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第漆幕前 ― 女雛 ―

 先の傷を癒す中、伯の身に変異が起きた。自ら屋敷を後にした伯は、蛍ヶ淵にて童に出会い、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第七幕前編。。。

 風も無いのに揺れる橙、金魚草。

 冷やりとした、朝露を結ぶ薄霧が漂い、遠く犬の遠吠えが聞こえる時分。

 薄汚れた着物が肌蹴けるのもそのまま、童女が駆けていった。

 山裾に広がる桑畑を突っ切り、草叢を渡り、小川を飛び越え、走る。

 里山の、更に向こうの山懐へ。

 蛇這う樹海に、駆け込んだ。

 太く重厚な倒木の傍らまでくると、そのまま膝から崩れてしまう。

 荒い、吐息。

 焼け付く程に乾いた、喉。

 飲み込もうとした唾液さえ、出てこない。

 汗ばんで、肌に張り付く髪をそのままに、しつこく纏わりつく羽虫に気にも留めず、辺りを包む静謐に気付いた時、足が震えているとようやく知った。

 べたついていた手が、そのまま乾いている事に気がついた。

 擦っても、擦っても、消えないあけの、感触。

「あぁぁああああッ」

 咆哮じみたその叫びを、森の獣だけが、ひっそりと聞いている。                    


                      ※

 

