第陸幕後 ― 真名 ―
墨依湿原にて対峙するは、帝都に宿りし想念。破魔太刀業丸をも弾くその巨影を前に、果たして打ち勝つ術が在るのか、、、?
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第陸幕後編。。。
ぱちり…
何かが弾ける音が、する。
ズズ…ずる…ズズズ…
引きずられるようにして、伸ばされたのは、人の腕であった。
無数の黒い蛇、いや、蚯蚓のような、人の腕であったものの表面には、ぼこぼこと枝分かれして蠢くもので覆いつくされようとしていた。
「、、、、、」
燕倪は、全身に冷たいものが流れて行くのを感じていた。
構わず抜き放つ、銀の太刀。
業丸。
その冴えた輝きだけが、今の頼り。
じりじりと爪先に重心を乗せ、下段に構えると、間合いを測る。
― むッ ―
闇色の粒子が、濃くなった。
中指の爪が、真ん中から裂けている。
先程の音はその音だったようで、粒子はそこから立ち昇っていた。
― 出て来ようとしているのか?! ―
粒子が、煙のように濃さを増し、増長してゆく。
その一体に、赤光放つ二つの目が浮かび上がった。
― これは、、、槇廼尭元?! ―
その輪郭。
低く唸るのは、声にならぬ異形の音。
― 馬鹿な、、、あの日、確かに斬ったと言うのに?! ―
そのすぐ脇から、別の枝が伸びた。
漆黒にも係わらず、単衣を纏った女の姿。
眇められた紅の双眸と、細い啜り泣きが、混じった。
その背から伸びたのは、枯れ枝の如き老婆。
糸のように細い赤光を湛えた瞳が、物言わず此方を睨み据えている。
その下から生えたのは、童。
喉の辺りを掻き毟り、食いしばるのか歯軋りが重なった。
「とんでもないもんを、飼いやがって、、、」
みるみる膨れ上がる闇の塊。
隙間という隙間から、怨嗟の声。
巨大な球体に浮かぶ、無数の紅い目。
それらの声ならぬ音が、する。
「う、、、」
耳を押さえて、膝を付く寸前、視線の端に白い輝きが見えた。
頭上から、滴り落ちる黒い水。
そこからぼとぼとと降り注いでくるのは、白銀の腹を見せる無数の魚。
「なんだ、、、?」
見上げたその淵に、白い影が立っていた。
「、、、、、」
青みがかった漆黒の双眸が、静かに見下ろしている。
「伯?!おまっ、来るんじゃなっ、、、あっ」
その華奢な水干の袖が、翻る。
ふわりとして、重さを感じさせぬまま、燕倪の傍らへ。
静かな眼差しが、闇色の蟠りを見つめ、その向こうで臥したままの男の姿を捉えた。
「こんな時でも、俺の言うことを聞かんヤツだな」
燕倪の呟きに、ぶすっとしたまま、前へ出ようとする。
その肩を引き戻そうとして、
「コンナトキダカラ、ダ、、、」
その手を、弾かれた。
「ッ」
自ら引きちぎったのは、翡翠の連珠。
その黒髪が、鮮やかな群青に染まり、瞳は澄んだ菫色へ。
ひた・ひた…
素足が水面を渡ると、細やかな泡を生じ、水面がせり上がる。
その爪先に触れた水が、澄んでいく。
こぽ・こぽぽ…ん…
湧き出す水は、どこか潮の香りがした。
その湧き出す量が、徐々に増えてゆく。
黒い水を押し出すように、水柱となると、それはひとつにまとまり、巨大な牙を持つ顎へと変貌する。
