第漆幕後 ― 徒花 ―
西の山へ向かう一行を見舞う、突然の別れ。責任を感じた伯は、、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第七幕後編。。。
薄闇の中、賑やかな声がする。
「みんなびしょ濡れじゃないか、、、」
急に振り出した夕立の中、逃げるようにして帰ってきた子供達。
乾いた着物に着替えさせるだけで、大忙しだ。
「オレの着ろよ」
「、、、、ん」
伯も水干から、柿色の小袖に着替えた。
ここで過ごすようになって、早数日が過ぎようとしていた。
「ハク、ここっ」
「こっちだってっ」
「ん、、、」
庵を囲んで大鍋を囲む時、新しい仲間の隣りはいつも争奪戦だ。
その喧騒の中、相変わらず部屋の片隅で丸くなっているのが、黒鈷。
食事が終わり、雨で外に出られない時など子供達の格好の餌食となり、大きな耳を引っ張られたり、背に乗られたり。
そんな黒鈷は皆が寝静まった頃、決まって狩りに出かける。
明け方近くに大猪や鹿、雉を獲るのが、彼の仕事だ。
育ち盛りの子供達を、この山懐で育てて行けるのには、この黒狼の尽力によるものが大きいのかもしれない。
「こうやって紐にするんだ」
「お」
食事の後、ルゥシャと草鞋を編む年長の少年の傍ら、藁を捩って紐にしてゆく。
子供達に揉みくちゃにされても一言も発しない自分を、菫色の眸が見つめているのに気がつき、
「、、、、、」
前脚に顎を預けたままの黒狼が、銀鼠の一瞥。
その視線に動揺したのか、視線を逸らして手を動かす伯を、ルゥシャが荷物を纏めながら穏やかに見つめている。
やがて、新しい草鞋の数が揃ったところで、
「明日晴れたら、次のお山に行くからね。いっぱい歩くから、今日はしっかり休むこと」
一人一人に、真新しい草鞋を渡した。
きょとんとしている伯の手にも、
「はい」
「、、、、、」
ルゥシャが、一つ。
「ひとつところに居ては、この森が疲れてしまうから、お伺いをたてて次のお山に行くんだよ」
「おうかがい、、、?」
「白い人影を見たろ?あれとルゥシャは喋れるんだ」
まゆもが、胸に草鞋を抱いたまま、鹿の毛皮の上に寝そべって言った。
「“彷徨う者”なんて呼んでいるけれど、あれは山の斥候でもあって、眷族でもあるんだよ」
甘栗色の眸が、きらきらとした。
「えるにぃは、聞こえるんだろ、声?!」
遊びに夢中の子供達の分まで、寝床を用意していた少年は、
「声というより、歌みたいな、、、」
「うぅうっ、いいな、いいなッ!!で、どんなんだった?!」
「あぁもう、うるさいやつだな。早く寝ろっ」
「わっ」
少年に抑え込まれたまゆもも、負けじと反撃。
寝床の上で始まったじゃれ合いに、いつしか他の子供達も混ざって、
「、、、、、」
まだ慣れない甲高い奇声と、その笑い声に怯え、ルゥシャの側に寄った、伯。
その髪を撫でながら、
「ここじゃ毎日が、こんな調子」
その子らの様子に、ついつい頬が緩んでしまうルゥシャを、伯の菫色の眸が不思議そうに見つめている。
翌朝。
朝霧立ち込める中、背に必要最小限の荷を負った一行は、庵を後にした。
ここから人の足で四日程西へ下ると、また、別の庵があると言う。
庵を出発してから、半刻程行った辺り。
熊笹が茂る杣道を、下っていた時だった。
「あ」
「どうしたの、ルゥシャ?」
「そう言えば西の山には、南沙参と蒼耳を切らせてたんだっけ」
「えぇぇえっ、もしかして取りに戻るの!?」
「ここまで来たのにぃい」
口々に言う子供達に、
「みんなは先に行って。あたしの足なら、すぐに追いつくから」
「でも、薬草なら西の山にも生えてるだろ?」
年長の少年が、おんぶをせがむ女童を背負いながら、口を挟んだ。
「蒼耳はいいけど、南沙参は咳に良く効くからね。すぐ戻るから、遅れないように黒鈷に付いていくんだよ。黒鈷、千年杉の大岩で」
「、、、、、」
前方で、のっそりと黒鈷が顔を向けたのを確認して、ルゥシャは元来た道を戻って行った。
「さぁ、行くぞ。はぐれんな」
再び杣道を歩き出した、一行。
一番後ろを歩いていたまゆもは、落ちつかなげに何度も後ろを振り返っている。
「まゆも。さっさと歩けよ」
前方で、女童を背負った少年の声。
「えるむっ!!やっぱオレ、ルゥシャと一緒に行って来る。後で一緒に来るからっ」
「お、おいっ」
ぱっ、と踵を返し、
「行こうぜ、ハクっ」
「え、あ、、、」
ぼうっと突っ立っていた、伯の水干の袖を掴むと走り出した。
「まったく、あいつらッ」
「えるにぃ、ゆうまも行っていい?」
「みいるもっ」
次々と名乗りを上げる子供達を、
「だめだ、だめだ。そんなことしてたら真っ暗になっちまうぞ。俺達は先に行って、千年杉の大岩で、ルゥシャを待つんだ」
やんわり宥めながら、中々言う事を聞いてくれない幼い子供達に、頭を抱えるのだった。
帝都の外れ。
迫る山稜が、近いその辺り。
膝ほどまでに伸び揃った稲は、水を満々と湛えた田に、青々としていた。
その畦道に沿って、背の高い草木が茂っている。
太い枝の先に、駱駝色の穂。
蒲である。
