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第玖幕後 ― 青角 ―

 西の森の地仙青角の屍が眠る川で、青き角を探す伯と燕倪。しかし、その角は、意外なところに在った、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第九幕後編。。。


 蝶を狙い、薄い皮膜がついた翼を翻す。

 凄まじい速さで反転したと思ったら、その口に捕らえられていた。

 何処とも知れぬ洞窟の暗がりから現れた、小型の蝙蝠達の群れ。

「ああっ、寒いッ」

 頭上擦れ擦れを掠め飛ぶその下で、さすがの燕倪が音を上げたのは、辺りが暮れ始めた時分であった。

「、、、、、」

 象牙色の肌も紅に染まる、逢魔が刻。

「伯、これ以上は無理だ。さすがに、見つかりっこないぞ」

「、、、、、」

 深くなっている水底を、大きな岩の上から覗き込んでいた伯。

 水を含んで重くなった袖と裾を絞ると、おおよそ人とは思えぬ跳躍でもって、岸に上がった。

 袖に腕を通し、

「これだけ探して無いんだ。もっと下流に流されたのかもな、、、」

「ん、、、」

「明日も探すんなら、付き合うが、、、」

 抱き上げた伯を、千草の背に乗せた。

 馬上に上がり、手綱を手にしたところで、

「いぃ。たぶん、もう無ぃ、、、」

 小さな声が応えた。

「そうか、、、」

 宵闇が迫る東の空を眺めれば、瞬く星々の姿。

 途中、横切るヤマカガシを見送り、雁の声を遠くに聞いた。

 千草に驚いた雉のつがいが、賑やかな羽音をさせて飛び退る。

 静寂には程遠く、忙しない豊かな樹海の夕暮れ。

 山裾に蹲る切妻屋根が見えた時、辺りはとっぷりと暮れていた。

 墨色に沈む集落から漏れる明かりと、たなびく白い煙。

 その景色が、何故だが懐かしく感じる。

 ほっ、口をついて出たのは、安堵の吐息。

 その川岸。

「ソウ、、、」

 白い髪の主が、鋼雨の背にて、二人の帰りを待っていた。


 十六夜月夜。

 庵からは、遅い炊事の煙が上がっていた。

「山の向こうは、ここより冷え込みましたでしょう?猪肉を頂きましたので」

 膳を運んできたのは、尼僧みずは。

 その心遣い。

 脚付きの膳には、里芋や牛蒡、人参、葱などを味噌で煮込んだ猪汁の椀が、湯気を立てていた。

「あ、、、」

 ちらりと見た先に、項垂れたままの伯の姿。

 咄嗟に、

「こ、これは馳走。痛み入ります、みずは殿。我らこと猪肉には、目が無くて。なぁ?」

 苦肉の決断で振った先。

 燕倪に振られた蒼奘はしかし、

「、、、ああ」

 あっさりと頷く。

 この時ばかりは燕倪、蒼奘の良心を確認し、内心胸を撫で下ろしていた。

 共にと乞うて、運ばれた膳は、五つ。

 冷え込む夜気に、半分だけ開け放たれた板戸。

 庭に面した縁側には、芒と秋桜が生けられ、調度芒の上辺り。

 月が、掛かっていた。

 ゆらゆらと頼りない燈明の灯り。

 けれど、平素閑散としている客間が、今宵は賑やかだった。

