第拾幕中 ― 四季襖 ―
知らず知らずのうちに、異界へと足を踏み入れた燕倪。その後を追う、伯と琲瑠は、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十幕中編。。。
「とか何とか言ったって、放っておけるかよ、、、」
ぶつぶつと言いながら、屋敷を出た。
犠牲者が少なからず出ている以上、知らぬふりなどできぬ性分に、自ら項垂れての出発となった。
東の空に、大きな月が掛かっている。
こんもりとした雲が、いくつも夜空を行くが、どれも空を覆うようなものではなかった。
恵堂橋を渡り、その先にある都守の屋敷の門を叩けば、案の定、
「相変わらず、でして、、、」
琲瑠のなんとも言えぬ顔が、出迎えた。
「だろうな。また、これから警邏に出るんだが、、、」
「それが若君は、今宵はもうお休みに」
「そっか。じゃ、またな」
嫌な顔ひとつもせずに、にこりとして、背を向けた燕倪。
「燕倪様っ」
琲瑠の声が、呼び止めた。
「なんだ?」
「あの、、、くれぐれもお気をつけて」
「おう」
月明かりの中。
遠ざかるその人を見送って、琲瑠は門扉を閉めた。
そして、
「これで、宜しいのですね、若君?」
屋敷の内側。
燕倪から、ちょうど死角になっていたその暗がりに、白い水干を纏った伯が、
「、、、、、」
菫色の双眸で空を睨んでいる。
そこへ、汪果が長衣を持って現れた。
「こんな事ならば、若君の丈を測っておくべきだったわ」
どうやら丈が合わず、縫い直していたらしい。
「私も気がつきませんで、、、」
申し訳なさそうに苦笑した、琲瑠。
伯の肩にふわりと掛けてやると、琲瑠には大振りの瓶子を一つ抱かせ、
「若君。月夜は、彷徨い出るものも多いですから、必ず琲瑠の目が届く所にいてくださいまし」
汪果が、その首に翡翠の連珠を掛けた。
群青の髪は艶やかな黒髪へ。
小さな翡翠の角は消え、漆黒の眸が汪果を見上げ、
「、、、、、」
こくり、、、
頷いて、門の外に出た。
「それでは、行って参ります」
微笑みながら会釈する琲瑠に、
「留守はわたくしが、、、」
汪果が頷いた。
琲瑠が振り向いた時には、すでにその姿は、彼方。
「ああ、若君っ」
ふわり、また、ふわり。
月夜に舞うかの如く、辻へと消えた伯を追いかけて、琲瑠が駆け出した。
門から顔を覗かせ、その背を見送っていた汪果が、
「大丈夫かしら、、、」
ぽつりと、呟いた。
「この辺りか、、、」
銀仁に手渡された地図に、記された、その辺り。
月影浮かぶ水路に掛かった橋を渡ると、長い築地塀の屋敷らが、軒を連ねている。
水路沿いに植えられた柳の木々がさわさわと揺れ、塀の上を歩いていた猫は、こちらに気づいて足を止めた。
― これまた同じような屋敷が、揃いも揃って幾つも、、、 ―
一歩、その界隈へ足を踏み入れれば、白い築地塀が延々と連なり、さながら迷宮の如く。
人気の無いそこを行くのは痩せた野良犬と、風に舞う木の葉くらい。
しばらく歩いたところで後ろを振り返り、
― 誰か、連れてこれば良かったな、、、 ―
どれも同じような築地塀のせいで、己の現在地も分からなくなりそうだ。
「どうしたものか、、、」
さすがの燕倪も溜息、一つ。
見上げた夜空にちょうど、流れる雲から顔を出す満月の姿があった。
鈍色の双眸を眇める燕倪の影が、長く長く伸びた。
じょう・・・じょう・・・
「ん、、、?」
その耳に、どこからとも無く聞こえる琵琶の音。
自然、燕倪の足が音の聞こえる方へ。
両側を延々と伸びるかに見えた白い築地塀の果て。
「ここは、、、」
欠けたるところなど一つも無い白壁に、四足門。
白い石が敷き詰められたその向こうに、見事な大銀杏を頂いて、荘厳瀟洒な屋敷がひとつ。
開け放たれたままの門の向こうには、行灯の灯りが洩れていた。
ヒョウ・・・
篠笛の音に誘われて、思わず門前に立ったところで、
「?」
燕倪は、辺りを見回した。
屋敷の向かい。
眼を凝らせばその暗がりの中から、丸々とした鼠が二匹、駆け出して行くところであった。
首を傾げたその背に、
「もし、、、」
女の声。
振り向けば、臙脂の着物を纏い、豊かな黒髪を巻き上げた女が、立っていた。
「ああ、すみません。なんとも言えぬ琵琶の音に誘われてしまって、、、」
苦笑した燕倪に、
「そうでしたか、、、お耳汚しでは、ございませんでしたか?」
