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第漆幕後 ― 徒花 ―

 西の山へ向かう一行を見舞う、突然の別れ。責任を感じた伯は、、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第七幕後編。。。

 薄闇の中、賑やかな声がする。

「みんなびしょ濡れじゃないか、、、」

 急に振り出した夕立の中、逃げるようにして帰ってきた子供達。

 乾いた着物に着替えさせるだけで、大忙しだ。

「オレの着ろよ」

「、、、、ん」

 伯も水干から、柿色の小袖に着替えた。

 ここで過ごすようになって、早数日が過ぎようとしていた。

「ハク、ここっ」

「こっちだってっ」

「ん、、、」

 庵を囲んで大鍋を囲む時、新しい仲間の隣りはいつも争奪戦だ。

 その喧騒の中、相変わらず部屋の片隅で丸くなっているのが、黒鈷こっこ

 食事が終わり、雨で外に出られない時など子供達の格好の餌食となり、大きな耳を引っ張られたり、背に乗られたり。

 そんな黒鈷は皆が寝静まった頃、決まって狩りに出かける。

 明け方近くに大猪や鹿、雉を獲るのが、彼の仕事だ。

 育ち盛りの子供達を、この山懐で育てて行けるのには、この黒狼の尽力によるものが大きいのかもしれない。

「こうやって紐にするんだ」

「お」

 食事の後、ルゥシャと草鞋を編む年長の少年の傍ら、藁を捩って紐にしてゆく。

 子供達に揉みくちゃにされても一言も発しない自分を、菫色の眸が見つめているのに気がつき、

「、、、、、」

 前脚に顎を預けたままの黒狼が、銀鼠ぎんねずの一瞥。

 その視線に動揺したのか、視線を逸らして手を動かす伯を、ルゥシャが荷物を纏めながら穏やかに見つめている。

 やがて、新しい草鞋の数が揃ったところで、

「明日晴れたら、次のお山に行くからね。いっぱい歩くから、今日はしっかり休むこと」

 一人一人に、真新しい草鞋を渡した。

 きょとんとしている伯の手にも、

「はい」

「、、、、、」

 ルゥシャが、一つ。

「ひとつところに居ては、この森が疲れてしまうから、お伺いをたてて次のお山に行くんだよ」

「おうかがい、、、?」

「白い人影を見たろ?あれとルゥシャは喋れるんだ」

 まゆもが、胸に草鞋を抱いたまま、鹿の毛皮の上に寝そべって言った。

「“彷徨う者”なんて呼んでいるけれど、あれは山の斥候せっこうでもあって、眷族でもあるんだよ」

 甘栗色の眸が、きらきらとした。

「えるにぃは、聞こえるんだろ、声?!」

 遊びに夢中の子供達の分まで、寝床を用意していた少年は、

「声というより、歌みたいな、、、」

「うぅうっ、いいな、いいなッ!!で、どんなんだった?!」

「あぁもう、うるさいやつだな。早く寝ろっ」

「わっ」

 少年に抑え込まれたまゆもも、負けじと反撃。

 寝床の上で始まったじゃれ合いに、いつしか他の子供達も混ざって、

「、、、、、」

 まだ慣れない甲高い奇声と、その笑い声に怯え、ルゥシャの側に寄った、伯。

 その髪を撫でながら、

「ここじゃ毎日が、こんな調子」

 その子らの様子に、ついつい頬が緩んでしまうルゥシャを、伯の菫色の眸が不思議そうに見つめている。


 翌朝。

 朝霧立ち込める中、背に必要最小限の荷を負った一行は、庵を後にした。

 ここから人の足で四日程西へ下ると、また、別の庵があると言う。

 庵を出発してから、半刻程行った辺り。

 熊笹が茂る杣道そまみちを、下っていた時だった。

「あ」

「どうしたの、ルゥシャ?」

「そう言えば西の山には、南沙参ナンシャジン蒼耳ソウジを切らせてたんだっけ」

「えぇぇえっ、もしかして取りに戻るの!?」

「ここまで来たのにぃい」

 口々に言う子供達に、

「みんなは先に行って。あたしの足なら、すぐに追いつくから」

「でも、薬草なら西の山にも生えてるだろ?」

 年長の少年が、おんぶをせがむ女童を背負いながら、口を挟んだ。

「蒼耳はいいけど、南沙参は咳に良く効くからね。すぐ戻るから、遅れないように黒鈷に付いていくんだよ。黒鈷、千年杉せんねんすぎの大岩で」

「、、、、、」

 前方で、のっそりと黒鈷が顔を向けたのを確認して、ルゥシャは元来た道を戻って行った。

「さぁ、行くぞ。はぐれんな」

 再び杣道を歩き出した、一行。

 一番後ろを歩いていたまゆもは、落ちつかなげに何度も後ろを振り返っている。

「まゆも。さっさと歩けよ」

 前方で、女童を背負った少年の声。

「えるむっ!!やっぱオレ、ルゥシャと一緒に行って来る。後で一緒に来るからっ」

「お、おいっ」

 ぱっ、ときびすを返し、

「行こうぜ、ハクっ」

「え、あ、、、」

 ぼうっと突っ立っていた、伯の水干の袖を掴むと走り出した。

「まったく、あいつらッ」

「えるにぃ、ゆうまも行っていい?」

「みいるもっ」

 次々と名乗りを上げる子供達を、

「だめだ、だめだ。そんなことしてたら真っ暗になっちまうぞ。俺達は先に行って、千年杉の大岩で、ルゥシャを待つんだ」

 やんわり宥めながら、中々言う事を聞いてくれない幼い子供達に、頭を抱えるのだった。


 帝都の外れ。

 迫る山稜が、近いその辺り。

 膝ほどまでに伸び揃った稲は、水を満々と湛えた田に、青々としていた。

 その畦道に沿って、背の高い草木が茂っている。

 太い枝の先に、駱駝色らくだいろの穂。

 がまである。

 その枝の一つに、手にした小刀を押し当てている者がいる。

 浅葱に染めた狩衣を纏い、長い黒髪を編んで肩に垂らした、物腰優雅な若者。

 一つ一つ、見目も良いものを探しては、持ってきた布の上へ置いてゆく。

 こと花に関しては並々ならぬ入れ込みようなのに、屋敷の内に在りさえすれば見向きもしない。