 箸を持って、すぐの事だった。

 こりこりと、音がする。

「ん?」

 燕倪は、隣にちょこなんと座った伯を覗き込んだ。

 見れば、その口から骨が出ている。

 思わず燕倪が、骨を抓んで引っ張ると、

「んやッ」

 手を払われた。

「気に入ったようだな、、、」

「軟骨のところが好きなのか、、、」

 かり・・・こり・こりこり・・・

「羽琶殿の前だと、酒以外もちゃんと食べるんだな、こいつ」

 ぷっくりとした頬を突けば、つんとそっぽ向いた。

「ああ、そう言えば、、、」

 遠野に現われた、神々しいまでに巨大なその姿。

 あの日、腰を抜かす程驚いたが、

幼子おさなごと思いまして、杯の用意もせず、、、」

 こうして見ると、俄かには信じがたい。

 杯をもう一つ持ってくると、あっさりと伯は口の骨を出した。

 水のように杯を干す、童。

 燕倪が瓶子を傾け、空になった杯に満たす。

 それを見ていた羽琶は、

「いくら神仙とは言え、伯様は幼子おさなごに変わりありません。お酒は過ぎるとかえって体を冷やしますから、程々に」

「、、、、、」

 そっと伯の腕に手を置いた。

「ん、、、」

 ややあって、杯を箸に持ち替えるのを、向かいに座る蒼奘の闇色の眸が、穏やかに見つめている。

 場も解れ、食も進み、酒も進んだ頃合。

 話題は、集落での話になった。

「まぁ、、、」

 みずはは、不思議そうな顔で耳を傾け、羽琶は興味津々と言った様子。

 隠棲しているとは言え、若い娘の姿がそこにはあった。

「それでは、子供達も皆、、、?」

「ああ、大事無い。それどころか、当分あの集落に医者は必要なかろう」

 ヤマメの塩焼き。

 羽琶が、隣で身を摘むのに苦戦している伯に世話を焼きながら、

「羨ましいこと、、、」

 ぽつりとこぼした。

 杯を離さぬ蒼奘の杯に瓶子を傾けつつ、

「姫は、季節の変わり目に、必ずお風邪を召しますものね」

「もう、みずは。子供の時とは、違うわ」

「みずはにとって姫様は、いつまでも姫様です」

 みずはが柔和な微笑みを湛え、ほんのりと頬を紅潮させた羽琶を、見つめている。

 みずはだけが知る、羽琶の顔でもあった。

 そんな様子を、先程から目尻を下げて眺めている者がいる。

「不自由な事があれば、文を出せばいい。燕倪が飛んで来たところでどうこうなるかは分からぬが、それでも、、、」

「何っ?!どういう意味だっ」

 傍らで、既に酒臭くなっている燕倪が、とたんに肩を怒らせた。

「頼りになると、言っている、、、」

 空の杯を揺らせば、

「お、俺、俺かぁ?!あ、いやいや、そうですよ。不自由があれば、この備堂燕倪を頼ってくださいっ」

 なみなみと杯を満たしつつ、胸を叩いた。

― 備堂の名がな、、、 ―

 呆れながらも、それを口には出さなかった。

 にこにこと羽琶に見つめられている事にも気づかぬ、この幸せ者を、今は酒に酔わせてやりたい、そんな心持ちだったのかもしれない。

 

 一雨来て、ようやく覗いた、晴れ間。

 朝陽が東の空の雲間から、差込む。

 それでも、一刻程は眠ったであろうか?

