら、袖を掴んで放さない伯を見つめ、
「伯に掛けた首飾り、あれはなぁ、こんなこともあろうかと造らせた身代わり護符のようなものだ。まぁ、魂は驚いたのか、抜けてしまい、探し出すのに少々手間がかかったがな」
「さ、先に言ってくれっ、俺はってっきり」
「斬った、か、、、」
「俺は、今でもはっきりと思い出せる。あの時の手応えを、、、夢見が悪過ぎるぞ、、、」
溜息と共に、肩を落としたその姿に苦笑しつつ、蒼奘は匙を置いた。
「お前は斬ったさ。あの狗に付いた鬼をな、、、」
「鬼だと?」
「ああ、狗に巣食った鬼だ。もう、その魂は喰われた後だったのだろうが、宿った鬼共は四散しつつ、術者に還ったことだろうて、、、」
代わりに瓶子を持つと、小振りな杯に酒を注いで、すっと燕倪の前へ。
「お前は、冷静だな。犠牲など厭わぬと平気な顔をして、策を講じ実行して、、、」
恨み言の一つを、酒気を帯びた吐息と共に吐き出した。
蒼奘は、淡く微笑んでいる。
「そんなことばかりしていると、いつか誰も戻って来なくなるぞ」
「ああ、分かっている、、、」
伯の肩に手を置いたまま、
「誰かが代わりに死を負わねば、死相は消えぬ。そう言うものでな。私であれば良かったのだが、、、」
「これからは、先に言え。そのようなものであるのなら、俺はお前にも伯にも、迷惑は掛けたくはない」
強い眸に蒼奘が、微笑んだまま、頷いた。
― 故に、みすみす死なせたくないのだが、、、 ―
伯も、じっとその顔を見つめている。
鈍色の燕倪の眸が、その伯を見つめると、
「お前は俺の恩人だ。だが伯、今度、俺に死相が出ていたら、俺はちゃんと自分で落とし前をつける。蒼奘の頼みだろうが、俺の為に身代わりになろうなんて、考えてくれるな」
茫洋としていた伯の紫の大きな眸が、焦点を結ぶ。
「俺も蒼奘もお前の気持ちも知らずに、あの狗を斬ろうとした事はすまないと思っている。思えばあの狗は、お前に助けを求めていたんだな。だからこれからは、伝えたいことがあるのなら、お前もちゃんと先に言って、、、」
「わかった、、、」
小さな声であった。
思わぬことに一瞬顔を見合わせた蒼奘と燕倪。
「い、今の聞いたか、蒼奘」
「ああ。私も、伯の声を聞いたのは初めてだ、、、」
「お前、なんで今まで黙っていたんだ」
「、、、、、」
再び黙った伯は、もぞもぞと袖を引いて、蒼奘の懐に逃げ込んだ。
その背を擦ってやりながら、
「伯はよく喋る。そうさな、神託とでも言おうか、想いを伝えたい相手の脳波に合わせて送ってくる。それは脳で言葉や映像として変換され、まぁこれには、個人差があるがな。私と伯は、こうして交信していたから、特に現世の言葉を必要としなかったのだ、、、」
「いずれにせよ、俺には理解できんし、体験もできんということだな」
「そう思っているうちは、そうなるかな」
「まあいい。伯に声やそれなりの考えがあることが分かっただけでも、いいさ」
無骨な手を伸ばして、伯の頭を撫でると、ちょっとだけ燕倪を見つめ、すぐにまた顔を蒼奘の胸に埋めてしまう。
「照れているのだよ、、、」
「それくらい、俺でも分かる」
「、、、、、ぅう」
もぞもぞと衣に顔を押し付けるのを好きにさせながら、蒼奘はようやく杯を手にした。
その杯に、燕倪が酒を注ぎ、
「雪だ、、、」
白く薄雲が覆った空より、羽毛大の雪が舞い降りる。
それを眺めながら杯を干せば、燕倪がもう一杯、と瓶子を傾ける。
「さて、風邪を引く前に、中に入ろうか、、、」
「ああ。続きは火鉢をひきつけて」
「肴は干したサザエがあるが」
「それで呑もう、、、」
「ああ、、、」
御簾の向こうへ。
蒼奘に手を引かれて歩きながら、伯が振り返ると、
「、、、、、」
軒先に吊られた花燈籠が役目を終えたのか、細かい粒子となって雪の合間に流れていくところであった。