序章 ― 幻香 ―
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、序幕。。。
最初は、ただ見守るだけだった。
月の高い晩。
海中に、細やかな気泡が立ち上る。
その海域まで歩き、その穏やかで温い海中へと降りてゆけば、月光を浴びてゆらゆらと、蒼くもあり、翠でもあり、時折白々と、金色にも輝く巨大なものが波間に、たゆとっていた。
辺りには、白々と【儚い輝きを放つもの】。
その海域で生を全うした、それは、魂。
茫洋と、誘われたのか、一様に息を潜め、その時を今か今かと待っている。
羽化を待つ、その瞬間を。
やがて、、、
【たゆとうもの】が胎動を始めると、周りに漂う無数の魂は、その中へと吸い込まれていった。
その【もの】と共に天へと昇り、神の名を冠し、天上を舞いながら浄化されていく。
それが、待ちわびた彼らの宿願、だったというのに、、、
男は、その白々とした手を伸ばす。
今、白い狩衣は、水中であたかも強い風の中に在るかのようにはためき、月光で染めて紡いだ銀糸の髪は、靡いた。
長い指が、伸ばされていく。
ォオオォ・・・オォォォォ・・・
彼方で揺らぎ、姿を現そうとした【もの】をそうさせるのか?
海底の底から、湧き上がるのは紛れもない、
オォオオ…ンッ・・・
怨嗟の声。
露草の花の色を思わせる、青い唇が、微かに笑みを刻んだのは、伸ばしたその手を、ゆっくりと握りしめた時だった。
空気が、気泡となって毀れることもなく、
≪ しかと、その名、その意味、受け取った、、、 ≫
唇が、言葉の形を取った。
【たゆとうもの】は、急速にその胎動を早め、そして、
オ・・ァアアアア・・・ァ・ァ・・・
収縮していった。
かつて、その海域で死を迎えた者達の魂と、同じ形を取りながら、悲鳴のような音をか細く残し、
― 新たな名を、与えよう、、、新たな形と共に、、、 ―
握り締めたその手の人差し指が、伸びた。
ゆっくりと刻んだ文字は、
― 伯 ―
そのまま、神を現す、【名】であった。
赤々と光ったその文字がそのまま、弱々しくも胎動する塊に吸い込まれると、
ヒィイユ・・・
引きつるような音と共に、その姿が現れる。
放射状に長く伸びた輝きは、群青色した髪となり、突き出したものは白くか細い四肢となった。
華奢な造りの、その姿。
かつて、この地で人柱として海の神に捧げられた者の姿だと、その男は知っていたのだろうか?
緩やかに海面に向かうそれを見送りながら、神をも意のままに繰ろうとするその男は、
「、、、、、」
目を細め、その者が無事に海面に上がるのを、腕を組み、見守っている。
月明かりが冴え冴えと、幾重にも交錯する光の紗幕となって差し込む中、
≪ 我らが祖に、連ならんとするお方に、狼藉を働く輩がおると思えば、貴様か? ≫
≪ ぬ、貴様は、、、 ≫
低く、しゃがれた声音が、わんわんと辺りに響いた。
「久しいな、ウンベク、ウイベル、、、」
濃紺に、闇が交じり合う、深海の淵。
その辺りより、それぞれ馬の頭と牛の頭を持つ、四腕の異形、鮫龍が、手に四つ又の矛を持って泳ぎ寄る。
「神が顕現する様を、この目で見られるのなら、この上ない眼福だと思っていたのだがなぁ。実際に見てしまったら、気が変わってしまった、、、」
≪ な、、、 ≫
尊大極まりない、そのもの言い。
人よりも遥かに巨大で、強大な【深海の守】を前に、
「なんと言うのか、この上なく、いとおしむべきものだと、そうな、、、」
切れ長の闇色の眸が、睨める。
≪ 人の世に連れ出し、なんとする!? ≫
≪ 神は鬼とは違う。人の手に負えるものではないのだぞ ≫
「人の、なぁ、、、」
艶然と微笑むその男が、目を眇める。
「そうめくじらを立てずと、しばらく、我に預けよ。何、つつがなく天津国に送ると、約束しよう、、、」
≪ 貴様の暇を埋める存在ではないと、分かっておるのか?! ≫
≪ よせ、ウンベク ≫
馬頭の【深海の守】、ウンベクが、矛を握る手を震わせるのを、牛頭であるウイベルが、制す。
