第玖幕前 ― 巨猪 ―
伯を打ち据えんとする男から、その楯となった琲瑠。居合わせたあとりと銀仁によって、その場を切り抜けたが、、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第九幕前編。。。
月の無い夜空。
満点の星空が、煌く帯となり、幾筋も流れている。
その下には、なだらかな丘陵を覆うように鬱蒼とした広葉樹林が広がる。
無数に枝分かれし蛇行を繰り返すのは、星空を映す河川。
穏やかなその水面に、蒼白い巨影が揺れた。
フォッ・・・フォッ・・・
浅い呼吸を繰り返す主は、堂々たる体躯に萩を巻きつけた、見上げる程に大きな巨猪。
額には、捩じれた胆礬色の一角。
深い森を思わせる緑柱石の眸が、ひどく濁って見えた。
その足元で、小さな影が跳ねた。
黒く、つぶらな眸。
鼠色の被毛の小兎だ。
巨猪の足元で忙しなく跳ね回ると、
ざっ・ざっ・・・
遠く、砂利を踏む音が、近づいてきた。
それが一旦、止んだ。
「、、、、、」
俯いていた顔を上げ、眼を凝らしているのか、人影が彼方。
そして再び、
ざっ・ざ・っ・ざっ・・・
人は、急ぐでもなく、獣は、逃げるでもない。
ひとりと一頭の間には、そんな不思議な時間が、流れていた。
フォッ・・・フッ・・・
程なくして長身の男が、獣の傍らに立った。
「待たせた、、、」
低く、擦れた声を掛けると、巨猪の鼻先に手を当てた。
フォオ・・・
一つ、深々と息を吐き出し、巨猪は水辺にて緩慢な動きで前脚を折った。
とろりと潤んだ眸が瞬きを繰り返しながらと閉じると、その身を取り巻いていた萩の葉は落ち、紫紺の花は萎れ、枯れ果てた。
ドゴォォ・オ・・・オン…
轟音と共に、その体躯が大地に投げ出される。
「、、、、、」
鼻先に置かれていた手が、そのまま男の顔の前へ。
男は、わんわんと森にこだまするその轟き止むまで、片手拝みの姿勢を崩さなかった。
やがて、
「、、、、、」
訪れた静謐に眼を開けると、男は袖に手をしまった。
岩陰に身を縮込ませながらも、長い耳をぴんとそばだてた小兎が、黒目を瞬かせる。
再び現われたその手には、銀の輝きが、握られていた。
睡魔との闘いに打ち勝った男は、大きく伸びをしながら庭へ出た。
玉砂利が、ひっかけた草履の下で、小気味良い音をさせる。
薄闇の中。
雉鳩のほろほろと、低く響く鳴き声。
水面。
水をかく、緋鯉の尾。
耳元。
羽虫の、羽音。
大きな口が、あくびの形をとり、
「おっ」
白がんだ空に奔る輝きに、しばし、釘付けになった。
人気の無い大通りを、漆黒の馬がゆっくりと行く。
規則正しく響く、馬蹄の音。
深更、篝火焚かれた門を叩く、使いの若衆に応じ、訪れたのはさる歌人の屋敷であった。
北の街道にあったと言われる、奇岩。
馴染みにしている庭師に乞うて、庭石にともらい受けた大きなものあったが、夜泣きをしてかなわんと、泣きつかれた。
赴いてみれば、成る程、さめざめと泣く幽鬼が、一人。
問うてみれば、物盗りに斬り殺された際、生まれ出でた我が子の身をただただ案じ、泣いていたのだと言う。
それを伝えたところ、深い同情を寄せた、歌人。
不憫で仕方なくなって、自ら捜索を買って出た。
一先ず、意気込む歌人に任せる事にし、その屋敷を後にしたのだが、
「、、、、、」
見上げた空は、白々と明け始めている。
涙を滲ませ、あくびを繰り返す童の頭に手をやれば、
「ん、、、」
手綱を持つ腕に背を預け、目を閉じた。
冷たい夜気が、朝陽から逃れるように、背へ吹き抜けてゆく。
頬を打つ、銀糸の髪。
うっそりと眺めた先に、
「、、、、、」
目が覚めるような耀きが、流れた。
白がみ始めた、東の空。
どこか遠くなった、星々の輝き。
群青から菫色へと、暁を迎える夜空の下。
「、、、、、」
額に滲んだ汗を、血塗れた手が拭った。
見上げた夜空に、緑青色の尾を引き流れる、箒星。
※
― あ、、、 ―
傾ぐ、体.
