第陸幕前 ― 探花 ―
宮中で倒れた蒼奘の腕に浮かぶ、痣。何も告げずに異界への入り口といわれる墨依湿原へと姿を消したその人を、燕倪と伯が追うのだが、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第陸幕前編。。。
「あ」
少し早い昼餉の膳を提げていた汪果は、阿四屋へ向かう軒下に出たところで足を止めた。
爪先にあたる微かな感触に視線を落とせば、金糸の装丁鮮やかな装飾が施された絵巻物が、長く伸びている。
岩絵具でもって伸びやかに描かれているのは、異国の獣の姿。
峻険な岩肌を登るのは、巨大な巻角を持つ鹿の群。
それを狙うのは、長く太い尾が特徴的な、白地に黒い斑点も優美な雪豹であった。
その息遣いまでも聞こえてきそうな、厳しい大自然の営みを描いたかと思えば、樹海奥深くで眠る虎の親子の姿や、花咲く野にて、その年に生まれた子らの戯れを眺めるつがいの羊の微笑ましさよ。
大陸に渡った名も無い絵師が、その生涯を費やしたと言われる絵巻であった。
「また書庫から鳥獣封筆絵巻を出して、そのままに。主様がいないと、この有様なのだから、、、」
一先ず、膳を置いて膝にて巻き始めれば、ひたひたと音がする。
「あれ、、、」
その視線の先。
軒下を、ぎこちなく歩いているものがある。
一抱え程のその体は、透けていた。
よろよろと頼りなげに体を震わせ、床の上で蟠ると、
「いの、しし?」
首を傾げた汪果の視線の先で、
にぁあ…
水へ戻る寸前に、小さく鳴いたのだった。
同日、その少し前に、遡る。
長雨も止み、久しぶりに晴れた日の事であった。
池が、ある。
ふっくらとした大振りの蓮の蕾が、その葉に露を結んだまま、穏やかな風に揺れている。
湿気で肌を不快にべたつかせる陽気なのだが、水の上を渡る風は、涼しかった。
母屋の中庭にある、この小池。
ここから水が湧き、母屋を抱くように広がる庭の大池へと流れ込んでいる。
池へ降りれるようにと石段が組まれているのだが、その石段の上にしゃがみ込んでいる者がいる。
「む、、、」
両の手首を水に浸けた伯と、
「袖が濡れますよ、若君」
その袖を後ろからたくし上げるのは、琲瑠。
琲瑠の心配を他所に、伯は手で水を掬うと、石段の上にて手を開いた。
とろとろと毀れる水が、震えながら纏まると、五つの突起を持つ塊になった。
「お上手ですね、若君」
しかし、すぐにそれは水へと戻り、石段に水の滲みをつけた。
「、、、、、」
項垂れる、伯。
「初めてにしては、上出来だと思いますよ」
穏やかに微笑む琲瑠の声。
しかし、
「あ」
あっちに行けとばかりに、押し出された。
渋々、欄干に手をかけて石段を上がり軒庇の下に立つと、華奢なその背中を見つめる。
袖が濡れ、裾が水を吸うのもお構いなし。
水から取り出す、新しい命。
透明な、水を媒体にした式神。
― 主の不在は度々あったが、こんな事は初めてだ ―
欄干に腕を乗せ、その上に顎を乗せる。
足元をよろよろと這い出して行く、式神もどきを尻目に、
― その器に封じられる事が、もどかしくなられたのかな?嗚呼、そうならそうと、わたしにお命じくださればいいのに、、、 ―
琲瑠の切ない、溜息だ。
大内裏。
平素その男が訪れると武官、文官、公達もまるで腫れ物を扱うかのように、道を空ける。
おまけに物珍しさか、遠巻きに眺め見る者まで出る始末。
「しかし、大した事なかったなぁ、、、」
今日は、その傍らに一人の武官の姿があった。
騒ぎに、執務を抜け出して合流した燕倪である。
帝に呼び出され、向かった先は、後宮。
そこに住む女御達が、夜更けに白い影が奔るのを見たと怯えるのだと言う。
実際にその場に立ってみても異変は感じられず、ただ、植木の根元が掘り起こされている。
そこで手隙な衛士に命じ、床下に潜らせる事にした。
袖を捲くり、真っ先に潜ろうとする左少将備堂燕倪。
衛士らの手前、さすがに手で制したのが都守耶紫呂蒼奘、その人であった。
若い衛士らが潜ってしばらく、床下から声が上がった。
どこから紛れ込んだのか、ハクビシンが住み着いているではないか。
野に放つよう命じると、取り急ぎ報告を済ますために、踵を返したところであった。
「大方、いずこかの女御が、慰めに連れてきたんだろうよ。とにかく、呪詛や物の怪の類で無くて、良かった」
