第捌幕 ― 鳴神 ―
空から落ちてきた、獣。かつての自分の姿を重ねた伯は、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第八幕。。。
良く晴れた日だった。
空は青く、白い月が、中天に掛かっていた。
「、、、、、」
忙しなく鳴き始めた、蝉の声。
陽射しがこれから厳しくなる、朝の時分。
気に入りの楓の梢から降りた伯が、庭の中島に突っ立っている。
強い陽射しに眼を眇め、随分と長いこと空を見上げていたが、
「、、、、、」
ようやく視線を落とした先は、なだらかに盛られた築山の辺り。
そこに、もがくものが、ある。
キキュキュキュ…
鋭い鉤爪。
駱駝色の体毛には、黒い斑点がある。
白い柔毛が密集した腹を晒し、もがくものは、獣の姿をしていた。
「、、、、、」
鈍い音に驚いて、梢から転がり降りれば、この通り。
どうしたものかと佇むその華奢な背に、
「ああ、若君。こちらにいらっしゃったのですか」
大池の向こうの母屋から、声が掛かった。
「ハイル、、、」
手に盆を提げた琲瑠が、その姿を見つけて平橋を渡ってくる。
「、、、、、」
ぱっと、伯が駆け出した。
つぶらなその眸が、駆け寄ってくる伯の姿を捉えると、
ギイッ、ギギッ
鋭い鉤爪を振り回しながら、力の限り暴れ始める。
しかし、
くわッ
鋭さを増した犬歯を剥かれると、
イイィ…
とたんに萎縮し、身を縮こませた。
一方、
「マギの国より、蜂蜜の蒸し物を届けさせま、、、若君?」
蜂蜜に目が無い、幼い主君の喜ぶ姿を探そうとして、琲瑠の視線は庭を彷徨った。
先ほどまで、そこにいたはずのその姿が、無い。
「あ、、、」
彼方で、白い水干の袖が、翻った。
阿四屋の向こう。
花を落とした南天の、青々とした茂みが広がっていた。
藤棚の下。
簡素な、籐の揺り椅子。
そこに腰を下ろしていた男は、銀恢の眸を細めた。
陽光が降り注ぐ、広大過ぎる庭に、動物達の姿が無い。
雲一つ無い、空。
澄みきった、大気。
そのせいか、いつもより彼方の山稜が迫って見える。
蓮華、竜胆、女郎花、撫子、彼岸花、福寿草、萩、蝋梅、花桃、、芍薬、木蓮、金鳳花、槿、、、
花々は、いつにもまして狂い咲いて、芳しいはずのその香りは複雑に交じり合っている。
常人であれば、肺を蝕まれることだろう。
風が木々の枝を揺らすのに、この世界には音という音が、失われていた。
「、、、、、」
屋敷の女主人の心がそうさせるのだと、その男は知っていた。
銀糸で雌雄の孔雀を縫い取った、深藍の長袍。
その胸に流れるのは、ゆったりと編まれた砂色の髪。
長い前髪が、半顔を、覆っている。
脇腹の辺り置いた、骨ばった手。
そこだけ布地の色が、濃い。
懐の傷は、その治癒力でもっても塞がらず、今だ血塗られたまま。
完全に塞がるには、まだ少しかかりそうだ。
「、、、、、」
細い顎が、上向いた。
辺りが、薄暗い。
俄かに湧いた薄雲が、太陽を覆ったのだ。
溢れる色彩とは対照的に、どこか無機質なその世界。
そこに、
「胡露、、、」
音が、生まれた。
首に絡む、冷たい女の、細い指。
深い花色に染められた長い爪が、喉仏に触れる。
男が、仰け反った。
晒されたその喉元に爪を立て、薄皮の感触に、紺碧の双眸が眇められた。
その眼差しの先。
深い闇を湛えた眼窩が、こちらを見つめていた。
ふっくらとした丹唇が、そっとその闇を、塞いだ。
「、、、、、」
「、、、、、」
重なって伸びた影が、名残惜しそうに、離れた。
再び砂色の髪で隠された、半顔。
「赦せよ。お前をそこまでさせるその女雛に、妬いたのだから、、、」
膝の辺り。
縋るように頬を寄せた、その人。
「私が心を砕く方は、御身ただ一人、、、」
いつも変わらぬ穏やかな微笑みを湛えたまま、胡露は優しく、その髪を梳くのだった。
とある公家の屋敷。
盆は過ぎたというのに夜な夜な現われては、何故か向かいの屋敷の主の夢枕に立つ幽鬼の供養から戻る頃、門前には篝火が焚かれていた。