縋るような顔で、女が言った。
硬く閉じられた、眼は、光を失って長いのかもしれない。
「いやいや、天上の月も聞き惚れて、貌を覗かせた程で、、、」
と、見上げた先。
― おかしいな。月が、、、 ―
いつの間にか、空は薄雲で覆われ、辺りには夜霧が漂っていた。
それでも雲の向こうにある月は煌々と明るいのか、闇が辺りに青白くに滲んでいるようにさえ、思えた。
賛辞の言葉を受け、にこりと微笑んだ女が、
「ここは、瑚麝姫様がお屋敷。音に誘われ、いらしてくれたのなら、昼夜を問わず客としてもてなすように、仰せつかっておりますれば、、、ささ、どうぞ、、、」
ふわりと、前に出た。
「あ、、、」
危なげな足取りに、咄嗟にその腕を取ったところで、女が燕倪の腕に身を寄せた。
開いた着物の襟から、豊満な胸元が覗く。
「あ、、、いや、こんな夜分遅くに、そのようなつもりで、、、」
目のやり場に、慌てた燕倪の腕を、その胸に抱いて、
「秋の夜は、長ごうございます。これも何かの縁と思うて、どうぞこちらへ、、、」
「いや、しかしっ、、、」
「ささ、、、」
引かれるままに、屋敷の内へ。
どうも、この男。
鬼は叩き斬れど、女子供の細腕だけは、どうしても振りほどけぬ性質らしい、、、
「、、、、、」
首根っこを掴まれ、おとなしくしていた伯は、草履がようやく大地についたところで、顔を上げた。
― なんとも鋭いというか、、、 ―
築地塀の影から、向こう側を窺っていた若者は、屋敷のうちへと消えたその背を見送って、安堵の溜息を一つ。
塀に背を預け、伯の前にしゃがみ込んだ。
「申し訳ございませんでした、若君、、、」
そっと水干の襟を直すのは、琲瑠。
「しかし、危うく見つかるところでしたよ」
今にも出ていきそうな勢いで身を乗り出し覗いていた伯を、琲瑠が影に引きずり込んだのだった。
草履で、転がっている砂利を蹴り上げるのを、
「、、、まだ、すねていらっしゃるので?」
「、、、、、」
宥めるように、琲瑠が言った。
「貴方様を頼りにしておられるからこそ、こうして、、、」
「、、、、、」
「若君、、、」
能面の如き貌が、空を眺めた。
月が雲に陰り、そして、再び顔を出した。
伯は、影からその月明かりの中へ。
「ハイル、、、」
主君に呼ばれ、その傍らへ。
その手が、琲瑠の抱えているものを、ひたひたと叩いた。
白磁の瓶子。
「ああ、そうですね。お月見酒、、、」
ようやく機嫌を直してくれたのか、にこりとして、その背に続いた。
燕倪が消えたはずの屋敷を見上げ、
「しかし、、、」
琲瑠は苦笑した。
手入れされぬまま、朽ち果てる時を待つ屋敷が、一つ。
この界隈に住む者達を、震え上がらせるこの屋敷。
魍魎屋敷。
入ろうものなら高熱を出し、取り壊そうものなら決まって死人が出た。
火をかけようとものなら、己が身に燃え移り、俄か雨に呑まれる始末。
誰のものであったか、口伝するのもはばかり、時折訪れる者といえば、事情を知る古参の陰陽師らで、誰も踏み込まぬようにと張り巡らせた注連囲いを見回るのがせいぜいだ。
「、、、、、」
そんな注連囲い、謂れなんぞ、なんのその。
伯は、崩れ、塞がりかけた門を、潜って行く。
その背に続きながら、
「なんともおどろおどろしいお月見に、なりそうですね、、、」
いつものなんとも言えぬ琲瑠の声音が、夜気に滲んだ。
危なげな足取りも屋敷の中では勝手知ったる、とでも言うように奥の間へと誘われる程に、しっかりとしたものになった。
燈明の灯りが点され、夜霧に煙る庭に面した部屋に通された時、袈裟を纏った小柄な法師が、人の良い笑みを浮かべ、手をついた。
「いらせられませ。御身足を病み、屋敷の奥で寂しくお過ごしの姫も、喜びましょうぞ」
「いや、、、」
言葉を探しているうちにその腕に縋った女が、望月に芒野が描かれた襖の前に腰を下ろした。
「なんのおもてなしも出来ませぬが、ささやかながらの歓待、お受けくださいますね」
「お気遣いは無用に。拙者は、その、、、ほ、ほんの通りすがり。やんごとなき姫君のおわすお屋敷とは露知らず、とんだご無礼を、、、」
恐縮する燕倪に、法師はほろほろと笑った。
「何をおっしゃいますか。名のある御仁とお見受け致しました。そのままお帰りになったとあれば、後々姫様にきつうお叱りを受けてしまいます。さあ、遠慮なさらずに、、、」
法師の目配せが分かったのだろうか?