 その日は、うだるような暑さであった。

 細い竹で組まれた格子に絡む太陽の申し子、空色の朝顔も、項垂れている。

「暑い、、、」

 諸肌脱ぎで、扇子で胸元に風を送るっているのが、坪庭から湧き出す泉に足を浸している、燕倪。

 その傍らで、瓶子を引き付け、月琴を爪弾いているのが、

「蒸すな、、、」

 鶸色に染められた絽の着物も涼しげな蒼奘、その人。

 こちらは対照的で、汗一つ浮かべず、陽の下に存ってもまるで秋月を愛でているかのように、涼しげだ。

「俺も入ろうかなぁ、、、」

 眼差しの先には、

「んぷー」

 群青の髪を水面に遊ばせ、泉に浸かる童の姿。

 水の中で揺れる水草の流れのように、その髪はその身に纏う薄衣と共にゆらゆらとして、象牙色の肌を滑ってゆく。

「なぁ、伯、俺も、、、」

「やっ」

 ぴしゃりと水が頬に、跳ねた。

「まだ何にも言ってないだろ」

 確かに、大人が浸かれぬこともなさそうだが、それではいささか窮屈そうだ。 

 湧き出す水底に顔を寄せて、いつまでも上がってこない伯はそのまま、燕倪は杯を持った。

「、、、、、」

 月琴の音が、止んだ。

 そのまま、傾けた瓶子から注がれる、酒。

 孔雀石を薄く削った杯の底に、金箔が揺れた。

「傷は、いいのか?」

 低く静かな声音に、

「おう。猪肉を喰って養生していればそんなもの」

 晒で、がちがちに固めた腹部を、叩いて見せた。

「銀仁か、、、」

 杯を当てた青い唇の端が、吊り上がる。

「ここにも来たのか?」

「ああ。精がつくからと赤蝮を持ってきてな。腹のものを、吐かせているところだ」

「蝮酒か。出来上がるのは、一月以上先になるなぁ」

 武骨な手が、瓶子の首を掴んだ。

 そのまま、差し出される杯に注ぎ、

「、、、、、」

「、、、、、」

 白い繊手が、その瓶子を受け取った。

 幾度となく酌み交わされてきた、杯。

 その都度育まれてきたこの静かな時間が、一番の肴なのかもしれない。

「お」

 軒下に吊られた黒金くろがねの風鈴が、澄んだ音を立て、青々とした蓮の葉とほんのりと花弁の先を桃色に染めた花は、つつましく揺れる。

 風が、出てきた。

 酒で上気した頬に当たって、得も言えぬ酔い心地に、燕倪が目尻を下げた時だった。

「茹で上がりましたよ」

 衣擦れの音をさせて現れたのは、盆を片手に提げた、琲瑠。

 その上の笊には、こんもりと塩茹でされた空豆が盛られていた。

「今年は雨も多くて、大振のものがたくさん摂れたんだ」

「屋敷の片隅を畑にしている武官は、お前くらいだろうな、、、」

「文句があるなら、喰うなよ」

 濃い眉を跳ね上げた友に、僅かに唇を吊り上げた。

「頂こう、、、」

 白い手が、ふっくらとした房を取った。

 産毛のような繊毛に抱かれた豆が、ふっくらとしてそれでいて艶やかに覗いた。

 口に入れれば、ほっこりとほぐれてゆく。

 そうして、再び杯を口に運ぶ。

「、、、、、」

 二人のその繰り返しを、蓮の葉の間から顔を覗かせた伯が、水に浸かったまま眺めている。

「ひぁあっ」

 不意に頭を、両手でもって押さえる。

「つぁッ、がふっ、、、ごふっ、、、」

 そのまま、爪を立てて掻き毟り始め、水の中に体が沈んだ。

「溺れてるぞ」

「、、、、、」

 燕倪に腕を掴んで引き上げられ、ごほごほとせながら、石段に這い上がる。

 蒼奘が膝を叩き、

「伯」

 名を、呼んだ。

 濡れるのも構わず、膝に入った伯の頭部を撫でやり、手を退けさせる。

 ぎゅっ、としがみつくのを好きにさせ、群青の髪を梳きながら覗き込んだ。

「、、、、、」

 闇色の眸を細めたその視線の先に、自然と燕倪の眼差しも注がれ、

「んあ?」

 髪の間に、突起が二つ。

 それも地肌とは明らかに異なる色。

 鮮やかな翡翠色をしていた。

「なんだ、これ?!」

つのだ」

 静かなその声音に、

「牙の次は、角?!」

 燕倪のすっとんきょうな声が重なった。

「お前はまた耳元で、、、」

 顔を顰め、左耳を押さえた、蒼奘。

「んやッ」

 その隙に突起を爪でつつこうものなら、伯の手が払う。

「痛いのか?」

 ぶるぶると、首を振る。

「かゅぃいっ」

「角付きは、大陸の神霊に多く見られるのだがな。よもや、お前の流れがあちら側とは思わなんだ、、、」

「むぃ」

 頬を抓むようにされれば、そのまま胸に顔を埋めてしまった。

「一体、どうなっていくんだ、伯は?」

「子供の成長と同じさ。潜む力を知れば、著しく変化する、、、」 

「ちょっと違うと思うぞ」

「何、似たようなものさ。汪果」

 着替えと布を持って来た汪果が、顔を上げた。

「軟膏を」

「はい。ただいま」

 汪果の代わりに蒼奘手ずから、華奢な体を布で包み込み、水分を吸わせていく。

「あのでっかいのが、本来の姿なんだ。そもそもこの体に封じておく事に、無理があるんじゃないのか?」

 顎先に手を置きながら、燕倪の低い声音。

「、、、、、」

 びくりと、布の中で伯が震えたのを、蒼奘だけが感じ取っていた。

 長く伸びた髪を、包み込むようにして拭いてやりながら、

「そうかもしれんな、、、」

 そう、一人ごちた。

 

 蒸し暑い、夜。

 人も獣も、すっかり寝静まり、静寂だけが漂っていた。

 吊った薄絹の向こうで、羽虫達だけが今か今かと獲物が近づくのを待っている。

「、、、、、」

 背を向けて掛布を掛けた男の傍ら。

 背中をくっつけるようにして丸くなっていた寝巻き姿の童が、

「、、、、、」

 そっと、起きだした。

 衣擦れの音をさせて、唐櫃に用意されていた水干を纏うと、その群青の髪を靡かせてふわりと舞い上がる。

 そのまま月明かりの下、庭先へと躍り出て、あっという間に塀の上。

「、、、、、」 

 ほんの一瞬、屋敷の内を振り返り、塀の向こうへと姿を消した。

 

 黒髪を長く垂らしたまま、琲瑠が素足のまま庭先に走り出す。

 微かに香る、潮の香り。

 辺りを見回して、塀の向こうへと視線をやった。

「若君、、、」

 ― わたしとした事が、うかつだった、、、 ―

 ぎり、と奥歯を噛んだその華奢な背に、

「行ったか、、、」

 突き出した軒庇の下に、腕組みのこの屋敷の主の姿。

「主様、、、」

「そのうち、戻ってくるだろう、、、」

「しかし、翡翠輪も掛けずに、、、」

「伯は、真名を知った。解放の名をな」

 鬱々とした声音が、夜気に滲む。

「海皇が眠る宮を見つけ、宙へ上がる竜脈の点を知り、冥府へ渡った、、、」

「ですが、、、」

 何を言いたいのかが分かったのか、珍しく食い下がる、琲瑠。

「あれはもう、子供ではない」

「お導きになられたのは他でもない、貴方様ではございませぬか」

 憤りを隠さぬ若者を、

「いずれは、気付いたはずだ。己の中にこそ、神意はあると、、、」

 闇色の切れ長な眸が、見据えた。

「果たしてそれが、仕組まれたものでないと言い切れるかは、知れぬがな」

 青い唇の端が、吊りあがる。

 その言葉を受け、

「そのお戯れのうちに、仕えるべき主君を陸へと揚げられた臣下の気持ちなど、貴方様には分かりますまい」 

 琲瑠の細い目が、蒼奘を鋭く睨みつけた。

「いずれにせよ。若君が戻らねば、貴方様の真名を持つ若君の方に分があるということ、努々お忘れなきよう、、、」

「ああ。縛り付けるには最古参の神の末だろうと、それなりの代償を払う必要があったからな、、、」

 蒼奘は琲瑠に背を向けると、

「今度は、我が真名を預ける番、、、、」

 寝所の暗がりへと、消えていったのだった。

 

「ん、、、?」

 勝間の大滝にある、苔むした祠。

 その上で、古い書物を捲る音がする。

 装丁古く、垢滲みた羊皮紙には、色鮮やかな異国の植物の姿が描かれていた。

「今、あの仔の気配がしたと思ったのだがな、、、」

 紅の衣の女童が、顔を上げ、首を傾げた。

「こんな時分に、気のせいか、、、」

 何事も無かったかのように、再び書物へと視線を落としたのだった。

 