喧騒に包まれているのに、どこか遠くに感じる。
漆黒の視界に抜かれた球体二つ。
狭まった視野に、初秋の高い空が見える。
「ハイルッ」
― 若君、、、 ―
空を遮って飛び込んできた、その人の顔。
混濁する意識の中、
― そのように涙ぐんで、どこか痛むのですか、、、? ―
今にも毀れそうな、透明な雫を、見た。
頬に触れようと伸ばした手の感覚が、無い。
こぽ…こぽぽ…
懐かしい海の音が、聞こえる。
瞼が、重い。
背に当たる大地が、冷たかった。
― わたしは、、、 ―
狭まる視線が、闇に閉ざさられ、
― 我が君、、、 ―
沈む意識を、手放した。
「ハイルッ」
劈くような、それは凛と澄んだ叫びであった。
布津稲荷。
月の決まった日に立つ、朝市。
境内には物売りや行商人の賑やかな声が響き、まだ泥も乾かぬ季節の野菜から、烏賊の一夜干し、鯵やカマスの干物、おが屑に潜る車海老や渡り蟹といった魚介類が居並ぶ。
また、鋳物、金物、陶器など日用品、煙草や酒、果てや、どこか胡散臭い大陸の珍品等が入り混じり、それらを買い求める人々でごった返していた。
その一画が、凍りついたのは、まさに一瞬の出来事であった。
「見たか、人が、、、」
「これは奇怪な、、、」
人垣の真ん中の石畳には、水が滲んでいた。
その水の中で、膝をつく者がいる。
「、、、、、」
水干を纏った童。
声の主、伯。
「邪魔が入った、、、」
打ち据えようとした童を庇ったのは、その供であった。
ざわつく人垣に、
「皆、よう聞け。こやつらは、つけ入る隙あらば全てを喰らい、皮を被る」
所々、破けた白い衣。
目深に被った笠の下に、炯々と光る鷹の如き双眸。
壮年と思われる年の頃だろうが、赤銅色に焼けた肌は筋骨隆々とし、白いものが混じった無精髭と相俟って、偉丈夫と呼ぶに相応しい堂々たる体躯。
手には、琲瑠を一瞬にして打ち砕いた、錫杖。
その切っ先を向けた先に、黒髪の童の姿があった。
男の網膜には、大地に伸びる巨影が、はっきりと視えていた。
瘧にかかったように、体を震わす童を冷ややかに見据えたところで、
「ギ、、、」
童の手が、首に掛けた翡翠の連珠に掛かった。
「正体を現すか、、、」
錫杖を握る手に力が、入る。
網膜に浮かぶ巨影と童の姿がだぶり、茫洋として、その全貌が見透かせない。
― この童、ただのもののけでは、、、 ―
眼を眇めたところで、
「何をしておるのじゃっ」
人垣の中から、晴れ着の女童が飛び出した。
黒目がちで、青く澄んだ黒瞳に、強い光が宿っている。
腕を広げ、割って入ったと思えば、
「ぬ、、、いかんっ」
袂で包み込むように、伯を抱き締めた。
「うぅっ」
身じろぐその体を、力いっぱい抑え込む。
「、、、、、」
男は何を感じたのか、それまで懐手にしていた右手を伸ばした。
軽やかな音がして、長く大地に垂れたものがある。
数珠だ。
その長い数珠を手繰りながら、何やら唱え始めると、
「待たれよ」
その間に、頭一つ分高い男が、人垣から抜け出した。
褐色の直衣を纏い、黒髪を結った若者。
「まかりなりにもここは、神域。手荒な事は、止めて頂きたい」
「ほぅ、まだ連れがいたか。これは面白い、、、」
男は若者を眺め、眼を眇めた。
「では、問おう。そなたは?」
「陰陽頭に仕える、銀仁」
「仕える?その匂いをさせて、人の都でのうのうと、、、」
厚い口元に刷かれたのは、どこか侮蔑を含んだ笑み。
「、、、、、」
銀仁のどこか憂いを帯びたままの双眸には、しかし、何の感情も見受けられない。
「まぁいい。都の要たる陰陽頭が名、語る不届き者はいまい、、、」
一つ、杖を突く。
錆びをふいた遊環が、澄んだ音を立てた。
「、、、、、」
「、、、、、」
無言の内に踵を返した、その広い背。
長い包みを背負った男が、人垣の彼方に消えて行くと、ひそひそと不振な眼差しを一行に残しつつ、人垣も薄れていった。
「しかし、、、」
小さく毀れた、呟き。
くん、と鼻を鳴らし、彼方を見つめる男の傍らで、
「銀仁、、、」
伯を抱きしめたまま、あとりが見上げてくる。
「ああ、、、」
心得たもので、伯の前にしゃがみ込むと、
「伯。琲瑠は、式だ。早く屋敷に連れて行ってやろう、、、」
懐から懐紙を取り出した。
「ぃたかったっ」
押さえ込むように回したあとりの腕を、振り払うかのように、肩を揺する。
「伯、、、」
あとりは、腕の中でもがく伯の中に渦巻く、怒りと悔しさを、感じていた。
「ああ、痛かっただろう。だから、あいつを同じようにすれば、気が済んだか?」
「、、、、、」
急速に、力が抜け、項垂れる。