女は眼を伏せたまま、襖を開けた。
脚付きの膳が並べられ、松茸、いわたけ、うるかにからすみ、海鼠腸、鮑などなど、、、
山海の珍味が、色とりどりの瓶子と共に、用意されていた。
歓待となれば、ますますおかしな事になると、
「あ、、、これでも拙者は武官の端くれ。さ、酒は嗜みもうさぬ」
咄嗟に口からでまかせを言った。
「では、お食事だけでも、、、」
ぽってりとした唇を尖らせる女に、
「あいや、それも先ほど済ませたばかりで、、、そのお心だけ頂いて、今日はこれにて」
すまなさそうに、申し出た。
頭を垂れ、来た道を戻ろうとしたその足を、
ヒョウヒョウ・・・ロロ・・・
どこからとも無く漂う篠笛の音が、引きとめた。
法師の笑みが、深くなった。
「どうぞ、こちらへ」
先に立った法師の後に、渋々従いながら、
― おかしなことになってきた、、、 ―
ぼんやりと霧煙る広大な庭を、眺めたのだった。
明りは、天井から吊るされた透かし燈篭。
青みの強い硝子が嵌め込まれているのが、四方を襖で囲まれたその一室は、浅葱の紗幕が下りたようであった。
「当お屋敷では、四季襖と呼んでおりますれば、お聞苦しいかとも存じますが、一曲、、、」
じょうじょうと琵琶を掻きならすのは、三十路をいくらか過ぎたあの盲目の女。
透けるように白い肌は、そのまま陽の光を浴びたなら、溶けてしまいそうだ。
臙脂に白菊を縫取った衣から、ぬめぬめとそのまま色香が滴る胸元が、覗いている。
細い首筋は、後ろ襟が大きく引かれ、哀愁と女盛りが鬩ぎ合って見えた。
しかし、固く閉じられた眸、鼻筋通り、ぽってりと厚い唇は今、引き締められ、その五感全てが琵琶と同化しているようにも、見える。
朗々と低く喉を震わせ唄うのは、鄙びた法師。
枯れ木のような痩躯は、墨色の袈裟を纏い、膝に置かれた手には、数珠が巻かれている。
落ち窪んだ眼窩には、白く濁った瞳が嵌め込まれ、どこかここではない彼方を眺めている。
時折、思い出しかのように手繰られる数珠が、微かな音をたてた。
それは、弔いを生業とする者である、己への戒めだろうか、、、?
二人からやや遅れて現れたのは、漆が塗られ糸巻きも重厚な篠笛を口に当てている、女よりも幾分若い男。
艶やかな黒髪は梳られたままに流し、深藍に、こもり雪を縫取った直衣を纏っている。
長い前髪から覗く物憂げな眼差し、高い鼻梁に、色の薄い唇。
そこから細く吹き入れられた吐息が、憐憫を湛えた音となり、どこか篠笛が咽び泣いているかのようにさえ聞こえる。
法師が春を唄えば、琵琶弾きが春の野に出た小鹿の喜びを奏で、楽師の笛が桜がはらはらと風に散る様に泣く。
夏を唄えば、夜の川面で刹那の愛を謳歌する蜻蛉を奏で、河鹿が鳴く。
秋を唄えば、野を駆ける人の子らを奏で、風車がカラカラと哭く。
冬を唄えば、しんしんと降り注ぐ雪を奏で、森の番人梟が啼く。
四方の豪奢な襖絵が、そのまま動き出すかのような、そんな幽玄の世界に、さしもの燕倪も我を忘れ、いつしか深く聞き入っていた。
いつ終るとも知れぬ、管絃の宴。
それは、いつ終ったとも知れぬ管弦の宴となった。
法師が喉を押えた手を離し、琵琶弾きの女が撥を置き、楽師は膝に篠笛を置いた。
俯いたきり、ぴくりともしないその男を、法師が満足そうに頷き眺めた。
その眸は、開いていた。
口は半分開き、肩に力は無く、今にも崩れ伏してしまいそうであった。
「お疲れだったのかな。琵琶女、床をのべて差し上げなさい」
「はい」
法師が、その身ににじり寄ろうと立ち上がり、女が抱いた琵琶を置く。
顔を背け、眸を伏せた楽師が、退出するために膝に力を入れた時であった。
かた・・・
何かが、鳴った。
膝に投げ出されていた燕倪の手に、僅かに業丸が触れていた。
「、、、、、」
ゆっくりと、燕倪は顔を上げた。
焦点定まらぬその眼差しが、天井に吊られた燈篭を見つめ、