 田畑を細く流れる水路を渡ろうとして、伯は伸ばしていた足を戻した。

 見上げた先に、黒々と聳える勝間の山々。

 その菫色の眸には勝間の山の地仙檎葉が眷族、緋鯉が幾つも泳いでいるのが、見て取れた。

 どうしたものかと、土手にしゃがみ込んだ鼻先に、

「む」

 黄緑色の小さな輝きが、羽根を休めた。 

 彼方に広がる閑散とした藪に、小さな輝きがたゆとう。

 揺ら揺らとして頼りない、蛍の灯り。

 身の丈をゆうに越す草木へ、誘われるまま深く深く分け入って行へば、いつの間にか空気がひんやりとした山の中へ。

 木肌に触れながら、木立を分け入っていく事しばらく、目の前に現れたのは、沼。

 頼りなげな十六夜月夜いざよいつくよの明かりの中で、木々にて羽を休め伴侶を探す、蛍。

 覗き込んだ水の中にも、茫洋とした輝きが無数に垣間見えて、伯は手を伸ばした。

 温く、纏わりつくような水の感触に、目を細め、

「、、、、、」

 菫色の眸に、何ともいえぬ寂しさが、滲んだ。

 いっそこのまま、その水底へ呑まれてしまおうか…

 そんな事を、考えていたのかもしれない。

 その耳が、

「?」

 小枝を踏む、音を捉える。

 近づく音の方へと目を向ければ、薄闇の中から、人影が抜け出した。

「、、、、、」 

「、、、、、」

 伯よりも頭半分小さい、童。

 膝丈の薄汚れた着物を纏い、手に枝を持っている。

 伸びるがままにされた髪が、蜘蛛の巣を引っ掛けて蟠っているが、見える手足は丸々として健康的に焼けていた。

「う、、、」

 どうしたものかと、髪を押さえて後退る異形の童、伯。

 一方童は、前髪から少しだけ覗いた甘栗色の眸で伯を見上げ、にこりとした。

「あ」

 ぽかりと口を開けた時には、

「こっち、、、」

 その袖は握られていた。

「あぁ、、、」

 振り向いた先に、沼。

 手を伸ばした先には、無数の儚い輝きが、二人を見送るように揺れている。

 

 いったいどれ程歩いただろう。

 背の高い木々の向こうの空が、白々と明け始めている。

 薄く朝霧に包まれた中、熊笹の茂みを抜け、苔むした斜面を登り、袖を掴む童に任せて歩いている。

 重たげな瞼を擦りつつ辺りを見れば、霧の中に茫洋と佇む白い影。

「ん」

 輪郭だけが浮かんでいる。

「あ、ぅ、、、」

 手を伸ばそうとして、

「お前、あれらが視えるんだな、、、」

 童の手を掴まれた。

「あれは、“彷徨う者”。悪さはしないけど、構うとつきまとわれる。放っておけ」

「あ、、、」

 そのまま手を取られ、木々の根を足掛かりに霧の中へ。

 ゆらゆらと一定の距離を置いてついてくる、その“彷徨う者”達。

 それが、ふたつ、みっつと増えて行く。

「やけに、集まるな。お前、好かれるんだな」

 慣れた様子で童は、一つ柏手を打った。

 すると音に怯えたのか、白々とした気配は霧の向こうへと、消え去った。

「それでおまえ、捨てられたのか?」

「ぇ、ぁ、、、」

 言葉にならぬその声に、

「まぁいいさ。オレも赤ん坊の頃に、あの沼のほとりに捨てられたんだ、、、」

 童が、小さく呟いた。

 

 ほっそりとした手が、朽木に付いた茸を採る。

 淡い狐色で、折り重なるようにして生える、タモギダケ。

 背負った籠には、他に露草にウワバミソウ、ウルイ、フキ、イラナ。

 その中に、そっと加えた。 

 腰を軽く叩きながら、朽木に腰を下ろしたその娘は、不思議な髪の色をしていた。

 鮮やかな緋色の髪は背で束ねられ、穏やか見つめてくる眸は、深い翠。

 痩躯に纏うのは、ほんのりと碧がかった山蚕の糸で紡いだ衣だ。

 朝霧を払った森の大気は、しっとりとして、肌に心地よい。

 肺腑に深く息を吸い込んだところで、

「ルゥシャ」

 聞き覚えのある声がする。

「まゆも。いったい、どこに行って、、、」

 腰まであるシダの茂みが揺れ、二つの頭が近づいてきた。

 シダの茂みから現れたまゆもと、彼に袖をむんずと掴まれた童を見て、娘は目を丸くした。

「その子は、、、おともだち?」

 まゆもに問えば、

「蛍ヶほたるがぶちに居たんだ」

「そう、、、」

 少し複雑な表情を浮かべたが、

「あ、、、」

 見上げる伯の視線を受けて、すぐに微笑みに変わった。

「こんな山の奥まで、大変だったでしょ?」

「、、、、、」

 しゃがみ込むと娘は、群青色の髪を撫でた。

「おいでなさいな、小さなぼうや、、、」

 差し出された、手。

「、、、、、」

 戸惑う童の手に、

「ほら、、、」

 娘の手が重なった。

 