≪ 止めるな、ウイベルッ!! ≫
水流が巻き上がり、無数の渦を成して男に向かわんとする中、
「では、今すぐ、冥府に落ちるか、、、?」
その男。
狩衣の袂で口元を隠しつつ、目尻を下げた。
闇色に沈んでいた双眸が、黄金を刷き、瞳孔鋭くなると、その身を囲むようにぼんやりと浮かぶ、金色の将の姿。
≪ ぬ、八火業焔衆 ≫
呻いた、ウンベク。
≪ 、、、、、 ≫
そして、ウンベクを制したまま静観する、ウイベル。
「我を追えば、これらが代わりに汝らを阻もう、、、では、な、、、」
その言葉通り、舞い上がるその男を守るかのように金色の将が居並ぶと、
≪ ぐぬぬっ、、、 ≫
≪ 待て、都守ッ ≫
沸々と、煮え滾リ始めた、海域。
さすがに、声を荒げたウイベルであったが、ウンベクと同様に、陽炎のようにゆらゆらとくゆる、そこから先へ進むことができず、
≪ くっ、、、 ≫
ただただ、見送ることしかできないのだった、、、
夜の浜辺に打ち上げられた、裸躯。
群青色の髪は乱れ、浜辺に長く広がっている。
ぴくりと、指の先が動くとやがて、腕が曲がり、ずるりとその頭を擡げた。
「伯、、、」
その音に、顔を上げる。
月光の元で、淡く微笑む美丈夫が、手を差し伸べて、
「、、、、、、」
深くも、鮮やかに透ける菫色の双眸が漂い、その人へと焦点を結ぶ。
「ぁ、、、あ、、、」
少し置いて、力無く、手を伸ばした。
その手を取ると、男は衣の袂で包み込むように、その体を抱き上げた。
「ぅ、、、」
おとなしく、その胸に抱かれた童は真綿のように軽かった。
やがて、眩しそうに空を見上げると、そのまま大粒の涙をがこぼれた。
「月の明かり。産まれ出でたばかりのそなたの目には、まだ痛かろう、、、」
ころころと、玉となって転がり落ちたそれを拭ってやりながら、
「長い生だ。急くこともあるまい、、、」
その髪を撫でてやると、すんすんと鼻を鳴らしながら男の胸に潜り込み、桃色貝の如き爪を齧りながら、目を閉じた。
男はその身を抱いたまま、浜の先で待たせていた漆黒の馬に乗り上げた。
腕の中、もう寝息を立てているその童を見つめると、
「、、、、、」
夜の闇を渡るかのように、馬を奔らせたのだった。
※
「動くな。動くな、というのに、、、」
都。
阿智川沿いに広がる公家や武家、素封家の屋敷が居並ぶ、その一つ。
縁側に出て、水干姿の童を膝に入れていた男は、手から刃を取り落として、溜息。
「ぁ、ぁあ、、、」
ひらりひらり、、、
童は、己に舞い寄った蝶をその袂で上手に捕らえると、
「あんぐ、、、」
こともあろうか口に入れてしまった。
「、、、、、」
「んぐんぐん、、、」
しばらく咀嚼し、ぷぶぶぶ、と出すのを、懐紙で拭ってやりながら、
「伯、それは蝶というもの。お前の香りに誘われてせっかく寄ってきたものを、食べてしまうのは、哀しいことだ、、、」
「かふっ、、、かがっ、、、」
燐粉が喉をくすぐるのが、噎せるその背中をさすってやっているところへ、
「蒼奘」
直衣を纏った大柄な男が、案内の女に連れられ、姿を見せた。
大概の事には動じぬのか、異形の童を目の当たりにしても、濃い眉を僅かに寄せただけで、
「これはまた、奇妙な風貌だな。しばらく、留守をすると出て行ったのは、弟子を取るためだったのか?」
苦笑を浮かべ、尋ねた。
「気紛れに、地に縛り留めたのよ、、、」
「縛り留める?」
群青色の髪を切っていたのだが、動くものだから、首の辺りに絡まるぐらいの長さになってしまったらしい。
その髪を、手で梳きながら向き直ると、
「それより、燕倪、何用か?」
「それよそれ」
その向かいに腰を下ろした。
すぐに別の女が、酒の入った瓶子と杯を運んで、二人の前に置くと、
「すんすん、、、」
それまで空に視線を彷徨わせていた童、伯が鼻を鳴らし、身を乗り出す。
「伯、これが酒と言うものだ。人の世に、かくも素晴らしきものはこの他に無い」
「お、おいおい、子供相手に何を、、、」
「子供に見えるか?それはいい、、、」
くつくつと喉を鳴らしながら、なみなみと注いだ杯を鼻先に持っていってやると、菫色の眸が見開いた。