その枝の一つに、手にした小刀を押し当てている者がいる。
浅葱に染めた狩衣を纏い、長い黒髪を編んで肩に垂らした、物腰優雅な若者。
一つ一つ、見目も良いものを探しては、持ってきた布の上へ置いてゆく。
こと花に関しては並々ならぬ入れ込みようなのに、屋敷の内に在りさえすれば見向きもしない。
思い出したかのよに、あれが欲しい、これが欲しいと我侭を言って、屋敷の者を困らせる。
古参の女官が言うに、若者が屋敷に入ってからは、それは形を潜めるどころが更に酷くなったらしいのだが、
「ふ、、、」
当人は、それも苦ではないらしい。
何か思い出したかのように、寝室の花活けに飾る蒲が欲しいとせがまれた。
今日もこんなところまで出張っては、裾を汚し葉で手を切っても、どのように花活けに生ければ主が喜んでくれるか、それだけを考えている。
そうする事が若者が選んだ使命であり、生甲斐であるはずなのに…
「これは、、、」
漆黒の涼しげな目元が、山稜を見つめた。
手にした小刀を鞘に収め、帯の間に挟むと、
― 若君の、、、 ―
微かに残るその匂いを、辿り始めた。
庵の裏。
一抱えある石をどけると、その下に掘られた穴が覗いた。
敷き詰められた杉の枝を除けると、壺が並んでいる。
そのうちのひとつを空け、
「これこれ」
柿渋で染められた包みを取り出す。
懐に仕舞い岩を戻すと、元来た道へ。
小さな澤を渡り、一面苔で覆われた樹海に差し掛かり、
「痛っ、、、」
ぐらりとよろめいて、ルゥシャは大地に両手をついた。
「あたたた、、、」
木の根に足を置いたところ、露を結んだ苔に足を取られた。
右の足を、内側に捻ったようで、擦っていればみるみる膨れ、青紫へと変わっていった。
「こんな時に、、、」
どこかに杖の代わりになるものが無いか、辺りを見回していれば、
「ルゥシャっ」
なだらかな苔に覆われた斜面を、猿の如く駆け下りてくる童の姿。
「ああ、まゆも。それにハク、、、」
「挫いたの?!」
まゆもが、足首を擦るルゥシャに、駆け寄った。
「大丈夫。ちょっと、捻っただけだから、、、」
「だめだよっ!!オレ、先行ったみんなに知らせてくるから、そこにいてっ」
「まゆも」
「ハク、ルゥシャを頼んだぞっ」
「あ、、、」
血相を変え、そのまますっとんでいった、まゆも。
「まゆもは、大袈裟なんだから、、、」
呆れながらも、どこか嬉しそうな表情のルゥシャ。
その側に腰を下ろすと、
「いたい、、、?」
腫れ上がった足首を見つめる、伯。
「少しだけ、、、」
片目を瞑って苦笑するルウシャ。
その患部に、伯の手が触れた。
「あっ」
「いたい、、、?」
「ハク、、、」
氷のように冷やりとした手が、足首を冷やす。
そっと肩に触れた。
「ありがと。だいぶ楽よ」
「、、、、、」
薄い肩だった。
華奢な体躯などを見れば、年頃同じ山育ちの子供の方が、発育が良い程だ。
― まだ、幼い神霊だろうに、優しい子、、、 ―
見るからに異形の姿であるのに、その立ち振る舞いには、どこか人間臭さが伺えた。
初めて出会った際に纏っていた、この上等な水干といい、この性格。
人の世で何不自由無く、暮らしていたのかもしれないと、ルゥシャは思っていたのだが、
― 黒鈷も不思議がっていたけれど、いったいどうして蛍ヶ淵に、、、 ―
傍らでそっと患部を冷やす伯の耳に、邪魔そうに垂れる髪を、かけてやる。
「?」
その耳を押さえ、首を傾げる伯に、
「ここにおいで」
ルゥシャが、膝を叩く。
「、、、、、」
「ほら、恥ずかしがる事ないじゃないか」
「、、、、、」
ちょこんとその膝に、背を向けるようにして座ると、
「やわらかい髪ね」
少し癖のある、群青色の髪。
良く櫛が入れられていたのか、すんなりとルゥシャの手の中でまとまってゆく。
自らの髪を束ねていた、紅や橙、桃色の着物の端切れを縫い合わせ、捻って編んだ髪紐を解くとその背に、長い緋色の髪が広がった。
「ちょっと女の子みたいかな」
後頭部に前髪を集め、蝶々結びで束ねてやった。
「、、、、、」
結び目におずおずと触れていた伯はややあって、こくりと頷いた。
それでも解こうとはせず、じっとしながら、腫れた足首を見つめている。
その肌が、泡立つ。
刹那、
「!!」
張り詰める空気に、伯が振り向いた。
木立の中。
逆光を背に、男が立っていた。
「まさか、あなたとこんなところで、、、」
静かな声音が、響く。
「忘れたままで、いたかった、、、」
どこか、懐かしさを滲ませた声音と、それに似つかぬ風体。
手には、小刀が抜き身のまま提げられていた。
それがルゥシャと伯の視線の先で、武骨な大太刀へ変化する。
「あなたは、、、?」
「無理も無い。私は、あなたの前を通り過ぎる客の一人に過ぎなかった、、、」
「客、、、」
ルゥシャの顔が、青ざめてゆくのを見つめながら、男は陽の光から逃れるように、足を踏み出した。
伏せ目がちの漆黒の眸が、瞳孔細い銀灰を宿す。
黒髪は、長く、腰をゆうに超す砂色へ。
銀毛で拭かれた大きな耳と、銀糸の太い尾。
浅葱の狩衣をその身に纏う、痩躯の優男。
「ウロウッ」