伯は、その上に居た。
「ソウを喰らうのは、オレだ、、、」
ギギォオォオオオオオッ
無数の赤紅の目が赤光を放ち、せり出した。
水の顎が、迎え撃つ。
貫くつもりか、荊を思わせる鋭い棘が頭上に伸びて撓った。
その蔦状のものを、水の顎は僅かに身じろぐだけで受け止めると、
「ヒキチギレ」
太い猪首を、振った。
ヴッ…
鈍い音と共に、
ギゲゲゲゲェエエエ―――ッ
【黒い蟠り】の、断末魔。
噴出したのは、墨色の水よりも濃く赤く、どろりとした体液。
「、、、、、」
返り血に染まる、水干。
半顔が染まっても、顔色一つ変えることない、伯。
透明な顎が蠢く【黒い蟠り】へ、その牙を穿ち砕き潰すべく進み出て、
― やったのか、、、?いやッ、違うッ ―
燕倪は本能的に、走り出していた。
「伯ッ、よけろッ」
わなわなと蠢くのは、無残に引きちぎられた欠片。
それに太刀を突き入れた時には、振り向いた伯の顔がすぐそこにあった。
「くっ」
弾かれる、太刀。
そして、腹への衝撃。
「ぎっ、はッ」
吹き飛ばされながら燕倪は、その可憐な唇から、赤い糸が細く引くのを見た。
「くっ」
叩きつけられた、二人の体。
「伯ッ」
伯の脇腹を貫通した欠片は、黒い水と化して流れ出た。
伯に浴びせた血が、その身を穢れに染めたのか、透明な顎と水は、急速にその姿を失っていった。
「かぅ、、、」
傷を袖で隠し、大丈夫だと小さく呻いた、その姿。
立ち上がろうとするのを、
「動くなっ」
一喝した。
腹腔深く、丹田の辺りが、熱い。
怒りに、拳が震える。
それを、
「エ、、ゲ」
抑え込む。
守るべきは、この声の主。
だがどうしたら、、、?
この【黒い蟠り】は、業丸を寄せ付けぬ。
それ程までにこの闇は、深い。
不意に燕倪は、何を思い立ったのか腕を広げた。
「おい化け物、俺に憑けッ」
業丸を下げ、
「そこの生っちろい奴よりも、俺の方が頑丈にできてらぁ。腕も立つ。暴れるなら、俺に入れよ」
放り出す。
― あいつが本調子なら、なんとかしてくれる ―
赤い目がその軌道を追い、
「、、、、、」
再び、燕倪を捉える。
「つっ」
全身が総毛立つ、感触。
― あいつ、ずっとこんなもんを体ん中にっ ―
押しつぶされそうな重圧と、吐き気を催す程の憤りだけが、体内を熱く掻き乱そうとする。
ズ・ズズズ…
【黒い蟠り】は、尾を長く引いて前進した。
「それにな、俺は土師業鴛の直系だ。宮中に入り込むのなら、都合が良いぞ」
手を広げて、頭上から睥睨する相手を見つめる。
ぐぐぐ、擡げた頭部が前のめりになり、
― 来るッ ―
己を包み込むように広がったそれが、
「何?!」
脇を、すり抜けていた。
肩越しのその先には、
「伯ッ」
上半身を片腕で支えた、伯。
脇差を抜き放ちつつ、投げた業丸を取りに跳躍した視線の先で、意を決し犬歯を剥いて咆哮する伯の姿。
「ぬがっ」
鈍い衝撃が、全身を走り抜けた。
頭蓋を共鳴させたのは、骨が砕ける音。
振り払うように腹に穿たれたのは、【黒い蟠り】から伸びた巨大な瘤状の触手であった。
弾き飛ばされる、その体。
息が止まり、口腔に広がる錆の味に、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