 思い出したかのよに、あれが欲しい、これが欲しいと我侭を言って、屋敷の者を困らせる。

 古参の女官が言うに、若者が屋敷に入ってからは、それは形を潜めるどころが更に酷くなったらしいのだが、

「ふ、、、」

 当人は、それも苦ではないらしい。

 何か思い出したかのように、寝室の花活けに飾る蒲が欲しいとせがまれた。

 今日もこんなところまで出張っては、裾を汚し葉で手を切っても、どのように花活けに生ければ主が喜んでくれるか、それだけを考えている。

 そうする事が若者が選んだ使命であり、生甲斐であるはずなのに… 

「これは、、、」 

 漆黒うるしぐろの涼しげな目元が、山稜を見つめた。

 手にした小刀を鞘に収め、帯の間に挟むと、

― 若君の、、、 ― 

 微かに残るその匂いを、辿り始めた。 


 庵の裏。

 一抱えある石をどけると、その下に掘られた穴が覗いた。

 敷き詰められた杉の枝を除けると、壺が並んでいる。

 そのうちのひとつを空け、

「これこれ」

 柿渋で染められた包みを取り出す。

 懐に仕舞い岩を戻すと、元来た道へ。

 小さな澤を渡り、一面苔で覆われた樹海に差し掛かり、

っ、、、」

 ぐらりとよろめいて、ルゥシャは大地に両手をついた。

「あたたた、、、」

 木の根に足を置いたところ、露を結んだ苔に足を取られた。

 右の足を、内側に捻ったようで、さすっていればみるみる膨れ、青紫へと変わっていった。

「こんな時に、、、」

 どこかに杖の代わりになるものが無いか、辺りを見回していれば、

「ルゥシャっ」

 なだらかな苔に覆われた斜面を、ましらの如く駆け下りてくる童の姿。

「ああ、まゆも。それにハク、、、」 

「挫いたの?!」 

 まゆもが、足首を擦るルゥシャに、駆け寄った。

「大丈夫。ちょっと、捻っただけだから、、、」

「だめだよっ!!オレ、先行ったみんなに知らせてくるから、そこにいてっ」 

「まゆも」

「ハク、ルゥシャを頼んだぞっ」

「あ、、、」

 血相を変え、そのまますっとんでいった、まゆも。

「まゆもは、大袈裟なんだから、、、」

 呆れながらも、どこか嬉しそうな表情のルゥシャ。

 その側に腰を下ろすと、

「いたい、、、?」

 腫れ上がった足首を見つめる、伯。

「少しだけ、、、」

 片目を瞑って苦笑するルウシャ。

 その患部に、伯の手が触れた。

「あっ」

「いたい、、、?」

「ハク、、、」

 氷のように冷やりとした手が、足首を冷やす。

 そっと肩に触れた。

「ありがと。だいぶ楽よ」

「、、、、、」

 薄い肩だった。

 華奢な体躯などを見れば、年頃同じ山育ちの子供の方が、発育が良い程だ。

― まだ、幼い神霊だろうに、優しい子、、、 ―

 見るからに異形の姿であるのに、その立ち振る舞いには、どこか人間臭さが伺えた。

 初めて出会った際に纏っていた、この上等な水干といい、この性格。

 人の世で何不自由無く、暮らしていたのかもしれないと、ルゥシャは思っていたのだが、

― 黒鈷も不思議がっていたけれど、いったいどうして蛍ヶほたるがぶちに、、、 ―

 傍らでそっと患部を冷やす伯の耳に、邪魔そうに垂れる髪を、かけてやる。

「?」

 その耳を押さえ、首を傾げる伯に、

「ここにおいで」

 ルゥシャが、膝を叩く。

「、、、、、」

「ほら、恥ずかしがる事ないじゃないか」

「、、、、、」

 ちょこんとその膝に、背を向けるようにして座ると、

「やわらかい髪ね」

 少し癖のある、群青色の髪。

 良く櫛が入れられていたのか、すんなりとルゥシャの手の中でまとまってゆく。

 自らの髪を束ねていた、紅や橙、桃色の着物の端切れを縫い合わせ、捻って編んだ髪紐を解くとその背に、長い緋色の髪が広がった。

「ちょっと女の子みたいかな」

 後頭部に前髪を集め、蝶々結びで束ねてやった。

「、、、、、」

 結び目におずおずと触れていた伯はややあって、こくりと頷いた。

 それでも解こうとはせず、じっとしながら、腫れた足首を見つめている。

 その肌が、泡立つ。

 刹那、

「!!」

 張り詰める空気に、伯が振り向いた。

 木立の中。

 逆光を背に、男が立っていた。

「まさか、あなたとこんなところで、、、」

 静かな声音が、響く。

「忘れたままで、いたかった、、、」 

 どこか、懐かしさを滲ませた声音と、それに似つかぬ風体。

 手には、小刀が抜き身のまま提げられていた。

 それがルゥシャと伯の視線の先で、武骨な大太刀へ変化する。

「あなたは、、、?」

「無理も無い。私は、あなたの前を通り過ぎる客の一人に過ぎなかった、、、」

「客、、、」

 ルゥシャの顔が、青ざめてゆくのを見つめながら、男は陽の光から逃れるように、足を踏み出した。

 伏せ目がちの漆黒の眸が、瞳孔細い銀灰ぎんかいを宿す。

 黒髪は、長く、腰をゆうに超す砂色へ。

 銀毛で拭かれた大きな耳と、銀糸の太い尾。

 浅葱の狩衣をその身に纏う、痩躯の優男。

「ウロウッ」

 いつにも増して、敵意をあらわにする、伯。

「、、、、、」

 しかし、その眸は、ただ一人を映すのみ。

「ルッ、、、」

 ルゥシャが、気負う伯を抱き寄せた。

「あたしを、、、裁きに来たの?」

 眼前に、迫っていた足が、止まった。

「いえ、、、私は、もう探花使たんかしではありませんから、、、」

 胡露が、静かに言った。

「私が地に堕ちた事で、この一件は片が付きました。ただ一言で言えば、怨恨、でしょうか、、、?」

「怨恨、、、」

「ええ、、、」

 胡露は眼を細め、

「ただ一度、見かけたあなたに興味が湧いた」

 微笑んだ。

「っ」

 ルゥシャの背筋に冷たいものが、流れた。