いつにも増して、敵意を露にする、伯。
「、、、、、」
しかし、その眸は、ただ一人を映すのみ。
「ルッ、、、」
ルゥシャが、気負う伯を抱き寄せた。
「あたしを、、、裁きに来たの?」
眼前に、迫っていた足が、止まった。
「いえ、、、私は、もう探花使ではありませんから、、、」
胡露が、静かに言った。
「私が地に堕ちた事で、この一件は片が付きました。ただ一言で言えば、怨恨、でしょうか、、、?」
「怨恨、、、」
「ええ、、、」
胡露は眼を細め、
「ただ一度、見かけたあなたに興味が湧いた」
微笑んだ。
「っ」
ルゥシャの背筋に冷たいものが、流れた。
優美な物腰が齎す怜悧な眼差しが、そうさせるのだ。
「結果的に私は、それで道を外れましたが、、、」
「そう、、、あなたが、、、」
その人が誰であるのか、ようやく理解したのか、
「ハク、、、」
ルゥシャが、背に庇うようにして立つ伯の耳に、唇を寄せた。
「いいの。大丈夫よ」
「ルゥシャ、、、」
訳が分からず、立ち上がるルウシャを見上げた。
「人知れず朽ちるのなら、構わない。でも、、、」
辺りの木々が、ざわつき始めた。
どこからとも無く漂う薄霧の中、茫洋と白い輪郭だけの存在が集まってくる。
「“彷徨う者”に、何ができると、、、」
太刀の柄を握り返した胡露の、無造作の一振り。
ォォオオ・オオン…
霧が、割れる。
その一帯に居た“彷徨う者”達の姿は、掻き消え、霧の壁はそこだけ霧散していた。
「あたしは、誰の手にも掛からない」
「ッ」
霧と共に、ルゥシャと伯に群がる“彷徨う者”達。
「ぁあッ」
視界を覆い尽くす白い霧に、伯が目を閉じる。
「逃がすか、、、」
太刀の一閃が、二人諸共斬り捨てるべく、鈍い輝きを送った。
しかし、
「くッ、、、」
空を斬る感触だけが、手応え。
四方に散る、白い霧。
くん、と鼻を鳴らす。
かつて、探花使長として地上を駆けた記憶は、そう遠く無い。
それなのに、
「、、、、、」
二人の足取りは、生きるものが等しく残すその匂いと共に、霧に掻き消されたのか、掴めない。
風が、頬を湿らせる。
いったい、何が起こったのか?
「ッ」
ルゥシャの着物を握ったまま離さない手が、その先にあった温もりが失われていると気付き、伯はようやく目を開けた。
「る、、、」
その体は、透けていた。
否、
『だいじょうぶよ。ぼうや、、、』
押し包むようにして囲む、“彷徨う者”達と同質と化していた。
そして二人を乗せた薄霧の塊が、木立を縫うように渡っているのだ。
「ルゥシャっ」
その頬に手を伸ばし、
「!?」
伯は、手を引いた。
確かにそこに居るのに、その体は透け、陽炎のように揺れている。
その姿を前にして、菫色の眸になんとも言えぬ感情が滲み、
「るぅ、、、」
ルゥシャの身に起きた事態を理解したのか、着物を掴むとその胸に額を押し付け、伯は声にならぬ苦鳴を上げた。
『遅かれ早かれ、あたしはこうなるべきだったの、、、』
探花使の鼻を欺けるのは、森の、この山の力添えなくしては、成し得ない。
そしてそれは、この森である山との契約の行使を、意味していた。
『ハク、、、』
その両頬を、温もりを失ったルゥシャの手が、包む。
深い紫紺へと沈む眸を、半透明の眼窩が見据えた。
『あの人を、知ってるのね?』
「、、、、、」
視線を逸らそうとする伯の頬を捉え、
『なら、あの人を恨まないで』
そう、言い聞かせる。
「どう、して、、、」
困惑して眉を寄せる伯を、
『あたしはあの人のお陰で、黒鈷に出会えた』
ルゥシャは、穏やかな微笑みを浮かべたまま、見つめている。
『黒鈷が手伝ってくれなかったら、あたしは今でも、あの小屋の片隅に居たのかもしれない。そうしたらもちろん、あの子達とも出会わなかった、、、』
汚臭漂う劣悪な環境の中、格子越しの空を、その名も知らずに眺めていた。
継ぎ接ぎの獣達と肩を並べ、物珍しいと髪を抜かれた。
八つの頃、客を傷つけるからと爪を剥がれ、好き者の客のためだと歯を引き抜かれそうになって、無我夢中で暴れた。
細く、骨ばった親指が運悪く世話係の目を抉り、仰け反ったところを取り落とした鋏でもって殴りつけて…
板戸を破って現れた黒い獣が『逃げろ』と吼えて、我に返った。
どこへとも知れずに逃げ込んだ、深い森。
それから、黒鈷に導きによって森の理に触れ、探花使見習いであった彼の口から、花精を知った。
『山は、新たな眷族を欲する時がある。動物や植物、稀に人はその呼び声に応じ、森の一部となるの。“彷徨う者”《これら》は、山そのものでもあり、それに従う、、、いいや、山そのものとなった個々の、想いの形に近いのかもしれない、、、』
命を紡ぐための恵み育み、与え、時として、死の淵へと誘いもする。
その姿こそ、万物を包み込む大いなる流れ、ありのままの姿。
『あたしは、ずっと喚ばれていた。いつかこうなる日の事を、山は心配してくれていたのかもね、、、』
森の中にいる時、焼け付くようなあの惨劇の出来事すら、どこか遠くに感じた。
全てを、包み込まる感覚に身を委ね、苔むした大地の上で眠る時、あまりの陶酔感にかえって怖くなっては、黒鈷の姿を探した事もあった。