視線の先に、赤々と染まったままの腹部を押さえた伯が召喚した、透明な獅子の姿を見た。
「ぅ、、、」
しかし、それが限界だったのか小さな呻き声を残し、黒い水に沈んだ、体。
同時にその獅子も、ただの水に戻った。
無慈悲にも、その細首に巻きつく、黒い触手。
首を絞めつつ、可憐な唇を抉じ開けようと触手が顎の辺りを圧迫する。
隙間を探り、歯茎を弄る触手の感触。
菫色の双眸だけが、赤みを帯びて鋭く睨み付け、
「ぎがぁッ」
腹を裂く触手に、仰け反る。
堪え切れず開いた口腔へ、ずるりと触手が入り込む。
見開いた、眸。
細い喉に、異様な瘤が浮かび上がっては、体内へ巣食うべく胸元へ下って行く。
「くそっ、、、」
業丸を手に、軋む体を引きずり上げた。
「いぐっ、、、つッ」
振り上げた、白金の輝き。
そのまま息を止めて、脚に力を込めた。
視線の先には、抑えたままの傷口を抉じ開けるためか、頭部が鋭い切先へと変形する【黒い蟠り】の姿。
一息にその幼い体に潜り込むべく、後ろに撓った。
「やめろぉおッ」
太刀を、長く伸びたままの尾へ振り降ろし、
「がッ」
銀波が、飛んだ。
― 業丸の刃が、、、毀れた?! ―
一見、柔らかそうなその体は、強靭な鋼の如き強度。
びりびりと、骨の髄を痺れさせる振動に、危うく刃を手放しそうになった。
しかし、
「ムギギガガガァァ―――ッ」
伯の、絶叫。
「こいつッ」
柄頭に手を乗せ、突き刺す。
僅かに切先だけを吸い込んだその体が、うねった。
「が、はッ」
巨木の幹程ある尾が大地に叩きつけられると、あっけなく業丸は抜け、その体はぬかるむ土の上に叩きつけられる。
「むぐッ、かあ、ぁぁ、ぁ、、、」
ゴぼ、ごぼン、ゴボリ…
ずるずるとその華奢な体に這入り込む。
紫紺の輝きが頬に零れ、墨色の水に沈み、象牙色の肌は、みるみるドス黒く変色して行く。
太い尾が、急速に窄まる。
「ぐぐ、、、く、、、そっ」
燕倪が、咽込みながら肘で進む中、
「、、、、、」
糸状の先端が、投げ出されたままの腕、終にその指先から抜け出した。
それを待っていたかのように尾は、
ギギ―ッ
白い手に、絡め取られていた。
「随分と派手にやってくれたものだ、、、」
鬱々とした声音と同時に、大気が震えた。
【黒い蟠り】が、宙へ跳ね上がった。
「げえッ、はッ、、、げほっ、、」
胸元を押さえて、咳き込む伯の唇から、闇色の欠片が零れ落ちる。
「はぁッ、、、はぁ、、、」
「伯、大丈夫か?!」
何とかその傍らに辿り着いて背中を擦る燕倪に、伯は辛うじてこくりと頷いた。
「ソウ、、、」
その視線の先。
いつの間にか札に覆われたままの、左右の手。
墨色の水も畏れるのか、一滴の染みすらない浄衣の男が、細い尾を手繰っている。
「八火よ、逃すな。結界を敷け」
金色の輝きが、上空に四柱、その下に四柱。
とたんに揺らめく壁が、一帯を覆いつくした。
「どうするつもりだ!?」
「この国に、漂われては困る怨鬼。そのままこの国の民が想念だ。発生したものをその世から故意に欠く事となれば、どのような災厄が降りかかるか、想像もできん、、、」
激しくのたうつ【黒い蟠り】。
「燕倪。まだ、やれるか?」