「いやはや、なんとも見事な、、、」
破顔した。
「瞼に浮かんだ四季折々の情景に、ついつい魂を抜かれてしまったようです」
「そ、れは何よりのお褒めのお言葉、、、」
座りなおした法師に、
「まこと、天上に遊んだ心地にございますれば、姫君に是非とも、お礼申しあげたく、、」
燕倪は、伏して請うた。
「勿論でございますとも。それではそこの御仁を、姫の間へお連れ致せ、、、」
法師が声を上げ、琵琶弾きの女が身じろいだが、
「わたくしめが、、、」
そっと立ち上がった楽師が、手にだらりと篠笛をさげたまま、締め切られていた襖の一つを開いた。
外には、仄白い闇が滲んでいる。
「こちらへ、、、」
抑揚の無い低い声音に続いて、廊下に出た。
襖が閉められたところで、
― 危うく意識を失いかけたぞ。気をつけねばなるまい、、、 ―
そっと業丸に触れた。
楽師に導かれるまま、黒曜石が敷き詰められた渡殿を行く。
― しかし、いったいなんなんだ、ここは、、、銀仁が言っていた、その異界とやらか? ―
月明かりに青白く染まった広大な庭。
大陸辺りから運ばせたのか、見上げる程に巨大な奇岩は苔生し、薄く湖面を漂う夜霧のせいで、それだけで峻険な山稜のようにさえ見える。
その足元に広がる池は、なだらかな岸を持ち、霧に果てを覆われてしまえばそれだけで、大海原のようだ。
寄せては返す波のように、湖面がゆらゆらとして岸の砂を弄っている。
鼻腔をくすぐる甘くて深い馨しい香りは、いったい何の香木であったのか?
ぼんやりと霧に包まれ始めたそこを眺めていると、ここがどこであるのかさえも、何故ここに居るのかさえも忘れてしまいそうだった。
― これは、なんという心持だろう。袖を引かれているような、、、 ―
そのまま渡殿の欄干に肘をついて、いつまででもこの景色を眺めていたいものだと、足を止めそうになったところで、
リ・・・ィイン・・・
鈴の音が、聞こえた。
はっと、前を向いたところで、先を行く楽師が腰を折っている。
ちょうとその仄白い手が、床に転がった包みを拾い上げているところだった。
我に返った燕倪は、慌ててその楽師の元へ歩み寄った。
その足元に、真鍮の香炉が一つ。
細い煙を、燻らせていた。
― いかん。はぐれたら身も蓋もないぞ ―
何事も無かったかのように歩き出した楽師に続き、渡殿に掛かる霧を抜けると、ようやく渡殿の果てを見た。
「これは、、、」
母屋とばかり思っていたものは、その実、客人を持てなすためだけの迎賓用。
広大な庭を贅沢にも割って伸びる渡殿の向こう。
夜霧に沈んでいるのは、湖の如き池を抱き包むかのように両翼を伸ばす、荘厳すらある寝殿造りの屋敷。
その規模は、四季襖の間で、この屋敷の粋を知ったと思った己の浅はかさに赤面してしまう程であった。
行灯の灯りも無く、静謐と永遠とも言える宵闇に染まった屋敷に上がり、楽師の後ろに続きながら、ふと、
― しかしこの楽師、随分と背の高い、、、 ―
線が細いと見えたのは、座っていた時の角度であったらしく、こうして先を行くその背中は広かった。
背も、己と殆んど変わらぬ程であるから、この容姿と相俟って人の中に居ればさぞかしと目立つ事だろう。
「武官殿、、、」
先の角を曲がったところで、手にした篠笛を先ほど拾い上げた包みにしまいながら、楽師が振り向いた。
「む、、、」
薄暗がりの中、楽師の仄白い貌がすぐ間近にある。
まじまじとその貌を見める羽目になった燕倪は、長く垂れた黒髪の間から垣間見える能面の如き面相に、
― なんとも、端正な、、、 ―
一瞬言葉を失いかけた。
それを見越したのか、
「ふ、、、」
その色の薄い唇から、小さく笑みがこぼれた。
「なんだ?」
黒髪の奥で艶光る、漆黒の眼差しに見つめている。
「、、、面白い御仁だ」
さらに近づくその貌に、
「お、おっ」