 優美な物腰が齎す怜悧な眼差しが、そうさせるのだ。

「結果的に私は、それで道を外れましたが、、、」

「そう、、、あなたが、、、」

 その人が誰であるのか、ようやく理解したのか、

「ハク、、、」

 ルゥシャが、背に庇うようにして立つ伯の耳に、唇を寄せた。

「いいの。大丈夫よ」

「ルゥシャ、、、」

 訳が分からず、立ち上がるルウシャを見上げた。

「人知れず朽ちるのなら、構わない。でも、、、」

 辺りの木々が、ざわつき始めた。

 どこからとも無く漂う薄霧の中、茫洋と白い輪郭だけの存在が集まってくる。

「“彷徨う者”に、何ができると、、、」

 太刀の柄を握り返した胡露の、無造作の一振り。

 ォォオオ・オオン…

 霧が、割れる。

 その一帯に居た“彷徨う者”達の姿は、掻き消え、霧の壁はそこだけ霧散していた。

「あたしは、誰の手にも掛からない」

「ッ」 

 霧と共に、ルゥシャと伯に群がる“彷徨う者”達。

「ぁあッ」

 視界を覆い尽くす白い霧に、伯が目を閉じる。

「逃がすか、、、」 

 太刀の一閃が、二人諸共斬り捨てるべく、鈍い輝きを送った。

 しかし、

「くッ、、、」

 空を斬る感触だけが、手応え。

 四方に散る、白い霧。

 くん、と鼻を鳴らす。

 かつて、探花使長として地上を駆けた記憶は、そう遠く無い。

 それなのに、

「、、、、、」

 二人の足取りは、生きるものが等しく残すその匂いと共に、霧に掻き消されたのか、掴めない。

 

 風が、頬を湿らせる。

 いったい、何が起こったのか?

「ッ」

 ルゥシャの着物を握ったまま離さない手が、その先にあった温もりが失われていると気付き、伯はようやく目を開けた。

「る、、、」

 その体は、透けていた。

 否、

『だいじょうぶよ。ぼうや、、、』 

 押し包むようにして囲む、“彷徨う者”達と同質と化していた。

 そして二人を乗せた薄霧の塊が、木立を縫うように渡っているのだ。

「ルゥシャっ」

 その頬に手を伸ばし、

「!?」

 伯は、手を引いた。

 確かにそこに居るのに、その体は透け、陽炎のように揺れている。

 その姿を前にして、菫色の眸になんとも言えぬ感情が滲み、

「るぅ、、、」

 ルゥシャの身に起きた事態を理解したのか、着物を掴むとその胸に額を押し付け、伯は声にならぬ苦鳴を上げた。

『遅かれ早かれ、あたしはこうなるべきだったの、、、』

 探花使の鼻を欺けるのは、森の、この山の力添えなくしては、成し得ない。

 そしてそれは、この森である山との契約の行使を、意味していた。

『ハク、、、』

 その両頬を、温もりを失ったルゥシャの手が、包む。

 深い紫紺しこんへと沈む眸を、半透明の眼窩が見据えた。

『あの人を、知ってるのね?』

「、、、、、」

 視線を逸らそうとする伯の頬を捉え、

『なら、あの人を恨まないで』

 そう、言い聞かせる。

「どう、して、、、」

 困惑して眉を寄せる伯を、

『あたしはあの人のお陰で、黒鈷に出会えた』

 ルゥシャは、穏やかな微笑みを浮かべたまま、見つめている。

『黒鈷が手伝ってくれなかったら、あたしは今でも、あの小屋の片隅に居たのかもしれない。そうしたらもちろん、あの子達とも出会わなかった、、、』

 汚臭漂う劣悪な環境の中、格子越しの空を、その名も知らずに眺めていた。

 ぎの獣達と肩を並べ、物珍しいと髪を抜かれた。

 八つの頃、客を傷つけるからと爪を剥がれ、好き者の客のためだと歯を引き抜かれそうになって、無我夢中で暴れた。

 細く、骨ばった親指が運悪く世話係の目を抉り、仰け反ったところを取り落とした鋏でもって殴りつけて…

 板戸を破って現れた黒い獣が『逃げろ』と吼えて、我に返った。

 どこへとも知れずに逃げ込んだ、深い森。

 それから、黒鈷に導きによって森のことわりに触れ、探花使見習いであった彼の口から、花精を知った。

『山は、新たな眷族を欲する時がある。動物や植物、稀に人はその呼び声に応じ、森の一部となるの。“彷徨う者”《これら》は、山そのものでもあり、それに従う、、、いいや、山そのものとなった個々の、想いの形に近いのかもしれない、、、』

 命を紡ぐための恵み育み、与え、時として、死の淵へといざないもする。

 その姿こそ、万物を包み込む大いなる流れ、ありのままの姿。

『あたしは、ずっとばれていた。いつかこうなる日の事を、山は心配してくれていたのかもね、、、』

 森の中にいる時、焼け付くようなあの惨劇の出来事すら、どこか遠くに感じた。

 全てを、包み込まる感覚に身を委ね、苔むした大地の上で眠る時、あまりの陶酔感にかえって怖くなっては、黒鈷の姿を探した事もあった。

『あたしがこの地に根を張る事を、この山のこの森は歓迎している、、、』

 群青色の髪を梳きながら、ルゥシャは今、山の中から全てを視ていた。

 子育てに追われる、熊鷹の番い。

 草を食む野兎の親子。

 深い谷の底で、ひっそりと息絶える老いた鹿の、最後の吐息。

 それだけではない。

 羽化して羽を乾かす蝶や、翡翠かわせみに咥えられた、はや

 光が差し込まぬ草木の中で、萎れ項垂れる鬼百合や、風雨に耐えかね折れた樫の木に顔を出した、新たな息吹。

 山里に近い辺りでは、山菜採りの帰りの老夫婦の話し声や、蜻蛉を取ってはしゃぐ子供らの笑い声。

 太刀を片手に樹海を探り歩む、胡露の姿まで、今は手に取るように視えているのだ。

― これが、山に融け、森に成ると言う事、、、 ―

 それは痺れるような、歓喜の連続でもあった。

 見るもの全てが、新しく感じる。

 全てが、美しく、愛おしく、感じる。

― 嗚呼、あたしの子供達、、、 ―

 そして何より大切な、黒い獣に導かれて前方の山を見下ろす高台を下る子供達の姿が、視えた。

 