礼にともらった白桃の箱を、琲瑠に渡すと、母屋ではなく、木々が植えられ、大池のある庭へ出る小道へ入った。
吹き抜ける涼風が、肩に遊ぶ銀糸の髪を、弄ってゆく。
「、、、、、」
立止ったのは、可憐な鷺草揺れる、楓の木の前。
見上げた先に、
「伯、、、」
その姿が無い。
家主が不在ともなれば、この梢で休むのが、ほとんどなのだが…
「、、、、、」
耳を澄ませば庭のどこかで、何やら木々のざわめきが、聞こえる。
見上げた木の葉の彩と、影。
足の下にある、土の冷たさ。
喧しく鼓膜を打つ、蝉の声。
水面に刻まれる、風と陽光が織り成す、輝き。
獣にとってどれもこれも、新鮮な発見の連続だった。
列を成す蟻の群を見つけ、おずおずと爪を立て、鼻を近づけ、
ヒャンッ
「、、、、、」
傍らで見守る伯の元に、よたよたと逃げ込んだ。
まだ上手に大地をとらえる事ができないのか、その四肢の動きはどこか緩慢とし、滑稽だ。
それでも好奇心の方が勝るのか、興味の赴くままに辺りを、散策。
ククク…
時折、伯の姿を確認するように振り向いては、喉の奥を鳴らす。
一日中、飽きるでもなく獣の傍らにいたためか、すっかり伯に慣れた様子。
「お、、、」
頭上を覆っていた木の葉から垣間見える空が、茜色に暮れ始める夕暮れ刻。
伯は何を考えたのか、青い髪紐を解くと、それでもって木の幹に獣をぐるぐる巻きにし始めた。
キギュ…
「、、、、、」
大人しくされるがまま、幹に縛り付けられた、獣を見つめていると、
「伯、戻ったぞ、、、」
腹腔に響く、低い声音。
びくりと肩を震わせた伯は、
「、、、、、」
南天の茂みから、外を覗いた。
宵闇の中、白い髪の男が、立っている。
「ソウ」
茂みの中から伸びた小さな手を、蒼奘の手が取って、その華奢な体を引き上げた。
「酒の相手を拒むのなら、もう少し上手く隠れたらどうだ、、、?」
闇色の深い眸が、口調とは裏腹に穏やかに見つめてくる。
髪についた蜘蛛の巣を払い、衣についた木の葉を落すと、蒼奘は歩きだした。
「燕倪に泣きつかれ、今宵は左大臣宅にて行われる祝賀の宴に、付き合う事になった。半刻もしたら迎えが来る故、そうそうのんびりとお前と膳を囲めぬが、赦せよ、伯、、、」
「うん」
その傍らに続き、
「、、、、、」
振り返る。
ひっそりとしたままの、南天の茂み。
「どうした、、、?」
足を止めた、その人。
ぶるぶると頭を振って、伯は先を行く蒼奘の傍らに、駆け寄ったのだった。
西の空が、深藍へと彩を変えた頃、白い人影が門前に現われた。
灰浅葱に白鷺を染めた抜いた直衣を纏い、烏帽子を頂いた、その人。
遊び疲れたのか、いくらも杯を重ねぬ内に、伯は丸くなって眠ってしまったため、そのまま起こさぬよう支度を終えた、蒼奘である。
「主様」
珍しく宴の誘いを受けた蒼奘に、琲瑠が声を掛けた。
「何だ、、、?」
うっそりと応じ、振り向く。
その闇色の眼差しに見据えられれば、
「あの、若君の様子が、、、」
つい、語尾が小さくなってしまう。
「ああ、、、」
何を言わんとしているのかを察したのか、蒼奘が袖を探った。
琲瑠の鼻先に突き出されたのは、駱駝色の獣の毛。
「これは、、、」
「衣に、付いていた、、、」
「いったい、何が、、、」
「雷獣だ」
「は?」
困惑して、思わず細い眉を寄せる、琲瑠。
「雲の中に暮らす獣よ。鳴神とも言う」
「よりによって、そんな、、、どう、いたしましょう?」
どうも、普通の獣ではないらしい。
何とかならないものかと、思案顔の琲瑠に、
「放っておけ、、、」
にべも無く、言い放った。
「そう言われましても」
食い下がる従者に、
「迎えを待たせては悪い、、、」
汪果が捧げ持つ盆から、扇を一つを選ぶと、あっさりと背を向け、門前につけられた車に乗り込んだ。
深々と頭を垂れて見送る汪果の傍らで、琲瑠の当惑した顔が、牛追い童子や供人に守られて遠ざかる牛車を、見送っている。