「んん、、、」
朱鷺色の可憐な唇が、漆黒に金の箔を散らした杯の淵に吸い付き、蒼奘が傾けるまま、
「こく、、、」
喉を鳴らして干してしまう。
「そ、蒼奘ッ」
「どうだ、美味いか?」
「ぅぁ、、、ぁ、、、」
手を伸ばすその童に、もう一杯満たしてやると、同じように手ずからそれを飲ませてやりながら、
「子供に、なんて事をするのだ、お前は?!」
「これは、人ではない」
「では、、、式神か?」
「そのようなものでもないが、今となっては、似たようなものか、、、」
「分かるように説明しろ」
「気紛れにと、そう言っただろう?ふふ、、、出るぞ、、、」
「は、、、?」
困惑した表情の燕倪を他所に、その視線は童の口元に。
「はぁふ、、、」
溜息にも似たその吐息が、青紫の小さな雲のように吐き出され、漂った。
しかもそれが、
「なんだ、、、このえもいえぬ芳香は、、、」
恍惚と蕩けた、その表情。
「霊紫というものでな、吸えば寿命を百年延ばすと言われている」
「な、、、」
「どうした?急がねば、消えてしまうぞ」
くすくす笑って言う男を、睨みつつ、
「別に俺は、そのように長く生きたいとは思わぬ」
「やはりお前は、奇特な男だ。この世には、それを望む者がごまんといると言うのに、、、」
杯の中、朝陽を映して光るその酒を、一息に飲み干した。
「ふ、、、」
相変わらずの呑みっぷりに、蒼奘が呆れたような、笑みを浮かべている。
「大体、そのようなものを出すとは、この童はいったい何者だ?鬼か?」
あまりにも現実味の欠けた、話。
さしもの燕倪も、ここから先を聞くに、酒の力を必要としたのかもしれない。
「生ける者の原型であったものよ」
「分らんといっている」
「人の世に習うのなら、神」
しれ、と言うと、蒼奘は再び酒を欲しがるその手に杯を乗せ、瓶子を傾けた。
「か、、、神?!」
「そうなる前に、私がその名と理を封じたがな、、、」
「お、おまえ、、、よりによって、か、神を、封じたのか?!」
「まだ生まれて間もない神よ。神という自我も無い。それにこうなれば、人の子と同じだろう?」
「おまえってやつは、、、」
呆れて額を押さえた。
「あふ、、、」
満足したのか、くったりと寝そべった童を膝に寝かしつけながら、柔らかな群青の髪を撫で、
「で、用向きは?」
視線はそのまま、問う。
「瑪甲の、伊禮正賢殿の屋敷にて起こっている怪異の事だ」
「聞いては、おる、、、経過もな、、、」
「話が早い」
燕倪の笑みに続いて、蒼奘は、目を細めた。
とろとろとまどろんでいた童が、眠りに落ちたからだ。
「そうでなくば、都の守は、務まるまい、、、」
「放っておいてもいい、そう言うことか?」
「散らぬ桜などない。ただ、それはそれだけの事よ」
「それでも、散ってもらわねばならぬのだ」
事の起こりはこうだ。
梅が香る如月に、伊禮正賢の若い女房が流行り病で死んだ。
死ぬ間際、桜が桜が、としきりに呟いていたと言う。
その年の春、遅咲きではあったが見事な花を咲かせた桜は、秋が迫ったというのにいっこうに散る気配がない。
それどころが、夜になると死んだはずの女房が立っているのを、使用人他、当の本人も目撃するようになったと言うのだ。
高僧に供養してもらっても、何にすがっても効果はなく、ついに気味が悪くなって、木を切ることにした。
しかし、いざ切ろうと斧を振るえば、高々と血を吹き上げたというので、いよいよ大事になって、蒼奘の数少ない友である燕倪に、泣きついたらしい。
「このままでは、伊禮殿が衰弱してしまう」
「私は別に構わぬが、、、」
「おいっ」
「そうなると困るのは、お前か、、、?」
「、、、、、」
この伊禮と言う者、香道を良くして、燕倪の師でもある。
黙りこくってしまった、燕倪に、
「まぁ、よい、、、」
蒼奘は、意味深な薄笑みを浮かべた。
「気には掛けていたところだ。明日は新月、影も無い。子の刻に、伺えるかな、、、?」
「おおっ」
珍しく二つ返事で引き受けたことに、喜び隠せぬ、燕倪。
大きく頷くと、