眼を見開いて、弾かれたように声を上げようとする燕倪の口を、楽師の手が塞いだ。
「お静かに、、、」
「う、、、」
一呼吸おいてゆっくりと手を離せば、その眼差しが彼方を見つめた。
「この先に、瑚麝姫がいらせられる、、、」
袖に篠笛を差し入れると、楽師が再び背を向けた。
その先の板の間に入ると、奥の襖の前で膝をついた。
深紅の体毛、金目の双鶴が睥睨する襖に、恭しく楽師が手を掛けた。
「くれぐれも、粗相の無いように、、、」
一声掛けると、その唇を意味深に吊り上げ、襖を開けたのだった。
ころりと足元に、鞠一つ。
「あっ、、、」
小さな声音が、もれた。
棒立ちの燕倪が、見えない糸に引かれでもしたかのように、一歩、前へ出た。
「瑚、麝姫、、、?」
問いただそうと振り向いたところで、そろりと襖が閉まる所であった。
「そっ、、、」
「とってたも」
叫ぼうとしたところを、
「えっ、、、あ」
可憐な声が乞うた。
金銀紅の錦の糸巻きも鮮やかなその鞠を、大きな手が拾い上げた。
そっと膝をつき見上げたその姫に、ふわりと投げ渡せば、ころころと中に入れられた鈴の音が響き渡った。
「ほんに、よう来てくれた、、、」
秋の野に青鷺が描かれた屏風を背に、燈明の灯りの中で鞠を手に微笑むその姫は、纏っているものこそ上等な朽葉色の襲目色の単であったが、
― これが、屋敷の主。異界に潜む化生と言うのか、、、? ―
鬘結いでもおかしくない年頃の、可憐な童女であった。
「もそっと近くに、、、」
「あ、、、」
辺りには、絵巻や異国の人形、見たことも無い動物を象った彫物が散乱している。
「もどかしいのう。わらわはこの通り、そこに行くことがままならぬのじゃ」
桃色の唇を尖らせ、そろりと長袴の裾をたくし上げた。
「つッ」
雪色の肌、その細い両の足首に残る、生々しい傷跡。
恥ずかしそうにそれを隠すと、凭れた脇息をぽんぽんと叩いた。
「なれば、失礼を、、、」
なるべく平静を保ち、足元に散乱する玩具を払い分け、姫の傍らに行けば、
「そなた、名は?」
「燕倪と、、、」
「ふふ、、、時雨の言うていた通りじゃ」
たおやかな手が、燕倪の頬を包んだ。
「なんです、姫、、、?」
手に硬い前髪を押し上げると、訝しげな燕倪の心配を他所に、姫の貌が近づいてきた。
その眸を覗き込みながら、
「青鈍の眸」
姫が言った。
「ああ、、、禍つ色と呼ぶのですよ」
燕倪が、慣れているとでも言うような声で応えた。
父母は何も言わぬが、喪に服す色だと、一族の者達に陰口を叩かれた事も少なくない。
遠目では黒く沈んで判らぬが、こうして燈明の灯りの近くで見れば、隠す事などできはしない、深い青みを帯びた鈍色。
凶色の眸も物珍しいものだろうが、
「大御爺様と同じ、、、」
よもや、同じような眸の主が二人と居たとは、、、
「大御爺様、、、?」
「ええ。まだ、側仕えの綾音も杷野衣もいなくなって直に、一度だけ訪ねて来てくださったの」
瑚麝姫は、燕倪の青味の深い鈍色の眸を見つめて、言った。
「とても綺麗なお目、、、」
「綺麗、、、」
呆然とした燕倪の眼差しの先で、しかし、
「この色のお目は、よく憶えている。大御爺様が、大きなこのお目でさめざめと泣くものだから、わらわは困ってしまって、、、」
瑚麝姫の貌に翳が落ちた。
「殿方の涙など、その時初めて目にしたから、どうかお心安くとお頼みしたのだけれど、、、」
その涙は、止まらなかったのだと言う。
『生き、生き、生きていれば、いつかきっと、姫の前に再び見える事もできよう。その時は、、、』
それだけを言うと、巌の如き体躯の老人は、屋敷を後にしたのだと言う。
「その時は、、、」
燕倪の呟きに、瑚麝姫が微笑んだ。
「こうして再び見えたのは、他でもない、、、」
そのたおやかな手が、そっと業丸の柄頭に触れた。
かた・・・かた・たた・・・