蒼奘を乗せた牛車が、往来の向こうに消えた頃、見送る琲瑠の袖を引くものがいる。
「若君?」
先程まで、すやすやと眠っていたはずなのだが、菫色の眸は、ぱちりと大きい。
― さては、狸寝入り、、、? ―
自分も行くと、いつもの我儘を言い出すのかと思えば、
「え、翡翠輪ですか?」
出掛けるからと、翡翠輪をせがむ。
「なにもこんな時分から、お出かけにならずとも、、、」
宥めようと膝を折った琲瑠。
しかし、彼を見上げるその菫色の眸は青々と深く、
「ハイル」
「う、、、若君」
澄んでいた。
茫洋とした眸はもう、そこにはない。
「、、、只今、お持ちいたします」
「ん」
折れたのは、勿論琲瑠の方だ。
一旦、母屋の奥へと姿を消すと、手に漆塗りの箱を持って現われた。
欄干に座って待っていた、伯。
箱から翡翠の連珠を取り出すと、
「くれぐれも、お気をつけて、、、」
その細首に、掛けた。
群青から、黒髪へ。
菫色の眸は、漆黒へと、染まる。
髪から覗いていた、小さな翡翠色した一対の角。
「、、、、、」
手で、消えている事を確認すると、伯は庭に舞い降りた。
草履を引っ掛けると、庭の大池に浮かぶ浮き草を足場に、僅かな波紋を刻んで、対岸へ。
― あっ ―
池の淵にて、ちょこなんと座る獣を小脇に抱えると、そのまま塀の向こうへと、消えてしまった。
「あれが、雷獣?なんというのか、鼬のような気も、、、」
その姿を目にしても、どこか腑に落ちない琲瑠であった。
「なんともならんのか、、、」
臙脂の直衣の袖から、武骨な腕が覗いている。
雲の掛かった望月は、彼方の山稜、その上。
満々と水を湛えた湖面にあつらえた舞台には、楽師らが居並び、舞い手は篝火焚かれた明かりの中。
左大臣備堂真次の屋敷である。
「何をだ?」
突き出された杯に、酒器を傾けながら、
「お前のその仏頂面だよ」
燕倪の渋い顔。
「なんとも、、、」
青い唇に当てた杯を、
「そうだろうな」
恨めしげに眺めている。
涼しげな風貌なのに、ありありと浮かぶのは、鬱々とした翳のようなもの。
末席で結構、と花を終えた菖蒲の葉が、野放図に茂る辺りに腰を下ろしている。
「かように不味い酒は、久しいな、、、」
「そう言うな」
頼んだ手前、堪りかねた燕倪が傍らに席を取ったのだが、
「まぁ、この身なり、俺の性にもあわんが、、、」
傍らで、袖を抓んでみせた。
幾度酌み交わせども、酔う心地がしない。
男の子が生まれた、燕倪のすぐ上の兄の祝いであった。
この気難しい友の傍らに在れば、つつがなく宴が終わると、そう踏んでの頼みであったのだが、
「早く、終わらないかな、、、」
近づいてこそしないが、屋敷のいたるところで見知った顔が、何やらこちらを見ながら囁きあっている。
「何なら、凍りつかせてやろうか、、、」
「凍りつかせてどうするんだ」
お前が言うと洒落にならぬ、と燕倪が肩を落とした。
口程にもない男、なのである。
その耳に、凛と澄んだ篠笛の音。
舞台には、舞の上手で知られる左近の将が上がっていた。
篠笛の音に重なるのは、筝。
名手で知られる長兄の妻女多津螺の音に、しばし耳を傾けていると、
「都一、高い木は、なんだ、、?」
いいところで、鬱々としたその声音が、意識を引きずり戻した。
「あぁ?」
見やれば、どこか遠くを眺めたままの蒼奘。
趣向を凝らした山海の珍味、演奏や舞、馨しく香る龍涎香も、薄雲を払って現われた望月さえ、この男の前ではもはや何の価値もないらしい。
ただ、空になった杯が、その繊手に弄ばれている。
「高い木はなんだと、聞いている、、、」
酒器を傾け満たす、杯。
「高い、木?そりゃ、お前、、、」
己の杯は手酌で済まし、
「南の、鳳祥が仙洞だろう」
今夜はやけに舌を焼く酒を、一息に呑みこんだ。
「帝の、、、」
鬱々とした、呟き。
先々の上皇が居を構え、冷遇されていた帝がその幼少期を過ごした仙洞には、天女が舞い降りたとされる千年杉が、在る。
袈裟を纏った枯れ枝のような和尚が、若い僧侶を伴い境内を歩いている。