 さわさわと、水が流れる音が近づいてくる。

 山師でさえ踏み入まぬ山奥に、子供たちの笑い声がいずことなく木霊している。

 姿は見えないが、ところどころその小さな影が現れては消えて、

「ルゥシャっ」

 また現れた。

「そいつ、新入りかぁ?!」

 木の枝からぶら下がった少年の声。

 目を凝らせば向こうの木立や、枝の上に幾人もの子供達の姿が見え隠れしている。

「そうよ」 

「ふぅん」

 その声音とは裏腹に、眸は興味津々といった具合。

「もう少ししたら、食事にしましょうね。それまで、遊んでらっしゃい」

「うん。岩魚が掛かってないか、見てくるよ」

 ましらの如く、子供達が駆けて行った。

 程なくして、岩がごろごろとした一帯に出た。

 苔むしたその岩から岩へ、木を二本並べて渡しただけの橋が、幾つもかけられている。

 娘は、二人を軽々と腕に抱き上げると、するすると岩から岩へ。

「ん、、、」

 鼻腔を、くすぐる香りに腕の中の童、伯は鼻を鳴らせた。

 ルゥシャの胸元から立ち昇る、瑞々しくもほのかにあまさを感じさせる香りであった。

 ルゥシャは、その先にある少し高い大地で、二人を下ろした。

 水の音が、する。

 木々の向こうに、切り立った崖が窺い見えた。

 そこから、水が流れ落ちている。

 雪が溶け、雨が降り、長い年月をかけて染み出した水は、見上げた先の岩肌を伝い、滝壺へと注ぐ。

 水量は岩肌を伝う程度なのだが、冬ともまればその水が凍りつき、その壮麗たる氷の大滝を目にする事ができるだろう。

 今の時期、長い年月の末に掘り込まれた滝壺には満々と水が湛えられ、溢れて渓流となり山を下ってゆく。

 その滝を左手に、岩肌の一角が崩れて突き出し、苔で青々と覆われた大岩の上。

 運び込まれた木々が組み合わさるようにして組まれ、その隙間を隠すかのように、藤の古木がその葉を茂らせている。

 その周りの茂みには、目を引く濃い橙の花が揺れている。

 金魚草だ。

「こっちよ」

 大人一人が、腰を折って入るのがやっとな穴が、組まれた木々の間にぽかりと開いている。 

 ルゥシャとまゆもに続いてそこをくぐれば、薄暗がりの中、中央に自在鉤で吊られた大鍋が、ぐつぐつとしていた。

 夏でも肌寒いそこには、ツキノワグマや鹿、狐の皮が敷き詰められ、そのまま寝床にもなるようで、黒い獣が一匹、丸くなっていた。

 獣は顔だけを上げると、入ってきた者の顔を確認して再び、まどろみの中へ。

「まゆもは、これを洗って」

「うん」

 水瓶から木をくり貫いただけの器に水を汲むと、その中に山菜を入れた。

 手馴れたもので水を潜らせると、引き千切りながら鍋の中へ。

 鍋に水を足し、上に吊るしていた干し肉を投げ入れながら、

「あたしはルウシャ。ぼうやは、なんて名だい?」

「ハク」

「じゃあ、ハク。遠慮なんていらないよ。こっちは、一人子供が増えようが、構わないから」

 その笑顔に、ぺこりと頭を下げた。

 みれば、まゆもも、にこにこしている。

「ルゥシャ、ただいまッ」 

「たくさんいたよっ」

「るーしゃぁっ」

 わらわらと入ってきたのは、子供達。

 手に手に、まだ生きている魚を、掴んでいる。

 慣れたもので、一番年上の少年が竹の串に突き刺しては、火に当たるように並べていった。

「さ、たくさんおあがり」

「、、、、、」

 木の椀に雑葉汁が盛られ、目の前に置かれる。

 伯は、囲炉裏を囲む子供達を見回した。

 子供はまゆもを含め、八人。

 年もばらばらだが、下の子らは、年長者が自然に面倒を見ている。

 まゆもの傍らで、おずおずと椀に口をつけた時には、既にルウシャは次々と突き出される椀におかわりを盛ってやるのに忙しく、、、

「あら、、、」

 ようやく一息ついて己の椀を手にした時、椀を持ったまま互いに凭れるようにしてうつらうつらしているまゆもと伯に、気づいたのだった。

「いいよ、俺が、、、」

 部屋の片隅で、食べ終わった椀を集めていた少年が筵を持ってくると、その上に熊の毛皮を敷いた。

 二人を抱き上げ、そこに寝かせるのを、黒狗も眼を細めて見つめている。

 