『あたしがこの地に根を張る事を、この山のこの森は歓迎している、、、』
群青色の髪を梳きながら、ルゥシャは今、山の中から全てを視ていた。
子育てに追われる、熊鷹の番い。
草を食む野兎の親子。
深い谷の底で、ひっそりと息絶える老いた鹿の、最後の吐息。
それだけではない。
羽化して羽を乾かす蝶や、翡翠に咥えられた、鮠。
光が差し込まぬ草木の中で、萎れ項垂れる鬼百合や、風雨に耐えかね折れた樫の木に顔を出した、新たな息吹。
山里に近い辺りでは、山菜採りの帰りの老夫婦の話し声や、蜻蛉を取ってはしゃぐ子供らの笑い声。
太刀を片手に樹海を探り歩む、胡露の姿まで、今は手に取るように視えているのだ。
― これが、山に融け、森に成ると言う事、、、 ―
それは痺れるような、歓喜の連続でもあった。
見るもの全てが、新しく感じる。
全てが、美しく、愛おしく、感じる。
― 嗚呼、あたしの子供達、、、 ―
そして何より大切な、黒い獣に導かれて前方の山を見下ろす高台を下る子供達の姿が、視えた。
手に木の枝を持った者。
背に自分より幼い子をおぶった者。
ぐずりながらも手を繋ぎ、歩を進める者。
急勾配に慣れた子供達にとっては、険しい山道もさして苦では無い様子。
黒狼を先頭に、見知った道を、行く。
毎月、ルゥシャに連れられるまま、山を転々とするのを常とした子供達だ。
疲れた様子など、無い。
子供達の様子に眼を光らせ、次の山へと渡る道を選び導く、黒鈷。
雨の匂いを嗅ぎ取れば、雨宿りできる洞が多くある道を通り、逆に陽射しが厳しければ、緑の深い道を選んだ。
二日もあれば、西の山に入るだろう。
「、、、、、」
風上から嗅ぎ慣れた子供の匂いが、近づいてくる。
足を止めた、黒鈷。
― まゆも、、、 ―
草叢に見え隠れしながら駆けてくる、童。
「おーいっ、ルゥシャが大変なんだッ」
その声を、聞いた。
「足を捻挫して、動けないんだよっ」
手を振りながら、茂みを渡るまゆも。
しかし感じ取ったのは、
― いや、違う ―
森を渡る風の異変だ。
― 森が、ざわついている、、、 ―
木立の奥へ、眼を凝らした。
白いものが、見えた。
― 何か、来るッ ―
急いで子供達の前に出たところで、
「ッ」
黒鈷は、その正体に気がついてしまった。
それは“彷徨う者”でありながら、よく見知った者。
霧から姿を現した伯の手を引いた、その人を。
『黒鈷』
その声がわんわんと、頭の中で木霊する。
波長を同調させ、想いを送っているのだ。
白い霧の固まりは、一行の元で四散すると、
「ハク?!何処から来たの?!
「あ、ねぇ今、ルゥシャの声がしたッ」
「ルゥシャ、どこ?!」
“彷徨う者”の姿が見えぬ幾人かの子供達の中。
「ルゥシャ、、、」
まゆもは、黒鈷の首を抱きしめたその姿を、呆然と見つめていた。
やがて、その体が大地へと吸い込まれると、橙の花が揺れた。
金魚草。
「、、、、、」
その葉に黒鈷が、項垂れ額を寄せる。
「黒鈷、、、」
一番年長の少年が、黒鈷の傍らへ。
「えるむ」
その少年の名を、黒狼が呼んだ。
「うん、、、」
えるむが、静かに応じた。
ルゥシャは、この一番年長のえるむだけにはすべてを語り、そして子供達のこれからを、託していたのかもしれない。
動揺を隠せない子供達の中に在って、えるむは、ひどく落ち着いて見えた。
「先に行っていろ」
低い、その声音。
「こっこが、、、喋ってる」
「こっこ、、、」
驚く子供達の前から、その姿が駆け出してゆく。
「どうしてこっこが喋るの?」
「こっこ、犬だよね?」
混乱している子供達を他所に、遠ざかる黒鈷。
「おいっ」
その尋常とは思えない様子に、咄嗟にまゆもは、
「黒鈷っ、オレたち、大岩で待ってるからなッ」
声の限り、叫んだのだった。
『きっと、誰が悪いわけでもないのよ』
胡露から黒鈷を守るためとは言え、行方を晦ませるために山へ還ったその人が残した、言葉。
― 悪いがお前の願い、俺は納得できねぇ ―
シダが生い茂る原を駆け抜け、澤を越えた。
鹿の群を横切り、暮らし慣れた庵のその辺り。
その鼻が、捉える。
風上から微かに残された、匂いがする。
それを辿り、水の音に大滝を見た。
そして、
「久しぶりだな、黒鈷」
庵の前。
「胡露大人、、、」
黒鈷は、その人と対峙した。
「お前に初めて与えた任務で、よもや地に堕ちるとは思わなかった、、、」
低い、その声音。
「見捨てるべきだってのは、分かってた。俺はただの見張りであって、経過を報告すれば、それで、、、」
今も昔も変わらぬ、怜悧な眼差し。
「だが、どうしても赦せなかった。あんただって、あの場に居合わせたらきっとっ、、、」
「、、、、、」
その眼差しを受け止めれば、黒鈷は言葉を失い、項垂れた。
探花使長。
一株も残す事無く地上に発生した花精を刈り取り、天界の神々へと引き渡す事を生業にしていたこの男を前にすれば、探花使に名を連ねた事のある者達の覇気は、黒鈷のように一様に霧散しまう。
体に染み付いた絶対という掟が、そうさせるのだ。