「、、、、」
「?」
見れば俯くその顔、長く白い髪に隠れて表情が見えない。
「おい、蒼奘。聞いているのか?」
微かに開いた青い唇から、荒い吐息。
「、、、、、」
燕倪は、その細い顎先から汗が滴り落ちるのを、見た。
「お、おいっ、、、そ、蒼奘――ッ」
傾ぐ、体。
どっと、床に倒れ込む蒼奘を、すんでのところで燕倪が支えた。
その拍子。
仰け反った貌は、いつにもまして蒼白であった。
だらりと、投げ出され伸びた、腕。
その左腕に、視線が吸い寄せられた。
「!?」
袖から現われた、腕から先。
「しょ、少将殿っ、どうなされましたか?!」
咄嗟にその腕を隠すと、慌てふためく女官らに笑顔を向け、
「何、いつもの事です。この陽射しに、やられたんでしょう。少し休めば、良くなります」
その長身を、軽々と肩に担ぎ上げたのだった。
「清親、すまんな、、、」
騒ぎに逸早く気づき、通りがかったのは、天部清親。
内裏に隣接された、当直の者が仮眠を取るための一室を、空けてくれた。
「気にするな。しかし、お前が付いていて幸いだったな、、、」
差込む、初夏を思わせる陽射し。
それを几帳で遮り、寝かせた蒼奘の傍らに二人。
扇子で風を送る燕倪と、布で汗を吸い取る清親。
「他の者だったら、余計な動揺を宮中にもたらしていただろう」
「そうかもしれんな、、、」
燕倪は、蒼奘の左腕を思い出していた。
「いつにも増して早々に、報告を済ますつもりだったって事は、恐らく、この事態も想定していたのかもしれない」
「そういえばこいつ、季節の変わり目には必ず、体を壊していたな、、、」
清親の切れ長の眼差しが、昔を懐かしむのか穏やかな色を宿す。
「ああ、そうだったなぁ。鳳祥院の屋敷の庭先でメジロを捕まえては、見舞いに持って行った」
「我らは小鳥を捕るのが、得意だった」
「鳳祥院と蒼奘は、てんでだめだったよな」
養生するその慰めにと、鳥黐をつけた長竿を振るった幼い頃が、今は少し懐かしい。
「そのうち、眼を覚ましてくれればいいが、、、」
「ああ、、、」
二人が黙った時、几帳の向こうから人影が伸びた。
「中将殿、陰陽頭より遣わされた銀仁と申す。都守が倒れたと伺ったのだが、、、」
「おう、銀仁。こっちだ」
几帳の脇から、燕倪が顔を覗かせた。
「失礼する、、、」
現われたのは、白袍を纏った長身痩躯の男。
人の色彩を纏った銀仁だ。
「清親、大陸からの渡来人で、陰陽頭のところに世話になっている銀仁だ」
「天部清親だ」
「弓をよくしてな。最近じゃ俺の狩りに、付き合わせている」
快活な笑顔を銀仁に向けるものだから、
「そうか。燕倪も都守も、皆、私の幼馴染でな。清親と呼んでくれ、銀仁」
つい清親も素性を疑わず、信じてしまったようだ。
「む、、、」
正午を知らせる鐘が、帝都中の寺で、鳴り響いている。
「すまぬが私は、今日中に決めねばならぬものがあってな。後宮での一件は、私から帝に、報告奉る」
「助かるよ。後は任せておけ」
「ああ。何かあれば、言ってくれ」
清親の足音が通り過ぎていくのを見計らって、
「いったい、何が起きたのだ?一大事とばかりに、衛士の一人が、充慶殿が元に飛んできたぞ」
銀仁が、問うた。
「まずいよな。完璧に、失態だもんな。都守が宮中でぶっ倒れるなんて、、、」
燕倪の溜息が、応じた。
「さっさと目を覚まして、いつもの不遜極まりない態度で、御所から出でくれればいいんだが、、、」
燕倪は、薄手の掛け布を捲った。
伸ばされた左腕。
長い袖に隠れた腕を、晒す。
「?!」
銀仁が、はっとして燕倪を見つめた。
黒く枝分かれした痣が、白い肌に禍々しく伸びている。
燕倪は、無言で腕を隠すと、掛け布を戻した。
「中将は、、、」
「いや。倒れた拍子に垣間見えて、咄嗟に隠した。俺が気づいただけだ」
どうせなら気のせいであってほしかったのだが、改めて見ても、黒い蛇のような痣はそのまま腕に巻きついていた。
「充慶殿を、呼んでこよう、、、」
銀仁の低い声音に、
「だが、それをきっとこいつは良しとしないと思うが、、、」
「充慶殿は、都守に借りがある。懸念する事態には、ならんさ」
「、、、そう、だよな」
燕倪が、頷いた時だった。
「、、、、、」
その上半身が、起き上がる。
「蒼奘?!」