「すっかり遅くなってしまいましたね」
先方が持たせてくれた提灯で、和尚の足元を照らしながら、とっぷりと暮れ、望月掛かる夜空を見上げて言った。
糸のように細い目が、つられて夜空を眺めると、
「ついつい、長居してしまったわい。猊下のお引止めとあれば、断れまいよ」
しゃがれた声で、荷を持つ傍らの供に、言った。
西の山に嶺鶯寺を開き、早々と隠棲した先々代鳳滝上皇の囲碁の相手。
開祖を同じくすることも手伝って、顔を合わせるうちに、不思議と膝を突きつけ合わせる仲となった。
「しかし、和尚の健脚振りには、驚かされました」
「そうかね、、、?」
齢九十を数えると言うのに、用意された輿を断ると、参道ではなく細い獣道に分け入ったのだ。
「膝腰に掛かる負担を考えれば、石段を行くより易いものよ」
手にした錫杖で、ならされた大地を突けば、遊環が澄んだ音を立てた。
この時分では皆、食堂にいるのか、境内に人気はない。
大門を潜ると、本堂に燈された灯りが、茫洋と前方に見えてきた。
「和尚、、、?」
和尚の体の具合を気遣いながら、東の庵へ向かう若檜の小路に入った時だった。
「、、、、、」
木立から伺い見えるのは、本堂の右手奥に聳える、五重塔。
いつもは長く垂れた白い眉の中でしょぼしょぼとしている和尚の目が、闇夜に炯々と光って見えた。
「どうかなさいましたか、、、?」
その視線の先。
見上げる程に高く聳える、その突先。
突き出した相輪を片手に立つ、小さな人影、一つ。
「こ、子供?!」
一体どうやって登ったのかと考える間もなく、若者の第一声は、
「こらあッ」
それであった。
「なんと罰当たりな。降りて来いっ」
と言うより先に、
「、、、、、」
びくりと身を竦めたその人影は、ふわりと水干の袖を翻した。
「お、、、」
まるで重さを感じさせぬ、跳躍。
一旦、屋根の縁に舞い降り振り向くと、
「、、、、、」
そのまま、鬱蒼と茂る竹林へ、吸い込まれるように消えてしまった。
飛び去るその腰に、尻尾のようなものが見えたような、、、
「和尚っ、み、見ましたか、い、今の?!」
狐狸が化けたのだろうか?
言葉を紡げぬ、うろたえよう。
一方。
「ふむ、、、なんとも大きな、、、」
和尚は、竹林の方を眺めつつ、にこりとした。
その目は、月明かりに伸びた巨大な影を、視たのかもしれない。
そして、動転したままの若い僧侶の傍らで、
「眼福眼福、、、」
手を合わせる和尚の姿があった。
「月が高い、良い夜だな」
幾分酔いの回った体を解しながら、月明かりに沈む界隈を歩いている。
客人を見送った後、勝手に歩いて帰るからと無理を言って屋敷を出た、二人である。
袖に腕を差し入れたまま、水路に沿って植えられた柳の木の下。
足を止め、彼方の山々を見つめているのが、
「、、、、、」
肩に銀糸の髪を流した蒼奘、その人。
「どうした?」
「やはり、な。探している、、、」
「何を、、、?」
訝しげに濃い眉を寄せる、燕倪。
音こそ聞こえぬが、彼方の空が、ちかちかとしている。
北の山の向こうでは、雨が降っているのかもしれない。
「親が仔をな、、、」
「空のどこにそんなもの、、、酔っ払ってるのか?」
「その戯言と思って、今から私に付き合うか?」
「お、、、おぅ」
成り行きに逆らえぬのか、訳も分からず頷いてしまった。
「ならば、行くぞ、、、」
その背が、北に向かって歩き出すものだから、
「さっき言ってた、南の仙洞に向かうんじゃないのか?反対だぞ」
「そこに用は無い」
「そ、、、そうか」
釈然としないまま、蒼奘の後に続いた。
今年は、他に類を見ない冷夏。
暑い日が続いたと思えば、長雨が続き、薄雲に覆われる日も少なくない。
暦の上では、夏も盛りと言うのに、左手に流れる川を渡る夜風が、秋の夜風のように冷たい。
ぶるりと一つ、身震いしてから、
「で、どこに行くと言うんだよ」
少し前を行く蒼奘に、問うた。
「勝間の山だ、、、」
「おいおい、正気かよ。陽が登るぞ」
