表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/56

第玖幕前 ― 巨猪 ―

 伯を打ち据えんとする男から、その楯となった琲瑠。居合わせたあとりと銀仁によって、その場を切り抜けたが、、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第九幕前編。。。


 月の無い夜空。

 満点の星空が、煌く帯となり、幾筋も流れている。

 その下には、なだらかな丘陵を覆うように鬱蒼とした広葉樹林が広がる。

 無数に枝分かれし蛇行を繰り返すのは、星空を映す河川。

 穏やかなその水面に、蒼白い巨影が揺れた。

 フォッ・・・フォッ・・・

 浅い呼吸を繰り返す主は、堂々たる体躯にはぎを巻きつけた、見上げる程に大きな巨猪きょちょ

 額には、捩じれた胆礬色たんばいろの一角。

 深い森を思わせる緑柱石べりるの眸が、ひどく濁って見えた。

 その足元で、小さな影が跳ねた。

 黒く、つぶらな眸。

 鼠色の被毛の小兎だ。

 巨猪の足元で忙しなく跳ね回ると、

 ざっ・ざっ・・・

 遠く、砂利を踏む音が、近づいてきた。

 それが一旦、止んだ。

「、、、、、」

 俯いていた顔を上げ、眼を凝らしているのか、人影が彼方。

 そして再び、

 ざっ・ざ・っ・ざっ・・・

 人は、急ぐでもなく、獣は、逃げるでもない。

 ひとりと一頭の間には、そんな不思議な時間が、流れていた。

 フォッ・・・フッ・・・

 程なくして長身の男が、獣の傍らに立った。

「待たせた、、、」

 低く、擦れた声を掛けると、巨猪の鼻先に手を当てた。

 フォオ・・・

 一つ、深々と息を吐き出し、巨猪は水辺にて緩慢な動きで前脚を折った。

 とろりと潤んだ眸が瞬きを繰り返しながらと閉じると、その身を取り巻いていたはぎの葉は落ち、紫紺しこんの花は萎れ、枯れ果てた。

 ドゴォォ・オ・・・オン…

 轟音と共に、その体躯が大地に投げ出される。

「、、、、、」

 鼻先に置かれていた手が、そのまま男の顔の前へ。

 男は、わんわんと森にこだまするその轟き止むまで、片手拝みの姿勢を崩さなかった。

 やがて、

「、、、、、」

 訪れた静謐に眼を開けると、男は袖に手をしまった。

 岩陰に身を縮込ませながらも、長い耳をぴんとそばだてた小兎が、黒目を瞬かせる。

 再び現われたその手には、しろがねの輝きが、握られていた。

 

 睡魔との闘いに打ち勝った男は、大きく伸びをしながら庭へ出た。

 玉砂利が、ひっかけた草履の下で、小気味良い音をさせる。

 薄闇の中。

 雉鳩のほろほろと、低く響く鳴き声。

 水面。

 水をかく、緋鯉の尾。

 耳元。

 羽虫の、羽音。

 大きな口が、あくびの形をとり、

「おっ」

 白がんだ空に奔る輝きに、しばし、釘付けになった。

 

 人気の無い大通りを、漆黒の馬がゆっくりと行く。

 規則正しく響く、馬蹄の音。

 深更、篝火焚かれた門を叩く、使いの若衆に応じ、訪れたのはさる歌人の屋敷であった。

 北の街道にあったと言われる、奇岩。

 馴染みにしている庭師に乞うて、庭石にともらい受けた大きなものあったが、夜泣きをしてかなわんと、泣きつかれた。

 赴いてみれば、成る程、さめざめと泣く幽鬼が、一人。

 問うてみれば、物盗りに斬り殺された際、生まれ出でた我が子の身をただただ案じ、泣いていたのだと言う。

 それを伝えたところ、深い同情を寄せた、歌人。

 不憫で仕方なくなって、自ら捜索を買って出た。

 一先ず、意気込む歌人に任せる事にし、その屋敷を後にしたのだが、

「、、、、、」

 見上げた空は、白々と明け始めている。

 涙を滲ませ、あくびを繰り返す童の頭に手をやれば、

「ん、、、」

 手綱を持つ腕に背を預け、目を閉じた。

 冷たい夜気が、朝陽から逃れるように、背へ吹き抜けてゆく。

 頬を打つ、銀糸の髪。

 うっそりと眺めた先に、

「、、、、、」

 目が覚めるような耀きが、流れた。

 

 白がみ始めた、東の空。

 どこか遠くなった、星々の輝き。   

 群青から菫色へと、暁を迎える夜空の下。

「、、、、、」

 額に滲んだ汗を、血塗れた手が拭った。

 見上げた夜空に、緑青色ろくしょうの尾を引き流れる、箒星ほうきぼし


  ※

 

― あ、、、 ―

 傾ぐ、体.