 手に木の枝を持った者。

 背に自分より幼い子をおぶった者。 

 ぐずりながらも手を繋ぎ、歩を進める者。

 急勾配に慣れた子供達にとっては、険しい山道もさして苦では無い様子。 

 黒狼を先頭に、見知った道を、行く。

 毎月、ルゥシャに連れられるまま、山を転々とするのを常とした子供達だ。

 疲れた様子など、無い。

 子供達の様子に眼を光らせ、次の山へと渡る道を選び導く、黒鈷。

 雨の匂いを嗅ぎ取れば、雨宿りできる洞が多くある道を通り、逆に陽射しが厳しければ、緑の深い道を選んだ。

 二日もあれば、西の山に入るだろう。

「、、、、、」

 風上から嗅ぎ慣れた子供の匂いが、近づいてくる。

 足を止めた、黒鈷。

― まゆも、、、 ―

 草叢に見え隠れしながら駆けてくる、童。

「おーいっ、ルゥシャが大変なんだッ」

 その声を、聞いた。

「足を捻挫して、動けないんだよっ」

 手を振りながら、茂みを渡るまゆも。

 しかし感じ取ったのは、

― いや、違う ―

 森を渡る風の異変だ。

― 森が、ざわついている、、、 ―

 木立の奥へ、眼を凝らした。

 白いものが、見えた。

― 何か、来るッ ―

 急いで子供達の前に出たところで、

「ッ」

 黒鈷は、その正体に気がついてしまった。

 それは“彷徨う者”でありながら、よく見知った者。

 霧から姿を現した伯の手を引いた、その人を。

『黒鈷』

 その声がわんわんと、頭の中で木霊する。

 波長を同調させ、想いを送っているのだ。

 白い霧の固まりは、一行の元で四散すると、

「ハク?!何処から来たの?!

「あ、ねぇ今、ルゥシャの声がしたッ」

「ルゥシャ、どこ?!」

 “彷徨う者”の姿が見えぬ幾人かの子供達の中。

「ルゥシャ、、、」

 まゆもは、黒鈷の首を抱きしめたその姿を、呆然と見つめていた。

 やがて、その体が大地へと吸い込まれると、橙の花が揺れた。

 金魚草。

「、、、、、」

 その葉に黒鈷が、項垂れ額を寄せる。

「黒鈷、、、」

 一番年長の少年が、黒鈷の傍らへ。

「えるむ」

 その少年の名を、黒狼が呼んだ。

「うん、、、」

 えるむが、静かに応じた。

 ルゥシャは、この一番年長のえるむだけにはすべてを語り、そして子供達のこれからを、託していたのかもしれない。

 動揺を隠せない子供達の中に在って、えるむは、ひどく落ち着いて見えた。

「先に行っていろ」

 低い、その声音。

「こっこが、、、喋ってる」

「こっこ、、、」

 驚く子供達の前から、その姿が駆け出してゆく。

「どうしてこっこが喋るの?」

「こっこ、犬だよね?」

 混乱している子供達を他所に、遠ざかる黒鈷。

「おいっ」

 その尋常とは思えない様子に、咄嗟にまゆもは、

「黒鈷っ、オレたち、大岩で待ってるからなッ」

 声の限り、叫んだのだった。

 

『きっと、誰が悪いわけでもないのよ』

 胡露から黒鈷を守るためとは言え、行方を晦ませるために山へ還ったその人が残した、言葉。

― 悪いがお前の願い、俺は納得できねぇ ―

 シダが生い茂る原を駆け抜け、澤を越えた。

 鹿の群を横切り、暮らし慣れた庵のその辺り。

 その鼻が、捉える。

 

 風上から微かに残された、匂いがする。

 それを辿り、水の音に大滝を見た。

 そして、

「久しぶりだな、黒鈷」

 庵の前。

胡露大人うろうターレン、、、」

 黒鈷は、その人と対峙した。

「お前に初めて与えた任務で、よもや地に堕ちるとは思わなかった、、、」

 低い、その声音。

「見捨てるべきだってのは、分かってた。俺はただの見張りであって、経過を報告すれば、それで、、、」

 今も昔も変わらぬ、怜悧な眼差し。

「だが、どうしても赦せなかった。あんただって、あの場に居合わせたらきっとっ、、、」

「、、、、、」

 その眼差しを受け止めれば、黒鈷は言葉を失い、項垂れた。

 探花使長。

 一株も残す事無く地上に発生した花精を刈り取り、天界の神々へと引き渡す事を生業にしていたこの男を前にすれば、探花使に名を連ねた事のある者達の覇気は、黒鈷のように一様に霧散しまう。