「誰に言ってやがる!?」
「では、少し時間を稼いでくれ。無限坂の水底に、叩き込む」
燕倪が業丸の柄に力を込めた。
― 歯が立たぬが、、、それでもッ ―
蒼奘が立つ足元に、波紋が刻まれる。
漆黒の水面に、銀の波紋。
無数に増えて、重なる中、
「いかん、下がれッ」
その手の札が、炎上。
「こいつっ」
蒼奘の手からすり抜けた【黒い蟠り】は、そのままそそり立つ壁へ激突した。
八箇所の鬼神が纏う金色の身光が、僅かに揺らいだ。
一度は大地に崩れ落ちたのだが、その尾に宿った炎は、紫焔となって瞬く間にその身を覆ってしまう。
「元より恨み辛みの化身。その身を焼いても、厭わぬか、、、」
自由になった手で印を結びながら、忌々しいとばかりの蒼奘の声音。
その眼差しの先、赤光はなつ目は突き出した頭頂に集まり一つとなり、枝分かれしていた手足は、太く頑丈な形状に纏まった。
二股に別れ長く伸びたのは、相手を叩き潰すための瘤をいくつも付けた、尾。
鋭い鉤爪も禍々しい、八脚の魔獣。
「エンゲ、、、」
伯の手が、燕倪の腕に掛かる。
その体を、透明な水の皮膜が覆い、太刀には細い水の筋が、それ自体が生き物のように幾つも絡みついた。
腹腔から込み上げる血潮を吐き出し、手の甲で口を拭うと、燕倪が無言で駆け出した。
ギィイォオオオッ
前肢の一閃を身を低くして躱し様、吹きつける熱波を諸共せずに刃を斬り上げた。
めり込む、業丸。
別の前肢が反対方向から向かってくるのを、めり込んだのを利用して体重を預け、
「ぬあッ」
腕の力でめり込む前肢の上に己の体を跳ね上げた。
そのまま刃を引き抜き様に、体重を掛けて振り下ろしたのが、赤光集まる頭上。
だが、
「がはッ」
その赤光集まる目に打ち下ろす寸での所を、吹っ飛ばされた。
大地に転がる破魔の太刀業丸。
頭上を防いだのが、瘤状の尾。
そして、もう一方の尾が、横殴りに燕倪を見舞ったのだ。
ゴグガガガガガアアア―――ッ
紫焔に包まれた魔獣が、怨嗟の咆哮。
「ぐ、、、ぎぎッ」
歯を食いしばり、動かぬ体を引き摺る燕倪。
焔の熱と、その衝撃から身を守ってくれた水の纏いは、消えていた。
それでも血みどろの手指は、未だ業丸を求め、餓える。
「えん、げっ、、、」
伯が、名を呼ぶのが、遠くに聞こえた。
伏して、呻く燕倪に止めを刺そうと近づく、魔獣。
「ソウっ」
澄んだ、その声音が、その人を呼んだ。
「オレが、行くっ」
彼方で解放を望むのは、傷ついた、伯。
片腕で体を支え、牙を剥き叫ぶ、その声。
「、、、、、」
それまで、封じこめるための結界を練っていた蒼奘が、結んでいた印を取りやめた。
とたんに瘴気に晒される、体。
白い狩衣の袖がはためいて、
「やはり私が、代わろう、、、」
繊手が取り上げたのは、業丸。
「ばか、やろぉッ、、、おま、、、」
それでは意味が無くなると、叫ぼうとして、込み上げた血潮に唇を濡らした。
「この仕打ち、、、捉え封じるなど、生温い」
すでにその眼差しが、彼方の魔獣へ。
いつもと変わらぬその背が、どこか茫洋と滲んで見える。
燕倪の血で滑る、柄。
それを両の手に擦り付け、重さを感じさせず、無造作の一振り。
ギグガガガアアアッ――――!!!