 子供達に見送られ、昨夜のうちに帝都を出た。

 途中降り出した雨に逃げ込み草鞋を脱いだ廃寺には、今まだ筵に包まったまま休む旅人や、軒下で火を熾す行商人の姿があった。

「、、、、、」

 声を掛けるでも無く、男は錫杖を突きつつ、峠を登る。

 纏わりつくのは雨漏りがひどく、その湿気で重く、旅垢で薄汚れた衣。

 その衣が陽射しで乾いていく際に、容赦無く体温を奪ってゆく。

 胸元を掻き合わせ、ぬかるむ坂道を行く事半刻、紺碧の大海原が彼方に見えた。

 淡い空色とその紺碧が、水平線で混じって見える。

 峠を下った先に、宿場町として栄える美津がある。

 美津浦と呼ばれる松林が伸びる優美な海岸には、船の姿が点々と見えた。

 潮の香りに背を押され、峠を下れば、昼過ぎには美津の雑踏に入った。

 客引きの者達に袖を引かれるでもなく、海産物を商う商店を冷やかすでもなく、男は黙々と街道を西へ西へと歩いていく。

 街道は、美津の先で西北へと伸びている。

 見慣れた田園風景が広がる、平坦な道。

 後、二日も歩けば、谷津に構えた己が庵に着くことだろう。

 足元を飛蝗が、土手の向こうへと跳んでいた。

 左手の田んぼには、刈取られた稲が干され、その向こうには柿の木々がほんのりと色づいた実をつけていた。

 ヒョゥ・ロロロ・・・ 

 天高く、弧を描くように舞う、鳶の姿。

 先を急ぎ、追い越してゆくのは、荷車を押した農夫であった。

 子の手を引く旅人や、馬を駆る役人然とした者達。

 遠く、鈴の音が聞こえた。

 彼方の畦道に、僧侶を筆頭に棺桶を若衆に担がせた一団が、見えた。

「、、、、、」

 草陰で伴侶を求める虫達の音が、どことなく哀愁をはらみ、男は袖の中で数珠を手繰った。

 足を止め、片手拝みで佇む男の姿に気づいてか、先を行く僧侶が、頭を下げた。

 一行が、静々と丘陵を上がり消えるのを見送って、笠を深く被り直した時だった。

「おお、慟杏どうあん殿ではないか?!」

 葦毛の肥馬が、向かいで足を止めた。

「これは、燕倪殿。このようなところでお会いするなど、、、」

 男は笠を上げると、顔を覗かせた。

 眼に愛嬌のある男と、童が一人。

「奇遇ですなぁ。これから、谷津へお帰りに?」

「ええ。実は帝都に赴いたのは、我が師の見舞いでして。持ち直しましたので、こうして、、、」

「そうであったのか。これは水臭い。慟杏殿の師なれば、我が太刀の親も同然。む、、、?」

 男の眼差しが鋭くなる。

 俄かに殺気立った偉丈夫慟杏に、燕倪がその視線を辿れば、

「おい、どうした?」

「ギギッ」

 鼻の頭に皺を寄せ、今にも飛び掛らんばかりの伯。

― まさか、伯を打ち据えようとした相手ってのはッ?! ―

 咄嗟に肩を押さえたところで、

「、、、、、」

 それを無言の内に眺めていた蒼奘は、鋼雨を千草に寄せた。

「そのためだけに、神たる地仙を喰ろうたのなら、高くつくぞ、、、」

「月色の髪、死人還り。そなた、、、都守か?」 

 見つめた先に、深い深淵を思わせる闇色の双眸。

「どう言う事だ、蒼奘!?」

 伯を押さえる燕倪が問えば、

青角そうかくが、いるのだよ、、、」

 指差した先が、

「そこに、な、、、」

 男の右腕の辺り。

「青角とは、あの主の名か、、、?」

 しみじみと、男が言った。


「何も言わぬで、知らなんだな、、、」

 男、慟杏は、指差された辺りをさすった。

 布地の下にある硬い感触を確かめながら、低く擦れた声音が、語りだした。

ぬしとは、もう二十年来になるだろうか。掟を破り、狩りをしていた時に、西の樹海で出逢った」

 運悪く飢狼の群に襲われ、命からがら登った木の枝で、己が血の滴り落ちる様を、幾日も眺めていた。

 足元では獲物が息絶えるのを待つ、飢狼の息遣い。

 ろくに睡眠も取れぬまま、血塗れた傷口から手足が冷えてゆく。

 瞼が重く、朦朧とした意識の中、狼達の悲鳴を聞いた、気がした。

「こんな話をしても、誰も信じないだろうがな」

 ぬくぬくとした感触に眼を覚ませば、身を寄せ合う鹿の群の中に居た。

 跳ね退く鹿の群に呆気に取られつつも、傍らから温もりが去る事は無かった。

「主に、俺は命を救われたらしい」

 それが、巨猪であった。

 一目でその獣が、尋常では無いと分かった。

 雨に打たれたのか、泥が跳ねてなおその体躯は神々しいまでに白く、模様の如く巻きつく蔦も、額の捩じれた青き一角も、どれもこれも今まで見たことの無い、、、いや、敬う事を忘れた慟杏にとっては、それを揺り起こすに十分であった。