不甲斐ないかつての眷族に、
「所詮お前は、人に飼われていた狗だ。お前が仕えているそれは、今も昔も、情だ、、、」
風を斬って、太刀が振られた。
大気が、張り詰めた。
「くっ、、、」
口の端を噛み切ったのか、血が、ぽたりと大地に滴った。
― ルゥシャ、、、 ―
じり…
今までに感じたことのない殺気に、後脚が、大地を掴み、
「爪も牙も誇りすら失って、人の形にて鉄の爪を振るう今のあんたになんぞ、言われたくないな」
黒鈷が、身構える。
息を吐き、右肩を前に出した。
皺を寄せ、牙を剥いたその鼻先に、
「こんなところに蒲なんぞ、ありはしまい」
甘い芳香が吹き込み、辺りを包み込む。
澄んだ女の声音は、頭上でした。
どこか蟲魅的すらある笑みを浮かべ現われたのは、
「地仙、何故、、、」
虹色の羽衣を腕に通し、漆黒の戦袍を纏った侍女二人を従えた、天狐遙弦であった。
「その大太刀は、私がくれてやったものだと忘れたか?その封を切れば、私の知るところとなるさ」
腰に手を当てて、
「しかし、随分と勝手なことをしているじゃないかぇ。初めてお前が地に這った時の土の味、今すぐ思い出させてやろうか?」
大地に舞い降りる遙絃を、その銀灰の一瞥で迎えた。
「こればかりは、お目を瞑っては頂けないでしょうか?」
太刀を離さぬ、胡露。
「人を手に掛け、あまつさえ、我が一門に泥を塗った。この者のせいで負った眷族が雪辱、長であった私が雪ぐのが、道理、、、」
静かなその声音に滲む、ふつふつとした憤り。
身構えたままの黒鈷も応じ、鋭い牙を剥いた。
「そうか、、、」
さもつまらなそうな様子で、頭の後ろを掻きながら、胡露が太刀の柄に力を込めるのを、見つめている。
「では、好きにしろ」
その声が、合図だったのか。
「おぉおッ」
太刀の柄を右腿に引きつけた胡露の咆哮。
その覇気を受け、全身の毛を逆立てた黒鈷が鉤爪、大地を抉る。
風を切って奔る閃光を、身を伏せて避け、
「ギガガア゛ッ」
牙を剥き、刃を反す胡露に向かい、飛び掛る。
「がッ」
黒鈷の眼前。
鼻面を押さえるようにして広げられたのは、手。
仰け反った黒鈷の腹には、二の腕と膝が、押し付けられていた。
一方、
「あぐッ、、、」
胡露の端正な口元からは、紅い飛沫。
「お前が言ったんだ、、、」
声は、顎の下で聞こえた。
胡露の脇腹を抜けて背に、琥珀色に染められた爪もたおやかな手が、生えていた。
「例え同門であっても、負った雪辱はその長が雪ぐべきものだとな、、、」
刹那の内に、二人の間に割って入った、遙絃。
その痩躯が、左手で肉を裂き、右腕と膝だけで獣の巨躯を抑え込んでしまったと言うのか?
「遙絃、、、」
鈍い音を立てて太刀が大地に落ちると、遙絃は素早く手を引き抜き、後方に跳躍。
紅い鮮血が噴出し、みるみる大地に血溜まりを作った。
よろめきながら、大地に崩れ込む、胡露。
侍女達が持つ絹布に、体液で濡れそぼつ腕を拭かせながら、
「黒鈷と言ったな」
「あ、、ああ、、、」
「拾ったとはいえ、今は我が眷族に相違ない。二度と、そなたらに関わらぬよう思い知らせる故、どうかこの件、我に預けてはくれまいか?」
「、、、、、」
黒鈷の眼差しが、彷徨った。
赤黒い染みが広がる大地に、かつての主。
「そう簡単じゃ、、、ないんだ、、、」
搾り出すような、
「なんで、、、」
声音。
「なんで、ルゥシャは森に同化しなきゃいけねぇんだッ」
子供達を残して行ってしまったその無念さを思うと、どうしても納得がいかなかった。
今一度飛び掛ろうと、身を低くしたその鼻先に、
「そうか、、、」
「!?」
投げ落とされたものが、ある。
銀灰の、眼球。
左半顔を押さえ、砂色の髪を乱して仰け反った胡露の傍らで、
「無論、当方に異存はない。気が済むまで、つき合わせて貰うぞ」
艶然と微笑む、天狐。
「なぁ、胡露。心の臓を握りつぶす前に、指を裂いてやろうか?」
「よぅ、げ、、、」
「座興だ。どうせなら、キレイな声で鳴いてみせてくれよ、、」
冷や汗が噴き出し、滴る細い顎先を、琥珀色の爪が喉仏まで辿った。
その仕草に、
「やめてくれッ」
ぶるぶると黒鈷の前脚が、震えた。
「うん、、、?」
自分で何を言いたいのかも分からないのに、
「もういいっ、もう、、、」
そう、叫んでいた。
「やめて、くれ、、、」
頭が、割れるように痛かった。
ここ数十年、この男の影に怯え、隠れて暮らして来たと言うのに、
― 俺はなんて情けねぇんだッ ―
この男が、地を駆けるだけの己を眷族として迎えてくれた主である事を、今でも恩に着ている。
そんな自分が、頭の中に居る。
黒鈷は、喉の奥で苦鳴を上げた。
やがて、
「天狐の神様」
搾り出すような、声だった。
「なんだぇ、、、?」
「あんたに、預ける」
遙絃に、言った。
「最初に裏切ったのは、俺の方だ。俺みたいなのにも、地仙になれるのだと、眼を掛けてくれたのは、胡露大人だけだったのに」
「、、、、、」
「俺は、そんな大人からも、逃げた。こんな俺が、あんたに頼んで大人の命まで奪う事になったら、、、」
黒鈷の眸は、