吹き付ける咆哮をものともせず、血塗れた手を峰に走らせると、柄頭に手をやった。
蒼奘の口元が、業丸の柄を持つ手で隠れ、魔獣が前肢の一閃と同時に懐に飛び込む刹那、現われる。
その青い唇、血塗られて。
「蒼奘―――ッ!!」
腹を押さえて立ち上がった燕倪が見たもの。
紫焔に身を焼かれながら、その腹腔深くに業丸を突き立てる、後ろ姿。
ギゲガググガガ―――ッ
前肢で払いのけようとした魔獣がしかし、次の瞬間その八肢の自由を奪われる。
手足は、忽然と大地から突き出した水柱によって、貫き留められていた。
伯だ。
食いしばった歯はぎりぎりと軋み、その菫色の眸は狂気に染まり、瞳孔鋭い。
その影が、巨大に伸びていた。
くっきりとした背鰭、六つの鰭と長い尾鰭の神体は今、影でありながら、その絶対的な存在感を得て、伯の背に従っている。
ぱっくりと抉られたままの脇腹に手を突っ込み、その身を縛る術を、自らの身を引き裂く事で、半解放したのだ。
しかし、
― 業丸が、浅い、、、 ―
伯が身を裂いてまで大地に縫い付けているというのに、、、
グギガガガ―ッ
押されている。
紛れも無く、この魔獣に。
髪を舐め、衣を焦がし、肌を弄う、灼熱の怨鬼の業火。
― 預かる身だが、赦せよ。やはりこの身、鬼神八柱の憑代とする ―
唇から滴る、己の血潮。
足元に落ちた瞬間に蒸発し、消炭となると蒼奘の身に吸付いた。
そしてその身に刻まれる、細やかな紋様。
「八火業焔衆、契約を行使す―――、ぐッ」
「水臭ぇえッ」
蒼奘の体を支え、柄を押える手に重なるのは、武骨な手。
炎の中に飛び込んできたのは、
「離れよ、燕倪ッ」
その人。
「俺の太刀だろッ、なぁ、業丸ッ」
叫び声と共に、業丸の柄がさらに深く、食い込んだ。
ギゲィッ、エギイガェェエエ――――ッ
仰け反ると同時に紫炎が霧散。
すかさず蒼奘が両手で印を結び、
「捩じ伏せよ、雷光」
魔獣の胸に血潮が飛び散ると、全身に紅の鎖が巻かれ、青白い輝きが奔った。
ギガガァッ、ガガグ―――ッ
「ソウ―ッ」
劈くような、叫び声。
真の名を呼んで…
「ソルーイ」
「!!!」
伯が影に、呑まれる。
その影が、まるで羽化するかのように剥がれると、眩い青き光を放ち、
オオオォオオン…
静かに、咆哮した。
八肢を貫いていた水柱が、凍りついた。
枝を伸ばすかのように四方八方から絡みつき、その身を覆う。
ガ…ガガゲ…
身じろぐ暇など与えず、全体を覆うと、収縮する力が加わった。
急速に縮むその体は、やがて耐え切れず、四散した。
から、り・・・
宙を漂い、大地に降り注ぐのは魔獣であったものの、粒子。
そして、業丸。
「やった、か、、、」
膝から崩れ落ちた燕倪。
所々、焼け焦げた髪。
狩衣も酷いものだったが、幸い火傷もさほどではなかった。
「蒼奘。おい、そ、、、ッ?!」
ぬるりと手に纏わりつくもの。
人の皮であったものだと、気づくのは、一呼吸置いてからだった。
燕倪と伯の楯を、自ら買って出た者の代償。
「蒼奘ッ」
「、、、、、」
腕の中で動かぬその人の髪は焼け焦げ、その全身はケロイド状。
もやは、その人の面影すら、感じさせぬ有様。
「蒼奘ッ、返事しろよっ」
人の形をしたそれは、炭に、近かったのかもしれない。
青褪めた燕倪が、それでも医者に見せなければと頭を切り替える事に勤めた時だった。
キュキュ…
伯が、その鰭を割り込ませた。
「伯」
キュ…
胸鰭で、包むように腕に抱いた。