「まもなく、来る」
「ん?」
立ち止まり、振り返ったその眼差しの先。
軽やかな馬の蹄の音が、近づいて来た。
滲む闇の中から抜け出したのは、青乳色の鬣を振り乱した、肥馬。
鋼雨。
続いて、月毛の浮葉。
「遅くなりました」
浮葉の手綱を取っていた琲瑠が、その背から顔を覗かせた。
「ご苦労だったな」
「いえ。あの、若君は、すでに、、、」
鋼雨の背に乗ると、手綱を絞った。
「ああ、分かっている。あれで中々に強情だ。当分は諦めまいよ。急ぐぞ、燕倪」
馬首を向けると、腹に一蹴り入れて、駆けていった。
「毎度の事だか、何がどうなってるんだか、、、」
琲瑠に促され、浮葉に跨ると、
「燕倪様、お気をつけて」
「ん、ああ、、、」
先を行く鋼雨に追いつけと、浮葉を奔らせたのだった。
帝都の喧騒にあって、ここはまるで異界。
広大な敷地のこの一画は、静謐で満ち、しっとりと冷たい深い森の如き大気が、漂っている。
当代の帝が、まだ鳳祥院と呼ばれ居を構えていた頃は、出入りの者も多かったが、今では屋敷の内にも、人気が無い。
屋敷の東北。
闇の中に注連縄が、白々と浮かんで見えた。
一説には、樹齢千五百を数えるとも言われ、その前に立つ者は、勇壮たる様に思わず頭を垂れるものだが、
「、、、、、」
太い根元に、小柄な人影が、ひとつ。
あんぐりと口を空け、見上げているのは、水干を纏った伯であった。
その小脇には、
キキュ…
小さな耳、斑模様。
つぶらな眸の、猫ほどの大きさの獣。
高い場所に登っては、更に高い場所を探し、ようやく辿りついた先が、ここであった。
「、、、、、」
不安げな声を他所に、伯はすぐ上にある枝に舞い上がった。
鋼を入れる事赦さぬ、隆々とした枝ぶり。
天女を呼んだ、千年杉。
その姿は、夜の闇の中に在ってなお、神々しい。
キュィイ…
「、、、、、」
口に咥えた、獣の首。
自由になった両手で枝を伝うと、猿の如く身軽に登ってゆく。
次第に広がる視界に映るは、夜霧に眠る、家々。
彼方には、高い塀で囲まれた御所も窺い見える。
地上彼方の、千年杉の突先。
都が、都に定まる以前、天女がこれに、舞い降りた。
当時は、荒野原が延々と続いていたのだが、三方向を囲む峻険な山々と、うねるように流れる川の様子が気に入って、この地に宿ったと言う言い伝えがある。
今は見る影も無く、人の手によって築かれた建立物は軒を連ね、整備された川は水路となって、都中に張り巡らされている。
変わらぬものと言えば、闇夜に黒々とした山々と、どこかに遠くで聞こえる野犬の遠吠えくらいなもの。
「、、、、、」
見上げた夜空。
中天に掛かる満月に、星々は形を潜め、薄い雲は彼方上空を漂っている。
伯は、おもむろに口に咥えていた獣を両手で掴むと、力いっぱい高く掲げた。
キキュキィッ
とたんに体を捩って暴れる獣と、構わず足を踏ん張る、伯。
獣の重みに腕が震えても、伯は空に獣を掲げ続けている。
闇夜に延々と続く、白い石段。
下から見れば、中程を行く二つの人影が、豆粒のように見えた。
「ちょ、、待、ってくれっての、、、」
まだ中腹と言うのに、この有様。
「はぁ、は、、あっ」
膝に両手を付いて、息を整えようとするのだが、標高が高い上に酒が回り、思うように体が言うことを利いてくれない。
腕と体力には自信がある男だけに、
「だらしのない、、、」
汗一つかかずに上で待つ蒼奘のこの一言に、もはや項垂れるしかない。
平素、持つのは杯ぐらいのこの男に、今宵は武官である燕倪が敵わないのだ。
口を利く気力も失って、先を行くその背においてかれまいと足を上げる事、さらに半刻。
ようやく、頂上の大鳥居が見えてきた。
「化け物かよ、、、」
息も絶え絶えに石段を登りきった先で、
「似たようなものかな、、、」
白い喉が、くつくつと鳴った。
石造りの大鳥居を潜ると、ならされた山の頂の一画に、簡素な社殿が一つ。
椎や樫と言った巨木に、守られるように鎮座している。
「そういやぁ、、、」
燕倪が、辺りを見回した。