「俺は、、、ガキだったルゥシャを痛めつけた奴ら以下、だ、、、」
抉りだされた胡露の眼球を、見つめていた。
「今後は、我が眷族に勝手な事はさせぬよう、目を光らせる、、、」
すまなかった、そう口にした天狐遙絃に、黒鈷は無言で背を向けた。
黒狼が木立へと姿を消すのを、遙絃の炯々と光る碧玉の双眸が、見送っている。
「おい、蒼奘」
寄せられた怪異に関する嘆願書の写しを、受け取りに訪れた都守を、気安く呼ぶ者がいる。
「今日辺りどうだ?」
見れば、若い衛士らの中から抜け出してくる、大男。
「燕倪」
「快気祝いに銀仁も呼んで、皆で屋敷でいっぱいやろうと言ってたんだ。あの衛士の嫁の実家が漁師でな。釣った若鮎を分けてもらう事にしたんだ」
「骨も繋がらぬ内にか?気の早い快気祝いだな、、、」
「酒が呑める口実さえあれば、そんなことどうでもいいんだよ。なぁ、お前も来るだろ?伯も連れて来いよ」
その鈍色の眼差しから逃れるように、蒼奘は歩き出した。
「おいっ」
「今夜は程々にしておけよ。嵐が来るぞ、、、」
相変わらずな背中を見送る燕倪の元に、
「備堂様」
「やっぱりいらっしゃらないか。残念だなぁ」
「ああ。都守とお近づきになれると思ったのに、、、」
集まる、若い衛士達。
口々に、好きなことを言っている若者の声など耳に入らないのか、
「嵐?こんないい天気なのに、何言ってるんだか、あいつ、、、」
顰め面で雲一つ無い青空を、見上げている。
牛車の前で待つ琲瑠が、主のために無言で簾を上げた。
乗り込む途中、
「琲瑠」
鬱々とした、低い声音が掛かった。
肩を揺らした琲瑠の視線の先。
薄暗い車内に腰を下ろした、白い浄衣の背。
「鋼雨に鞍をつけておけ」
「あ、、、」
「長雨が続けば、狭い厩舎だ。辛かろう、、、」
琲瑠は、震える手で簾を降ろすと、
「畏まりました」
静かに、それに応じたのだった。
「馬鹿なヤツだよ、お前は、、、」
腹を押さえ、半身を血で染めたままの男に、女は笑いながら言った。
「地仙こそお変わりなく、見事なお手並みで、、、」
凄惨極まりない姿ながら、
「ついでにその舌も、引き抜いてやろうか?」
「貴女が、お望みならば、、、」
いつもと変わらぬ微笑み湛えた薄い唇で、男は返した。
その態度に呆れた様子で、
「しかし、私に刃向かうと知って、どうしてこんなことを、、、」
椎の古木の根に背を預けた胡露。
その傍らに転がっている、武骨な大太刀を見つめた。
柳腰に手を当て、首を傾げる女を前に、
「さて、、、」
口調とは裏腹に、銀毛で葺かせた耳は申し訳なさそうに折れていた。
「探花使であろうと、この帝都における一帯は我が負うた地。その花、徒花と言えども勝手に手折る事、攫う事赦さぬ。ここが彼の地と違うのだと、お前も知っておろうに、、、」
その言葉を受け、少しの間血塗れた太刀を眺めると、
「それに甘んじて、のうのうと生きる自分を、追いつめたかったのかもしれません、、、」
溜息と共に、吐き出した。
「貴女に拾われ、すべてを忘れ、やり直そうとしていたのですが、、、」
その人を見上げて、男は笑った。
「結局の所の私は、何も変わっていなかったようです」
どこか晴れやかなその笑顔に、女もつられて笑った。
「この体たらくじゃ、私の伴侶は務まらないぇ」
止めを刺すのならと、近づいた二人の侍女を手で制し、
「まったく、焼かせるじゃないか。この私に世話を、ね、、、」
投げ出されたままの血塗れた右手を取り、そのまま頬に押し当てた。
「いけません、遙絃、、、」
手を引こうとするが、女の手がそれを許さなかった。
「いや、むしろ大馬鹿なのは、私の方か、、、」
くつくつと喉をならすと天狐遙絃は、胡露に自らの肩を、貸したのだった。
見上げる程に高く、居並ぶ千年杉。
生い茂る葉によって空は覆われ、辺りは薄暗く、大地は張り出した根によってでこぼことしている。
そこに、山の頂の辺りから剥がれ落ちたのか、黒茶けた巨岩が二つ、折り重なるようにして苔むしていた。
すすり泣きが洩れている。
子供達が、身を寄せ合うようにして、張り出した根の一つに腰を下ろしていた。
陽が、傾きだしていた。
「ルゥシャ、どうしたのかな」
ぽつりと、誰かが言った。
「黒鈷も、、、」
小さく声を上げたのは、えるむの背から離れない齢二つ三つの、女童。
「、、、、、」
えるむは、無言だった。
それどころか、いつもは真っ先に辺りの散策に出かけるまゆもまでもが、えるむの傍らで黙りこくっている。
伯は、一向から少し離れた所で、杉の幹に背を預けていた。
そこへ、駆け込んできた黒いものがある。
「揃いも揃って、辛気くせぇ顔しやがって」
「黒鈷ッ」
それは、からりとした口調であった。
口に銜えた柿色の包みを、えるむの足元に置くと、
「さ、行くぞ」
多くを語らず、顎で促した。
その黒狼に、
「わっ、てめっ、何すんだッ」
「こっこぉッ」
「うわわぁぁんっ」
子供達が群がった。
「むぅ、、、」
もみくちゃにされながら耳を折り、目を細めて呻く、黒鈷。
己が喋る事を知った子供達が、怯えていたら、、、?