額の辺りを押さえたまま、
「耳元で、喚くな、、、」
鬱々とした、いつもの口調。
「大丈夫なのか、都守?」
「銀仁か、、、ここは、御所、、、」
「ああ。後宮でぶっ倒れたから、俺と清親が、ここに運んだんだ」
「そうか、、、どれくらい経った?」
「半刻程だ」
「半刻、、、か」
長い髪を掻きあげ、一つ息をつくと、
「おい。まだ休んでいた方が、、、」
「ああ、屋敷で休む、、、」
緩んでいた肩紐を結び直して立ち上がる。
「清親が、お前に代わって、仔細を報告してくれたはずだが、、、」
「そうか、、、好都合だ、、、」
「お前、その言い方は、、、おいっ」
そのまま廊下に出ると、痣について問う間もなく、足早に去ってしまった。
不遜な態度を望んだが、いざその様子を目の当たりにすると、少し苛立ちさえ覚える燕倪であった。
「気を悪くしないでくれ、銀仁。あいつは、いつもあんな調子なんだ、、、」
「ああ、気にしてはいない。だが、都守のあの痣、、、」
「そうだなぁ、とりあえず、充慶殿には伏せておいてくれないか?今晩、俺が聞いてみるよ」
いつにも増して、その怜悧すぎる態度に心を乱されている自分がいるのを痛感しつつ、溜息交じりに頼めば、
「分かった。何かあれば、力になろう」
虎精とは言え、話の分かるこの存在に、少し救われた気がしたのだった。
月の決まった日に、御所に献上する季節の花々を育てる、花守の屋敷。
永寿宮。
門を叩いた若者は、水干姿の少年に案内され、広大な敷地の一画へ。
青々とした苗木が、整然と植えられたその新緑の中に、蹲っている者がいる。
「老爺」
額の汗を拭って顔を上げたのは、袖無しの灰鼠の着物を纏い、帯の替わりに麻縄を結った腰の曲がった枯れ木のような、翁。
よく陽に焼けた褐色の肌に、榛色の細い眸。
癖の強い長い白髪を、柳の若い枝でもって無造作に束ねている。
「ああ、、、」
「どうぞお構いなく、暮云殿。我儘を言ったのは、当方。いつまででも、待ちましょう、、、」
「そうか。今、菊の鉢上げの最中で、手が離せぬ。もうすぐ終るから、少し待っていてくれ。おい、茶を、淹れてやれ」
「はい」
白髪、白髭の老人とは対照的に、色の白い少年が若者を母屋の南側へ。
そこには、帯状に伸びる彩の絨毯。
花菖蒲、金糸梅、姫百合、時計草、木槿、夾竹桃、萩、梔子、撫子、七段花、岩菲、等々、、、
渡り廊下が伸びたその先に、瀟洒な阿四屋。
籐の長椅子と卓が置かれたそこに腰を下ろすと、見渡す限り一面の花畑を渡る涼風が、肌を弄う。
程なくして、茶盤を持った少年が現われた。
茶器が触れあう、軽やかな、音。
蓋碗が返され、甘く漂う、芳香。
そして、茶葉が開く微かな、声。
流れるように無駄が無く、それでいて洗練された少年の一連の所作に、眼を細める若者。
「これは良い香りだ。黄金桂ですな」
茶海へと注がれ、差し出される聞香杯。
琥珀色が、揺れている。
口に含むと、香りと甘味が舌先に広がった。
「宵藍殿、また、腕を上げられましたね、、、」
少し照れたように俯くその傍らに、
「待たせたな」
腕に鉢を抱えた、暮云が立った。
土に汚れた手。
藁で編んだ長靴は、泥塗れだ。
「この子でいいのだね?」
若者は、大きな葉を付けた枝振りのしっかりしたその鉢を、腕に抱いた。
「ええ。ありがとうございます。主も、喜びましょう」
「この酔芙蓉。陽の光が大好きでな。水も、たくさんやるんだぞ」
持参した布で手際よく鉢を包む若者に、
「しかし、そなたはことごとく、わしが良いと思うた子らを、攫ってくれる」
暮云の皮肉である。
「花守のご指導の賜物でござます」
「言うてくれるな。まぁ、わしも、この子らを望む先が、この子らにとっても幸せだと思うようにしているのだがな、、、」
「その意に添えるよう、我らもいっそう花作りに精進致します」
正午を告げる鐘が、遠くわんわんと響いている。
「ああ、もうこんな時間ですか、、、」
礼を言って若者は、鉢を抱いて立ち上がった。
「送ろう」
暮云と宵藍が、門前まで見送ってくれた。
深々と一礼した若者の向かいで、
「またな」
暮云の澄んだ声音が合図だったのか、門が閉められた。
固く閉じられた、その門扉。
それに背を向けて、往来を歩き出した時だった。
「おや、、、」
視界の先。
彼方を行く、白い背は、、、?