 昼下がり。

 陽が西に傾き始めると、東の書斎に池を渡る涼風が吹き込む。

 それまで岩陰に隠れていた鯉らも、陽射しが陰った今は、暢気に浮き草を追っている。

 池に迫り出した飴色に磨かれた廊下を、書斎に向かう者がいる。

 衣擦れの小気味良い、音。

 銀盆を手にした、汪果である。

 一礼して、中程まで巻き上げられた御簾を潜ると、文机に向かう主の傍らへ。

 慣れたもので文机の隣に盆を置き、水滴を結んだ重厚感のあるゴブレットに、蜂蜜色の液体を注いだ。

 細やかな泡が収まるのを待って、硯の向こうへ置くと、敷かれたままの符は、真っ白。

「主様?」

 筆に墨を含んだまま頬杖をついている主の顔を覗き込めば、

「まぁ、、、」

 汪果の、呆れ顔。

「、、、、、」 

 耳を澄ませば、寝息が聞こえた。

― 若君の身を案じて身が入らぬのかと思えば、、、暢気な、お方、、、 ―

 念願叶って入台が決まった娘の父が、しつこく使いを寄越し頼んだ破邪符であったが、蒼奘のこの様子では、いったいいつになるのやら。

 そっと長衣から腕を抜き、その肩に掛けると、汪果は静かに書斎を後にしたのだった。 

 

 水鏡。

 漆の塗られた手桶に張った水面に映るのは、うかない表情の琲瑠。

 髪はそのまま背に流し、纏っているのは寝着であった。

 締め切った薄暗い部屋の中で、まんじりともしない時を、どれほど過ごしたか?

 潮の香りで満ちるのは、手桶の水が海水のせいなのかもしれない。

― 夢へ渡る、その前に、、、 ―

 琲瑠が、目を凝らす。

 その先にあった桶の底には、たゆとう闇が、揺らめいていた。

― 契約に縛られ貴方の後を追う事叶わぬこの身なら、その名を汲み上げ、せめて解放の時を整えよう、、、 ―


 水の音が、する。

 そしてどこか懐かしい、潮の香り。

 明るい空色が、徐々に藍が滲み、濃紺から闇へ。

 その青に、融けている。 

 それは肌にあまく、緩慢ながらも確実に思考を弛緩させ、“融かすもの”。

「、、、、、」

 ゆらゆらと視界に入るのは、群青色の髪、水干の袖。

 朱鷺色の唇が薄く開くと、泡がゆらゆらとして舞い上がる。

 頭上彼方にある、水面みなも

 掴もうとして伸ばした指先が、

「、、、、、」

 気泡となって、融けてゆく。

 ゆっくりと見通せぬ水底へ沈む、そのからだ

 名を捨てろ…

 鼓膜を揺さぶる、水の声。

 知り得た真名を体内深くに刻め…

 響く、水の色。

「ん、、、」

 見慣れた、人の腕の形。

 その肘から先が、半透明の鰭と化していた。

 今となっては、どちらが本来の姿であったのか、、、?

 気泡を立ち昇らせながら、じわりじわりと変化して行くのを感じながら、そのままとろりと目を閉じた。

 細やかに弾ける泡音が、聞こえる。

 どこかで聞いた潮騒に似て、膝を抱えて丸くなった。

 時が経つにつれ、立ち昇る気泡の数が、範囲が増えていく。

 やがて全身が気泡に包まれると、水底の方から茫洋とした巨影が泳ぎより、伯の体を呑み込むように、包み込んだ。

 そのまま沈むに任せた、幼い躰。

 このまま身を任せ、水に還るのも悪くないと、そう思ったのかもしれない。

 そんな中、

「、、、、、」

 手首に触れるむず痒い感触に、睫が揺れた。

 重い瞼を開けば、細い左手首に絡む、青い綾紐。

 それが、気泡によって舞い上がるのを、菫色の眸が捉え、

「つッ」

 咄嗟に、緑の鱗を持つ鰭が、追いすがった。

 気泡が綾紐を弄うかのように舞い上げる中、半身を神体へと変えた伯が、それを追う。

 長く伸びた尾鰭が、水を捉え、蹴る。

 視線の先。

 ひらひらと舞い上がる、綾紐。

 人の姿を留める右手の五指を広げ、伸ばした。

 けれど無常にもそれは指先をすり抜け、水上へと押し上げられる。

「だめっ」

 その端が、闇を湛えた水面へと吸い込まれる刹那、

「あ」

 水面より現れた力強い手が、綾紐諸共、その手首を掴んだのだった。

 

 か・らり…

「、、、、、」

 金色の眸が、水滴を結んだゴブレットの中で、触れ合う氷を見つめた。

 頬杖をついていた方の、肘から先。

 狩衣の袖が、いつの間にかぐっしょりと濡れている。

「、、、、、」 

 筆を置くと、肩に掛けられた長衣そのまま、御簾を潜って、廊下へ出た。

「、、、、、」

 欄干に背を凭れ、濡れたままの己の手を見つめた。

 闇色へと変わる、その物憂げな眼差し。

 滴る水滴そのままに…


 カ、カンッ…

「つッ」

 手桶が、割れた。

 じわりと床に広がり、膝を濡らす桶の水。

 割れた拍子に、強か打った手を取り、

「いったい、何をお考えに、、、」

 琲瑠が低く、呟いた。

 寸でのところで邪魔をされ、板戸の向こうを、苛立たしげに睨んだのだった。


「ひぁっ」

 視線に飛び込む、黒く燻された木々が組まれただけの天井。

 薬草、干した肉や魚が、渡された蔦に吊られている。

 己の肩を擦り、いつもの姿である事を、確かめる。

「はゎ、、、」

 さらに、左袖に触れてから、小さく息を吐いた。

 それからようやく辺りを見回すと、部屋の片隅に相変わらず獣が丸くなっているだけ。

 額に浮かんだ汗を襟に吸わせていると、

「?」

 薄っすらと光が入る外への穴から、何やら声が聞こえてきた。

 