「お前が来てくれるのなら、首を立てに振ろうよ」
もうその姿は、階の下。
「屋敷の鍵を開けてくれる者だけいればそれでいい。いつものように休んでいて結構だと、伝えおけ」
「ああ、分かった」
忙しない足音を残し、逸早く知らねばと、もと来た方へと歩み去る背を見送って、蒼奘は、杯を手にした。
「、、、、、」
ただ今は、安らかな寝息を立てるその子を膝に、酒を飲みたいのだ。
星の輝きも秋の霞に、朧気に滲む晩であった。
先に伊禮正賢の屋敷の前に居た燕倪は、ふらりと闇の中から現れた白々しい美丈夫に目を疑った。
狩衣を纏い、白き髪を長く腰まで垂らした蒼奘が背に、
「お前、その子は?」
「まぁ良いではないか。裾を離さぬ子の手を、邪険に振り解くのも、おかしかろう、、、」
衣の裾を握り、爪を齧ったまま空へと視線を彷徨わせている、童。
その髪、眸共に闇を湛えているのを見ると、少しは人の目を気にするのか、蒼奘が術をかけたのだろう。
「お前も、人並みにそんな顔をするのだな、、、」
頭を撫でるその男の、切れ長の双眸。
その眸に湛えられた慈愛を、感じ取れば、
「悪いかね?」
しれ、と妙な色気を含んだ眼差しを、寄越す。
それ以上何も言わずに肩を竦めると、傍らで呆然としている若い男の背を押した。
「あ、主伊禮正賢は、実は昨日より遠乃院殿の元にお出になられ、お戻りには、、、」
「ふん、かつての恋女房がよほど恐ろしいと見えるわ」
「蒼奘ッ」
燕倪の窘めも聞かず、さっさと篝火の焚かれた門を潜ってしまった。
香道の権威だけあり、手入れの行き届いた庭の先には竜胆、撫子、萩と、季節の花々が彩り、さらにその先には蓮池を広々ととった、寝殿造り。
くん、、、くんくん、、、
鼻を鳴らす伯が、ふらりと蒼奘から離れると、四阿屋のある方へと渡り廊下を歩んでいく。
くるり、、また、くるり、、、
水干の袖を翻し、真綿のようにふんわりと舞い上がる。
「お、おい、、、」
燕倪が止めようと伸ばした手を、掻い潜り、奥へ。
咄嗟に蒼奘を見れば、
「これに月琴と酒があれば、な、、、」
慌てるでもなくうっそりと、嘯いたところであった。
「あ、あの、蔵に行けば、、、」
「亜児、間に受けるな。この男、性根がひねくれておるのだ。言うとおりにすると、損するぞ」
「はぁ、、、」
行灯を手にした若者が、項垂れる。
闇であった。
暗い闇。
気を利かせて、ところどころに篝火を焚いていてはくれるが十分ではなく、白い水干だけが、確かに一行を導く者であり、それが無ければ、当の桜に辿り着けたかどうか。
もっとも蒼奘は、薄笑いを唇に刷きつつ、時折辺りを睥睨している。
どうやらこの男、夜目が相当利くらしい。
「ま、まもなくです、、、ひっ、、、」
屋敷の裏手。
小高い築山に、鮮やかに狂い咲く、桜の老樹。
枝垂れては重そうに、しかし堂々としたそれに、伯が駆け寄った。
しかも、その身を抱き上げた手があるではないか?
茫洋と霞む白い輪郭に、燕倪が眼を凝らす。
その手が、急速に色を纏い、衣を纏った。
垂髪、単を纏った、一目で良家の出と知れる。風貌の女。
鈴の音のように軽やかな声が、腕の中の童に、何やら語りかけている。
さも愛しい者であるかのように、伯に頬擦りすれば、伯もまたころころと、鈴が転がったような音を出して、返す。
言葉にはならぬ、幽鬼の声。
「蒼奘様、あ、あれが、先に亡くなられた、ふ、芙蓉の方様です、、、」
腰にしがみつかれた蒼奘が、そのまま傍らで目を凝らす男に、
「間違いないか?」
「ああ、確かにあのお顔、、、奥方だ」
「では、問うてみよう、、、」
その桜に歩み寄ると、蒼奘が喉を押さえた。
ガカアルル・・・
それは声とは程遠く、譬えて言うなれば、詩を吟ずるかのように朗々と響く、異界の旋律。
「あ、あの燕倪様、、、あれは?」
「ああ、俺も初めて見た時は驚いたが、あいつは異界の言葉を解すんだ」
燕倪が見守る中、
キィルルルルッ
大気が、甲高い音によって、張り詰めた。
女の髪が、ざわざわと風に舞い上がる。
悲しみに震え、鬼と化すのか?