 喧騒に包まれているのに、どこか遠くに感じる。

 漆黒の視界に抜かれた球体二つ。

 狭まった視野に、初秋の高い空が見える。

「ハイルッ」

― 若君、、、 ―

 空を遮って飛び込んできた、その人の顔。

 混濁する意識の中、

― そのように涙ぐんで、どこか痛むのですか、、、? ―

 今にも毀れそうな、透明な雫を、見た。

 頬に触れようと伸ばした手の感覚が、無い。

 こぽ…こぽぽ…

 懐かしい海の音が、聞こえる。

 瞼が、重い。

 背に当たる大地が、冷たかった。

― わたしは、、、 ―

 狭まる視線が、闇に閉ざさられ、

― 我が君、、、 ―

 沈む意識を、手放した。

 

「ハイルッ」

 劈くような、それは凛と澄んだ叫びであった。

 布津稲荷。

 月の決まった日に立つ、朝市。

 境内には物売りや行商人の賑やかな声が響き、まだ泥も乾かぬ季節の野菜から、烏賊の一夜干し、鯵やカマスの干物、おが屑に潜る車海老や渡り蟹といった魚介類が居並ぶ。

 また、鋳物、金物、陶器など日用品、煙草や酒、果てや、どこか胡散臭い大陸の珍品等が入り混じり、それらを買い求める人々でごった返していた。

 その一画が、凍りついたのは、まさに一瞬の出来事であった。

「見たか、人が、、、」

「これは奇怪な、、、」

 人垣の真ん中の石畳には、水が滲んでいた。

 その水の中で、膝をつく者がいる。

「、、、、、」

 水干を纏った童。

 声の主、はく

「邪魔が入った、、、」

 打ち据えようとした童を庇ったのは、その供であった。

 ざわつく人垣に、

「皆、よう聞け。こやつらは、つけ入る隙あらば全てを喰らい、皮を被る」

 所々、破けた白い衣。

 目深に被った笠の下に、炯々と光る鷹の如き双眸。

 壮年と思われる年の頃だろうが、赤銅色に焼けた肌は筋骨隆々とし、白いものが混じった無精髭と相俟って、偉丈夫と呼ぶに相応しい堂々たる体躯。

 手には、琲瑠を一瞬にして打ち砕いた、錫杖。

 その切っ先を向けた先に、黒髪の童の姿があった。

 男の網膜には、大地に伸びる巨影が、はっきりと視えていた。

 瘧にかかったように、体を震わす童を冷ややかに見据えたところで、

「ギ、、、」

 童の手が、首に掛けた翡翠の連珠に掛かった。

「正体を現すか、、、」

 錫杖を握る手に力が、入る。

 網膜に浮かぶ巨影と童の姿がだぶり、茫洋として、その全貌が見透かせない。

― この童、ただのもののけでは、、、 ―

 眼を眇めたところで、

「何をしておるのじゃっ」

 人垣の中から、晴れ着の女童が飛び出した。

 黒目がちで、青く澄んだ黒瞳に、強い光が宿っている。

 腕を広げ、割って入ったと思えば、

「ぬ、、、いかんっ」

 袂で包み込むように、伯を抱き締めた。

「うぅっ」

 身じろぐその体を、力いっぱい抑え込む。

「、、、、、」

 男は何を感じたのか、それまで懐手にしていた右手を伸ばした。

 軽やかな音がして、長く大地に垂れたものがある。

 数珠だ。

 その長い数珠を手繰りながら、何やら唱え始めると、

「待たれよ」

 その間に、頭一つ分高い男が、人垣から抜け出した。

 褐色の直衣を纏い、黒髪を結った若者。

「まかりなりにもここは、神域。手荒な事は、止めて頂きたい」

「ほぅ、まだ連れがいたか。これは面白い、、、」 

 男は若者を眺め、眼を眇めた。

「では、問おう。そなたは?」

陰陽頭おんみょうのかみに仕える、銀仁いんじん

「仕える?その匂いをさせて、人の都でのうのうと、、、」

 厚い口元に刷かれたのは、どこか侮蔑を含んだ笑み。

「、、、、、」

 銀仁のどこか憂いを帯びたままの双眸には、しかし、何の感情も見受けられない。

「まぁいい。都の要たる陰陽頭が名、語る不届き者はいまい、、、」

 一つ、杖を突く。

 錆びをふいた遊環ゆかんが、澄んだ音を立てた。

「、、、、、」

「、、、、、」

 無言の内に踵を返した、その広い背。

 長い包みを背負った男が、人垣の彼方に消えて行くと、ひそひそと不振な眼差しを一行に残しつつ、人垣も薄れていった。

「しかし、、、」

 小さく毀れた、呟き。

 くん、と鼻を鳴らし、彼方を見つめる男の傍らで、

「銀仁、、、」

 伯を抱きしめたまま、あとりが見上げてくる。

「ああ、、、」

 心得たもので、伯の前にしゃがみ込むと、

「伯。琲瑠は、式だ。早く屋敷に連れて行ってやろう、、、」

 懐から懐紙を取り出した。

「ぃたかったっ」

 押さえ込むように回したあとりの腕を、振り払うかのように、肩を揺する。

「伯、、、」

 あとりは、腕の中でもがく伯の中に渦巻く、怒りと悔しさを、感じていた。

「ああ、痛かっただろう。だから、あいつを同じようにすれば、気が済んだか?」

「、、、、、」

 急速に、力が抜け、項垂れる。

 その、やるせなさ。

「伯、、、」

 あとりが堪らず、その肩に頬を寄せた。

「、、、、、」

 しばしあって伯の手は、ゆっくりと翡翠輪から離れていった。

 それを見届け、

「行こう」

 銀仁は、水に濡れそぼち、力なくだらりと伸びている海鼠なまこを、懐紙に包んだのだった。

 