黒鈷は何よりそれが、怖かった。
「みんな、心配してたんだ。黒鈷まで、どっかに行っちゃうんじゃないかって、、、」
少し安心した表情を見せた、えるむ。
「黒鈷」
まゆもの、もの言いたげな眼差し。
すべてを視ていたその眸に、嘘はつけなかった。
「一度しか言わないから、お前ら良く聞けよ。ルゥシャはな、森に還ったんだ」
「帰った?」
「どうして一人で?!」
今にもまた泣き出しそうな顔が、見上げてくる。
「ルゥシャはな、森の精だ」
「え、、、」
「森の、、、?」
目を丸くする、子供達。
「大体俺が喋るんだ、何も不思議はねぇだろ?」
その問いに、一様にこくりと頷いた。
「今は、この森のすべてに、ルゥシャがいる。ここいらの草木にも、な」
「見えないよぉっ」
女童を宥めるように、頭をその肘に擦りつけながら、
「いずれ、視えるようになるさ。えるむとまゆもが、良い例だ」
「えっ」
「視えただろ?ルゥシャを」
片目を瞑った黒狼に、二人は顔を見合わせる。
「ルゥシャ、いた!?」
「ちゃんと見えた!?」
子供達に押されて、
「ああ」
「うん」
頷いた。
「あたしにも、ちゃんと見えるようになる?!」
「ああ、きっと」
「今もちゃんといる?」
その問いに、黒鈷は辺りを見回して、
「ああ、今もそこに、、、」
頷いた。
えるむとまゆもは黒鈷の視線の先に、遠巻きに茫洋と佇む“彷徨う者”の姿を見た。
陽炎のようにゆらゆらと、一行が向かう先へと消えてゆく。
「行こう。暗くなれば、ルゥシャが心配する」
えるもが子供達を立たせると、
「うん、行こう」
まゆもも立ち上がった。
「少し急ぐからな。疲れたやつは、俺の背に乗るといい」
「大丈夫ッ」
「だって、ルゥシャが見てるんでしょ?!」
黒狼の前を、それまでえるむにおぶわれていた子供達が、袖で眼元を拭い拭い、歩き始める。
その背中を見て、
― この子らは皆、お前に似て気丈だな、、、 -
黒鈷はそう思った。
「ん?」
それに続こうとした黒鈷が、ふわりと巻いた潮風に、振リ返る。
茂みの向こう。
「ハク、、、」
薄闇の中に、白い水干の袖が、ひらりと、みえたきりだった。
宵闇に包まれた時分。
東の山稜に掛かった重たげな、雲。
往来を家路を急ぐ人々も、いつ降るか分からぬ雨の気配に笠を目深に被り、または傘を引き付けている。
旅人や商人は、纏った蓑の前を合わせ、空を見上げては一様に恨めし顔だ。
湿気を含んだ生暖かい風が、往来を抜けて開け放たれた門より吹き込む中、
「、、、、、」
うっそりと空を仰ぎ見ている者が、居る。
風に弄られ、肩に遊ぶ白い髪。
白い狩衣を纏った蒼奘、その人である。
門前に焚かれるはずの篝火が今日は消え、茫洋と浮かぶ白い姿も、この日ばかりは宵闇の中に沈んで見えた。
表情を浮かべぬその人の視界に、往来を横切る細い影が、過ぎった。
そのまま足元へ、闇色の視線を落せば、
「お前、、、」
ちょこなんと、座っているものがいる。
口に、鬼灯の枝を銜えた、狐。
闇の中でも炯々と良く光る、琥珀色したつぶらな瞳が、見上げていた。
膝を折り、その枝を受け取る蒼奘の耳に、馬の蹄の音が近づく。
「主様、、、」
漆黒の堂々たる肥馬、鋼雨。
青乳色した鬣を振り乱し、落ち着き無く首を振るのを、轡を取った琲瑠が宥めている。
その背に乗ると、傘を手にした汪果が、提灯を差し出した。
「灯りは、いい、、、」
鞍へ、傘だけ琲瑠に結ばせると、
「待たせたな、、、」
いつまでもそこを動かぬ狐に言った。
差し向けた、鬼灯の枝。
心得たもので、野狐は高く飛び跳ねると、青い燐光となってその鬼灯に宿った。
一度、鋼雨の手綱を引き絞った蒼奘は、並んで佇む汪果と琲瑠に一瞥与え、
「後は任せた、、、」
銀の馬蹄を響かせて、往来へと消えていった。
その姿を見送り、遠ざかる蹄の音を聞きながら、傍らで俯く琲瑠へ、
「一日一日と過ぎる度、眉間の皺が深くなっていた事、わたくしが気付かぬ訳ないでしょうに、、、」
少し呆れたような、汪果の呟き。
「、、、、、」
傍らの琲瑠が沈黙しているのを尻目に、
「いけませんわ、殿方の痩せ我慢。それも二人して」
「はぁ、すいませぬ、、、」
さすがに今回ばかりは堪えたのか、傍らで琲瑠が項垂れた。
肩を落したまま、
「すべては、私の不徳の致すところ、、、」
世話役を名乗っているのに、この有様。
主君である伯が抱えた不安にも気付かず、使役主である蒼奘のやり方に対しても、つい感情のまま口調を荒立ててしまったあるまじき失態が、どうやらそうさせるようで…
平素、くるくると気を回す事に長けるこの若者にしては、珍しい事でもあった。
「私がつまらぬ意地など張らず、主様に頼んでいればこんな事には、、、」
「頼んでいても、同じこと、、、」
「え、、、?」
汪果は、けろりと言いのけた。
「やはり、これで良かったのではないのかしら。だって、離れてみなくては、気付かぬ想いもあるでしょう?」
「そう言うものでしょうか、、、」
眉を寄せ、首を傾げる若者に、
「たまには突き放して、ありがたみってやつを分からせてやらなくては」
汪果は背を向けた。
踵を返した汪果の後を、琲瑠は不思議な表情を浮かべて追いかけた。
当初は、幼神である伯の一切を琲瑠に任せていた、汪果。
それは絶対的な畏れと敬いから、端を発していたのに…