その女の腕で、伯が怯えた眸で蒼奘を見つめ、そして女の首にしがみついていやいやをする。
― どうゆうことだ? ―
さすがに燕倪が眉を顰めた時、蒼奘の右手が上がった。
心得た燕倪、
「そこを動くな」
「は、はひっ」
短く亜児に命じると、桜に歩み寄る。
その右手は、
「、、、、、」
太刀の柄。
ゴウエルルサモナキアシキハシキ・・・
低いその異界の旋律が、闇夜に刻まれる。
ヒィエアァアルルナクモナク・・・
細く、今にも途切れそうな甲高い、声音。
ナクナクカナシアシキカナルルハキ・・・
蒼奘の眼差しが、女の腕にいる童へと注がれれば、
・・・・・ハクルル
女が、伯を見つめ、伯が女を見つめる。
二つは、ひしと抱き合い、
「燕倪」
「おう」
抜き身を見せずに、太刀が振られていた。
刹那、
― むっ?! ―
燕倪の目には、伯の姿が、確かに赤い着物を纏った幼い女童に見えた。
女だけを斬った、その太刀。
青い光の粒子となって空に登ってゆくのを見上げると風が巻き、
「おお、、、」
桜の花が、季節外れの花嵐に、舞い上がったのだった。
気を失った伯を腕に抱いた蒼奘と、腕を組んだまま、煮えきらぬ顔の燕倪。
「分からん」
「何がだ?」
人気の無い街道を、歩いている。
「俺には、その仔が一瞬、女童に見えたのだ」
「ふ、、、なんだ、そんなことか、、、?」
「一体、どういうことだったのだ?鬼になったとはいえ、師の女房殿を斬ったのだ。説明しろ」
「当人には、心当たりがあるはずだが、、、まぁ、、、」
蒼奘が伯の耳元に何やらつぶやくと、黒い眸が開き、
「このような女童であったか?」
その顔は、伯のものではなくなっていた。
着ている物ですら、赤々とした晴れ着であった。
「あ、、、ああ」
「お前の師は、どこからか聞き及んだようだなぁ。胎児の骨が香道で言う、幻香の一種であると、、、」
「何っ?!」
大きな声に驚いた女童が、蒼奘にしがみつく。
その背を擦る相手に、
「う、、、では俺は、もしかしてその類の香を、愛しくも、馨しきものと、、、」
尋ねたところで、堪らず、口元を押さえた。
「安心しろ。さすがにそうは無い。大陸の神帝にしても、そう易々と手に入れられぬ代物だ。それに、その幻香、完成しておらぬしな」
「完成、していない?」
「ああ。いずれにせよ、手っ取り早く、流産した胎児を、、、」
「なんだと?!」
「まぁ、聞け。私が知っている限りだがな、これには少しこつがある。その胎児は、閏年生まれでなくてはならん。それもその年の花の盛りに桜の木の下に埋めねばならんのだよ」
「では、この女童は、、、」
「哀れ父御に埋められた、弔いされぬ胎児であったものよ。其れが死した母を呼び、桜に縛りつけ、鬼とせしめた、、、」
燕倪は、花が散り、見る見るうちに枯れ果て、塵となった桜の老樹を思い出した。
「では、女童はどうした?何故、ここに、、、この子の中に?」
「母が散った以前に、その魂は鬼となって桜に宿った。伯が写したのは、胎児が残した残留思念 ― 想念 ― だ。既にその魂は鬼、、、桜に、食われた後。そういうことだ、、、」
「だが、残った。想いとして、、、ただ一度、母の腕に抱かれたいと、そう?」
「生まれ出でたばかりの伯は、無垢な生命体。其を映す、鏡。憑代として、これほどまでに完璧な存在はいまい」
いつの間にか、元の姿ですやすや寝息を立てている伯を見つめ、燕倪は、複雑な表情を浮かべた。
「酷なことを、、、」
「伯か?それとも、胎児か?女か?」
「そのどれもだ」
いつもの調子で、どこか愉しげに言うものだから、たまらずむっとした燕倪が返した。
燕倪の屋敷と、蒼奘が屋敷に向かう、別れ道。
恵堂橋。
「では、またな」