以前、勝間の主だと名乗った女童の姿は、無い。
蒼奘はそれに構わず、社殿の裏手に歩いていった。
「で、一体どこにいるんだ?」
息を整えながらその傍らに立つと、切立った崖の向こうに広がる深い山々が、月夜に鬱蒼と見受けられた。
その山の一つが、光っている。
遠く、稲妻の奔る音が、響いてきた。
彼方の山稜を覆う雲の下は、雨が降っていることだろう。
「まさか、あそこに行くと言うんじゃないだろうな?」
さすがにげんなりした所で、
「陽が登れば人目に付く。さすがに都守のところの式と言うても、当代帝の後見にも等しい千年杉の上に在ったとなれば、煩わしい事になろう」
蒼奘の低い声音。
「日の出まで、そう時間は無いぞ」
「ああ。分かっている」
「お、おいっ」
燕倪の背を押し、崖の淵に立たせると、
「鳴神を、掴まえてみせようよ」
「生き物だってのか?」
「視ようとせねば、視えぬものもある。この先、あの太刀を手に長生きしたけば、形に囚われるな」
燕倪の直衣の合わせた襟や肩、袖に何かを擦りつける仕草。
「何してる?」
「すぐに分かる、、、」
棒立ちの燕倪をそこに残し、
「良いと言うまで、けして目を開けてはならん。無腰のお前は、塵にも等しい」
「仕方ないだろう。業丸は打ち直しに出しているんだ」
憮然としつつも、眼を固く瞑った。
「風伯よ」
袖から覗いたその手に在るのは、扇。
指し示したのは、彼方の山。
頭上に隆々とした枝を伸ばしていた木々が、ざわめき始めた。
「、、、、、」
蒼奘は、崖に迫り出すようにして枝を伸ばした樫の大木にその背を預けた。
青い唇が、いつもの笑みを湛えている、、、
風が、背中から吹き抜けた。
頬を打つ髪に、思わず顔を顰めたのは、風が強くなったためであった。
このまま体を崖下へと持っていくかのような、そんな強さであった。
「堪えよ、燕倪、、、」
鬱々とした声音が、鼓膜を打つ。
「言ってくれる」
どこかでいつものあの薄笑いを浮かべ、この様子を眺めている事だろう。
― ここで落ちたら、化けて出てやるからなッ ―
足に力を入れ、堪える事しばし、
「お、、、」
風が、ぴたりと止んだ。
代わりに、
ゴ・ゴゴゴ…
腹腔を振動させる、この音は、、、?
彼方の山を覆っていた雨雲が、揺ら揺らとこちらに向かって漂いくる。
更に頭上では薄霧が発生し、渦を巻くかのように濃さを増すと、その霧を伝うのか、稲光と轟音が渡って来た。
「、、、、、」
樫の木陰にて、息を潜める蒼奘の闇色の眸。
鳶色に沈み、琥珀に澄むと、金色へと染まる。
仁王立ちする燕倪の、まさに頭上。
渦巻く、灰恢の雲の中。
ガ…ッ…
大気を震わせ、雲を裂き、、、―――
ふらりと、木陰から出たのは蒼奘。
ガガガ――――ッ
―――、、、稲妻、落ちる。
その刹那、右腕が光の柱へ。
「!!」
轟音と共に、瞼を抜けた白い閃光が、頭蓋の奥に突き抜ける。
耐え切れず、目元を押さえたその耳に、
「いいぞ」
鬱々としたその声音が、近くで聞こえた。
眉間を揉みながら目を開けば、
「ぬわッ」
目の前に、黒く大きなつぶらな眸。
後退いた燕倪がみたものは、金毛に斑の模様。
愛くるしい眸とは対照的に、不釣合いな黒い鉤爪。
小さな耳と長い髭を持つそれは、大の大人の背丈をゆうに越す、巨大な、、、しいて言えば、鼬。
長い尻尾を脚の間に挟み、鼻をひくひくさせている。
「鳴神だ。雷獣とも言う」
その背で、蒼奘の声がした。
「お前、肝を潰す気か。今ので眠気も酔いも、一発で醒めたぞ」
胸に手を当てながら、鼬の後ろに回ると、蒼奘がその首根っこを掴んでいる。
「杯しか持たんと思えば、、、」
「見くびられたものだな。まあ、この形とは言え、空に在る者は、軽い。食性でな、、、」
蒼奘は、袖を探ると、
「探しものは、これだ」
駱駝色の獣の毛を取り出した。
燕倪の衣に、擦りつけていた正体でもあった。
それを鼻先に近づけると、
ケケケケヶッ
鳴神が、鳴いた。
「何も、匂わんぞ」