 体に染み付いた絶対という掟が、そうさせるのだ。

 不甲斐ないかつての眷族に、

「所詮お前は、人に飼われていたイヌだ。お前が仕えているそれは、今も昔も、情だ、、、」

 風を斬って、太刀が振られた。

 大気が、張り詰めた。

「くっ、、、」

 口の端を噛み切ったのか、血が、ぽたりと大地に滴った。

― ルゥシャ、、、 ―

 じり…

 今までに感じたことのない殺気に、後脚が、大地を掴み、 

「爪も牙も誇りすら失って、人のなりにて鉄の爪を振るう今のあんたになんぞ、言われたくないな」

 黒鈷が、身構える。

 息を吐き、右肩を前に出した。

 皺を寄せ、牙を剥いたその鼻先に、

「こんなところに蒲なんぞ、ありはしまい」

 甘い芳香が吹き込み、辺りを包み込む。

 澄んだ女の声音は、頭上でした。

 どこか蟲魅的すらある笑みを浮かべ現われたのは、

「地仙、何故、、、」

 虹色の羽衣を腕に通し、漆黒の戦袍を纏った侍女二人を従えた、天狐遙弦であった。

「その大太刀はなきりばさみは、私がくれてやったものだと忘れたか?その封を切れば、私の知るところとなるさ」 

 腰に手を当てて、

「しかし、随分と勝手なことをしているじゃないかぇ。初めてお前が地に這った時の土の味、今すぐ思い出させてやろうか?」

 大地に舞い降りる遙絃を、その銀灰の一瞥で迎えた。

「こればかりは、お目を瞑っては頂けないでしょうか?」

 太刀を離さぬ、胡露。

「人を手に掛け、あまつさえ、我が一門に泥を塗った。この者のせいで負った眷族が雪辱、長であった私がそそぐのが、道理、、、」

 静かなその声音に滲む、ふつふつとした憤り。

 身構えたままの黒鈷も応じ、鋭い牙を剥いた。

「そうか、、、」

 さもつまらなそうな様子で、頭の後ろを掻きながら、胡露が太刀の柄に力を込めるのを、見つめている。

「では、好きにしろ」

 その声が、合図だったのか。

「おぉおッ」

 太刀の柄を右腿に引きつけた胡露の咆哮。

 その覇気を受け、全身の毛を逆立てた黒鈷が鉤爪、大地を抉る。

 風を切って奔る閃光を、身を伏せて避け、

「ギガガア゛ッ」

 牙を剥き、刃を反す胡露に向かい、飛び掛る。

「がッ」

 黒鈷の眼前。

 鼻面を押さえるようにして広げられたのは、手。

 仰け反った黒鈷の腹には、二の腕と膝が、押し付けられていた。

 一方、

「あぐッ、、、」

 胡露の端正な口元からは、紅い飛沫。

「お前が言ったんだ、、、」

 声は、顎の下で聞こえた。

 胡露の脇腹を抜けて背に、琥珀色に染められた爪もたおやかな手が、生えていた。

「例え同門であっても、負った雪辱はその長が雪ぐべきものだとな、、、」

 刹那の内に、二人の間に割って入った、遙絃。

 その痩躯が、左手で肉を裂き、右腕と膝だけで獣の巨躯を抑え込んでしまったと言うのか?