 それから村を出て、樹海の東の果てにある谷津の刀工に、弟子入りした。

 砂鉄を集め、来る日も来る日も玉鋼を打ち鍛える工程に、心が洗われる気がした。

 やがて、心洗われる程に、視えるものも多くなっていった。

 鋼の、心。 

 鋼を求める、人の心。

 鋼が祓う者の、心。

「道、きわまば、どれも同じところに行き着く、、、」

 弟子である己に工房を譲り、今は帝都の貧民街にて刃物を鍛える師が、ことあるごとに言った言葉。

 包丁から鋏といった日用品、やんごとなき姫君の守刀、武官の大太刀、果ては物盗りが振るう太刀まで、、、

 鋼と向き合い、輝き出すその時まで、打ち出しの手を休める事無い慟杏の確かな腕は、刀工の中でも抜きん出ていたが、そのために名を伏された事もあった。

 それでも、舞い込む依頼を選ばず、日がな一日中、思いの丈を打ち込み、今に至る。

「青角の本質はその実、青角と呼ばれるそのぎょく。代々宿主を替えては、森を見守ってきた大地の粋だ。その青角が、人であるそなたを選んだと言う訳か、、、」

 鬱々と響く声音に、

「元より主により紡がれた命。その願いを断る選択肢など、俺には無かった、、、」

「ふむ。鋼を鍛え、その心を知るそなたに、青角は何かを見たのだろう、、、」

 蒼奘の言葉を受け、袖をたくすと、青い輝きがこぼれた。

 捩じれた角が、埋まっている。

「おい、待てよ。主となれば、かばねは森に還さねばならないだろう?って、事は、、、?!」

 はっとして慟杏を見る燕倪。

「森に、入るつもりだ」

 どこか晴れ晴れとした顔が、笑って言った。

「しかし、、、」

「主の使いが現れた時、すでに決めた事だ。掟に背き、集落を捨てた俺には、身寄りと言う身寄りはもう、貧民街で刃物を打つ老いたる師のみ」

「なら、尚更、、、」

 燕倪の声に、慟杏は首を振った。

「心残りと言えばそれくらいだ。主が倒れる刹那、それを見透かした主に万病に効くと諭された、、、」

 物言わぬ骸となった巨猪に鋼を入れ、血を啜り、肉を食らえば、腕に砡が宿った。

 それから、師のための肉を一抱え、切り取った。

「塩漬けにして、その甕の前で幾日も悩んだよ。悩んだ末、結論出ぬまま帝都に赴いた。だが結局のところ、死の淵にあったその姿を見ると、どうしようもなくなってしまってな、、、」

 自嘲気味な笑みが、慟杏の口元に湛えられた。

「主の肉を汁にしてもらい、師に飲ませた。程なくして目覚めた師に、昔のようにひどく叱られたよ。命極めんとする者を、揺り起こすやつがあるか、とな。無理も無い。俺の知る限り、齢八十を数えるのに、病一つしなかった師だ」

 筵に横たわる姿を見せるのは、死ぬ時だけだと、決めていたのかもしれない。

 師を慕う者達が、慟杏に送った文がなければ、今世、再び見える事もなかっただろう。

「あの剣幕では当分、地に還る事はあるまい」

 かつてのように怒り散す師を思い出したのか、その眼差しが遠く東の空に注がれた。

「慟杏殿、これより森に入ると言うことなれば、太刀はもう、打たぬのか?」

 不安気な顔の燕倪に、慟杏はかぶりをふった。

「主の代行であっても、鋼を打つ事を、やめるつもりはない。幾年かかるかは分からぬが、使いを出せるようになれば、居所をお教えしよう。急ぎであれば我が師、曉杏ぎょうあんをお訪ねあれ。師の腕は確かだ」