「伯、とにかく医者に見せよう。都まで、飛べるか?」
ぶんぶん…
首を振る、伯。
「聞き分けてくれ。このままじゃ、本当にっ」
― いや、もう、だめなのかもしれ、、、 ―
クオォオオオ―――ッ
ぱっくりと頭部が割れ、鋭い牙の羅列が覗いた。
燕倪の絶望を、読んだかのように、、、
威嚇するかのように背鰭広げ、深紅の鬣を逆立てる伯。
その姿、まるで聞き分けの無い子供のように、頑なであった。
「伯ッ」
押し問答をいつまでも続ける訳にはいかないと、燕倪が声を荒立てた時だった。
「下がっておれ、若造」
結界を張っていた鬼神も消えたのが、宙を過ぎって舞い込んだ燐光が、形をとる。
現われたのは、肩で切りはなたれた黒髪の女童。
炯々と光る紅玉の鈴張目に、臙脂と藤色の衣がそれによく映える。
「貴様の治療は、後回しだ。腹の傷を押さえて、そこに転がっていろ」
伯の鼻先に立つ。
燕倪は、全身が総毛立つのを感じた。
「か、神に名を連ねる者か、、、?」
背を向けたまま告げ、
「わらわは勝間の山の主よ。その腕に抱く者の器には、用があってな。わらわも汝同様、まだその男、失うわけにはいかぬのだ」
クオォォ…
「診せてみい、、、」
伯の俯いた鼻先を、ぽんぽんと撫ぜた。
「汝も、助けたいのであろう?」
ウゥウ…
ほんの少し胸鰭をどけた。
女童は鰭に触れ、冷やりとした体温を測りつつ覗き込むと、
「むふ。そなた、中々に気転が聞くではないか。そのまましばらく抱いていろ。今、薬を調合する」
袖からこぼれた種は、大地に落ちてすぐに芽を出した。
見る見るうちに花を咲かせ、あるものは実を結ぶ。
野薊、桑、繁縷、刺槐、サルナシ、虎耳草、天胡、等等、、、
見たことの無い極彩色の草花までをも手早く摘むと、懐から取り出したすり鉢に入れて摺り始める。
「何か、できることは、、、」
「無い」
憮然とした、拒絶。
何とも言えぬ感情が、燕倪の表情に現れた時、
「燕倪様、ご無事でっ」
「これは、、勝間の?!」
頭上で聞きなれた声が、した。
「これをっ」
後を追ってきたのか、琲瑠と汪果が浮葉を連れて淵に立っている。
「これは、、、」
燕倪の傍らに落ちてきたのは、青紫に発光する小瓶。
「これよ、これ」
摘み上げた小瓶は、次の瞬間、ひったくられていた。
「それは、、、」
鬼神に手を取られて、淵より舞い降りた、琲瑠と汪果。
「霊紫です」
「燕倪様、今はご自分のお体を一番に、、、」
汪果が、傷を水で洗い、酒で消毒。
火傷の酷い箇所は冷やし、薬草を練ったものを挟んだ晒しを当てる。
「若君、、、」
燕倪を汪果に任せた琲瑠は、俯いたままの伯の鼻面を撫でた。
彼なりに、飛び出し傷ついたこの幼い主を、気遣っているのだろう。
「出来たぞ」
どろりと濁った苔色の薬草に、霊紫が混じり合うと、その粘塊質のペーストは澄んだ蜂蜜色へ。
「伯。診せてくれ、、、」
ウウウゥウ…
腕に、その液体で見たされたすり鉢を抱いて、檎葉が胸鰭の間に入っていく。
「蒼奘、、、」
「勝間の主は、薬草に深く、精通していらっしゃいます。心配要りませぬ」
一行が見守ることしばらく、
「後は、体内の熱を冷ます薬湯を、飲ませればいい」
胸鰭から抜け出し、額の汗を拭った。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた琲瑠。
「目が覚めてもしばらくは安静にと、都守に伝え置け」
「はい」
「そなたは、どうするのだ?人形に戻るか?」