「一人で山を降りては、だめだといったはず」

 凛とした、ルゥシャの声に、

「ごめんなさい、、、」

 ややあって、まゆもの声が応じた。

 他の子供達はどこかで遊んでいるのか、川辺には着物を洗うルウシャと彼女を手伝うまゆもの、二人だけ。

「腹を空かせた獣が、おまえ達に何をするか分からないんだよ?」

「でも、俺みたいに、あそこに捨てられる子がいるかもしれないじゃないか。現にハクが、、、」

「まゆも、、、」

 蛍ヶ淵。

 飢饉や天災、戦禍を問わず、その池で眠る子らは少なくない。

 かつて、人柱として山へ捧げられ、沈められた巫女に端を発するのか、いつのまにやら口減らしと称しては望まぬ子を沈めたり、置き去りにする場所となってしまった。

 多くは既に事切れているか、沈められた後。

 手に掛ける事ができず置き去りすれば、大抵野犬の牙に掛かり、その命が紡がれる術は無い。

 うっそうとした茂みを探せば、噛み砕かれたそれらの骨が、いくらでも見つかることだろう。

「おまえの気持ちは、分からないでもないよ」

 子供達の中でもっとも奔放な性格の、まゆも。

 ルゥシャは、その子の気持ちを、痛いほど良く理解していた。

「誰でもふと、父母が恋しくなる時がくるんだ」

「、、、、、」

 その言葉にまゆもの甘栗色した眸が、彷徨った。

 蛍が多く舞うこの時期に、まゆもは蛍ヶ淵に置き去りにされた。

 今でも思い出すのは、初めて見た、あの蛍の輝き。

 そして、母を捜した胸の、痛み。

 それから数日、迎えを信じた幼いまゆもの前に現れたのは、他でもない。

 ルゥシャ、その人。

「まゆも、、、」

 俯いて、大粒の涙を堪えるその子の名を、ルゥシャが呼んだ。

 この山に戻ると、度々まゆもは姿を消した。

 それは一重に、あの日現れなかった母の姿を、探すため。

「お前を手放す、いろんな事情があったんだ、、、」

「そんなの、知らないよっ」

 短い叫びとは裏腹に、溢れた涙が着物に無数の染みを作っていった。

「お前は強い子だ。今はまだ、分かりたくないかもしれない。けれど、いつかきっと、なぁ、、、」

 ルゥシャは、その先を続けられなかった。

「うぅぁああっ」

 嗚咽を隠せぬその子の気が済むまで、背中を擦っては、髪に頬を寄せるのだった。


 その夜。

 ひっそりと、寝静まった頃合。

 それまで蹲っていた獣が、身じろいだ。

 大きく張った、耳。

 頬の辺りから喉元にかけ、黒い体毛にしろがねの毛が混じっている。

 炯々と光る銀鼠ぎんねずの眼差し鋭い、大狼であった。

「、、、、、」

 しなやかな足取りで、眠る子供達の間を渡ると、

「う、、、」

 一人の襟首を咥え、そのまま外へ。

 