その、やるせなさ。
「伯、、、」
あとりが堪らず、その肩に頬を寄せた。
「、、、、、」
しばしあって伯の手は、ゆっくりと翡翠輪から離れていった。
それを見届け、
「行こう」
銀仁は、水に濡れそぼち、力なくだらりと伸びている海鼠を、懐紙に包んだのだった。
長く伸びた枝。
その細やかな萌葱色の葉の間に、淡紫の彩が鮮やかに弾けている。
紫式部。
橙の蝶が遊ぶ、涼やかなその茂みの先。
「うっ、、、」
海水を張られた桶を覗き込んでいたあとりは、ぶるりと身を奮わせた。
都守の屋敷。
母屋に程近い、阿四屋の一つである。
「大丈夫なのか、、、?」
その体表は赤黒くぬめぬめとし、無数の突起が突き出している。
おまけに、白く細やかな糸状の腸が、粘つくようにゆらゆらとしているのだ。
気丈な姫も、この手の類だけは、受け付けぬらしい。
「あの姿は、人の姿を模した写身だ。傷も、大したものではないよ、、、」
長椅子の肘掛に片肘預け、頬杖の美丈夫。
その傍らでは、どこかを睨み、まんじりともしない、伯。
「しかし常人が、式を見破れるか?」
向かいに腰を下ろしたのは、朱金の斑毛、琥珀色の双眸、腕組みの銀仁だ。
「伯のこの翡翠輪、生半な術者では見破られるはずがないのだがな、、、」
「見たところ、行者のようにも見受けられたが、、、」
「ふむ、そのようだな、、、」
蒼奘が、伯の群青色の髪を梳いた。
やや癖があるが、指の間を、絹糸のように滑ってゆく。
その頭頂部に、翡翠色の突起が一対。
あとりが、戯れに指で突こうものなら、
「や」
腕で振り払って、庭の一画に広がる木立に分け入ってしまった。
「あっ」
追いかけようとしたあとりに、
「姫よ、放っておけ、、、」
蒼奘の低い声音。
「でも、、、」
「琲瑠の事で少しばかり、気が立っているのだ、、、」
じきに機嫌も直る、と薄い茶碗を手に取った。
青い唇を湿らせると、
「さて、銀仁、、、」
鬱々とした声音が、問うた。
「その男の風貌、もう少し詳しく聞かせてくれ、、、」
武家屋敷の門を潜ったのは、笠を目深に被った男。
所々擦り切れた白い衣に、錫杖。
名を伺い、慌てた様子で母屋に駆け込んだ、若衆籐那。
しばらくして、賑やかな足音が響いてきた。
「慟杏殿、このような形にて、すまぬ」
寝癖頭を掻きながら現れたのが、寝着の胸元肌蹴たままの屋敷の主。
人好きのする、その笑顔。
「ご足労願ってしまい、なんとお詫びしたら、、、」
宿直明けで、休んでいた燕倪である。
「他に小用がありましたので、不躾とは思いましたが、門を叩かせて頂きました」
「ああ、当方はいっこうに構いませぬ。どうぞ、上がってくだされ」
「旅垢に塗れた身故、ここで結構、、、」
「何を仰いますか。今、風呂の仕度を整えますので、当屋敷でごゆるりと、、、」
食い下がる燕倪に、それでも頭を振ると男は笠を脱いで、上がり框に背の包みを置いた。
「打ち直したる、大太刀。確かに、これに、、、」
白鞘に糸巻き。
七宝散りばめた、その太刀。
「おお、、、」
手に取り、鞘を撫でる。
鯉口を切ると、冴えた銀の輝きが、溢れた。
すらりと引き抜かれると、乱れ丁子の刃紋。
目を眇め、鞘に戻す様を鷹のような双眸が見つめながら、
「守刀の類は多少打ちますが、打つほどに心洗われる鋼は、初めてでございます」
強面が、ほんの少しだけ、緩んだようだ。
「かように粘りある玉鋼は、おそらく見つかりませぬ。飛ぶ鳥落す備堂家が宝刀の真髄、しかと拝見させていただきました」
「若輩者故、この太刀に負担をかけておりますれば、また、お手を煩わせる事になるやもしれまぬ、、、」
頭を下げる備堂の御曹司に、しばしあって、
「、、、谷津に、拙者をお訪ね下さい。縁があれば、再び、、、」
低い声が応じた。
「心強い」
破顔した燕倪に頷くと、
「それでは、、、」
慟杏は声を掛け、笠を被った。
燕倪の手戻った大太刀を見ると、目を細め、会釈一つ。
巌の如き大きなその背が、門を潜り大通りに出て行くのを見送り、ひとつ伸びをした燕倪。
- 寝直すか、、、 -
腕に業丸を抱き、奥の寝所に向かうその背に、
「いぃッ」
ふわりと纏わりつく風、ひとつ。
「エンゲッ」
象牙色の手を持ち、冷たいそれが、首に攀じ登った。
首をめぐらせば覗き込む、深い黒瞳。
「伯?!」
猿の如く肩に上がり座ると、体を折り曲げ、
「これ、ハクに教えろッ」
しっか、と掴んだのは、大太刀業丸。
困惑するその鼻先に、顔を近づけ、
「エンゲッ」
「い、いきなり現われて、お前、何を言うかと思えば、一体、何があったんだ?」
「うぅッ」