「遙絃、、、」

 鈍い音を立てて太刀が大地に落ちると、遙絃は素早く手を引き抜き、後方に跳躍。

 紅い鮮血が噴出し、みるみる大地に血溜まりを作った。

 よろめきながら、大地に崩れ込む、胡露。

 侍女達が持つ絹布に、体液で濡れそぼつ腕を拭かせながら、

「黒鈷と言ったな」

「あ、、ああ、、、」

「拾ったとはいえ、今は我が眷族に相違ない。二度と、そなたらに関わらぬよう思い知らせる故、どうかこの件、我に預けてはくれまいか?」

「、、、、、」

 黒鈷の眼差しが、彷徨った。

 赤黒い染みが広がる大地に、かつての主。

「そう簡単じゃ、、、ないんだ、、、」 

 搾り出すような、

「なんで、、、」

 声音。

「なんで、ルゥシャは森に同化しなきゃいけねぇんだッ」

 子供達を残して行ってしまったその無念さを思うと、どうしても納得がいかなかった。

 今一度飛び掛ろうと、身を低くしたその鼻先に、

「そうか、、、」

「!?」

 投げ落とされたものが、ある。

 銀灰の、眼球。

 左半顔を押さえ、砂色の髪を乱して仰け反った胡露の傍らで、

「無論、当方に異存はない。気が済むまで、つき合わせて貰うぞ」

 艶然と微笑む、天狐。

「なぁ、胡露。心の臓を握りつぶす前に、指を裂いてやろうか?」

「よぅ、げ、、、」

「座興だ。どうせなら、キレイな声で鳴いてみせてくれよ、、」 

 冷や汗が噴き出し、滴る細い顎先を、琥珀色の爪が喉仏まで辿った。

 その仕草に、

「やめてくれッ」

 ぶるぶると黒鈷の前脚が、震えた。

「うん、、、?」

 自分で何を言いたいのかも分からないのに、

「もういいっ、もう、、、」

 そう、叫んでいた。

「やめて、くれ、、、」

 頭が、割れるように痛かった。

 ここ数十年、この男の影に怯え、隠れて暮らして来たと言うのに、

― 俺はなんて情けねぇんだッ ―

 この男が、地を駆けるだけの己を眷族として迎えてくれた主である事を、今でも恩に着ている。

 そんな自分が、頭の中に居る。

 黒鈷は、喉の奥で苦鳴を上げた。

 やがて、

「天狐の神様」

 搾り出すような、声だった。

「なんだぇ、、、?」

「あんたに、預ける」

 遙絃に、言った。

「最初に裏切ったのは、俺の方だ。俺みたいなのにも、地仙になれるのだと、眼を掛けてくれたのは、胡露大人だけだったのに」

「、、、、、」

「俺は、そんな大人ターレンからも、逃げた。こんな俺が、あんたに頼んで大人ターレンの命まで奪う事になったら、、、」

 黒鈷の眸は、 

「俺は、、、ガキだったルゥシャを痛めつけた奴ら以下、だ、、、」

 抉りだされた胡露の眼球を、見つめていた。

「今後は、我が眷族に勝手な事はさせぬよう、目を光らせる、、、」

 すまなかった、そう口にした天狐遙絃に、黒鈷は無言で背を向けた。

 黒狼が木立へと姿を消すのを、遙絃の炯々と光る碧玉の双眸が、見送っている。


「おい、蒼奘」

 寄せられた怪異に関する嘆願書の写しを、受け取りに訪れた都守を、気安く呼ぶ者がいる。

「今日辺りどうだ?」

 見れば、若い衛士らの中から抜け出してくる、大男。

「燕倪」

「快気祝いに銀仁も呼んで、皆で屋敷でいっぱいやろうと言ってたんだ。あの衛士の嫁の実家が漁師でな。釣った若鮎を分けてもらう事にしたんだ」

「骨も繋がらぬ内にか?気の早い快気祝いだな、、、」

「酒が呑める口実さえあれば、そんなことどうでもいいんだよ。なぁ、お前も来るだろ?伯も連れて来いよ」

 その鈍色の眼差しから逃れるように、蒼奘は歩き出した。

「おいっ」

「今夜は程々にしておけよ。嵐が来るぞ、、、」

 相変わらずな背中を見送る燕倪の元に、

「備堂様」

「やっぱりいらっしゃらないか。残念だなぁ」

「ああ。都守とお近づきになれると思ったのに、、、」

 集まる、若い衛士達。

 口々に、好きなことを言っている若者の声など耳に入らないのか、

「嵐?こんないい天気なのに、何言ってるんだか、あいつ、、、」

 顰め面で雲一つ無い青空を、見上げている。

 

 牛車の前で待つ琲瑠が、主のために無言で簾を上げた。

 乗り込む途中、

「琲瑠」

 鬱々とした、低い声音が掛かった。

 肩を揺らした琲瑠の視線の先。

 薄暗い車内に腰を下ろした、白い浄衣の背。

鋼雨こううに鞍をつけておけ」

「あ、、、」

「長雨が続けば、狭い厩舎だ。辛かろう、、、」

 琲瑠は、震える手で簾を降ろすと、

「畏まりました」

 静かに、それに応じたのだった。


「馬鹿なヤツだよ、お前は、、、」

 腹を押さえ、半身を血で染めたままの男に、女は笑いながら言った。

「地仙こそお変わりなく、見事なお手並みで、、、」

 凄惨極まりない姿ながら、

「ついでにその舌も、引き抜いてやろうか?」

貴女あなたが、お望みならば、、、」

 いつもと変わらぬ微笑み湛えた薄い唇で、男は返した。

 その態度に呆れた様子で、

「しかし、私に刃向かうと知って、どうしてこんなことを、、、」

 椎の古木の根に背を預けた胡露。

 その傍らに転がっている、武骨な大太刀を見つめた。

 柳腰に手を当て、首を傾げる女を前に、

「さて、、、」

 口調とは裏腹に、銀毛で葺かせた耳は申し訳なさそうに折れていた。

「探花使であろうと、この帝都における一帯は我が負うた地。その花、徒花と言えども勝手に手折る事、さらう事赦さぬ。ここが彼の地と違うのだと、お前も知っておろうに、、、」

 その言葉を受け、少しの間血塗れた太刀を眺めると、

「それに甘んじて、のうのうと生きる自分を、追いつめたかったのかもしれません、、、」

 溜息と共に、吐き出した。

「貴女に拾われ、すべてを忘れ、やり直そうとしていたのですが、、、」

 その人を見上げて、男は笑った。

「結局の所の私は、何も変わっていなかったようです」

 どこか晴れやかなその笑顔に、女もつられて笑った。

「この体たらくじゃ、私の伴侶は務まらないぇ」

 止めを刺すのならと、近づいた二人の侍女を手で制し、

「まったく、焼かせるじゃないか。この私に世話を、ね、、、」

 投げ出されたままの血塗れた右手を取り、そのまま頬に押し当てた。

「いけません、遙絃、、、」

 手を引こうとするが、女の手がそれを許さなかった。

「いや、むしろ大馬鹿なのは、私の方か、、、」

 くつくつと喉をならすと天狐遙絃は、胡露に自らの肩を、貸したのだった。

 

 見上げる程に高く、居並ぶ千年杉。

 生い茂る葉によって空は覆われ、辺りは薄暗く、大地は張り出した根によってでこぼことしている。

 そこに、山の頂の辺りから剥がれ落ちたのか、黒茶けた巨岩が二つ、折り重なるようにして苔むしていた。

 すすり泣きが洩れている。

 子供達が、身を寄せ合うようにして、張り出した根の一つに腰を下ろしていた。

 陽が、傾きだしていた。

「ルゥシャ、どうしたのかな」 

 ぽつりと、誰かが言った。

「黒鈷も、、、」

 小さく声を上げたのは、えるむの背から離れない齢二つ三つの、女童。

「、、、、、」

 えるむは、無言だった。

 それどころか、いつもは真っ先に辺りの散策に出かけるまゆもまでもが、えるむの傍らで黙りこくっている。

 伯は、一向から少し離れた所で、杉の幹に背を預けていた。

 そこへ、駆け込んできた黒いものがある。 

「揃いも揃って、辛気くせぇ顔しやがって」

「黒鈷ッ」

 それは、からりとした口調であった。

 口に銜えた柿色の包みを、えるむの足元に置くと、

「さ、行くぞ」

 多くを語らず、顎で促した。

 その黒狼に、

「わっ、てめっ、何すんだッ」

「こっこぉッ」

「うわわぁぁんっ」

 子供達が群がった。

「むぅ、、、」

 もみくちゃにされながら耳を折り、目を細めて呻く、黒鈷。

 己が喋る事を知った子供達が、怯えていたら、、、?