 長く伸びた枝。

 その細やかな萌葱色の葉の間に、淡紫のいろどりが鮮やかに弾けている。

 紫式部。

 橙の蝶が遊ぶ、涼やかなその茂みの先。

「うっ、、、」

 海水を張られた桶を覗き込んでいたあとりは、ぶるりと身を奮わせた。

 都守の屋敷。

 母屋に程近い、阿四屋の一つである。

「大丈夫なのか、、、?」

 その体表は赤黒くぬめぬめとし、無数の突起が突き出している。

 おまけに、白く細やかな糸状の腸が、粘つくようにゆらゆらとしているのだ。

 気丈な姫も、この手の類だけは、受け付けぬらしい。

「あの姿は、人の姿を模した写身うつしみだ。傷も、大したものではないよ、、、」

 長椅子の肘掛に片肘預け、頬杖の美丈夫。

 その傍らでは、どこかを睨み、まんじりともしない、伯。

「しかし常人が、式を見破れるか?」

 向かいに腰を下ろしたのは、朱金の斑毛、琥珀色の双眸、腕組みの銀仁だ。

「伯のこの翡翠輪、生半な術者では見破られるはずがないのだがな、、、」

「見たところ、行者のようにも見受けられたが、、、」

「ふむ、そのようだな、、、」

 蒼奘が、伯の群青色の髪を梳いた。

 やや癖があるが、指の間を、絹糸のように滑ってゆく。

 その頭頂部に、翡翠色の突起が一対。

 あとりが、戯れに指で突こうものなら、

「や」

 腕で振り払って、庭の一画に広がる木立に分け入ってしまった。

「あっ」

 追いかけようとしたあとりに、

「姫よ、放っておけ、、、」

 蒼奘の低い声音。

「でも、、、」

「琲瑠の事で少しばかり、気が立っているのだ、、、」

 じきに機嫌も直る、と薄い茶碗を手に取った。

 青い唇を湿らせると、

「さて、銀仁、、、」

 鬱々とした声音が、問うた。

「その男の風貌、もう少し詳しく聞かせてくれ、、、」

 