屋敷の離れ。
すっかり陽が長くなった、宵闇迫るその時分。
北東の深藍に彩られた山稜のちょうどその上に、とろりと琥珀色した満月が、掛かっている。
― あの痣、、、 ―
先に着替えを済ませるため、窮屈な白袍の襟を寛げた時だった。
「銀仁、どうしたのじゃ?」
庭に出ていたあとりが、その姿を見つけて声をかけた。
少し後ろに、侍女が鋏を持って控えている。
「あとり、、、」
「いつもより、眉間に皺がよっておる。宮中で、何かあったか?」
「いや。少し、大陸の事を、考えていた」
「本当に?」
小首をかしげる幼い主を見つめる銀仁の眸に、穏やかな感情が滲む。
「ああ。それより、そんなにたくさん摘んで、、、」
腕を組んで覗き込んだ先に、あとりが抱く、蕾のついた芍薬の枝の数々。
「今年はたくさん蕾をつけた。明日には咲くだろうから、今日のうちに花生けにでも生けてやれば、朝には寝所に香りが満ちるであろう」
「そうか、、、」
「母上と、ご多忙の父上の寝所にも飾るのだ。姉上もご所望でな。夕餉の前に、これから、置いてくるところじゃ」
侍女を連れて駆けてゆく、あとりの背中。
銀仁がひっそりと、見送っている。
門前に一対、煌々と明るい篝火。
帝都の一大事とあれば、夜半でも使いの者がすぐに都守の屋敷と分かるようにとの配慮だ。
その炎に誘われたのは、何も救いを求める者だけではない。
身を投じて、次々と灰と化す、哀れな羽虫達。
そして、
「、、、、、」
今日は、その灯火の下に、もう一人。
とっぷりと日が暮れた時分、熊笹を敷き詰めた竹笊を手にした燕倪は、足を止めた。
家路を急ぐ者達も、疎らな往来に面した屋敷の門前に、しゃがみ込んでいるのは、
「伯。何してるんだ?」
「、、、、、」
焼け残って大地に落ちた片羽や触覚を、手にした枝で集め、組み合わせてはばらしている伯だ。
くん…
顔を上げて、鼻を鳴らす。
燕倪が竹笊を振ると、甘く香ばしい香りが漂った。
「肴を持ってきたぞ。若鮎を焼いて干してな。甘辛く煮付けたものだ。これでいっぱいやろう」
「、、、、、」
「どうした?お前、甘露煮好きだろ?」
ぷい、とまた大地と睨めっこ。
どうしたものかと、思案している所に、
「燕倪様」
「おう、琲瑠。蒼奘の見舞いに来たぞ」
竹笊を渡しつつ言えば、琲瑠の表情が優れない。
「それが、まだお戻りになられていないのです」
「なんだと?だって、あいつ昼過ぎに、、、」
「急な、御上のお召し。ここしばらく、お顔の色が優れませぬので、汪果と案じてはいたのですが、、、迎えにと、寄越す式神も参りませんので、何か用事が出来たのだと、、、」
「いったい、どこをほっつき歩いてやがるんだ」
頭を掻きつつ辺りを見渡したところで、家路を急ぐ者の中に当人が見当たるはずも無く、
「若君も、お帰りを待つのだと、ここを動かれなくて、、、」
視線の先に、伯の姿。
「健気なやつめ」
いたたまれず、華奢なその背中を羽交い絞め。
「あぐうっ」
太い腕が首に食い込み、厚い胸板との間で呻く、伯。
その様子を、往来の人々の白い目。
父親と子に見えなくもないが、この親に対してこの子では、少々脆弱すぎる。
それが、往来で人の目を引くのだろう。
「あの、、、どうぞ中でお待ち下さい」
視線に気付いた琲瑠の苦笑。
「あ、ああ」
「ぐきゅぅ、、、」
琲瑠を案内に、ぐったりとしている伯を、小脇に抱え直した時だった。
「もし、、、」
えも言えぬ荷葉の香りが、鼻腔をくすぐる。
「蒼奘殿の行き先なら、宛がありますが、、」
振り向いた先に立っているのは、
「そなた、どこかで、、、」
さらりと纏うのは、卯の花の襲色目の直衣。
長い黒髪を編んでその肩に垂らした、中性的な若者が門前に佇んでいる。
「ううっ」
伯が犬歯を剥く、その相手。
「胡露と申します」
優美な物腰の若者は微笑み、右腕を擦った。
「あっ、、、お前ッ」
「先の騒動では、大変お世話になりました」
砂色の髪、銀毛の耳も尾も見当たらぬが、夜都にて対峙したその相手と同じ顔をしていた。
その際に負わした脇差の傷は、跡形も無い。
ただ、白く滑らかな肌を持つ腕が、袖から垣間見えた。
「燕倪様、こちらはこの都の産土が眷族であらせられます」
憤慨しているのも明らかな燕倪と、どこか愉しげに見つめ返す胡露。