 黒鈷は何よりそれが、怖かった。

「みんな、心配してたんだ。黒鈷まで、どっかに行っちゃうんじゃないかって、、、」

 少し安心した表情を見せた、えるむ。

「黒鈷」

 まゆもの、もの言いたげな眼差し。

 すべてを視ていたその眸に、嘘はつけなかった。

「一度しか言わないから、お前ら良く聞けよ。ルゥシャはな、森に還ったんだ」

「帰った?」

「どうして一人で?!」

 今にもまた泣き出しそうな顔が、見上げてくる。

「ルゥシャはな、森の精だ」

「え、、、」

「森の、、、?」

 目を丸くする、子供達。

「大体俺が喋るんだ、何も不思議はねぇだろ?」

 その問いに、一様にこくりと頷いた。

「今は、この森のすべてに、ルゥシャがいる。ここいらの草木にも、な」

「見えないよぉっ」

 女童を宥めるように、頭をその肘に擦りつけながら、

「いずれ、視えるようになるさ。えるむとまゆもが、良い例だ」

「えっ」

「視えただろ?ルゥシャを」

 片目を瞑った黒狼に、二人は顔を見合わせる。

「ルゥシャ、いた!?」

「ちゃんと見えた!?」

 子供達に押されて、

「ああ」

「うん」

 頷いた。

「あたしにも、ちゃんと見えるようになる?!」

「ああ、きっと」

「今もちゃんといる?」

 その問いに、黒鈷は辺りを見回して、

「ああ、今もそこに、、、」

 頷いた。

 えるむとまゆもは黒鈷の視線の先に、遠巻きに茫洋と佇む“彷徨う者”の姿を見た。

 陽炎のようにゆらゆらと、一行が向かう先へと消えてゆく。

「行こう。暗くなれば、ルゥシャが心配する」

 えるもが子供達を立たせると、

「うん、行こう」

 まゆもも立ち上がった。

「少し急ぐからな。疲れたやつは、俺の背に乗るといい」

「大丈夫ッ」

「だって、ルゥシャが見てるんでしょ?!」

 黒狼の前を、それまでえるむにおぶわれていた子供達が、袖で眼元を拭い拭い、歩き始める。

 その背中を見て、

― この子らは皆、お前に似て気丈だな、、、 - 

 黒鈷はそう思った。 

「ん?」

 それに続こうとした黒鈷が、ふわりと巻いた潮風に、振リ返る。

 茂みの向こう。

「ハク、、、」

 薄闇の中に、白い水干の袖が、ひらりと、みえたきりだった。


 宵闇に包まれた時分。

 東の山稜に掛かった重たげな、雲。

 往来を家路を急ぐ人々も、いつ降るか分からぬ雨の気配に笠を目深に被り、または傘を引き付けている。

 旅人や商人は、纏った蓑の前を合わせ、空を見上げては一様に恨めし顔だ。

 湿気を含んだ生暖かい風が、往来を抜けて開け放たれた門より吹き込む中、

「、、、、、」

 うっそりと空を仰ぎ見ている者が、居る。

 風になぶられ、肩に遊ぶ白い髪。

 白い狩衣を纏った蒼奘、その人である。

 門前に焚かれるはずの篝火が今日は消え、茫洋と浮かぶ白い姿も、この日ばかりは宵闇の中に沈んで見えた。 

 表情を浮かべぬその人の視界に、往来を横切る細い影が、過ぎった。

 そのまま足元へ、闇色の視線を落せば、

「お前、、、」

 ちょこなんと、座っているものがいる。

 口に、鬼灯の枝をくわえた、狐。

 闇の中でも炯々と良く光る、琥珀色したつぶらな瞳が、見上げていた。

 膝を折り、その枝を受け取る蒼奘の耳に、馬の蹄の音が近づく。

「主様、、、」

 漆黒うるしぐろの堂々たる肥馬、鋼雨こうう

 青乳色した鬣を振り乱し、落ち着き無く首を振るのを、轡を取った琲瑠が宥めている。

 その背に乗ると、傘を手にした汪果が、提灯を差し出した。

「灯りは、いい、、、」

 鞍へ、傘だけ琲瑠に結ばせると、

「待たせたな、、、」

 いつまでもそこを動かぬ狐に言った。

 差し向けた、鬼灯の枝。

 心得たもので、野狐は高く飛び跳ねると、青い燐光となってその鬼灯に宿った。

 一度、鋼雨の手綱を引き絞った蒼奘は、並んで佇む汪果と琲瑠に一瞥与え、

「後は任せた、、、」

 銀の馬蹄を響かせて、往来へと消えていった。

 その姿を見送り、遠ざかる蹄の音を聞きながら、傍らで俯く琲瑠へ、

「一日一日と過ぎる度、眉間の皺が深くなっていた事、わたくしが気付かぬ訳ないでしょうに、、、」

 少し呆れたような、汪果の呟き。

「、、、、、」

 傍らの琲瑠が沈黙しているのを尻目に、 

「いけませんわ、殿方の痩せ我慢。それも二人して」

「はぁ、すいませぬ、、、」

 さすがに今回ばかりはこたえたのか、傍らで琲瑠が項垂れた。

 肩を落したまま、

「すべては、私の不徳の致すところ、、、」

 世話役を名乗っているのに、この有様。

 主君である伯が抱えた不安にも気付かず、使役主である蒼奘のやり方に対しても、つい感情のまま口調を荒立ててしまったあるまじき失態が、どうやらそうさせるようで…

 平素、くるくると気を回す事に長けるこの若者にしては、珍しい事でもあった。

「私がつまらぬ意地など張らず、主様に頼んでいればこんな事には、、、」

「頼んでいても、同じこと、、、」

「え、、、?」

 汪果は、けろりと言いのけた。

「やはり、これで良かったのではないのかしら。だって、離れてみなくては、気付かぬ想いもあるでしょう?」

「そう言うものでしょうか、、、」

 眉を寄せ、首を傾げる若者に、

「たまには突き放して、ありがたみってやつを分からせてやらなくては」

 汪果は背を向けた。

 踵を返した汪果の後を、琲瑠は不思議な表情を浮かべて追いかけた。

 当初は、幼神である伯の一切を琲瑠に任せていた、汪果。

 それは絶対的な畏れと敬いから、端を発していたのに…

「わたくしは膳を整えますから、琲瑠は燈明の仕度を。それから湯船に水を張って、薪を運んでおくように」

「あ、はい、、、」

「若君がお好きなお酒も。そうそう、庭に、からまつはもう咲いていたかしら?」

「ええ。先日、西の庭に、、、」

「氷雨に、お体を冷やしてはいけないから、からまつと一緒におささをお召しになれるよう、摘んでこないと、、、」

 あれやこれやと指を折り、母屋を炊事場の方へと向かう汪果。

 その背が廊下の向こうに消えてから、ひとりぽつりと残った琲瑠は、ぺこりと頭を下げたのだった。

   