鞘鳴る業丸を、燕倪の手が押さえると、それはぴたりと止んだ。
「大御爺様のお導き、、、」
ひどく年老いた者のような吐息が、可憐な唇からもれた。
「いつの事だと問われても、わらわにはもう思い出せぬし、思い出したくも無いのじゃ」
明けぬ夜を数えども、月もなければ星もない。
夜霧と、永遠とも思える静謐の中、偲ぶ誰かの顔も名も、忘れ果てた。
ぼんやりと思い出すのは、大した手柄も功績も無いくせに、本家の栄光の影に埋没してしまう事を恐れた父が、好き者で知られる時の少納言に齢十二の己を嫁がせたことだ。
その日の閨での出来事も、逃げぬようにと切られた足の痛みも、靄がかかったその向こうで、はっきりとは思い出せない。
足の傷による熱でうなされる中、門付けの琵琶弾きを屋敷に招き入れ、その撥に寝首を掻かれようとも、怪しげな法師が出入りしようとも、瑚麝姫の知るところではなかった。
「長かったようにも、短かったようにも感じるが、、、」
侍女がいなくなっても、琵琶弾きと法師によって絶えず届けられる、見たことも無い玩具の数々が、瑚麝姫の心を慰めた。
そう思い込むように、していたのだが、
「それもようやく終わる、、、」
その眼差しは、ただ一つだけを見つめている。
「ほんに待ちわびた、業丸よ、、、」
破魔の太刀、業丸。
不意に、襖の向こうから篠笛の音が聞こえた。
甲高く啼けば、低く腹腔轟かせる。
その篠笛の音に合わせて、業丸が再びカタカタと音を立てた。
漆黒の眸が燕倪を見つめ、その手が離れると、そっと肩に掛けていた衣を脱ぎ落とす。
― なんてことだ、、、 ―
燕倪は瑚麝姫の真意を知り、愕然とした。
『生き、生き、生きていれば、いつかきっと、姫の前に再び見える事もできよう。その時は、、、』
それに続いた言葉は、、、?
― 業丸で、斬るつもりだったのだ、、、 ―
忙しなく震える業丸の柄を、燕倪の手が押さえた。
この鯉口を斬って、細首を刎ね上げる。
燕倪の腕であれば、造作もない事。
― 嗚呼、だがっ、、、 ―
悲痛な色がその鈍色の眸に蔭を落とした。
― 斬れようはずが、ないではないか、、、ッ ―
橙に揺れる、燈明の明かり。
華奢な童女が、白い小袖の胸元を寛げるのを、
「そなた、、、」
燕倪の手が止めていた。
「何か、他に方法があるはずだ」
乾いた喉から搾り出すような、その声音。
打掛一枚、その肩に掛けると燕倪は背を向け、膝をついた。
「行こう」
「どこ、へ、、、?」
眼を丸くした瑚麝姫に、
「こんな屋敷から出るんだ」
「あ、、、」
「野に出れば錦の如く、落葉が川を流れるんだ。鹿や雉がそこを渡って、、、それを見たら、百年の憂さも晴れるぞ」
燕倪は、力強く言い放った。
ぽつりと、
「落葉か、、、」
瑚麝姫が呟いた。
「ああ。空は高く、雁が山の向こうへと群を成して跳んでゆく。風は冷たいが、馬で行こう」
「馬、、、」
「名は、千草だ。どの馬よりも速いぞ」
「ふふ、、、」
瑚麝姫は、そっと燕倪の肩に手を掛けた。
背に、華奢な体が身を寄せると、燕倪は左腕を後ろに回した。
長い紅の袴を払い、立ち上がったその拍子、
「お、姫、苦し、、、」
瑚麝姫の腕が、燕倪の首に回って、しがみつく。
「あっ、、、」
慌てて腕の力を弛めた。
「千草で野に行って、それからはどうするのじゃ、燕倪?!」
耳元で、どこにでもいる童女のような元気な声音が、ようやく聞けた。
自然、燕倪の口元も綻び、
「そうだな。美津にも行こう。広い海があるし、食べ物も旨い。少しばかり寒いだろうが何、それもまた良いものだぞ」
「海、、、」
溜息が、こぼれた。
「瑚麝姫。だから少しばかり、眼を閉じていろよ」
こくり・・・
素直に頷くのが、わかった。
肩に頬を寄せた、瑚麝姫。
一呼吸した後、燕倪は意を決したように、勢い良く襖を開け放ったのだった。
「聞いていただろう」