その間に割って入った、琲瑠だったが、
「産土だか、何だか知らないがな、伯の腹を抉った相手だぞ?!」
「むうっ」
伯も、燕倪の脇から腕を伸ばし、腰の業丸の柄を「構わず抜けっ」とばかりに叩いている。
「嫌われても、無理はございませぬ、従者殿。わたしはそれだけの事を、成した者ですから、、、」
「しかし、、、」
さすがの琲瑠も、往来での一触即発の空気に表情を曇らせたまま。
「中へどうぞ、皆様」
凛、と響く女の声。
「汪果、だがこいつはっ」
「中へ」
有無を言わさぬ汪果の微笑が、そこに在った。
阿四屋の軒下に吊るされた灯篭。
虫除けの香木が焚かれたそこに、汪果が注ぐ新茶の香りが漂った。
薄手の辰砂の釉薬鮮やかな薄手の茶碗。
その温もりを愉しむのが、胡露。
向かいで一息に茶を飲み干したのが、燕倪。
そして、少し離れて立つ琲瑠の袖を、掴んで佇むのが、伯。
「丸みがあって、深みがある、、、」
「毎年この時期になると、先代縁の方が、遠路遥々届けてくださるのです」
汪果が、とうに空になった燕倪の茶碗に、もう一杯注ぐ。
「胡露様、それで、我が君の行き先の宛、お伺いしても宜しいでしょうか?」
静かに問う、汪果に頷くと、
「昼前に御所近くの花守の屋敷へ、馴染みにしている探花使が眼をつけた酔芙蓉を一株、代わりに譲り受けに参ったのですが、その帰りに、、、」
声を掛けるにしても、その背は彼方。
腕には、譲り受けた酔芙蓉の鉢。
どこか危うげにさえ見えたその背が、北西の黒亜門に消えるのを見届けて、引き返したと言う。
「先程、主が斗々烏より戻りまして話しました所、一応確認して参れと申されて。都守のこと、てっきり戻られているとばかり、思っていましたが、、、」
胡露が、眼差しを伏せた。
「しかし黒亜門、その向こうと言いますと、、、」
辺りの地理に詳しい汪果が、燕倪の顔を見つめた。
「墨依湿原、、、」
その人の口から零れた、名。
かつて、蒼奘が幽世に渡る為に訪れ、そして死人還りとなって現われた地でもあった。
「いったいまた、どうしてそんなところに、、、」
「さて、、、」
「、、、、、」
伯が、琲瑠の袖を離した。
たっと、門へ向かって走り出す。
「若君っ」
琲瑠が追おうとしたその視線に、広い背中。
「待てよ、伯っ」
門の前で追いついて、掴えた。
「あむむむ」
爪を齧って睨む伯に、
「水くせぇなぁ。ここまで来て、置いてきぼりは、よしてくれ」
「、、、、、」
「俺も行くさ」
そのまま、大人しく小脇に抱えられた、伯。
「今、馬を出しますから、お待ち下さい」
琲瑠の声が、どこかから聞こえた。
劈くような声に見やれば、刀を振り下ろす野盗の前に、母子。
すでに絶命した亡骸の上にて縋る、幼子。
手足を縛られ、頭上に広がる水面に手を伸ばしつつもがくのは、若い巫女装束の娘。
そうかと思えば、幾千もの鎧兜を纏った兵士が、骸の原を築き、川はその血で染まっていく。
草叢で、野犬に襲われる身寄りの無い子らの叫び。
喉を掻き毟るように苦しみ、息絶えんとする若い女御。
捕らえられ、無実を叫ぶ若者に突き入れられる、鉾。
あばら屋に放たれた炎に、巻かれる老夫婦。
「、、、、、」
瞼の先で展開されるのは紛れも無い、この身に巣くう者達の、その記憶。
耳孔にひどく残る、声を忘れた者達の叫び。
魂魄を喰らい、鬼とせしめる、想念。
人々と向き合う毎に増幅し、日が経つ毎に、増長した。
押さえきれぬその想いの矛先は、歪められ、今だ帝都に向けられている、、、
「薄気味悪いな、、、」
首筋に止まった羽虫を、ぴしゃりとやりながら呟いたのは、燕倪。
琲瑠が引いてくれた月毛に跨っている。
黒亜門の向こうに広がる貧困街。
あばら家が軒を連ねるその界隈を駆け抜け、日中、荼毘の煙が絶えない川原を背に、荒涼とした草叢の中を行く。
「、、、、、」
立ち込める夜霧に怯えたのか、燕倪の胸に隠れているのは、伯。
飛び出して行った勢いはどこへやら、、、
『私は多少、鼻が利きますので、差し支えなければ同行致しましょうか?』
『結構だっ』
『かぅうッ』
胡露の申し出をあっさりと断った二人は、共に行くつもりだった琲瑠を待たず屋敷を飛び出したのだった。
「また、異界にでも渡るつもりなのか、あいつ、、、?」