 木を組んだだけの庵から、随分と離れた辺り。

 闇が深い太古の森の一画で、獣は咥えていた童を放り投げた。

「ふぉ、、、」

 幸い落ちた先が、柔らかい腐葉土を覆う苔の上。

 転がった拍子に倒木で頭を打ったくらいで、後頭部を擦りながら上半身を起こしたのは、伯である。

 その様子を、苔に覆われた大岩の上から睥睨しつつ、

「貴様、何が目的だ、、、」

 低い声が、響いた。

 牙を剥く獣を前に、

「ふぇあ、、、」

 伯の、あくび。

 菫色の眸に涙を滲ませて、ぼりぼりと頭を掻いている。

「ずいぶんと、すっとぼけたヤツだ」

「ぁと、、、」

「その髪の色。お前、探花使か?」

「た、、か、し、、、」

 首を傾げ、手を握ったり、開いたり。

「、、、、、」

「、、、、、」

 睨み据えたまま、伯の答えを待つことしばし、

「ああッ、やめろッ!!俺はそれがだいっきれぇなんだっ」

 黒狼は、頭を振った。

 脳裏に浮かんだ光景は青く、嗅覚は潮の香りを捉えたが、それを獣は拒絶した。

「むん」

 僅かに顔を顰めた伯に、

「だから、人の頭の中に送ってくるなっ!!イラつくヤツだな」

「たんかし、知らないっ」

 その口調に負け時と膝を叩く伯が、堪り兼ねて声を上げた。

「本当か?」

 口をへの字にして、こくり。

 その様子に、

「、、、お前、喋るの面倒なんだろ」

「、、、、、」

 しばしあって、伯がまた、こくり。

「こんなとろくさい探花使に、捕まってたまるかよ、、、」

 溜息交じりに呟いて、狼は大岩から降りた。

「で、お前、何?」

「、、、ハク」

「そうじゃなくて」

 菫色の眸が、向かいに座った狼の双眸を見つめ、言葉を捜し彷徨い、

「、、、、、」 

 やがて、諦めたかのように項垂れ、首を振った。

「分からないのか?」

「ん」

「さっきの潮の香り。花精でもないようだが、、、なんでまた、あの沼に」

「、、、、、」

「あそこで発生したにしちゃ、このなりは妙だな」

 咥えた水干の袖から、ぽとりと落ちたものがある。

 絹糸を藍と浅葱に染め編まれた、髪紐。

 狼が鼻先を近づけるより早く、象牙色の手がそれを引っ手繰っていた。

 さっさと胸元に仕舞うのを眺めながら、

「そうかい。小さいなりに、訳ありかい」

 呆れたように、片側だけ牙を覗かせたのだった。


「急にぶん投げて、悪かったな、、、」

 黒狼が、伯の前で腰を下ろした。

「俺は黒鈷こっこ。見ての通り、齢百の狼の化生けしょうさ。人語は解すが、まだ神通力を使うには若くてな。ああ、煩わしいからガキ共には言うんじゃねぇぞ」

 こくり。

「お前も気がついたかもしれんが、ガキ共は捨て子だ。あいつらが、お前を見ても驚かないのは年端もいかねぇ頃から、ルゥシャに育てられたからだ」

「ルゥシャ、、、」

「あいつもお前と同じでな。人のなりだが、なる者。いや、少し違うか、、、」

「?」

「半分、人の血が入っている。ルゥシャは、花精かせいなんだ」

「か、せ、、、」

生来せいらい、花精は移り気だ。だから、発生すると探花使ってのが、天界に連れて行く」

 花精も、この世に生を受ける者に変わりはないようだが、黒鈷の口調にはどこか侮蔑さえ感じさせるものだった。

「住み分けをしている大陸と違って、花精と人が交わってってのは、昔からこの国では良くある事のようだがな。ま、大半は殺されるか、人柱とされるか。昔からそうやって人の中で淘汰されるのがオチなんだが、、、」

 後ろ足で耳の後ろを掻きながら、花精か人の親か今となっては分からぬが、ルゥシャは山に捨てられたのだと言った。

「こっこ、は、、、」

「俺はなんつーか、ルゥシャの育ての親っつーか、、、まぁ、そんなところだ」

 それから黒鈷は、伸ばした前肢に顎を乗せると、上目使いに伯を見上げた。

「で、おまえは?」

「、、、、、」

 再び黙りこくってしまった、伯。

 そして訪れた、沈黙。

 その問いを、己自身に問いかけているのだと分かったのか、黒鈷は前肢を伸ばして立ち上がった。

「、、、まぁ、どうしたいか分かんねぇなら、ここにいりゃいいさ。ここにいるやつらは、みんなそうだしな」

「、、、、、」

 大きな体が歩き出す。

 見送る童の視線に気付いて、振り向くと、

「帰るぞ」

 太い尾を、ゆらゆらとさせたのだった。

 

                                         ※

 

 きゃんッ

 花咲き乱れる原に、甲高い声が、響いている。

 出迎えた女に続いて、屋敷の女主人の居間へ向かうべく渡り廊下を歩いていた男は、声の方へ目をやった。

 涼風舞い込む藤棚の木陰。

 花を落とし、青々とした葉を茂らせたその下。

 腕組みをした砂色の髪の美丈夫の前で、ひっくり返っている者がいる。

胡露うろう、、、」 

 欄干に腕を乗せて、男は声を掛けた。

「これは、都守。気がつきませんで」

「随分と賑やかだな、、、」

「ええ」

 慎ましく寄り添って座る野狐二匹の前に、足を跳ね上げてジタバタしているのは水干の中に埋もれた、これもまた野狐であった。

「これの父親は、大陸の高僧に仕えた護法童子サンドでしたが、、、」

 溜息交じりの声音。

 その視線を受けて、野狐は体を小さくした。

「齢を重ねても、神通力が身につかず、この有様。他の兄弟達は人に神に仕えているのに、この仔だけ野に生きて行くのはなんとも不甲斐ないと、母親が地仙に泣きつきましてね。こうして預かっているのですが、、、」 

「お前、、、」

 蒼奘の闇色の眸に見つめられれば、今度は水干の中に隠れてしまう。

「斗々烏では、世話になったな、、、」

 その声音に応えるかのように、水干からひょっこり覗かせていた耳が、ぺこりと折れた。

 嫌がる野狐の中で唯一、共に洞窟を渡った野狐であった。

「斗々烏で何か?」

「こちらの話だ。天狐の元に、寄らせてもらうぞ」

「あ、、、はい」

 先で待つ案内の女の方へと歩み去るその背を、見送った。

「あ、、、若君のお姿が、、、」

 いつもは、真っ先に己を見つけて犬歯を剥く、伯。

 それが無いと、やや寂しくもある。

 どこかに隠れているのではないかと、その姿、探して彷徨う胡露の足元で、

 ウククルゥ…

 どこか心配そうな、野狐の鳴き声。

 