 武家屋敷の門を潜ったのは、笠を目深に被った男。

 所々擦り切れた白い衣に、錫杖。

 名を伺い、慌てた様子で母屋に駆け込んだ、若衆籐那。

 しばらくして、賑やかな足音が響いてきた。

慟杏どうあん殿、このようななりにて、すまぬ」

 寝癖頭を掻きながら現れたのが、寝着の胸元肌蹴たままの屋敷の主。

 人好きのする、その笑顔。

「ご足労願ってしまい、なんとお詫びしたら、、、」

 宿直明けで、休んでいた燕倪である。

「他に小用がありましたので、不躾とは思いましたが、門を叩かせて頂きました」

「ああ、当方はいっこうに構いませぬ。どうぞ、上がってくだされ」

「旅垢にまみれた身故、ここで結構、、、」

「何を仰いますか。今、風呂の仕度を整えますので、当屋敷でごゆるりと、、、」

 食い下がる燕倪に、それでもかぶりを振ると男は笠を脱いで、上がり框に背の包みを置いた。

「打ち直したる、大太刀。確かに、これに、、、」

 白鞘に糸巻き。

 七宝散りばめた、その太刀。

「おお、、、」

 手に取り、鞘を撫でる。

 鯉口を切ると、冴えたしろがねの輝きが、こぼれた。

 すらりと引き抜かれると、乱れ丁子の刃紋。

 目を眇め、鞘に戻す様を鷹のような双眸が見つめながら、

守刀もりがたなの類は多少打ちますが、打つほどに心洗われる鋼は、初めてでございます」

 強面が、ほんの少しだけ、緩んだようだ。

「かように粘りある玉鋼は、おそらく見つかりませぬ。飛ぶ鳥落す備堂家が宝刀の真髄、しかと拝見させていただきました」

「若輩者故、この太刀に負担をかけておりますれば、また、お手を煩わせる事になるやもしれまぬ、、、」

 頭を下げる備堂の御曹司に、しばしあって、

「、、、谷津に、拙者をお訪ね下さい。縁があれば、再び、、、」

 低い声が応じた。

「心強い」

 破顔した燕倪に頷くと、

「それでは、、、」

 慟杏は声を掛け、笠を被った。

 燕倪の手戻った大太刀を見ると、目を細め、会釈一つ。

 巌の如き大きなその背が、門を潜り大通りに出て行くのを見送り、ひとつ伸びをした燕倪。

 - 寝直すか、、、 -

 腕に業丸を抱き、奥の寝所に向かうその背に、

「いぃッ」

 ふわりと纏わりつく風、ひとつ。

「エンゲッ」

 象牙色の手を持ち、冷たいそれが、首に攀じ登った。

 首をめぐらせば覗き込む、深い黒瞳。

「伯?!」

 ましらの如く肩に上がり座ると、体を折り曲げ、

「これ、ハクに教えろッ」

 しっか、と掴んだのは、大太刀業丸。

 困惑するその鼻先に、顔を近づけ、

「エンゲッ」

「い、いきなり現われて、お前、何を言うかと思えば、一体、何があったんだ?」

「うぅッ」

 もどかしいのか、身震いすると、白い牙が眼前に覗いた。

「わっ、分かったから、少し落ち着けっ」

「むぐむッ」

 その口を押さえたところで、

「主様、お客様は、、、?」

 手に足を濯ぐ桶を持った籐那が、戻ってきた。

「今しがたお帰りになられたところだ。無理にお引止めしても悪いしな」

 寝着姿の主の小脇に、抱えられているものがある。

「はぁ、、、あの、その、、、」

 指を差したその先に、黒髪の童がじたばたと、暴れている。

「蒼奘のところの伯だ。一人のようだし、屋敷に送り届けてくるから、千草に鞍をつけておいてくれ」

「かしこまりました」

 着替えるために、母屋の北の対に向かいながら、ふと、

「お前、少し背が伸びたか、、、?」

「、、、、、」

 小脇に抱えられたままの伯に、反応は無い。

「なんだ。気のせいか、、、?」

 業丸の鞘を握って離さない伯をそのまま、燕倪は軽い、溜息だ。

 

 風が巻き、下ろされていた御簾が舞い上がる。

 それを待っていたかのように、頼りなげな闇が一つ、舞い込んだ。

 薄闇うすやみの中、鼻先で、燐粉が舞う。

「、、、、、」

 それまで俯きながら、膝に置いた嘆願書の写しの一つに眼を通していた男が、貌を上げた。

 覗き窓から差込む日差しが、どこか月光を思わせ、寒々としていた。

≪蒼奘≫

 燐光の正体は、揚羽蝶。

 そして、その声の主を、蒼奘は知っていた。

檎葉ごようか、、、」

≪近くにも寄らぬ故、遥々こうして出向いてやったぞ≫

 凛と澄んだ、女童の声音。

≪西の森より、使いが参った≫

「西の、、、」

≪牙を咥えていたよ。青角そうかくが、喰われたようだ、、、≫

 その名は、遠野の辺り一帯を治める、地仙の名。

「ほう、、、」

 眉一つ、動かす事は無い。

 ただ、淡々とその耳を傾けるだけ。

≪毎度の事ながら、あやつの使い玄兎くろうさは、事後報告だけで、埒があかぬよ。寄り道ばかりしよって、、、いったい幾日前だか、肝心な所が定かではない≫

「青角がおらぬとなっては、玄兎もただの獣に戻る。使いに来ただけ、御の字だ、、、」

≪うむ。まぁ、確かに、伝えたぞ、、、≫

 それだけ言い残すと燐粉は失せ、蝶は忙しなく飛び回った。

 御簾を上げてやると、往来を行く人々の喧騒と共に秋の陽の光が、車内に差し込んだ。

「、、、、、」

 御簾を掴む繊手の上で、一旦羽を休ませると、名残惜しそうに鼻先に舞い上がり、それから御簾を潜っていった。

 陽光の中へ掻き消える闇色の蝶を、鬱々とした呟きが、見送った。

「神喰らい、か、、、」

 その繊手は、先程まで目を通していた嘆願書の写しの束を、弄んでいる、、、

 

「入れ違いか?」

 出迎えの若衆琲瑠の姿が見えぬため、勝手にうまやに千草を繋いでいるところに、汪果が現われた。

「はい。今し方まで、銀仁様とあとり様もいらっしゃっていたのですが、急に星読博士のお召しが掛かりまして。何でも古い暦が出てきたとか、、、」 

「まぁ、あいつの事。適当に切り上げて戻ってくるだろ」

「あの、燕倪様は、、、?」

 出仕もしないで、と言う汪果の視線に、

宿直とのい明けでな。今日は非番なんだが、こいつが、、、」

 指を差した先、小脇に抱えられながらも業丸の鞘を離さぬ、伯。

「寝直そうにも、この有様でな」

「若君、、、」

 むすっ、とした様子で、顔も上げようとしない。

「で、何があったんだ?」

 ただでさえ口数が少ない伯に、説明を強いたところで埒があかない。

 琲瑠もいない以上、この侍女に問うより他は無く、

「わたくしも、実際に居合わせた訳ではないので、定かではございませんが、、、」

 汪果は、事の次第を話し始めた。

 