「御気性を窺うに、慟杏殿の名を出すなど、そら恐ろしくて到底できぬよ」

 燕倪の言葉を受けて、からからと笑った。

「では、太刀と相談され、大切に振るわれることだ」

「ああ。やってみる、、、」

 燕倪は太刀の柄頭に手を置き、頷いた

 それでは、と笠を目深に被ったところで、ひやりとした手が、腕に絡みついた。

「お、、、」

「、、、、、」

 見れば、漆黒の眼差しが、腕に注がれている。

「別れの挨拶を、したいそうだ、、、」

 鬱々とした声音が、言った。

「以前、一度だけだが、この仔は青角に会っていてな、、、」

「そうであったか、、、」

 袖をたくせば、逞しいその二の腕で青角が、冴えた輝きを放った。

 伯の幼い手が、捩じれた角に触れると、

― こ、これは、、、 ―

 その網膜に、はっきりと巨像が、結ばれた。

 幼き童によって見せられ、捻れた青き砡によって流れ込んでくる。

 優美な曲線を持ち、透けたるその身。

 大きな鱗が煌々と刻まれ、深紅の鬣は流れ、迫り出した紫紺の背鰭は長く広がる。

 それは、水をと言わず風をまでもを、捉える事だろう。

 もののけでは到底持ちえない、その姿。

― 嗚呼、、、 ―

 そして、その突き出した吻の先。

 小さき獣が、一つ。

 縞も鮮やかな猪の子、うりぼう。

 吻が、ゆっくりとした動きでもってうりぼうを一、二度、突いた。

 幼くして、青角となった先代の宿主の、それは魂であったか?