襖の向こう。
黒髪の楽師が立ち上がった。
先程まで吹いていた篠笛を手に佇むその襟を、燕倪の力強い手が乱暴に掴んで引き寄せた。
「お、、、」
引き寄せられるまま、闇色の眼差しを据えると、
「何か言う事があるか?」
鈍色の眼差しが、眼光鋭く睨み上げてきた。
「お前は姫を斬るお膳立てをしたようだが、俺はここを出るぞ。瑚麝姫も一緒に、だ」
低く唸るようなその声音に楽師は、背に負われた姫を一瞥し、
「当方に、異存は無い。ただし、、、」
静かに言った。
「姫が望んだのであれば、だ、、、」
どこか冷ややかな楽師の声音に、
「時雨よ。そなたには感謝している。だが、わらわは、、、」
可憐な声が応じた。
「わらわは、外が、見てみとうなったのじゃ」
それは、強い願いであった。
「、、、なれば、瑚麝姫の仰せのままに」
打掛を、眼を閉じてじっとしている瑚麝姫の目深に、被せてやる楽師を、
「回りくどい事をさせやがって、、、」
憤り収まらぬ燕倪の、呟きが洩れた。
その顔をちらりと一瞥し、、
「まだ、分からぬと言うか、、、」
襟を掴まれたままの楽師、その鬱々とした声音が迎え撃つ。
こんな時にでも、煮えきらぬその物言いに、
「はっきり言えよ、蒼奘」
楽師に扮したその名を、呼んだ。
「、、、、、」
闇を湛えた切れ長の双眸が、静かに見つめてくる。
「む、、、」
腹腔に渦巻く苛立ちが、冷や水を浴びせかけられたかの如く、霧散してゆくのが分かった。
― 何か、あるのだ。考えろ、考えろっ ―
業丸を待っていた、瑚麝姫。
邂逅を、咽び鳴くかのように鞘鳴り震えた、業丸。
青鈍の眸を持つ、かつての業丸の主、その涙。
その意味を、、、
「まさか、、、」
顔を上げたその友に、
「そのまさかよ、、、」
襟首から力が抜け、ようやく手が離れる様を見つめながら、蒼奘が言った。
「愛智姫の、、、」
「ああ。紛うこと無き、その所縁の姫よ、、、」
「では、大御爺様と言うのは、、、」
「瑚麝姫の時代、その身内でそう呼ばれた者は、ただ一人、、、」
「土師業鴛、、、」
息を呑んだ燕倪が、
「何故、こんな事に、、、」
絞り出すかのように吐き出した。
「わらわは、大御爺様がいらせられた時、何も知らなかったのじゃ」
「瑚麝姫、、」
― 故に、斬れなかったと言うのか、、、 ―
何も知らぬうちに、時を止めた瑚麝姫の前では、さすがの土師業鴛も業丸を抜く事すらできなかった。
それも、当然であった。
今、燕倪が背負ったその身は温かい。
紛れも無く、瑚麝姫はこの異界に在って、生きているのだから。
「ならば、どうしてその時連れ出さなかったっ」
その声音に、
「連れ出せなかったのだ、、、」
蒼奘が静かに応じた。
「化生共の外法によって、異界に呑まれた瑚麝姫は、そのままこの異界の楔。楔を欠けば異界はやがて消滅し、同化している姫も、おそらくは、、、」
「それでは、どのみち、、、っ」
首にしがみつく、瑚麝姫の腕の力が、強まった。
「何か手は無いのか!?」
ぎりと奥歯を噛みしめた燕倪の叫びに、無情にも蒼奘が、首を振った。
「この異界を補完している化生に知れれば、異界の構造は変えられ、瑚麝姫を隠される。私も手出しができぬ故、奴らの誘いに乗り、お前を招き入れたのだ、、、」
「姫を、、、」
― 斬らせるためにッ!! ―
肩を怒らせたのが、伝わって、
「誰も責めてくれるな、燕倪。この業丸は、わらわと異界との根を断ち切る唯一のものと言う。思えば、せめて魂だけはと、大御爺様自ら参ってくれたのじゃ、、、」
「瑚麝姫、、、」
「わらわは、何も知らぬで、大御爺様を迎えてしまった。もしあの時、今宵のような心持であったならば、そなたにこのような迷惑は掛けずとも済んだのであろうな、、、」
「、、、、、」
頬を肩に摺り寄せる瑚麝姫に、燕倪に言葉を失った。
そんな燕倪に代わり、