もどかしいのか、身震いすると、白い牙が眼前に覗いた。
「わっ、分かったから、少し落ち着けっ」
「むぐむッ」
その口を押さえたところで、
「主様、お客様は、、、?」
手に足を濯ぐ桶を持った籐那が、戻ってきた。
「今しがたお帰りになられたところだ。無理にお引止めしても悪いしな」
寝着姿の主の小脇に、抱えられているものがある。
「はぁ、、、あの、その、、、」
指を差したその先に、黒髪の童がじたばたと、暴れている。
「蒼奘のところの伯だ。一人のようだし、屋敷に送り届けてくるから、千草に鞍をつけておいてくれ」
「かしこまりました」
着替えるために、母屋の北の対に向かいながら、ふと、
「お前、少し背が伸びたか、、、?」
「、、、、、」
小脇に抱えられたままの伯に、反応は無い。
「なんだ。気のせいか、、、?」
業丸の鞘を握って離さない伯をそのまま、燕倪は軽い、溜息だ。
風が巻き、下ろされていた御簾が舞い上がる。
それを待っていたかのように、頼りなげな闇が一つ、舞い込んだ。
薄闇の中、鼻先で、燐粉が舞う。
「、、、、、」
それまで俯きながら、膝に置いた嘆願書の写しの一つに眼を通していた男が、貌を上げた。
覗き窓から差込む日差しが、どこか月光を思わせ、寒々としていた。
≪蒼奘≫
燐光の正体は、揚羽蝶。
そして、その声の主を、蒼奘は知っていた。
「檎葉か、、、」
≪近くにも寄らぬ故、遥々こうして出向いてやったぞ≫
凛と澄んだ、女童の声音。
≪西の森より、使いが参った≫
「西の、、、」
≪牙を咥えていたよ。青角が、喰われたようだ、、、≫
その名は、遠野の辺り一帯を治める、地仙の名。
「ほう、、、」
眉一つ、動かす事は無い。
ただ、淡々とその耳を傾けるだけ。
≪毎度の事ながら、あやつの使い玄兎は、事後報告だけで、埒があかぬよ。寄り道ばかりしよって、、、いったい幾日前だか、肝心な所が定かではない≫
「青角がおらぬとなっては、玄兎もただの獣に戻る。使いに来ただけ、御の字だ、、、」
≪うむ。まぁ、確かに、伝えたぞ、、、≫
それだけ言い残すと燐粉は失せ、蝶は忙しなく飛び回った。
御簾を上げてやると、往来を行く人々の喧騒と共に秋の陽の光が、車内に差し込んだ。
「、、、、、」
御簾を掴む繊手の上で、一旦羽を休ませると、名残惜しそうに鼻先に舞い上がり、それから御簾を潜っていった。
陽光の中へ掻き消える闇色の蝶を、鬱々とした呟きが、見送った。
「神喰らい、か、、、」
その繊手は、先程まで目を通していた嘆願書の写しの束を、弄んでいる、、、
「入れ違いか?」
出迎えの若衆琲瑠の姿が見えぬため、勝手に厩に千草を繋いでいるところに、汪果が現われた。
「はい。今し方まで、銀仁様とあとり様もいらっしゃっていたのですが、急に星読博士のお召しが掛かりまして。何でも古い暦が出てきたとか、、、」
「まぁ、あいつの事。適当に切り上げて戻ってくるだろ」
「あの、燕倪様は、、、?」
出仕もしないで、と言う汪果の視線に、
「宿直明けでな。今日は非番なんだが、こいつが、、、」
指を差した先、小脇に抱えられながらも業丸の鞘を離さぬ、伯。
「寝直そうにも、この有様でな」
「若君、、、」
むすっ、とした様子で、顔も上げようとしない。
「で、何があったんだ?」
ただでさえ口数が少ない伯に、説明を強いたところで埒があかない。
琲瑠もいない以上、この侍女に問うより他は無く、
「わたくしも、実際に居合わせた訳ではないので、定かではございませんが、、、」
汪果は、事の次第を話し始めた。
帝都北西、黒亜門。
かつては、漆が塗られ荘厳を歌われた北西の大門も、風雨に晒され、今は見る影も無い。
荒涼として見えるのは、前方彼方にたなびく荼毘の煙のせいだけではあるまい。
どこか、とろりとした瞳に、痩躯。
垢で薄汚れた衣とも呼べぬ襤褸を纏った者達が、黒亜門に至る石畳に点々と座り込んでいる。
中には、眼差し鋭い者達も混じっているが、大半は今日の糧にも困る貧しい民であった。
雑踏の中に在っても、この門を通る者は多くなく、あえて行こうとするならば、袖を引かれ、運が悪ければ身包み剥がされ、川に浮かぶ事となろう。
笠を目深に被った男が、その門をまさに潜らんとしていた。
彼等と同じまではいかないが、薄汚れた白い衣に、袖無し羽織。
けして裕福には、見えない。
巌のような体躯を見た瞬間、幾人かの者達は俯き、舌打ちした。
恐れ気無く駆け寄ったのは、他でもない。
「おいちゃんッ、ねぇ、食べ物分けてくれよっ」
「ほんの少しのお金でもいいからっ」
「女が欲しいんなら、うちんとこ来てっ」