「、、、、、」
「なぁ、伯」
懐から、翡翠の連珠を首に掛けた伯の大きな眸が、見上げてくる。
「お前、あいつの左腕の事、知ってるか?」
「、、、、、」
伯が、眼を伏せた。
そのまま、再び燕倪の胸に頬を寄せる。
ぎゅうと、しがみつく手の力が、強くなったのを感じた。
「知らぬはずが無いか、、、」
琲瑠が言うに、その傷は、左肩から伸びていると言う。
怨敵槇廼尭元によって、与えられた傷。
「まぁいいさ、、、」
伯の背をあやすように叩くと、
「首に縄つけても、引きずり戻すぞ、、、」
墨色の水を湛えた湿原に、馬を進めたのだった。
クオォォォオ――ンッ
「ぬおっ」
突然、前脚が跳ね上がった。
咄嗟に手綱を引き締め、
「浮葉っ、、、」
その名を呼んだ。
ブルッ、ブルルル…
輪乗りして落ち着かせると、ゆっくりとその脚を止めさせた。
低く喉を鳴らせる、浮葉の首筋を擦り、
「この先か、、、」
己が腕を、擦った。
泡肌が、立っている。
馬から降りると、膝下までぐっしょりと濡れた裾が、重く纏わりついた。
「なふっ」
「おい、、、」
伯が胸から攀じ登り、頭にしがみつく。
「前が見えん」
「っ」
「伯、、、?」
引き剥がそうと襟首を掴んだところで、冷やりとした肌に触れた。
「お前、、、」
腕に抱きなおせば、小さく身を折り曲げて震えている。
青ざめた、唇。
噴出すのは、冷たい汗か、、、?
― この感じ、、、そうか、伯は以前これと同質の闇の中で、あの男に体を裂かれた、、、これは、瘴気か? ―
袖で汗を拭ってやると、その体を馬の背に。
「そこで待っていろ」
「エンゲッ」
「心配すんな。すぐにあいつを連れてきてやる」
その霧の向こうへと消えてゆく。
「ぁ、、、」
一度は舞い降りようとして、馬の首にしがみつく。
その闇色の水が在るだけで躰が、裂かれた痛みに、疼く。
「ぁぁぁああっ」
もどかしい、叫び。
しかし、無情にもその叫びすら、深い霧に閉ざされてしまうのだった。
― ここは、、、地獄!? ―
目の前で繰り広げられているのは、紛れも無い。
人が、浅ましい性質を見せ付ける光景だった。
わんわんと耳を劈く赤子の叫び。
息絶えて尚、無念を叫ぶ怨嗟の声。
怒りに染まり、鬼と成り果てた者達が見せる世界が、そこには在った。
― こんな世界は、、、哀しすぎる、、、 ―
闇の中に、散らばる大小様々な鏡。
その鏡面に映る様に、あとりは自身の肩を抱いた。
うぁぁあああ…ん… ぁぁぁああ…
その中のひとつ。
鏡面に映るのは、あばら家の中で血に塗れた母に縋る齢三つか四つの、童子。
― 何故、こんなっ、、、 ―
いたたまれず、その指先が鏡面に、触れた。
「、、、、、」
闇の中を、漂っていた男は、闇色の眸を開いた。
左半身に纏わりつく赤黒い霧を、そのままに、わんわんと木霊する異形の者達の慟哭に耳を澄ましていたのかもしれない。
涼しげなその双眸が、闇から色を変えてゆく。
瞳孔鋭い、金色に。
その果てを、見通す為に…
気がつくと、熱く小さな体を、抱きしめていた。
「ぁぁぁああっ、、、」
顎の下に、癖の強い黒髪が蟠っている。
鼻腔を突くのは、赤錆と雨、そして土の匂い。
外は、雷鳴轟く、嵐の夜であった。
「っ、、、」
その子を強く抱きしめた手が、生温かく、滑った。
調度手の下には、乱れた着物の女が、背を袈裟掛けに斬られて伏している。
その向こうに折り重なるように、老いた夫婦が息絶えていた。
「ぁあああッ」
板を何枚も打ち付け、立て掛けただけの板戸。
土間に倒れたその向こうには、数人の野盗が、手に手に抜き身の太刀を提げて集まっている。
― あやつらが、、、 ―
取締の管轄外である貧困街では、日常茶飯事なのかもしれない。
「う、、、うぁぁぁああッ」
腹腔を震わす声音と凄じい力に、あとりは振り払われ、尻餅をついていた。
「あっ、だめッ!!」
視線の先に、華奢な背中。
腕を払い上げた童は、土間に転がっていた木切れを手にして、嵐の中を走り出して行く。
「だめ――ッ」
たまらず、その童を追いかけようとする視線の中、気づいた野盗の一人が無造作に太刀を上げた。
その口には、蹂躙する事をなんとも思わぬ、笑み。
木切れを振りかざすその童にめがけて、無慈悲の太刀が振り下ろされる。