 吻に身をすりよせるうりぼうの姿を見たところで、焦点は街道脇の田畑を映した。

「、、、、、」

 ゆっくりと手を離した、伯。

「神霊たるそなたに、俺は何と言う事を、、、」

 その童の前に膝をつけ詫びれば、漆黒の眸が、男の顔をまっすぐに見つめてきた。

「小さぃ青角も、お前と共に行く、、、」

 その言葉に、右の拳が震えた。

 そして、押し殺したような声音で、

「ああ。もとよりこの血肉に、、、」

 辛うじてそこまで言うと、足に力を込めて、踵を返した。

 笠を目深に被った慟杏が、錫杖で大地を突くと、錆びた遊環が街道に響いた。

 己を助け、己を変えたその主を、喰らったその男。

 溢れ出す感情に胸の内を焼きながら、足早に去るその足跡には、ぽつりぽつりと雨の跡。

「、、、、、」

 見上げたところで、雲は無い。

「伯、、」

 遠ざかるその背をいつまでも眺めている伯を、蒼奘が馬上に抱き上げた。

「琲瑠には、気の毒だったが、これで、万事解決って訳か?」

「そうなるか、、、」

「慟杏殿が主になる、ね、、、」

「人が主に成るとは、あまり聞かぬが」

 鋼雨が、ゆっくりと歩き出す。

「人でもあるが故に、出来る事も多かろう、、、」

「お。珍しく前向きな意見」

 千草を寄せた燕倪が、懐から包みを取り出した。

 月桃の葉を開けば、羽琶が持たせてくれた草餅。

 手を伸ばす伯の指が、打ち粉もろくに払わず摘み上げた。

 ブシュシュシュッ・・・

 少し後ろにいた千草がそれを吸い込んで、首を揺らし、

「うッ、、、わぁっ、ああぁあッ!!」

 包みの中身は、そっくり街道脇の土手を、転がり消えた。

「あぁぁあぁああっ」 

 せっかく羽琶殿が作ってくれたのに、と続きそうな、長い溜息であった。

「心が痛むな、、、」

 ほぅ、と小さな溜息の蒼奘に、

「お前が言うなっ」

 さすがの燕倪、歯を剥いた。

「なぁ、伯、、、」

「やっ、、、」

「まだ、何も、、、」

 くつくつと喉を鳴らす、都守。

 もきゅもきゅ・・・

 餅の柔肌と餅粉が歯に擦れる音をさせながら、伯が頬張る草餅。

 千草の首の辺りに腕を置き、顎を乗せつつ、横目でそれを眺めるは、燕倪。

 雲ひとつない、蒼天の下。

 長閑すらあるその集落を抜ければ、まもなく、宿場町で知られる美津の海が見えてくるはずだ。

 ちらほらと見え始めた、松の木々。

 ほのかに香る潮風が、数日振りと言うのにそれは懐かしく感じる、秋の空であった。


                        ※


 帝都。

 賑やかな声が、する。

「やあやあ、季節外れと笑うなかれッ!!東は大江稲荷の古吊り鐘を、潰して作ったありがたい風鈴だよっ」

 わんわんとして、実に騒がしい。

「袖を引かれ引かれて、都に着いたのはついさっき。大方買われちまったが、残りがこれだッ!!さぁさ買ってくれいッ」

 捻り鉢巻に、尻端折り。

 良く焼けた若い男が声を張り上げ、往来を天秤に黒金の風鈴を提げ、

「そこの旦那、どうだいどうだい!?軒下に吊るせば、鬼は逃げ帰り、福は舞い込む、縁起ものだよっ」

 威勢よく売り歩いている。

「ついさっき?一昨日も見たぞ!?」

「やい、若造っ、お布津さんの市にいただろうっ」

 往来の人々が野次を飛ばせば、

「ぺいッ!!そりゃ、おいらの偽物だッ!!こちらが正真正銘!!」

 と、軽快に受け答え。

 大方、適当な由来をつけて、安く買い叩いたものを売っているのだろう。

「止めてくれ、、、」

 その風鈴売りの少し先の辻で、牛車が止められた。

 供の若衆が主に命じられ、手を拱いた。

「へいへい、毎度ッ」

 破顔して駆け寄る風鈴売りの鼻先で、物見が開いた。

「っ」

 その貌を見て、ぎょっとした風鈴売りは、

「東の大江稲荷は、古狸。金気を嫌う生臭だ、、、」

 背に冷たいものが流れるのを、感じた。

「へ、、、へい、旦那様がおっしゃる通り、大江稲荷の鐘などでは、、、」

 見透かされる闇色の双眸に、萎縮した様子の風鈴売り。

「左の竿に下がっているものを、見せてくれ、、、」

 鬱々とした声音に、

「へ、へいっ」

 慌てて竿を差し向けた。

 物見から白い繊手が伸びると、しばらくいくつかの風鈴を揺らし、個々の音に耳を澄ます。

「これをもらおうか、、、」

 一つ、その繊手自らが竿から抜き取ると、供が風鈴売りの手に銅銭を握らせた。

「あ、有難うごぜえますッ」

 やっとのことで押し出した声は、上擦り、引っ繰り返った。

 物見か閉じても、惚けた様子の風鈴売りを、気の毒そうに眺める供の顔に、

「あっ」

 我に返った。

 ほんの短い時間であったのに、風鈴売りにとっては、心臓を鷲掴みにされ続けているような錯覚さえ覚えた。 