 嵐が、近い。

 上空では風が巻き、雨の匂いが漂い始める。

 黒々と湧く、雨雲。

 遠くから渡ってくる、稲妻の気配。

 身を小さくする事しか、今はできない。  

「、、、、、」

 伯は、膝に顔を埋めた。

 古木に開いた洞の中。

 小さな体が、より小さく見える。

 胸に渦巻く、痛み。

 蟠る、熱。

 鎮めようとじっとしているのに、それは勢いを増して燃え盛る炎ように、胸中を焦がす。

 最近、人の世に在って、それが多くなってきた。

 きっと、その人の側にいるせいだ。

 山を越え、海を渡ったその先へ。

 そこではきっと、こんな想いをしないで済むはず。

 漠然とそう思ってたのに…

 この分ではどうやらそれは、違ったようだ。

 頭上。

 空を覆えとばかりに生い茂る木々の葉を、穿ちながら渡る雨音が、近づいてくる。

 やがて、この身にも等しく降り注ぐことだろう。

 肌寒い風が、辺りに漂い始めた。

 目を瞑っていても、雨雲を渡る稲妻の閃光が瞼を弄うのが分かる。

「ぅ、、、」

 膝に目頭を押し付けて、耳の横に回した腕を絞めた。

 煩わしい、稲妻の声。

 犬歯の辺りが、憤りにむずむずとする。

「うう、、、」

 苛立たしげに牙を剥き、憤り紛れに声の限り叫んでやろうと顔を上げ、、、

「っ」 

 息を呑んだ。

 雨は、とっくに辺りを包んでいた。

 その中に、傘を差した長身の男が、一人。

「、、、、、」

 手には、青い燐光を放つ、野狐提灯やこちょうちん

 野狐が宿った大振の鬼灯が二つ三つ、その姿を見つけて喜ぶのか、猫のような声を上げて、ゆらゆらとした。 

 白い狩絹の袖が、揺れた。

 左手から、はらりと取り落とされる、野狐提灯。

 大地に当たって、燐光が舞い上がる。

 現れたのは、若い狐。

 鬼火を纏って雨の中、再会を喜んでか、伯の回りを飛んだり跳ねたりしながら、

 キュ…

 その足に太い尾を巻きつけたのだった。

 目の前。

「ぁ、、、」

 その左手が、

「伯」

 差し出された。

「ソウ、、、」

 伯は、手を胸の前に上げたきり、その人の手を取れずにいた。

 目を逸らせ、うつむく。

「、、、、、」

 その手を、男の繊手が、取った。

 小さな手を包み込むようにして握ると、蒼奘は何も言わずに歩き出した。

「、、、、、」

 手を引かれ、ようやく広いその背中を見上げた。

 その先に、雨に濡れたその人が、いた。

 後ろを歩く伯の頭上に傘が来るよう、雨に打たれぬように。

 キュクルル… 

 伯の顔を覗き込んでいた野狐は、小首を傾げた。

 ククルル…

 立ち止まると、野狐は転々とぬかるむ大地の上にて光る輝きに、鼻先を近づけた。

「う、、、」

 はらはらと溢れて零れる、涙石。

 それを拭い拭い、

「ぃた、い、、、」

 こみ上げる嗚咽に、喉が圧迫されている。

 胸が軋んで悲鳴を上げ、それをこらえる事に必死になって、顔を上げる事が、できなかった。

 溢れ出すこの痛みは、だから何だというのだ?

 もどかしくも甘美な、この痛みを、なんと呼ぶ?

「うぁああぁぁあ―――ッ」

 叫ぶ。

 大地に、空に、雨に。

 耐える事もなく、吐き出そう。 

 今は、その人の手の温もりだけが、道標。 

「ああ、、、」

 肩に遊ぶ、白い髪の先。

 それに伝う雨粒に、

「今日は、久々によく降りそうだ、、、」

 目を細め、家路を急いでいた足の運びを、緩めた。

 その涙の跡を、感情が齎す痛みを、この雨が甘く包み込んでくれる事を、望んでいたのかもしれない。

 

 草をんでいた鋼雨こううが、顔を上げた。

 激しく枝を揺らすのは、大粒の雨。

 けれど、その一帯は空を覆う葉が、まるで天蓋。

 雫は砕け、小さくなった。

 その雨粒は木々の幹を伝い、あるいは、葉の先からぽたぽたと滴り、大地へ還る。

 森は、降り注ぐ雨を、ただ優しく受け入れる。

 ググル…

 鋼雨は、童の手を引いて現れた、主人の元へ。 

 その手が手綱を取り、労うかのように首筋を叩けば、鋼雨はゆっくりと歩き始めた。

 一先ず落ち着いたのか、しゃくりあげる童の背に長衣を掛け、

「、、、、、」

 解けかかっていた髪の蝶結びを、直してやった。

「うぅぅッ」

 何かを思い出したのか、声を上げて胸にしがみつく伯。

「、、、、、」

 その華奢な肩に掛けた長衣の前を合わせる、蒼奘。

 鋼雨は、緑深い森の闇がたゆとう、緩やかな斜面をゆっくりと下って行く。

 河鹿の声。

 雨の匂い。

 そして、遠ざかるひずめの音。

 この森を去る一行を、茫洋とした陽炎一つ。

 いつまでもひっそりと、見送っていた…


この季節、濃い翠の中で一際目を引くのか、金魚草の橙緋だいだいひ


正式名称は、桧扇水仙。


幼い頃、この花の名は、そのまま金魚草と教わった。だから、そのイメージで書いたのだが、実際にキンギョソウと言うのは、淡いオレンジだったり、イエローやピンクを呈した、見るからに渡来の花。画才皆無の俺には、挿絵は無理だから、せめて写真だけでも挿絵代わりになれば、と思っては、いる。




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