ウウ…
「ならば屋敷まで、わらわが結界でその身を隠そう。屋敷に着いたらそなたを、元の人形に封じてやろう」
キュ…
こくりと頷いた伯。
「少し余った。外傷に、良く効くぞ」
すり鉢を汪果に押し付けると、伯の首に跨る。
「燕倪様、またご様子を伺いに参りますので」
申し訳なさそうに琲瑠が、背に乗った。
「気にするな。蒼奘を頼んだ、てててッ」
手を振ろうとして、痛みに呻くのを、
「安静なのは、燕倪様も同じですからね」
傍らで残った汪果が、肩を貸しながら諌めるのだった。
※
三日して、何とか体の自由が聞くようになった燕倪は、蒼奘の屋敷を訪れた。
寝所には、昏々と眠る蒼奘の袖を抱いて、伯の姿。
「エンゲ」
菫色の眸は赤く腫れ、辺りには紫の玉の欠片が散らばっている。
涙の、痕。
『片時も、お側を離れないのです、、、』
先日見舞いに来てくれたのは、少しやつれた琲瑠。
彼がそう言ったのを、燕倪は思い出していた。
「お前も蒼奘も、怪我はもう、良いみたいだな」
「、、、、、」
「肌に赤味がさしてきているようだし、直に目が覚めるさ」
檎葉が調合してくれた霊紫の入った薬の効果は、目を見張るものがあった。
酷かったはずの腫れもすっかり引いて、切り傷は跡形も無い。
ただ体内、折れた肋はさすがにどうにも出来ないようで、打身の痛みには相変わらず悩まされてはいるが、伯の手前、それを微塵も感じさせぬ燕倪である。
「ソウ、、、」
伯の幼い手が、蒼奘の前髪に触れ、頭を撫でる。
腰まであった髪は今、首の辺りまでのばさら髪だ。
蒼奘が伯にしていた事を、そのまま真似ていると思うと、燕倪もさすがにいたたまれない。
「なぁ、伯、、、」
目線を合わせ、その華奢な肩に手を置く。
「あれから、なぁんにも食べてないんだってな?」
「、、、、、」
「蒼奘が眼を覚ました時に、お前がげっそりしていたら、あいつの事だ、養生することもできんぞ」
少し間があって、
「、、、ん」
こくり…
頷いた。
「おう、そうこなきゃ。で、何が良い?」
「、、、ささ」
「そうかそうか。なら、付き合うぞ」
腕に抱いていた大振りの瓶子を、叩いたのだった。
蒼奘の寝所に程近い、居間の縁側。
池の鯉が悠々と泳ぐのを眺めるために突き出した軒下に、琲瑠が厚手の更紗を敷いて、急ごしらえの宴席を設けてくれた。
肴は、干した帆立を戻して小芋と炊いたもの、梅肉で和えた湯引きの岩魚、栗の甘露煮。
どれも、伯が好きなもののようだ。
「陽が高いが、なぁに、かまうめぇよ」
僅かに赤味がかった黒に、深い苔色の釉薬がかかった杯。
澄んだ酒を、注いでやると、
「ん、、、」
伯が薄い朱鷺色の唇を、つけた。
手酌でやる燕倪も、一息に杯を空けて、
「はぁ、沁みわたるっ」
酌み交わすとは、程遠い。
それでも、杯を重ねる二人。
「あっと、、、」
「、、、、、」
「そういえば、お前と二人きりでこうして飲むなんて、初めてだな、、、」
「ん、、、」
「お前が来る以前、ここも寂しいものだったんだぞ」
蒼奘と汪果以外に、出入りする者は無く、客と言えば聞こえがいいが、燕倪が訪れて酒を飲むくらい。
それが、
「あいつの顔も、お前のおかげで晴れやかな気がするんだ」
誰も寄せ付けず、その異形の力でもって、都守の地位を安定させた、蒼奘。
死人還りとなってからは、その温厚柔和だった性格が豹変。
平素、鬱々として、この都に在ったものだ。