数人の子供達だ。
櫛梳る事の無い髪は絡まりあい、虱によって白っぽくさえ見える。
丈が合わず晒された膝や腕には骨が浮かび、男を見上げるその顔らは、汚れていた。
男は、彼らが手に持つ欠けた椀や、土器を見つめた。
入っているのは、陶器の欠片や砂利だけだ。
男は、知っていた。
自らの子供達を、物乞いに出す親の心理も、あるいはそうせざるおえない現実を、、、
「ねぇねぇ、おいちゃんてばぁッ」
男は、子供達の前にしゃがみ込んだ。
「この先には、詳しいか、、、?」
しゃがれた声音に、
「うん。この先の橋の下が、僕らの住処だもん」
「ここで生まれたんだんだ」
初めて聞かれたのか、興奮した様子で指を指す。
その中の一人、
「おいちゃん、なんか、用があるの?」
膝に手を置いて、男の子が不思議な顔をした。
「人を探している」
「人?」
「腰の曲がった偏屈な爺さんだ、、、」
「へんくつなぁっ!!」
「じいさんッ!!」
顔を見合わせて笑う、子供達。
物乞いをしていてもこの辺りでは、案外助け合って暮らしているのかもしれない。
「ヘンクツ爺さんッ」
「へんくつ、じじいっ」
子供達が、歌いながら駆け回る。
男が歩き出すと、子供達が纏わりついては口々に、
「どんなじいさん?!」
「なんでじいさん?!」
矢継ぎ早な、質問が飛び交う。
男は錫杖を鳴らしながら、汚泥溢れ、腐臭漂う川を渡った。
板を組み合わせ、或いは打ち付けただけのあばら屋。
両の手を広げれば、それだけで塞いでしまえそうな小道を、縫うようにして進む子供達。
けたたましい鶏の声や怒号、嬌声、悲鳴が響く、その界隈。
訝しげな眼差し注ぐ者達の視線を、全身に感じながら、
「まずは、首無し地蔵」
ぽつりと一言。
「くびなしぃ?」
小首を傾げた年少の童に、
「あ、小便地蔵さんのことだっ」
「こっちこっちっ」
兄妹か、袖を引く。
「あのくそ女ッ」
前方から、若い男が駆けて来る。
押さえた手首の辺りが赤く、点々と血が落ちては染みを作った。
子供達は日常茶飯事なのか、気に止める風でも無く、狭い道を譲っただけだった。
「二度と顔出すんじゃないよっ!!」
鼻息荒く、手に赤々と染まった小刀を持つ女が走り出して来ては、彼方の男に向かって罵声を放つ。
煤けた橙の小袖から、ぬめぬめとした太腿が覗いている。
垂らしたままの黒髪は乱れ、肋が浮く胸元も露露なその青白い肌に、返り血か、朱けが跳ねている。
三十そこそこの、鶏がらのような女なのだが、むしゃぶりつきたくなるような色気があった。
「ちッ、、、汚れちまったじゃないかっ」
華奢な肩を怒らせて、胸元を拭っているその向かいで、子供達は足を止めた。
「ここだよっ」
「、、、、、」
見れば、ちょうどその女が出て来たあばら屋の前。
どこから持ってこられたのか、首の無い地蔵が、二つ三つ。
汚臭漂い、雨でもないのにぬかるむ一画に、佇んでいる。
「すると、まかべ殿とは、、、」
男は、女の顔を見た。
「なんだい、あんた。客かい?」
赤い舌が、唇を舐った。
品定めするかのように腕を組むと、女は細い顎を上向けた。
「まかべは、あたしだよ」
「まさか、琲瑠が、海鼠とは、、、」
手桶を覗き込んでいた燕倪は、しみじみと言った。
「媒体さえあり、心が強ければ、式として召抱えられる資質は十分です。琲瑠は元々、若君の眷属に連なる者。齢、百を数える大海鼠、、、」
「昔から気になっていたのだが、ずっと変わらぬそなたも、、、」
死人還りとなって程なく、蒼奘は一介の星読士より、兼ねてより固辞していたはずの都守の役職を、賜った。
その頃から、燕倪もこの屋敷に出入りするようになったので、かれこれ五、六年は経っている計算だろう。
少年から青年期へと成長を遂げた燕倪から見ても、この異相の侍女は皺一つ増えた様子はない。
むしろ、若々しくさえ見受けられる。
燕倪に、改めてまじまじと見つめられながらも、
「お察しの通り。わたくしも、人ならざる式神、、、」
汪果は、艶然とした微笑みを絶やさない。
「そうか、そうだろうなぁ、、、」
腕を組み、一人頷く燕倪。
鈍いようでも、薄々は察していたらしい。
しかし、
「けれどわたくし、若き日の皆様を、存じ上げております。先代が蒼奘様を養子に迎えられた以前より、この屋敷に出入りしておりましたので、、、」
「え、、、」
それは、意外であったらしい。
「当時のわたくしは、尾長の姿。お気付きにならぬのも、無理はありません」
「尾長?!」
「当代都守により、このような姿を賜りましたので、皆様のお世話を焼けるようになったのですわ」