 目礼して、供が牛を追う。

 ぎしぎしと車が遠ざかって程なく、

「おい、ありゃ、都守だっ」

「なんだってっ!!それじゃあ、魔を祓う有難い鐘って訳か?!」

「俺にもひとつッ」

「あたしにもっ」

 遠巻きに眺めていた人々が、駆け寄った。

 西に湧いた雲に、太陽隠れる、逢魔が刻。

「お、押すなぁああッ」

 揉みくちゃにされる、風鈴売りの嬉しい悲鳴が、往来に響いている。


 恵堂橋を渡った先の辻を、折れた。

 宵闇に沈み始める往来に、篝火が見当たらない。

 変わって、ちょうど牛車が止められたところだった。

 主のために前簾を上げているのが、

「琲瑠っ」

「ああ、燕倪様」

 穏やかな物腰の、いつもの若者であった。

「もう、いいのか?!」

 大きな手に肩を掴まれると、

「はい。ご心配をお掛けしましたが、この通り、、、」

 苦笑しつつ、頷いた。

「良かった、、、」

 ほっとした燕倪の鈍色にびいろの眸。

「簾を上げるくらいしたらどうだ、燕倪、、、」 

 肩を掴まれたままの琲瑠に代わり、自ら降り出したのが、

「甘えるなよ。それにお前なぁ、従者と言えども怪我人を労われ」

「ふん、、、」

 肩に、銀糸の髪を流した蒼奘だ。

 先に篝火を焚くように命じると、二人は門を潜った。

「先ほど宮中で銀仁に聞いたが、真面目に宮勤めに励んでいたらしいな、、、」

 蒼奘が、燕倪の目元の隈を指差して言った。

「俺がいつさぼったか、聞かせてもらいたいものだ」

 燕倪は鼻で笑うと、

「どうも、清親が烈也のやつに何か言ったらしくてな。いつもの報告書に加え、宿居とのい警邏けいらと昼夜を問わず、身を粉にしてお仕えしていたと言う訳さ」

 明日が、ようやく非番なのだと言う。

「琲瑠の見舞いと兼ねて、伯に、久々に稽古をつけてやろうと来たわけだ」

「そうか。では、酒はその後か、、、」

「おう」

 庭へと抜ける、山野草植わる木立の先。

「おい、伯」

 声を掛けたのが、楓の梢。

「、、、、、」

 その上で枝を齧りながら、暢気に仰向けで寝そべっているのが、群青の髪を結った、伯。

「稽古をつけるぞ。降りて来い」

 垂れている袖を引こうと手を伸ばすと、当人が引かれまいとして袖を掴み上げてしまった。

「もう、いぃい」

「んえ?」

 きょとんとして立ち尽くす燕倪の傍らに、

「どうもな、枝を振り回すのは、しょうに合わんと気づいたらしい、、、」

 蒼奘が佇んだ。

「性に合わんって、、、そう言う問題じゃないだろ?」

 琲瑠が復帰したらば、どこ吹く風。

「伯、、、」

 チ・リィィ・・・ン・・・

 澄んだ音が、響いた。

 菫色の眸が見開き、蒼奘と風鈴を交互に眺めると、

「ん、、、」

 梢の上から、手を伸ばした。

 黒金くろがねの、冷やりとしてざらつく感触。

 その下に垂れる栞を揺らせば、澄んだ音。

 手近な枝に、結びつける様子を闇色の眸の端で捉えると、

「これからは、先見さきみの感覚を養うのだそうだ、、、」

 口元に笑みを刷きつつ、平橋を渡っていった。

「お、おい、、、」

 その背を追う、燕倪。

 阿四屋の屋根の下。

 長椅子に腰を落ち着けたところで、既に用意されていた柘榴石の杯を手に取った。

「なんだよ。人がせっかく、、、」 

 珍しく、ぽつりと毀れた愚痴に、蒼奘はその杯を差し出した。

 瓶子を傾けると、澄んだ酒が注がれ、杯を持つ燕倪の指をしたたか濡らした。

 愚痴をそのまま飲み込むように、喉を晒す友に、

つるぎは、我らに二つと必要ない、、、」

「?」

 伯の言葉。

「だ、そうだ、、、」

「分からん」

 置かれたままの杯が、勢い良く満たされる。

 それを眺めつつ、

「それでいいさ、、、」

 盆の中。

 乾いたままの杯、一つ。


「はぅふ、、、」

 楓の梢から洩れた、溜息一つ。

 夜空に伸ばした右手を、握ったり、開いたり。

 そのうち、

「、、、、、」

 拳を握り、腹の上。

 ぼんやりと眺めた先。

 木の葉の間に茫洋と、透かし燈篭を吊るした阿四屋が垣間見える。

 その屋根の下。

 酒を酌み交わす、蒼奘と燕倪の姿。

「、、、、、」

 やはりこの地にある限り、この手の心労は続きそうだ。

 ギリリと、奥歯を噛んだところで、

「あふ、、、」

 睡魔。

 涙ぐんだ眸の先で、さわさわと木の葉が揺れ、風鈴は啼いた。

 心地よいその波に呑まれるまま、瞼を閉じた。

 ざわつく胸の裡とは対照的に、夢に沈む意識の先には、束の間の安らぎがある事を、知っているのかもしれない、、、


 

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