 帝都北西、黒亜門へきあもん

 かつては、漆が塗られ荘厳を歌われた北西の大門も、風雨に晒され、今は見る影も無い。

 荒涼として見えるのは、前方彼方にたなびく荼毘の煙のせいだけではあるまい。

 どこか、とろりとした瞳に、痩躯。

 垢で薄汚れた衣とも呼べぬ襤褸を纏った者達が、黒亜門に至る石畳に点々と座り込んでいる。

 中には、眼差し鋭い者達も混じっているが、大半は今日の糧にも困る貧しい民であった。

 雑踏の中に在っても、この門を通る者は多くなく、あえて行こうとするならば、袖を引かれ、運が悪ければ身包み剥がされ、川に浮かぶ事となろう。

 笠を目深に被った男が、その門をまさに潜らんとしていた。

 彼等と同じまではいかないが、薄汚れた白い衣に、袖無し羽織。

 けして裕福には、見えない。

 巌のような体躯を見た瞬間、幾人かの者達は俯き、舌打ちした。

 恐れ気無く駆け寄ったのは、他でもない。

「おいちゃんッ、ねぇ、食べ物分けてくれよっ」  

「ほんの少しのお金でもいいからっ」

「女が欲しいんなら、うちんとこ来てっ」

 数人の子供達だ。

 櫛梳る事の無い髪は絡まりあい、虱によって白っぽくさえ見える。

 丈が合わず晒された膝や腕には骨が浮かび、男を見上げるその顔らは、汚れていた。

 男は、彼らが手に持つ欠けた椀や、土器かわらけを見つめた。

 入っているのは、陶器の欠片や砂利だけだ。

 男は、知っていた。

 自らの子供達を、物乞いに出す親の心理も、あるいはそうせざるおえない現実を、、、

「ねぇねぇ、おいちゃんてばぁッ」

 男は、子供達の前にしゃがみ込んだ。

「この先には、詳しいか、、、?」

 しゃがれた声音に、

「うん。この先の橋の下が、僕らの住処だもん」

「ここで生まれたんだんだ」

 初めて聞かれたのか、興奮した様子で指を指す。

 その中の一人、

「おいちゃん、なんか、用があるの?」

 膝に手を置いて、男の子が不思議な顔をした。

「人を探している」

「人?」

「腰の曲がった偏屈な爺さんだ、、、」

「へんくつなぁっ!!」

「じいさんッ!!」

 顔を見合わせて笑う、子供達。

 物乞いをしていてもこの辺りでは、案外助け合って暮らしているのかもしれない。

「ヘンクツ爺さんッ」

「へんくつ、じじいっ」

 子供達が、歌いながら駆け回る。

 男が歩き出すと、子供達が纏わりついては口々に、

「どんなじいさん?!」

「なんでじいさん?!」

 矢継ぎ早な、質問が飛び交う。

 男は錫杖を鳴らしながら、汚泥溢れ、腐臭漂う川を渡った。

 板を組み合わせ、或いは打ち付けただけのあばら屋。

 両の手を広げれば、それだけで塞いでしまえそうな小道を、縫うようにして進む子供達。

 けたたましい鶏の声や怒号、嬌声、悲鳴が響く、その界隈。

 訝しげな眼差し注ぐ者達の視線を、全身に感じながら、

「まずは、首無し地蔵」

 ぽつりと一言。

「くびなしぃ?」

 小首を傾げた年少の童に、

「あ、小便地蔵さんのことだっ」

「こっちこっちっ」

 兄妹か、袖を引く。

「あのくそ女ッ」

 前方から、若い男が駆けて来る。

 押さえた手首の辺りが赤く、点々と血が落ちては染みを作った。

 子供達は日常茶飯事なのか、気に止める風でも無く、狭い道を譲っただけだった。

「二度と顔出すんじゃないよっ!!」

 鼻息荒く、手に赤々と染まった小刀を持つ女が走り出して来ては、彼方の男に向かって罵声を放つ。

 煤けた橙の小袖から、ぬめぬめとした太腿が覗いている。

 垂らしたままの黒髪は乱れ、肋が浮く胸元も露露あらわなその青白い肌に、返り血か、朱けが跳ねている。

 三十そこそこの、鶏がらのような女なのだが、むしゃぶりつきたくなるような色気があった。

「ちッ、、、汚れちまったじゃないかっ」

 華奢な肩を怒らせて、胸元を拭っているその向かいで、子供達は足を止めた。

「ここだよっ」

「、、、、、」

 見れば、ちょうどその女が出て来たあばら屋の前。

 どこから持ってこられたのか、首の無い地蔵が、二つ三つ。

 汚臭漂い、雨でもないのにぬかるむ一画に、佇んでいる。

「すると、まかべ殿とは、、、」

 男は、女の顔を見た。

「なんだい、あんた。客かい?」

 赤い舌が、唇をねぶった。

 品定めするかのように腕を組むと、女は細い顎を上向けた。

「まかべは、あたしだよ」

 