袖をくんくんやるのを尻目に、
「幸せな奴め。その香りがなければ今頃、消炭だ、、、」
蒼奘の呟きだ。
「この仔は、人の都に落ちた。都一高い千年杉の頂で、そなたの迎えを待っている、、、」
クケケヶっ
蒼奘が手を離すと、
ケケ…
「うっ」
閃光に、腕を突き出した、燕倪。
「、、、、、」
一方、闇色の眸はその身が閃光と化し、頭上に広がる雲の中へ潜り込む様を、捉えていた。
黒く重そうな雲が、ゆるゆると伸び、帝都の上空へ覆ってゆく。
その雲の中を稲妻が、金や紫、白、きらきらとうねりながら、渡って行くのだった。
どれ程の時が過ぎただろう。
観念し、大人しくしていた獣が、ふるふると首を振りだした。
ゥクュュユ…
不安気な、その声音。
いつまでたっても訪れぬ迎えを、諦めようと…
「だめだ、、」
空から落ちてきた、獣。
歩く事を知らぬ、その命。
「空に、帰りたいんだろ」
それは、強い声だった。
地上に在る全てのものに怯えるその姿に、伯は、かつての己の姿を見たのかもしれない。
曲がった、肘。
片手で獣を支えながら、それでも続ける。
薄雲彼方の、空の下。
あの薄雲まで、あの身であれば届くのに。
忌々しい、この身。
ギギ…
噛み締めた奥歯が、音を立てた。
秤にかけられぬもどかしさに、それでも共に行くと決めたから、
「何にも出来ないままじゃ、嫌なんだ」
高く高く、その身を、掲げる。
傾いた、月。
そして、無情にも、白々と明け始める、東の空。
人目があれば、この帝都の神木にも等しい千年杉の上にはいられない。
悔しさに滲む涙を堪え、伸ばし続けるその腕に、
キキククキュ…
長い尾が、絡んだ。
見上げた先。
長い胴を伸ばし、つぶらな黒瞳が伯を見つめると、その鼻の頭を
クク…
ぺろぺろと舐めた。
「でも、、、」
両手を伸ばし伯の肩へ降りると、その頬に小さな頭を摺り寄せ、小さく鳴いた。
「、、、、、」
肩に落ち着いた鳴神の仔に促され、唇を噛み締める、伯。
見上げた先の、空の色。
縹。
今日ほど苛立たしげに、感じる事はないだろう。
人目につく前に降りようと、足を伸ばし、
「!?」
腹腔に低く響く音が、耳を打つ。
白々と明けてゆく空を覆い尽くさんと、雨が、走ってくる。
【雨の始まり】は、あっと言う間に伯の頭上を越えると、そのまま南へ。
キケケケ…
「来た、、、」
頬を打つ大粒の雨の中、獣は伯の頭の上に攀じ登った。
雨の紗幕にそっくりと包み込まれた、帝都。
見上げた、上空に巻いた雲が、閃光に瞬いている。
後ろ足で立ち、くんくんと鼻を鳴らす“鳴神の仔”の胴を、伯の手が抱き上げた。
刹那、
ガ・ガガ―――ンッ
舞い降りた光、そして、衝撃。
千年杉の頂から、その小さな体が剥がれ落ちた。
「、、、、、」
落ちてゆく、伯の小さな体。
茂った枝らに、背中を強か打ちながら、
「ばいばい、、、」
大小二筋の稲光が、雲の中へと吸い込まれていくのが、見えた。
「おおよそ、空から落ちてきたのだろうよ」
二人が眺める、その先。
帝都。
その上空が、差し込む朝陽を阻み、乳色に滲んで見える。
雨が、降っていることだろう。
「よくあるような物言いだな?」
固まった体を解す燕倪の頭上で、塒から出た小鳥は囀り、鹿の群れは、水を求めて石段を横切って行く。
椎の幹で羽を休めていた蝶らは、朝露を結ぶ花を求め、二人の間を通り過ぎた。
東の山稜に顔を覗かせた朝陽に、目覚めた勝間の山の民。
「大陸でもこの倭でも、不用意に近づき、身を切られたと言う話は、多い」
「あの爪でやられたら、ひとたまりもないぞ」
禍々しい、漆黒の鉤爪。
蒼奘に掴まれているうちは、大人しかったが、暴れて振り回されでもしたら、生身の人間はひとたまりもないだろう。
「伯についていた毛で、それが何かと分かっただけ、良かったか、、、」
「何だ。何を拾ったかは知らなかったのか?」
「隠して見せなんだ」
「何をしたんだ」
「、、、、、」
以前、天狐にも同じ事を言われたと、思い出したのかもしれない。