「これは、私が負う夢だ、、、」
静かな、聞き覚えある声が、頭の上でした。
あとりの視界には闇と、耳には静寂。
そして背に、温もりが在った。
「都、守、、、?」
あとりの問いに、
「ああ、、、」
男は、静かに応えた。
「童が、、、」
あとりの目元は、白い浄衣の片袖で覆われた。
「見れば、魅入られるやもしれぬ、、、」
「あいにく、この天羽花鳥、見ずして通れぬ性分でな」
鼻息荒いあとりに、青い唇の端が吊りあがった。
「姫よ。それは、あの男の前だけにしておけ、、、」
静かな、声。
「そなたの身を案じ、そなたの存在を、生きる支えに据えた者だ、、、」
その言葉に、
「銀仁、、、」
あとりが小さく、息を吐いた。
「その手が届く内ならばその性分、可愛げがあろうよ、、、」
「ぬ、、、可愛げなど、無くて結構じゃっ」
腕から出ようと暴れるあとりの耳の後ろに、
「ひとつ、、、」
今までよりもずっと低い声音が囁いた。
身を強張らせたその耳元で告げられたのは、
「その力、寿命を削る、、、」
血の気が引く、それは唐突な忠告であった。
「、、、、、」
腕を掴む手に力を込めた、あとり。
「見ずして行けるのであれば、このように瞼を閉じる事も、今のそなたには必要なはず、、、」
「都守」
「子らの願いや想いは、一途故に強く現れる。その身を犠牲にしても、厭わぬ程に、、、」
あとりの手が、蒼奘の腕に回った。
強く、ただ、強く。
そして、しばらくの沈黙の後、
「分かっている、、、」
呟いた。
腕を抱く力とは裏腹に、それは静かな声音であった。
「そうか、、、」
打って変わって穏やかな口調が、応えた。
目元を覆っていた袖が、外れる。
あとりは、何も無い闇の中に立っていた。
傍らに、白い髪を長く垂らした都守の姿。
「仔細あって、私はまだ、ここを離れる訳には行かぬが、、、」
懐紙を取り出すと、手の中でひとりでに折れてゆく。
その姿が、鯰を模した。
光の粒子を纏ったかと思えば身震いし、一抱えはある白い大鯰へ。
生まれ出でた喜びか、宙を舞う、その鯰。
「これと共に行け。夢の浅瀬へと誘ってくれる、、、」
長い髭の一端を、あとりに握らせると、その背を押した。
「都守、、、本当に、大丈夫なのか?」
何を負うのかは、分からない。
分からないが、己がこの男の夢路に入ったのであれば、あまり良くない事が起きている前兆だ。
不安気に振り向くあとりに、
「私の事は気にするな。自ら招き入れたこの程度の想念に、喰われる事は無い」
いつもの不遜な笑みを、向けた。
あとりの歩みに合わせて、緩慢に進む白い大鯰。
時折振り向くその姿を、遠く見送って、蒼奘は呟いた。
「この記憶は、私が預かる。ゆっくりと、休むが良い。夢は、約束された彼の地が交わる‘点’なのだから」
墨依湿原。
温く裾に纏わりつく、そのまま墨であるかのようなとろみを帯びた、水。
枯れた葦や、山肌から転がり落ちたのか、どこまでも浅い湖面に、老木が巨大なオブジェのように現われては、深い霧に呑まれて行く。
生物など居ないかのように思われる有様だが、すぐ傍らを仄白い魚影らしきものが背鰭を水面から覗かせて泳いで行くのを、何度も見送った。
「いったい、どこにいやがるんだ、、、」
足を取られつつも、杖代わりについた木の枝でもって体を支え、前へ前へ。
「この濃霧じゃ、方向も分かったもんじゃないない」
見回せば、微かに登った月明かりが頭上を覆う夜霧を透かして、射し込んでくるだけで、四方は霧の壁である。
「心なし、深くなっている気もしないでもな、、、ん?」
光るものが、視界に飛び込んでくる。
眼を瞬かせ、その輝きの方へ。
「これは、、、」
紅く、白く、蒼く、煌くその光の粒が、湖面に浮かんでいる。
手を伸ばし、指先が触れたものは、
「ほ、し、、、?」
湖面に映った、空の星。
揺らめいて、体を起こした燕倪の影に遮られれば儚くも、消えてしまった。
「ここ、、、は、、、」
無数の星を映すその先には、濃霧が晴れた空間が広がっていた。
闇色の湖面に、たゆとう冴えた輝き。
まるでそこがそのまま夜空の中であるかのような、不思議な感覚。
碧の尾を引いて、奔る箒星が流れるその中に、黄金色の輝き。
ほんのりと紅く潤んだ、巨大な望月が、湖面に揺れていた。