「瑚麝姫よ、、、」
業丸に斬られ、冥府へと送られる事を望むのなら、そう改めて問おうとした蒼奘に、瑚麝姫は子供のようにいやいやと首を振った。
燕倪が、黙ってその腕に、手を置いた。
言葉を失った二人の前に、蒼奘が背を向け、
「祖先の恨み辛みは、時としてその血に色濃く出る場合がある。それも等しくその者の業と呼ぶのは一概にどうかとも思うが、この世にはそれを煽り、つけ入る化生もいる、、、」
庭に面する間へと続く襖を、睨んだ。
その言葉に呼応したかのように、腰に帯びたその太刀が、震え始める。
「業丸、、、」
柄頭に手をやれば、焼きつくかのように灼熱していた。
燕倪は、その柄を強く握り締める。
青角となった憧杏の顔が、脳裏を過ぎった。
― 嗚呼、これが、、、 ―
今、燕倪が感じているものは、己が体と太刀が同化しているような感覚と、
「業丸の、怒り、、、」
鋼の心。
青い唇の端が、微かに吊り上った。
懐に篠笛を仕舞うと
「その太刀は、どうやら使い手を違えた事がないらしい、、、」
次に現れた繊手には数枚の符が挟まれていた。
「どういう事だ?」
「お前のような者が、代々その業丸を育んで来たのだろう」
「けなしているのかよ」
深藍に染められた直衣の袖が、振られた。
「褒めているのさ、、、」
愉しげな声音と同時に、
ガッ・・ガガガッ・・・
襖が倒され、そこから雪崩れ込んできた者が揃って、仰け反った。
「なんだこいつらっ」
闇に無数に蠢くのは、赤光嵌め込まれた、眼窩だ。
甲冑を纏っている者もいれば、襤褸のような衣を纏っている者もいる。
大よそ倭の国には見られぬ半月刀を持つ者も居れば、まだ死してそれ程経ってはいないのか、赤毛の異人の姿もある。
がち・・・がちがち・・・
蒼奘の牽制が利いたのか、一様に皆、歯を鳴らし、こちらを見据えている。
どうやらその屍、骸の群は、池の岸より湧き出しているようで、
「琵琶弾きと法師にけしかけられ、姫を一目見ようと屋敷を訪れたが最後、喰われ道を違えた哀れな者共よ」
「無限に湧き出しそうな勢いだぞ」
「異界は不安定だ。この世のどこに現れるか分からんからな。ここ百年振りの帝都への里帰りなれば、相当数、亡者を抱え込んでいる事だろうて、、、」
「業丸は、逸っている。この際、幾らでも付き合うぞ」
腕を捲くる燕倪の右手に、
「魂無き、ただの亡骸相手に、業丸を染めるは勿体なかろう、、、」
蒼奘の手が掛かった。
「なら、どうするんだ」
「待ちかねて、舟をこいでいる者が一人、、、」
青い唇が、
「ソルーイよ、、、」
その名を呼ぶ。
夜霧に包まれた、屋敷の一画。
大きな銀杏の古木が、はらはらと黄色の葉を散らせるその下。
生き物の姿など、昼間でも到底覗い見る事叶わぬ沼に、しゃがみ込んでいる人影があった。
抱えるには調度いい石を抱き、うつらうつらしているのは、水干を纏った伯。
その傍らには琲瑠と、空の瓶子が一つ転がっている。
もう、どれ程の間、そうしている事だろう。
凍える夜気に霧と相俟って、衣は冷たく重い。
持ち込んだ酒も底を尽き、残るは睡魔だけとなったらしい。
懸命に、眼を開けようとしているが、その抵抗虚しく、細い寝息が聞こえ出した。
肩に掛けた長衣がずり落ちて、琲瑠が手を伸ばしかけた、その時、
「、、、、、」
ぱちりと、伯の眸が見開いた。
「若君、、、」
翡翠輪で抑え込まれているはずのその眸に、琲瑠は黎明を見た。
炯々と光る菫色の眼が、闇色の水面を眺めた。
「ハイル」
首の翡翠と瑠璃硝子の連珠を外すと、群青色の髪が風も無いのに巻き上げられた。
その身が水面へと吸い込まれるようにして投げ出されると、
シャ・アァ・・ァン・・・
微かな波紋だけを残して掻き消えた。
闇色の水面を覗き込んだ、琲瑠。
凪いだその水面には、
「お気をつけて、、、」
心配そうな自分の顔が、映っている、、、