「まさか、琲瑠が、海鼠なまことは、、、」

 手桶を覗き込んでいた燕倪は、しみじみと言った。

「媒体さえあり、心が強ければ、式として召抱えられる資質は十分です。琲瑠は元々、若君の眷属に連なる者。齢、百を数える大海鼠、、、」

「昔から気になっていたのだが、ずっと変わらぬそなたも、、、」

 死人還りとなって程なく、蒼奘は一介の星読士より、兼ねてより固辞していたはずの都守の役職を、賜った。

 その頃から、燕倪もこの屋敷に出入りするようになったので、かれこれ五、六年は経っている計算だろう。

 少年から青年期へと成長を遂げた燕倪から見ても、この異相の侍女は皺一つ増えた様子はない。

 むしろ、若々しくさえ見受けられる。

 燕倪に、改めてまじまじと見つめられながらも、 

「お察しの通り。わたくしも、人ならざる式神、、、」

 汪果は、艶然とした微笑みを絶やさない。

「そうか、そうだろうなぁ、、、」

 腕を組み、一人頷く燕倪。

 鈍いようでも、薄々は察していたらしい。

 しかし、

「けれどわたくし、若き日の皆様を、存じ上げております。先代が蒼奘様を養子に迎えられた以前より、この屋敷に出入りしておりましたので、、、」

「え、、、」

 それは、意外であったらしい。

「当時のわたくしは、尾長おながの姿。お気付きにならぬのも、無理はありません」

尾長おなが?!」

「当代都守により、このような姿を賜りましたので、皆様のお世話を焼けるようになったのですわ」

「すると、使役主の、その、、、好みにより、姿を変えられると、、、?」

 脳裏を過ぎったのは、勝間で逼塞している妻女、筝葉の貌。

 複雑な表情を浮かべた燕倪を他所に、

「そのようなものです」

 汪果は、艶然と微笑んだ。

「わたくしの場合、先代都守に帰依しておりますので、その年数を数えると、もう数十年にもなりましょう。業深く、かつての経緯はお話できませんが、、、」

「ふむ、、、」

 この際、興味を隠さぬその鈍色にびいろの眸に、

女子おなごの氏素性を逐一知りたがる殿方は今時、煙たがられるもの、、、」

 ぴしゃりと釘を刺した。

「それもそうだな」

 苦笑した燕倪が、罰が悪そうに頭の後ろを掻いた。

 その腰に下げられた大太刀が、力強く引かれた。

 大太刀業丸に、しがみついたままの伯の仕業だ。

「とにかくお前は、琲瑠を打ち据えた野郎に一発食らわせたいんだな?」

「まぅ」

 こくり、、、

「しかしなぁ、相手は人だぞ。もっと穏やかに、キメれないもんかね」

 太刀の柄を叩くその傍らで、

「きるんじゃなぃ、、、」

 小さく澄んだ声音が、応じた。

「、、、守りたかった」

 人の世に在るやり方を、何も知らぬのだと、思い知らされた。

「そうだったのか、、、」 

「でも、、、」

 肺腑から吐き出された、深い吐息。

「だめ、、、だった、、、」

 それは、齢を重ねた老人のような、溜息であった。

 不意の事とは言え、人の世にあって、あまりにも無力を痛感した。

 それが何より悔しくて、伯を太刀の使い手の元へ、走らせたのだった。

 項垂れたその童の苦悩を、垣間見て、

「まぁ、さ、、、」

 言葉を探した。

「命までは取られなかったんだから」

 慰めのつもりが、

「トラレテイタラ、、、?」

「、、、、、」

 これには、燕倪が口をもごもごさせた。

― さては、最近の悶々とした様子は、これか、、、 ―

 伯がぶち当たっている壁を燕倪は、ここでようやく見た気がした。

― 無理も無い。元は、飛べるわ、潜れるわ、果ては氷水ひょうすいをも意のままに操るんだ。人の身に封じられているとは言え、この無力感。堪えるわな、、、 ―

 傍らで項垂れているその頭を、ぽんぽん、とやると、

「ううっ」

 やめろとばかりに、身を震わせた。

 犬歯を剥いて見上げた先に、

「付き合ってやるよ」

「、、、、、」

 どこか穏やかな目をした、燕倪の顔があった。

 

― やはり、気になる、、、 ―

 その香り。

 最初は、気のせいかと思ったのだが、

― 死臭とも、腐敗臭とも違う。到底人なんぞが、持ち得まいよ。しかし、どこかで、、、 ―

 何か、引っ掛かる。

「どこか具合でも、、、?」

 心配そうな、若者の顔。

「あ、いや、、、」

 すぐ傍らで、御幣を折っていた若い陰陽師、稀水きすい

 敷き詰められた玉砂利が、降り注ぐ陽射しを眩しく、照り返している。

 昼過ぎのため、外に出ている者も多く、館内は静かであった。

 御所、陰陽寮の一室である。

「そう言えば、朝から少し熱っぽい気が、、、」

「季節の変わり目ですしね。無理をせず、お帰りになった方が、、、」

「そうさせてもらう」

 傍らの若者は、遠慮無く立ち上がった。

 颯爽と歩み去る新人りの背を見送ってから、白木三方を眺めた。

「ふぅ、、、」

 思わず洩れた溜息。

 その視線の先には清められた紙が、こんもりとうずたかく、積まれている、、、

 

「ああ、間に合って良かったよ」

 女、まかべは、薄暗い部屋の奥へと男を案内した。

 むしろべ、着物を敷いただけの寝床の脇には瓶子が転がり、火など熾された形跡など無いかまどが、見えた。

「あいつ、爺様の道具にまで手をつけようとしてね。懲らしめてやったところさ」

 まだ死んでもいないうちから、とぶつぶつ言いながら、板の扉を外した。

「手癖の悪い奴らが多いから、入り口は打ちつけちまったのさ。こっちからだよ」

 黴臭く、酸えた臭いがもったその奥、

「、、、、、」

 火の気が絶えて久しいと思われる火床ほどには、風を送る、ふいごが取り付けられている。

 その前には鉄を打ち鍛える金床と、床に掘り込まれた水槽。

 整然と並べられ、立てかけられているのは、大小様々なつちと火箸。 

 粗末なあばら家ながら、掃除が行き届いたここだけは、凛と張詰めた大気が満ちていた。

「あたしは、爺さんのこの家を間借りしててね。飯が食えない時は、姉弟共々、よく食わせてもらってさ。それなのに、あいつと来たら、恩も忘れやがってっ」

「先ほどの若者、、、」

「気にしないどくれ。あたしの弟さ」

「、、、、、」

 女は、部屋の片隅にあった引き戸を、空けた。

「爺さん、あんたの弟子が訪ねて来てくれたよ」

 声をかけると女、まかべは顎をしゃくった。

 薄暗い四畳程の室内には、所々外の明かりか差込み、筵に横たわる痩躯が見えた。

 笠を置き、にじり寄ったその先に、

「お師さま、、、」

 薄い白髪、落ち窪んだ眼窩の老人が、薄手の掛具を掛けられて、横たわっていた。

 後継を男に定め、谷津の工房を去ったのが、十数年前。

 見る影もないその人を前に、男は言葉を失った。

「、、、、、」

 拳を握り、項垂れた男の背中を見て、

「口は悪い爺さんだけど、結構みんなに慕われてんだよ。金物を直してくれたり、研いでくれたり、さ。悪さしている連中だって、頭が上がんないんだ」

 まかべが、口を開いた。 

「たまに貴族絡みの依頼があって儲けると、みんなに振舞っちまったりするような、そんな爺さんでさ。酔えば、決まってあんたの話をしてたんだよ。わしの弟子が、わしの倅だってね」 