「ああ、また」
いつものようにその男は橋を渡り、燕倪は背を向けて歩き出し、振り返った。
彼方に広がる闇の中、白々としたその姿が、どこか人外の獣の姿に見えて袖で目を擦ると、闇だけがこんもりとして夜気に滲んでいるだけだった。
陽の光が溢れる縁側で、何やら童が弄ぶのを眺め、美姫に酒の相手をさせているのは、蒼奘。
その相手。
纏っている衣は単であるにも拘らず、その吊り上った眉の下には琥珀色の鋭い瞳。
頬から、おそらく全身に、青い蔦のような刺青が施されている。
何よりも、逆立つように広がった甘栗色の髪が、短い。
猫科を思わせる四肢に、不釣合いに豊満な、体躯。
その匂い立つような色香に、えもいえぬ妖艶さがあった。
しかし、蒼奘がその姿に目を留めることは無く、
「、、、、、」
先ほどから注がれている相手は、ただ一人。
桜の花枝を、床や欄干に叩きつける伯、その人。
「伯、そろそろ焚き上がった頃だ。おいで、、、」
菫色の眸が蒼奘を映すと、すんなりとその袂に抱かれて、膝に入る。
袂の先で柔らかく肩を抱くと、そのまま力を抜いて、胸に凭れてきた。
ことり、、、
手から落ちた枝を受け取ったところで、御簾が上がった。
そこから、盆を手にした異装の翁が、二つの極彩色の香炉を捧げもって、現れた。
「遠路はるばるご苦労だったな、蛮器翁、、、」
「いつでも、お呼びとあれば、、、」
労いの言葉をかけると、翁は姿勢を低くしながらそのまま御簾の向こう ― 見通せぬ闇 ― に消えていった。
盆に置かれた、香炉。
それを手に取ると、器に伝わる温もりを愉しみ、そっと香炉の上部を擦った。
「伯、香には、人の世で生まれたもの以外に、秘香と言うものが存在する」
手を伸ばすその鼻先に、香炉を近づけながら、
「秘香、、、俗に幻香ともいうが、その一つ、天香。天上界で調合されたもの。その数ざっと九万。そして、もう一つ、魔香、、、」
「けほっ、、、ケショケショっ、、、」
双眸はみるみる潤み、紫の玉がいくつも床に散らばった。
なおも咳き込むその背を擦ってから、もう一つの香を手に取った。
「誰が戯れに噂を流したのか、傍迷惑なことなのだが、人相手になら此れほどの香は生み出せぬと、宮中あたりでは騒がれよう。が、我らにとっては所詮、紛い物は紛い物、、、」
蓋をずらすと、極彩色の彩雲が細く、こぼれだした。
「は、、、んん、、、」
くん、と鼻をならすと、その眸が今度は明らかに恍惚と、蕩けた。
「幽世で調合された魔香、ざっと千。これが、紛れもないその魔香の一つ、人贄香、、、」
可憐な薔薇色の唇が、震えるのを見つめ、
「まず、桜などは誤りだ。閏年の花の盛りに、巳の日を選び、一万体もの胎児を黒き実を結ぶ桃里に埋めること八回。さらに一歳に満たぬ赤子の血肉を与え続けること一千年。食い合いで残った桃の木の枝を翡翠湖に沈めて三千年。ようやく出来上がったそれこそ、このような得もいえぬ馨しさ。魔香の名を冠すに、相応しい、、、」
慈愛に満ちた眼差しを注ぐ。
「試しにと、滅ぼす前に枝を一つ手折ってきたが、お前の遊び道具にもならなかったな、、、」
その腕に抱かれ、短く呼吸を繰り返していた伯がやがて、
「はぁふ、、、」
溜息をついた。
たなびく青紫の吐息 ― 霊紫 ―
ゆらゆらと空に昇っていく様を、蒼奘がうっそりと眺めている、、、
前4話は異国にて、病んでいた時に書きなぐったもの。
少しづつ謎解きをしていくつもりで、ざっくりと世界観を切り取ったものなので、非常に読みづらいとかと、思います。ただいま添削2から4を添削中。。。
僕が言うのもなんですが、5話あたりから安定してきておりますので、お付き合いくださる方は、ご了承ください。