「すると、使役主の、その、、、好みにより、姿を変えられると、、、?」
脳裏を過ぎったのは、勝間で逼塞している妻女、筝葉の貌。
複雑な表情を浮かべた燕倪を他所に、
「そのようなものです」
汪果は、艶然と微笑んだ。
「わたくしの場合、先代都守に帰依しておりますので、その年数を数えると、もう数十年にもなりましょう。業深く、かつての経緯はお話できませんが、、、」
「ふむ、、、」
この際、興味を隠さぬその鈍色の眸に、
「女子の氏素性を逐一知りたがる殿方は今時、煙たがられるもの、、、」
ぴしゃりと釘を刺した。
「それもそうだな」
苦笑した燕倪が、罰が悪そうに頭の後ろを掻いた。
その腰に下げられた大太刀が、力強く引かれた。
大太刀業丸に、しがみついたままの伯の仕業だ。
「とにかくお前は、琲瑠を打ち据えた野郎に一発食らわせたいんだな?」
「まぅ」
こくり、、、
「しかしなぁ、相手は人だぞ。もっと穏やかに、キメれないもんかね」
太刀の柄を叩くその傍らで、
「きるんじゃなぃ、、、」
小さく澄んだ声音が、応じた。
「、、、守りたかった」
人の世に在るやり方を、何も知らぬのだと、思い知らされた。
「そうだったのか、、、」
「でも、、、」
肺腑から吐き出された、深い吐息。
「だめ、、、だった、、、」
それは、齢を重ねた老人のような、溜息であった。
不意の事とは言え、人の世にあって、あまりにも無力を痛感した。
それが何より悔しくて、伯を太刀の使い手の元へ、走らせたのだった。
項垂れたその童の苦悩を、垣間見て、
「まぁ、さ、、、」
言葉を探した。
「命までは取られなかったんだから」
慰めのつもりが、
「トラレテイタラ、、、?」
「、、、、、」
これには、燕倪が口をもごもごさせた。
― さては、最近の悶々とした様子は、これか、、、 ―
伯がぶち当たっている壁を燕倪は、ここでようやく見た気がした。
― 無理も無い。元は、飛べるわ、潜れるわ、果ては氷水をも意のままに操るんだ。人の身に封じられているとは言え、この無力感。堪えるわな、、、 ―
傍らで項垂れているその頭を、ぽんぽん、とやると、
「ううっ」
やめろとばかりに、身を震わせた。
犬歯を剥いて見上げた先に、
「付き合ってやるよ」
「、、、、、」
どこか穏やかな目をした、燕倪の顔があった。
― やはり、気になる、、、 ―
その香り。
最初は、気のせいかと思ったのだが、
― 死臭とも、腐敗臭とも違う。到底人なんぞが、持ち得まいよ。しかし、どこかで、、、 ―
何か、引っ掛かる。
「どこか具合でも、、、?」
心配そうな、若者の顔。
「あ、いや、、、」
すぐ傍らで、御幣を折っていた若い陰陽師、稀水。
敷き詰められた玉砂利が、降り注ぐ陽射しを眩しく、照り返している。
昼過ぎのため、外に出ている者も多く、館内は静かであった。
御所、陰陽寮の一室である。
「そう言えば、朝から少し熱っぽい気が、、、」
「季節の変わり目ですしね。無理をせず、お帰りになった方が、、、」
「そうさせてもらう」
傍らの若者は、遠慮無く立ち上がった。
颯爽と歩み去る新人りの背を見送ってから、白木三方を眺めた。
「ふぅ、、、」
思わず洩れた溜息。
その視線の先には清められた紙が、こんもりと堆く、積まれている、、、
「ああ、間に合って良かったよ」
女、まかべは、薄暗い部屋の奥へと男を案内した。
筵を延べ、着物を敷いただけの寝床の脇には瓶子が転がり、火など熾された形跡など無い竈が、見えた。
「あいつ、爺様の道具にまで手をつけようとしてね。懲らしめてやったところさ」
まだ死んでもいないうちから、とぶつぶつ言いながら、板の扉を外した。
「手癖の悪い奴らが多いから、入り口は打ちつけちまったのさ。こっちからだよ」
黴臭く、酸えた臭いが籠もったその奥、
「、、、、、」
火の気が絶えて久しいと思われる火床には、風を送る、鞴が取り付けられている。
その前には鉄を打ち鍛える金床と、床に掘り込まれた水槽。
整然と並べられ、立てかけられているのは、大小様々な槌と火箸。
粗末なあばら家ながら、掃除が行き届いたここだけは、凛と張詰めた大気が満ちていた。
「あたしは、爺さんのこの家を間借りしててね。飯が食えない時は、姉弟共々、よく食わせてもらってさ。それなのに、あいつと来たら、恩も忘れやがってっ」
「先ほどの若者、、、」
「気にしないどくれ。あたしの弟さ」
「、、、、、」
女は、部屋の片隅にあった引き戸を、空けた。
「爺さん、あんたの弟子が訪ねて来てくれたよ」
声をかけると女、まかべは顎をしゃくった。