「、、、、、」

 まかべは、どこか寂しげな表情でその背を見つめると、静かに部屋を後にした。

 昼間でも薄暗い、その部屋の中。

 男は、師の枕元でそのか細い吐息に耳を傾けているのか、師の姿を眼に焼き付けているのか、まんじりともせず、その顔を見つめている、、、

 

「こらっ、枝を咥える奴があるかっ」

 それは、怒号に近かった。

 庭の彼方。

 往来の者達が驚いて思わず脚を止め、屋敷の内を覗く程に。

 鬱蒼と生い茂る、木々。

 その向こう広がる、広大な庭。

 渡殿で結ばれたいくつかの離宮と、大小の阿四屋が点在する、都守の屋敷である。

「んがぁあッ」

 大池に浮かぶ中島で、水干の童が長い枝を咥えたまま、首を振った。

「危なッ」

 傍らに居た男が、咄嗟にくの字に身体を折り曲げて、避けたが、

「ぐぬうッ、素振りもまともにできんうちからっ」

 たまらず拳を握った。

 どうやら、いきなり太刀を握らせろと逸る伯と、基本姿勢から入ろうとする燕倪。

 その意識の違いが、お互いをやきもきさせているらしい。

 眠気と疲労が増す中、さすがの燕倪も限界が来ているようで、

「むッ」

 拳の下で、毅然と睨み上げるその菫色の眸に、苛立ちを抱く。

 拳が伯の頭上に落ちる刹那、

「穏やかではないな」

 山野草が茂る楓の木立の向こうから、白い浄衣姿の若者が、現れた。

「むぎゅぅっ」

 拳骨げんこつをくれようとしていた手は伯の首に回り、燕倪の厚い胸に、太い腕でもって引き寄せていた。

「なんだ、銀仁か」

 露骨にほっとした友の顔に、

「そなたも、激昂するのだな、、、」

 腹腔を震わせる低い声が、応じた。

 じたばたもがく伯を琥珀色の眸が見つめた時、その背に朱金の斑毛が、長く流れた。

「その格好、、、」

「気になる事があって、な。取り急ぎ、このようななりにて、、、」

 屋敷にも寄らず、白袍姿そのまま、こちらに向かってきたようだ。

「燕倪。そのまま伯を、押さえていてくれるか?」

「あ、ああ、、、」

 燕倪の腕に捕らえられたままの伯が、

「ッ!!」

 何を感じ取ってか、近づいてくる虎精を拒むように暴れる。

 しかし、さすがに燕倪の豪腕。

 生半に外す事など、できはしない。

「許せよ、伯」

 骨ばった大きな手が、伯の頬を掴み、圧迫。

「お、おいおい、銀仁っ」

「調べたい事があるのだ、、、」

 扇の柄を咬ませると、そのまま抉じ開けた。

 日に日に鋭さを増す犬歯が、覗いた。

 くん、と銀仁の鼻が、鳴った。

― そんなはずは、、、確かに、あの時、、、 ―

 頬を掴む手に、思わず力が入ってしまい、

「ううッ」

 怒りに赤身を帯びた、菫色の双眸。

「ま、まだか?!いかんせん、これは酷だぞっ」

「もう少し、、、」 

 扇の柄を手の甲で押さえ、その指が口腔へ。

「んぐぐぅっ」

銀仁いんじんッな、何する気だ?!」

 喉の奥で丸まっている桃色の舌を、銀仁の指が無遠慮につまんだ。

 さすがに声を荒立てたところで、

「あ、、、」

 身体を押さえていた燕倪がまず、凍りついた。

 伯の舌を引き出し、目を凝らしつつ、その喉の奥を覗き込んだところで、

「何をしている、、、」

 鬱々として冷ややかな声音が、乳色の陽射しの中に響く、、、

 