湖面に映りこむ月を抱くかのように、朽ちた巨木が、横たわっている。
その太い幹を、抱くようにうつ伏したる白い、人。
「蒼奘ッ」
湖面を揺らし、月の輝きも星の刹那の瞬きも、細波に呑まれてしまう事など構わず、
「こんな辺鄙なところで、倒れやがってッ」
口を大にして叫ぶ、燕倪。
握り締めた拳を、振り上げながら歩み寄ったところで、
「おぉぉおおッ」
深みに足を取られた。
「ななっ、、、」
見る見るうちに膝上、腿、そして腰と呑まれ、あっという間に、肩。
「くっ、、、」
底に届けよと伸ばした大太刀、業丸。
― こんなところでっ ―
しかし、そこに当たる気配も無い。
「お、覚えてやがれっ、蒼奘――ッ」
叫び声も虚しく、その体は、ゆっくりと黒い水に呑み込まれて行くのだった。
闇を湛えた双眸が、不機嫌に細まる。
頭上に映る月と、それを囲むように点在する星々の輝き。
それが、波打った。
― また、厄介事を、、、 ―
腕を組んで、忌々しげに睨んだ先に、
「結界が、崩れるか、、、」
頭上彼方から染み出る黒い水を、見た。
轟々と腹腔に響かせ、闇に白々と飛沫を刻む勝間の大滝。
冷やりとした夜気に、凛と張り詰める大気。
樹齢数百年、いやそれ以上を数える木々が、闇にひっそりと沈んでいる。
彼方に茫洋と浮かび上がるのは、帝都。
大滝を背に、開けた視界を前にして腕を組み、浮遊している者がいる。
燐光放つ、その姿。
臙脂と藤色の衣を纏った、女童。
深紅の双眸も炯々と光る勝間の山の地仙、檎葉。
しかし、その目が見つめるのは、帝都ではない。
「都守が敷く星中の陣が、崩れた、、、」
帝都よりも、もっと手前。
「湖面に映る星の並びが歪めば、結界とは呼べぬ。何者かが、こんな時分に足を踏み入れたと言うのか?」
霧にけむる、その湿原を。
ゴボッ・・・ボボ・・・ッ
闇に、囚われる感覚。
上がってゆく気泡も、見えない。
辛うじて、体が沈んで行くのだけが、分かる。
やがて、足に固い感触が触れた。
突っ張ればぬめるが、確かな大地の感触。
力一杯、その大地を蹴り、手を掻けば、頭上に倒木の枝が伸びていた。
無我夢中で掴んで、体を引き寄せると、肺は空気を思いっきり吸い込んでいた。
「はぁっ、ハッ、、、はぁッ」
ぐっしょりと濡れて纏わりつくのは、墨色に染まってしまった、直衣。
「は、ぁ、、、は、、、なんだんだ、、、ここは」
すぐ先に、瀬がが見えた。
重い全身を、水から岸に引きずり上げて見上げた彼方に、月が浮かんでいた。
黒い水が流れ落ちる、垂直洞窟。
突如として湿原に陥没したその孔の真ん中には、ヘドロ状の土がこんもりとしていて、衣が更に重くなる。
「くそっ、、、」
諸肌脱ぎになると、燕倪は辺りを見回した。
隆々と発達した筋肉質の上半身に、無数に奔る、刀創。
名うての太刀の使い手として、数多の修羅場を潜り抜けてきた証でもあり、逆賊と呼ばれた者達への制裁を行った忌々しい証、でもあった。
「どこに、、、」
ヘドロに足を取られながら、そのこんもりとした山を回り込み、
「蒼奘っ」
腕を投げ出して、うつ伏している人を彼方に見た。
足を取られながらも懸命に近寄る燕倪が、目にしたものは、
「お、、、」
右腕の先から立ち昇る闇色の粒子であった。
小さな足の爪先。
湖面に触れて、波紋を刻むのだが、
「ひゃぅっ」
弾かれたように、馬の背に攀じ登った。
「うぐぐ、、、」
ぎりぎりと、浮葉の上で爪を噛んでいるのは、伯。
馬も不安なのか、一歩もそこを動く事ができない様子。
見様見真似で腹を蹴っても、手綱で叩いても、びくともしない。
濃くなる霧。
黒々と蟠る水。
じわりと、伯の眸に滲む菫色の輝き。
「、、、、、」
目元を拭ってくれる手は、無い。
零れるままにして、伯は浮葉の鐙に両足を掛けた。
そのまま、鬣を掴みつつ、ずるずると落ちる。
「んぁっ、、、」
ぱしゃ…
黒い水が跳ねたそこに、伯が尻餅。
ぐっしょりと墨色と化す、水干。
硬直したままの伯の視界に、白い影。
水面に白い筋を引いて集まってくるのは、白い魚だ。
それまで隠れていたのが、無数の背鰭が蛇行しつつ同じ方向へと泳ぎ去って行く。
「、、、、、」
それに導かれるのか、伯は立ち上がると、重い袖を払った。
魚達が、彼方の霧へと、伯を誘う。