薄暗い四畳程の室内には、所々外の明かりか差込み、筵に横たわる痩躯が見えた。
笠を置き、にじり寄ったその先に、
「お師さま、、、」
薄い白髪、落ち窪んだ眼窩の老人が、薄手の掛具を掛けられて、横たわっていた。
後継を男に定め、谷津の工房を去ったのが、十数年前。
見る影もないその人を前に、男は言葉を失った。
「、、、、、」
拳を握り、項垂れた男の背中を見て、
「口は悪い爺さんだけど、結構みんなに慕われてんだよ。金物を直してくれたり、研いでくれたり、さ。悪さしている連中だって、頭が上がんないんだ」
まかべが、口を開いた。
「たまに貴族絡みの依頼があって儲けると、みんなに振舞っちまったりするような、そんな爺さんでさ。酔えば、決まってあんたの話をしてたんだよ。わしの弟子が、わしの倅だってね」
「、、、、、」
まかべは、どこか寂しげな表情でその背を見つめると、静かに部屋を後にした。
昼間でも薄暗い、その部屋の中。
男は、師の枕元でそのか細い吐息に耳を傾けているのか、師の姿を眼に焼き付けているのか、まんじりともせず、その顔を見つめている、、、
「こらっ、枝を咥える奴があるかっ」
それは、怒号に近かった。
庭の彼方。
往来の者達が驚いて思わず脚を止め、屋敷の内を覗く程に。
鬱蒼と生い茂る、木々。
その向こう広がる、広大な庭。
渡殿で結ばれたいくつかの離宮と、大小の阿四屋が点在する、都守の屋敷である。
「んがぁあッ」
大池に浮かぶ中島で、水干の童が長い枝を咥えたまま、首を振った。
「危なッ」
傍らに居た男が、咄嗟にくの字に身体を折り曲げて、避けたが、
「ぐぬうッ、素振りもまともにできんうちからっ」
たまらず拳を握った。
どうやら、いきなり太刀を握らせろと逸る伯と、基本姿勢から入ろうとする燕倪。
その意識の違いが、お互いをやきもきさせているらしい。
眠気と疲労が増す中、さすがの燕倪も限界が来ているようで、
「むッ」
拳の下で、毅然と睨み上げるその菫色の眸に、苛立ちを抱く。
拳が伯の頭上に落ちる刹那、
「穏やかではないな」
山野草が茂る楓の木立の向こうから、白い浄衣姿の若者が、現れた。
「むぎゅぅっ」
拳骨をくれようとしていた手は伯の首に回り、燕倪の厚い胸に、太い腕でもって引き寄せていた。
「なんだ、銀仁か」
露骨にほっとした友の顔に、
「そなたも、激昂するのだな、、、」
腹腔を震わせる低い声が、応じた。
じたばたもがく伯を琥珀色の眸が見つめた時、その背に朱金の斑毛が、長く流れた。
「その格好、、、」
「気になる事があって、な。取り急ぎ、このような形にて、、、」
屋敷にも寄らず、白袍姿そのまま、こちらに向かってきたようだ。
「燕倪。そのまま伯を、押さえていてくれるか?」
「あ、ああ、、、」
燕倪の腕に捕らえられたままの伯が、
「ッ!!」
何を感じ取ってか、近づいてくる虎精を拒むように暴れる。
しかし、さすがに燕倪の豪腕。
生半に外す事など、できはしない。
「許せよ、伯」
骨ばった大きな手が、伯の頬を掴み、圧迫。
「お、おいおい、銀仁っ」
「調べたい事があるのだ、、、」
扇の柄を咬ませると、そのまま抉じ開けた。
日に日に鋭さを増す犬歯が、覗いた。
くん、と銀仁の鼻が、鳴った。
― そんなはずは、、、確かに、あの時、、、 ―
頬を掴む手に、思わず力が入ってしまい、
「ううッ」
怒りに赤身を帯びた、菫色の双眸。
「ま、まだか?!いかんせん、これは酷だぞっ」
「もう少し、、、」
扇の柄を手の甲で押さえ、その指が口腔へ。
「んぐぐぅっ」
「銀仁ッな、何する気だ?!」
喉の奥で丸まっている桃色の舌を、銀仁の指が無遠慮に抓んだ。
さすがに声を荒立てたところで、
「あ、、、」
身体を押さえていた燕倪がまず、凍りついた。
伯の舌を引き出し、目を凝らしつつ、その喉の奥を覗き込んだところで、
「何をしている、、、」
鬱々として冷ややかな声音が、乳色の陽射しの中に響く、、、
板の間に、唐草模様を染め付けた更紗地の敷物。
その上に車座で、肩紐を結びながら蒼奘が腰を下ろした。
浄衣から、白い狩衣に着替えている。
向かいには、肩肘枕のまま目を閉じている燕倪と、申し訳なさそうに項垂れる銀仁。
「、、、、、」
覗い見たその先では、伯が指を咥え、すんすんと鼻を鳴らしている。
先程の庭での一件のせいで、蒼奘の傍らから、離れようとしない。
「聞こうか、、、」
静かに口を開けば、
「例の男が纏っていた香りと、伯の口からした香りが似ていたと思い当たり、確かめようとつい、、、」
申し訳なさそうな、銀仁の声。
「、、、、、」
蒼奘の沈黙に、