「わたくしは膳を整えますから、琲瑠は燈明の仕度を。それから湯船に水を張って、薪を運んでおくように」
「あ、はい、、、」
「若君がお好きなお酒も。そうそう、庭に、からまつはもう咲いていたかしら?」
「ええ。先日、西の庭に、、、」
「氷雨に、お体を冷やしてはいけないから、からまつと一緒にお酒をお召しになれるよう、摘んでこないと、、、」
あれやこれやと指を折り、母屋を炊事場の方へと向かう汪果。
その背が廊下の向こうに消えてから、ひとりぽつりと残った琲瑠は、ぺこりと頭を下げたのだった。
嵐が、近い。
上空では風が巻き、雨の匂いが漂い始める。
黒々と湧く、雨雲。
遠くから渡ってくる、稲妻の気配。
身を小さくする事しか、今はできない。
「、、、、、」
伯は、膝に顔を埋めた。
古木に開いた洞の中。
小さな体が、より小さく見える。
胸に渦巻く、痛み。
蟠る、熱。
鎮めようとじっとしているのに、それは勢いを増して燃え盛る炎ように、胸中を焦がす。
最近、人の世に在って、それが多くなってきた。
きっと、その人の側にいるせいだ。
山を越え、海を渡ったその先へ。
そこではきっと、こんな想いをしないで済むはず。
漠然とそう思ってたのに…
この分ではどうやらそれは、違ったようだ。
頭上。
空を覆えとばかりに生い茂る木々の葉を、穿ちながら渡る雨音が、近づいてくる。
やがて、この身にも等しく降り注ぐことだろう。
肌寒い風が、辺りに漂い始めた。
目を瞑っていても、雨雲を渡る稲妻の閃光が瞼を弄うのが分かる。
「ぅ、、、」
膝に目頭を押し付けて、耳の横に回した腕を絞めた。
煩わしい、稲妻の声。
犬歯の辺りが、憤りにむずむずとする。
「うう、、、」
苛立たしげに牙を剥き、憤り紛れに声の限り叫んでやろうと顔を上げ、、、
「っ」
息を呑んだ。
雨は、とっくに辺りを包んでいた。
その中に、傘を差した長身の男が、一人。
「、、、、、」
手には、青い燐光を放つ、野狐提灯。
野狐が宿った大振の鬼灯が二つ三つ、その姿を見つけて喜ぶのか、猫のような声を上げて、ゆらゆらとした。
白い狩絹の袖が、揺れた。
左手から、はらりと取り落とされる、野狐提灯。
大地に当たって、燐光が舞い上がる。
現れたのは、若い狐。
鬼火を纏って雨の中、再会を喜んでか、伯の回りを飛んだり跳ねたりしながら、
キュ…
その足に太い尾を巻きつけたのだった。
目の前。
「ぁ、、、」
その左手が、
「伯」
差し出された。
「ソウ、、、」
伯は、手を胸の前に上げたきり、その人の手を取れずにいた。
目を逸らせ、うつむく。
「、、、、、」
その手を、男の繊手が、取った。
小さな手を包み込むようにして握ると、蒼奘は何も言わずに歩き出した。
「、、、、、」
手を引かれ、ようやく広いその背中を見上げた。
その先に、雨に濡れたその人が、いた。
後ろを歩く伯の頭上に傘が来るよう、雨に打たれぬように。
キュクルル…
伯の顔を覗き込んでいた野狐は、小首を傾げた。
ククルル…
立ち止まると、野狐は転々とぬかるむ大地の上にて光る輝きに、鼻先を近づけた。
「う、、、」
はらはらと溢れて零れる、涙石。
それを拭い拭い、
「ぃた、い、、、」
こみ上げる嗚咽に、喉が圧迫されている。
胸が軋んで悲鳴を上げ、それを堪える事に必死になって、顔を上げる事が、できなかった。
溢れ出すこの痛みは、だから何だというのだ?
もどかしくも甘美な、この痛みを、なんと呼ぶ?
「うぁああぁぁあ―――ッ」
叫ぶ。
大地に、空に、雨に。
耐える事もなく、吐き出そう。
今は、その人の手の温もりだけが、道標。
「ああ、、、」
肩に遊ぶ、白い髪の先。
それに伝う雨粒に、
「今日は、久々によく降りそうだ、、、」
目を細め、家路を急いでいた足の運びを、緩めた。
その涙の跡を、感情が齎す痛みを、この雨が甘く包み込んでくれる事を、望んでいたのかもしれない。
草を食んでいた鋼雨が、顔を上げた。
激しく枝を揺らすのは、大粒の雨。
けれど、その一帯は空を覆う葉が、まるで天蓋。
雫は砕け、小さくなった。
その雨粒は木々の幹を伝い、あるいは、葉の先からぽたぽたと滴り、大地へ還る。
森は、降り注ぐ雨を、ただ優しく受け入れる。
ググル…
鋼雨は、童の手を引いて現れた、主人の元へ。
その手が手綱を取り、労うかのように首筋を叩けば、鋼雨はゆっくりと歩き始めた。
一先ず落ち着いたのか、しゃくりあげる童の背に長衣を掛け、
「、、、、、」
解けかかっていた髪の蝶結びを、直してやった。
「うぅぅッ」
何かを思い出したのか、声を上げて胸にしがみつく伯。
「、、、、、」
その華奢な肩に掛けた長衣の前を合わせる、蒼奘。
鋼雨は、緑深い森の闇がたゆとう、緩やかな斜面をゆっくりと下って行く。
河鹿の声。
雨の匂い。
そして、遠ざかる蹄の音。
この森を去る一行を、茫洋とした陽炎一つ。
いつまでもひっそりと、見送っていた…
この季節、濃い翠の中で一際目を引くのか、金魚草の橙緋。
正式名称は、桧扇水仙。
幼い頃、この花の名は、そのまま金魚草と教わった。だから、そのイメージで書いたのだが、実際にキンギョソウと言うのは、淡いオレンジだったり、イエローやピンクを呈した、見るからに渡来の花。画才皆無の俺には、挿絵は無理だから、せめて写真だけでも挿絵代わりになれば、と思っては、いる。