 板の間に、唐草模様を染め付けた更紗地の敷物。

 その上に車座で、肩紐を結びながら蒼奘が腰を下ろした。

 浄衣から、白い狩衣に着替えている。

 向かいには、肩肘枕のまま目を閉じている燕倪と、申し訳なさそうに項垂れる銀仁。

「、、、、、」

 覗い見たその先では、伯が指を咥え、すんすんと鼻を鳴らしている。

 先程の庭での一件のせいで、蒼奘の傍らから、離れようとしない。

「聞こうか、、、」

 静かに口を開けば、

「例の男が纏っていた香りと、伯の口からした香りが似ていたと思い当たり、確かめようとつい、、、」

 申し訳なさそうな、銀仁の声。

「、、、、、」

 蒼奘の沈黙に、

「だが、気のせいだったようだ。伯、すまぬ」

 深々と頭を下げた銀仁。

 その様子を、背中から顔だけ覗かせ、菫色の眸が見つめている。

「いつの事だ、、、?」

「あ、ああ。斗々ととうの夜の事だ。車から、伯が寝惚けて我の上に落ちてきた時に、、、」

 微かにその香りを、嗅いだ気がしたと、言う。

 背にしがみつく伯を一瞥し、青い唇が吊りあがる。

「あの騒ぎの最中さなか、暢気にあまい夢に遊んでいたか、、、」

「?」

 眉を寄せた、銀仁。

「汪果、封瓶を、、、」 

 酒器を運んできた汪果は頷き、母屋の暗がりへ消えた。

 再び戻ってきたとき、その手には脚付きの銀盆。

 こんもりとした袱紗の包みを取り上げると、中から虹色の輝きが洩れた。

「これは、、、」

「ん、なんだ、それ。いつかの霊紫れいしじゃないか?」

 目を擦りながらの燕倪の声に、

「ああ」

 いろどり変える、至宝の一つ。

「万物の本質。そのようなものだ」

 投げ渡すとそれは、銀仁の手の中で煌々とした。

「そんなものが、伯の口から、、、?」

 困惑した様子の銀仁。

「この仔の身体は、血肉から造られたものとは異なる。想念が宿ったものともな」

 何らかの意志を持って、この本質を元に形作られた、純粋な存在。

「体内に残ったその名残が、吐き出される事がある。稀に、天津国生まれの純粋な神仙の吐息に含まれるが、地上ではまず眼にすることはない代物だ、、、」

「霊紫、、、」

 まじまじと光に透かして眺めれば、万華鏡のように七色の輝きが、床に煌びやかな輝きを落とした。

「幾らかあったが、それが最後の一つだ。天狐に呉れてやったり、先の怪我でも、世話になった」

「以前は、よく酒を呑んではぷかぷか吐き出してなかったか?」

「ああ。今思えば、漂う様を眺めてなどおらずに、とっておけば良かった。何分、欲が無いものでな、、、」

「よく言うよ」

 呆れたような燕倪の声だ。

「産まれ出でた頃は心安く、よく吐き出していたが、最近では舌も肥え、多少の刺激ではお眼にかかれん」

「この地にある心労だよな、伯?」

「、、、、、」

 燕倪の言葉に、伯はそっぽ向いた。

「否定はせんよ、、、」

 蒼奘だけが、静かに肯定。 

 機嫌を直したのか、腹が減ったのか、膝に入った伯に杯を持たせると、なみなみと酒を満たしてやった。

 喉を鳴らして呑み干す様を、眺めながら、

「嗅いでみろ」

「だが、これを使えば、琲瑠が、、、」

「霊紫は、純粋。それ故、使い方を誤れば毒ともなる。あの程度では、かえって毒となろう」

 その毒と成るようなものを、今まさに嗅がせようとしている者の台詞にしては、随分と無責任な発言であった。

 躊躇する銀仁に、

「俺も嗅いだ事があるが、この通りピンピンしている。嗅ぐだけなら、大丈夫さ」

 寝そべったままの燕倪に言われ、ほんの少しだけ蓋を捻った。

― これはっ、、、 ―

 それだけで、銀仁には十分であった。

 とろりと目尻が下がり、琥珀色の眸は潤んだ。

 恍惚となる馨しいまでの香りの中に、

― 我が、故郷が、、、視えるっ ―

 急峻な山々に抱かれた、花咲く春の深い森が視えた。

 幼い頃。

 弟と共に蝶を追い、無邪気に野を駆けた懐かしい思い出が、甦った。

 しかし、次の瞬間、

「ふ、、、」

 どこか自嘲気味な笑みと共に項垂れた、銀仁。

「どうした?」

「、、、、、」

 しばし言葉を失った銀仁を、案じる燕倪を他所に、

「毒の部分をも、持ち合わせていたか、、、」

 不謹慎極まりない、蒼奘の呟き。

「どういう事だ?」

 むっとした燕倪と、

「我は、、、大丈夫だ。少し、大陸の事を思い出してしまってな、、、」 

 こめかみを揉む、銀仁。

 燕倪も蒼奘も、この虎精の過去は知らぬが何よりも、漂うどんよりとした空気が沈黙を歓迎した。

 やがて、

「都守」

 銀仁の太く低い声音が、自らその沈黙を破った。

 懐紙で首の辺りの汗を吸わせながら、

「間違い無い。琲瑠を打ち伏したる男、このような香りを口腔から、いや、その身にまとうていた」 

 手にした封瓶を、袱紗の上へ返したのだった。

「霊紫を吐く者、か、、、」

 どこか愉しげに、目を細めた蒼奘。

 敷物を抱いたまま、ちびりちびり酒を舐めていた燕倪の、

「なんだよ。心当たりが、あるんじゃないかよ」

 皮肉にも似た、眼差し。

「ふ、、、」

 青い唇に、意味深な笑みを刷くと、疲れと眠気で腐っている燕倪に、

「それはそうと、燕倪。遠野に行こうか、、、」

 唐突な、それは誘い。

「と、遠野ッ?!」

 勢い良く上半身を起こした燕倪と、

羽琶うわ、、、?」

 膝に入って見上げてくる菫色の眸の主、伯の声が、同時。

 杯を、唇にあてながら、

「ああ、、、」 

 それは、都守の気紛れか、、、?


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