「一時は、近寄りがたい雰囲気だったんだが、お前といるとあいつ、人の顔をするんだよな」
「むみっ」
頬を抓られ、おかしな声をあげる伯。
伯の方にしてみたら、表情がくるくると変わる燕倪の顔の方が余程おかしいらしい。
「んやっ」
手を払うと伯は箸を手にし、栗の甘露煮を口に入れた。
― なんだ、やっぱり蒼奘が甘やかしているだけか、、、 ―
羽琶の屋敷で膳を共にした時、伯はやはり自ら箸をとったものだ。
甘露煮ばかりを口に運ぶのを、燕倪が穏やかに見つめている時だった。
「家主を置いて酒宴とは、いい身分だな、、、」
うっそりとした、低い声音。
羽二重の寝着を纏った長身の男が、柱を背に佇んでいた。
「ぁあっ」
伯が、駆け寄る。
「心労を、かけた、、、」
抱き上げた伯の眸から、零れる菫色の玉。
しがみつくその温もりを感じながら、頬を転がるその涙を払った。
「呑むか?」
「いや、遠慮しておく。体内に熱が、留まったままでな、、、」
「お目覚めでしたか、主様。今、琲瑠が薬湯の準備をしておりますので」
汪果が慌てて走り寄ると、足元まだおぼつかぬ蒼奘の腕を取って、燕倪の前に連れて行く。
腰を下ろしてすぐ、琲瑠が銀製のゴブレットに氷を入れ、薬湯を注ぎ差し出した。
黒い液体が、揺れていた。
青い唇をつけるのを、まるで自分が飲んでいるような顔で、燕倪が見つめ、
「どうした、、、?」
闇色の双眸が、見つめ返す。
「それ、何が入っているんだ?酷い臭いだぞ」
「大陸最高峰の万年氷に、千屈菜、黄柏、長春花、麒麟草、薄荷、西瓜、ツルドクダミ、その他八十種程の薬草を煎じたものです」
にこりと説明する琲瑠。
それでも体が欲しがれば仕方なかろう、と少しずつ蒼奘が飲み込む。
「俺たちの楯になろうと、無茶をするやつが悪い」
「あの炎、生半な術では消せぬでな。封魔陣に追い込むどころか、伯でさえ近づけぬのも無理は無い。いっその事、私の体を鬼神の憑代にし、一時的に神通力を借り受けさえすれば、冥府の業火で焼き尽くせたのだが、、、」
「捨て身も大概にしてくれ」
「元はと言えば、異界に封じるために敷いた星中の陣に、お前達が踏み込まねば、他愛ない相手だったのだがな」
恨み言のため息に、
「一人で抱え込むからだ」
燕倪の反発。
その相手を、蒼奘の一瞥が黙らせた。
「言ったところで、私を一人で行かせたか?」
「うっ」
言葉に詰まった燕倪を尻目に、蒼奘はくしゃくしゃと、伯の髪を撫でた。
「伯か、、、」
珍しくそうされるがまま伯は、鼻をすすりながら蒼奘にしがみつき、寝着の胸の辺りに歯を立てている。
「ああ。この仔は一度、夜都にて解放させられかけている。それを真似ての半解放。そして我らの身を案じて、解放の名を呼ばせた、、、」
その身を引き換えにするつもりが、その声に、思いとどまらされた。
「憑代になったら、ソウは鬼神に食べられる。そんなの、ハクは嫌、、、」
ぽつり、伯が呟く。
「誰かが犠牲になるのが、俺は嫌だ」
憮然とした燕倪の声が、続いた。
「お前達が、傷つくのを見るのが、私は嫌だよ、、、」
蒼奘の、溜息。
そして、沈黙。
平素は鬱陶しいまでに無遠慮な羽虫も、この時ばかりは姿を潜めている。
漂う沈黙に、耐えかねたのは、
「まぁ、いいか。こうして無事に揃ってるんだ、、、」
他ならぬ燕倪で、
「ああ、、、」
伯の背中をぽんぽんと叩く蒼奘も、それ以上その話はしなかった。
ただ、今はこうして、いつものように酒に酔いたい、一同そんな気分だったのかもしれない。