 琥珀色に染められた長い爪。

 平素、煙管か杯しか持たぬその指が、今日は細心の注意を払い、触れるものがある。

 朝露を、ふっくらとした花弁に結んだ、芙蓉の蕾。

 女主人手ずから、雉の羽でもって葉につく虫を落とし、世話を焼いている。

「天狐」

 池の上に建てられた離宮に通された男は、七宝にて雲海に遊ぶ天女を描いた衝立の向こうから声を掛けた。

「来たか。もう少し遅ければ、見逃したぇ、、」

 手を止め、体を傍らの長椅子に伸ばしたのは、薄衣の重ねを纏い、笹百合の花簪を挿した天狐遙絃。

「む、、、小さいのは、どうした?」

 平素、そのねきに付き添う者の姿が、無い。

「先日、出ていった、、、」

「ふん。ついに愛想が尽きたか、、、」

 傍らで、扇にて風を送っていた侍女に、

「胡露に酒を持たせろ」

「かしこまりました」

 命じて退出させると、ようやく席を勧めた。

 向かいに、蒼奘が腰を下ろすと、

「無理も無いわ。その人のなりで、あれのために何が出来るというのだ?」

 さっそく、いつもの皮肉口調。

「で、いったい、何をしたぇ?」

 詮索好きと言うより、どこか卑下た笑みを浮かべる遙絃に、

「何も、、、」

 にべもない。

「何もせんで、あれが出て行くものか」

 踏ん反り返る遙絃の眼差しを避け、見つめた先に、卓子たくしに置かれた酔芙蓉すいふよう

 先程よりも、蕾が丸く膨らんで見えた。

「はじまるぞ、、、」

「ああ、、、」

 ふっくらとした蕾が、ほころぶようにゆっくりと花弁を伸ばしてゆく。

 身を寄せ合っていた花弁の先端が、それぞれの花弁へと離れた刹那、白銀の雫が、零れ落ちた。

 燐粉を纏い、放ち、蟠る。

「形すら定められぬ、脆弱な生き物よの、、、」

「この状態で、探花使に引き渡しているのか、、、?」

「まさか、、、」

 遙絃が、鼻で笑った。

 咲きかけの、純白の花弁。

 水差しからその根元へ少し、水をくれる。

「花が終れば、ようやく形が定まる。大抵は、その後引き渡す、、、」

「成る程な。このように無防備故、鬼に喰われるものも多いのだな」

「それにこの香りだ」

 甘く噎せ返るような、芳香。

「鬼が寄るのさ、、、」

「鬼だけではなかろう。これでは人も、惑う、、、」

「ああ、そういえば、、、」

 胡露が、酒器を盆に載せて現われた。

 遙絃が、艶然と微笑む。 

「しばらく前にと言っても、十数年も昔。東の街で、たまたま探花使が見かけたんだとよ」

「人の中で暮らす花精を、か、、、」

 咲き零れ、白々とした粒子を纏い鉢の上で蟠る花精の原型など視界に入らぬのか、蒼奘は煙草盆に置かれたままの煙管を、手に取った。

「、、、、、」

 心得たもので胡露が丸め差し出す葉を火皿に受けると、その吸口に青い唇を寄せた。

「いいや。見世物小屋の雛壇を飾る亜人を、だ」

「ほぅ、、、」

 深藍ふかあいの煙が、立ち昇った。

「見てくれは幼くてな。ただ、髪の色だけが異様に赤かったそうだ」

「半人では、上も預かりおくまい、、、」

 闇色の双眸が茫洋と、煙の余韻を探して彷徨う様を、どこか愉しげに見つめながら、

「せめて髪の色が黒ければ、手放されることも無かったやもしれぬが、、、」

「それで、、、?」

「一先ず、目付をつけたそうだ」

 空になった杯を差し出せば、氷の上に置かれた翠玉の酒器が蒼奘の手によって傾けられた。

 平素、給仕に関しては卒の無い胡露であったが、今日は少しばかり気が回っていない様子。

 能面の如く、感情の一切を失った伴侶のかおを、肴にしているのか?

 覗き込んでから、一息に杯を干した。

「ふふ、、、」

 すでに花の先が、ほんのりと朱鷺色に酔い染まっているのを見つけ、遙絃が愛おしそうに手の甲で触れる。

「その探花使にしては珍しく、不憫だと思うたのか、後日再び見世物小屋を訪ねたそうだ」

「遙絃、その話は、、、」

 口を挟んだ胡露のその先を、

 かた…り…

 煙管が置かれた音が、阻んだ。

「どうなったと思う?」

「さてな、、、」

 直衣の袖に手を仕舞いながら、蒼奘は立ち上がった。

「また寄る、、、」

 衝立の向こうへと消えてゆくその背中へ、

「人だかりに駆けつければ、皆、事切れていたとさ。ただな、その赤い髪の女雛おひいさまだけがどこを探しても、見つからなかったそうだ、、、」

 くつくつと喉を鳴らす天狐の声。

 それが耳孔に纏わりついて、離れない。


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