「だが、気のせいだったようだ。伯、すまぬ」
深々と頭を下げた銀仁。
その様子を、背中から顔だけ覗かせ、菫色の眸が見つめている。
「いつの事だ、、、?」
「あ、ああ。斗々烏の夜の事だ。車から、伯が寝惚けて我の上に落ちてきた時に、、、」
微かにその香りを、嗅いだ気がしたと、言う。
背にしがみつく伯を一瞥し、青い唇が吊りあがる。
「あの騒ぎの最中、暢気にあまい夢に遊んでいたか、、、」
「?」
眉を寄せた、銀仁。
「汪果、封瓶を、、、」
酒器を運んできた汪果は頷き、母屋の暗がりへ消えた。
再び戻ってきたとき、その手には脚付きの銀盆。
こんもりとした袱紗の包みを取り上げると、中から虹色の輝きが洩れた。
「これは、、、」
「ん、なんだ、それ。いつかの霊紫じゃないか?」
目を擦りながらの燕倪の声に、
「ああ」
彩変える、至宝の一つ。
「万物の本質。そのようなものだ」
投げ渡すとそれは、銀仁の手の中で煌々とした。
「そんなものが、伯の口から、、、?」
困惑した様子の銀仁。
「この仔の身体は、血肉から造られたものとは異なる。想念が宿ったものともな」
何らかの意志を持って、この本質を元に形作られた、純粋な存在。
「体内に残ったその名残が、吐き出される事がある。稀に、天津国生まれの純粋な神仙の吐息に含まれるが、地上ではまず眼にすることはない代物だ、、、」
「霊紫、、、」
まじまじと光に透かして眺めれば、万華鏡のように七色の輝きが、床に煌びやかな輝きを落とした。
「幾らかあったが、それが最後の一つだ。天狐に呉れてやったり、先の怪我でも、世話になった」
「以前は、よく酒を呑んではぷかぷか吐き出してなかったか?」
「ああ。今思えば、漂う様を眺めてなどおらずに、とっておけば良かった。何分、欲が無いものでな、、、」
「よく言うよ」
呆れたような燕倪の声だ。
「産まれ出でた頃は心安く、よく吐き出していたが、最近では舌も肥え、多少の刺激ではお眼にかかれん」
「この地にある心労だよな、伯?」
「、、、、、」
燕倪の言葉に、伯はそっぽ向いた。
「否定はせんよ、、、」
蒼奘だけが、静かに肯定。
機嫌を直したのか、腹が減ったのか、膝に入った伯に杯を持たせると、なみなみと酒を満たしてやった。
喉を鳴らして呑み干す様を、眺めながら、
「嗅いでみろ」
「だが、これを使えば、琲瑠が、、、」
「霊紫は、純粋。それ故、使い方を誤れば毒ともなる。あの程度では、かえって毒となろう」
その毒と成るようなものを、今まさに嗅がせようとしている者の台詞にしては、随分と無責任な発言であった。
躊躇する銀仁に、
「俺も嗅いだ事があるが、この通りピンピンしている。嗅ぐだけなら、大丈夫さ」
寝そべったままの燕倪に言われ、ほんの少しだけ蓋を捻った。
― これはっ、、、 ―
それだけで、銀仁には十分であった。
とろりと目尻が下がり、琥珀色の眸は潤んだ。
恍惚となる馨しいまでの香りの中に、
― 我が、故郷が、、、視えるっ ―
急峻な山々に抱かれた、花咲く春の深い森が視えた。
幼い頃。
弟と共に蝶を追い、無邪気に野を駆けた懐かしい思い出が、甦った。
しかし、次の瞬間、
「ふ、、、」
どこか自嘲気味な笑みと共に項垂れた、銀仁。
「どうした?」
「、、、、、」
しばし言葉を失った銀仁を、案じる燕倪を他所に、
「毒の部分をも、持ち合わせていたか、、、」
不謹慎極まりない、蒼奘の呟き。
「どういう事だ?」
むっとした燕倪と、
「我は、、、大丈夫だ。少し、大陸の事を思い出してしまってな、、、」
こめかみを揉む、銀仁。
燕倪も蒼奘も、この虎精の過去は知らぬが何よりも、漂うどんよりとした空気が沈黙を歓迎した。
やがて、
「都守」
銀仁の太く低い声音が、自らその沈黙を破った。
懐紙で首の辺りの汗を吸わせながら、
「間違い無い。琲瑠を打ち伏したる男、このような香りを口腔から、いや、その身に纏うていた」
手にした封瓶を、袱紗の上へ返したのだった。
「霊紫を吐く者、か、、、」
どこか愉しげに、目を細めた蒼奘。
敷物を抱いたまま、ちびりちびり酒を舐めていた燕倪の、
「なんだよ。心当たりが、あるんじゃないかよ」
皮肉にも似た、眼差し。
「ふ、、、」
青い唇に、意味深な笑みを刷くと、疲れと眠気で腐っている燕倪に、
「それはそうと、燕倪。遠野に行こうか、、、」
唐突な、それは誘い。
「と、遠野ッ?!」
勢い良く上半身を起こした燕倪と、
「羽琶、、、?」
膝に入って見上げてくる菫色の眸の主、伯の声が、同時。
杯を、唇にあてながら、
「ああ、、、」
それは、都守の気紛れか、、、?