それとなく流すつもりが、燕倪が訝しげに見つめるものだから、
「何も、、」
「何もせんで、伯がお前に隠し事なんかするかよ」
「皆、一様にそう言うがなぁ、、、」
うんざりしたような眼差しだけを返す、蒼奘。
「あの仔の心は、私とて読めぬよ」
「まぁ、そりゃあそうか、、、」
太い腕を組むと、しばし何かを考え、
「でもまぁ、伯の事だ。一人で片を付けるつもりだったのかもな」
鈍色の眸を大きくした。
「まあ、そうであろうな、、、」
「で、お前は、それとなく助け舟を差し向けた」
「いつまでも千年杉の頂にいられては、都守としても困る、、、」
「照れるなよ。親心ってやつだろ?」
燕倪が、傍らの蒼奘の肩を、勢いよく叩いた。
「親、か、、、」
肩を揉みながら、侮蔑を含んだ笑みが、鼻を抜けた。
稲光を伴う雨雲が、次第に薄い霧へと姿を変えてゆく。
橙を帯びた仄白い空に、彼方の山稜が、青々としたその姿を、次第にはっきりと刻み始める。
暁の刻が、近い。
「見つかるといいな、あいつにも、、、」
小さいその呟きに、
「見つかる、、、?」
珍しくも、柳眉を寄せた蒼奘の貌。
燕倪は無言で、傍らに在るその人を見つめると、にんまりした。
「気色の悪い、、、」
一人、石段へと向かう、蒼奘。
他でもない、勝間は疎遠になっている妻の実家。
その身内に見つかれば、煩わしい。
燕倪はもう一度、蹲るようにして暁を迎えた帝都を眺めてから、
「、、、、、」
視線を落とした。
その先に、延々と続く石段。
どこか不機嫌に見える、白い髪の友の背。
「いつか、きっと、、、」
そう呟いて、石段に足を向けた。
燃えるような橙の空の上。
藍から菫色へと変わる、暁刻。
東の山稜から、ようやく顔を覗かせた朝陽が、石段を下る二人の影を長く長く、してゆく。
布津稲荷の境内に立つ市へと品物を運ぶ荷車が行き交う、目抜き通り。
突然の雨に、ぬかるんだ大地。
こんな天気を、狐の嫁入りと言うのだろうか?
朝陽は眩しく、雲が晴れたのにもかかわらず、霧雨が止まない。
その中を、先を急ぐ大人の訝しげな視線もなんのその、手に猫じゃらしを持った童がひとり。
歩いている。
他でもない。
翡翠輪を首に掛けた、伯である。
濡れて頬にくっつく黒髪はすっかり乱れ、木の葉がくっつき、水干はぐっしょりと泥を吸って重たそうだ。
草履はどこかに脱ぎ捨てたのか、素足で歩けば、ぴたぴたと裾に泥を跳ねた。
顔や手足に赤く滲んだ切り傷、擦り傷。
痛々しい姿である事には違いのだが、
「んんー」
悪戯を終えた子供の顔が、そこにはあった。
帝都の南西。
素封家の屋敷が連なる、その一つ。
門前で一人の若衆が、雨で消えてしまった篝火の消炭を、始末している。
「ハイル」
澄んだ、その声音。
手にしていた箒を取り落とし、
「嗚呼、若君。お帰りなさいませ」
羽織っていた長衣を脱ぐと、伯の肩へ。
頬に跳ねた泥を袖で拭い、
「お怪我は?」
「ん」
問題無いと、言っているらしい。
その様子に、ほっと安堵の溜息、一つ。
「湯を張ってありますれば、まず体を濯ぎましょう」
母屋への上框で、桶に張られた水で足を洗ってやると、
「ぅ、、、」
うつらうつら、船を漕ぐ。
その内、
「若君、、、?」
框に体を預け、すやすやと寝息を立て始めた。
無防備な、その寝顔。
そっと翡翠輪を外し、腕に抱き上げると、群青の髪が長く流れた。
「、、、、、」
渡殿を、寝殿へと向かう琲瑠。
その薄い唇が口ずさむのは、子守唄か、、、?
往来の喧騒遠く、今だ静寂の中に在る、都守の屋敷。
雲間から差し込む陽射しに、大池の水面が、きらきらとしている…
なんか、短編のネタでも、と妖怪サイトを覘いていて浮かんだのが、この短編。どうしても、鳴神が、書きたかった。響きと漢字が、かっこよかった。俺の中では、外伝、箸休め的な、息抜きで書いてみた。
ばいばいは、英語だとは重々承知。どーしてもこれしか出てこなかった。それ以外の台詞は、「・・・・・」になっちゃうからwww