第32話 なにかご用ですか
仕事が立て込んでるから、しばらく家には帰れないと思う。
そうメールがあった翌日、朝のワイドショーで流れた芸能ニュースを見て、住子は息を呑んだ。
今日発売の週刊誌が報じた記事に、リンの本名が山田林太郎であることが載っているらしい。
中学生だろうか。今よりもぐっと幼い顔をした林太郎の、おそらくは卒業写真も掲載されており、該当ページがテレビ画面に映し出されている。学生服姿のモノクロ写真の下には「山田林太郎」と印字されていた。
記事の内容は、それだけではない。
リンのプロフィールにおいて、本名以外で唯一開示されていなかった出身県もあきらかになっており、実家のことも掲載されているという。
実家が商売をしている話は本人から聞いていたけれど、詳細は知らなかった。
そのお店はアンティーク好きにはそれなりに有名な店らしく、店舗の写真も掲載されている。
さすがに店名は伏せられていたが、いまのネット社会において、特定されるのは時間の問題だろう。
べつに事件を起こしたわけではない。
ただ単に、本名が露見しただけだ。
芸名で活動しているタレントは数多く存在するし、表に出さないだけで、本名が知られている芸能人だってたくさんいる。決して珍しいことではない。
ただ、今日にかぎって他にめぼしいニュースがなかったのか、やけに時間を割いてコメントしていた。
にこやかに、笑いまじりに。
コマーシャルに切り替わり、住子は己の身体が強張っていたことを知る。暖房が効いているにもかかわらず、指先がかなり冷たくなっていた。
林太郎はいま、なにをしているのだろう。
大丈夫なのだろうか。
山田林太郎という名前を、あれほど疎んじていた彼だ。紙面に掲載され、こうして公共の電波で広められて、どれほど傷ついているのか。
それを考えると、住子の胸は締めつけられた。
携帯電話に、着信はない。
普段、なんてことのない一言でも送ってくる彼にしてみれば、異様なまでの静けさだ。
ドクドクと高鳴る胸を抑えつけ、普段どおりに出勤すると、ロッカールームでは林太郎の話題で持ちきりだった。フォレストのファンであるらしいひとりが嘆いているのを、同僚が慰めにもならない言葉をかけている。
「あの顔でりんたろうって」
「太郎じゃないだけ、マシじゃない? 山田太郎」
「なにそれ、記入例?」
「リンってたしかお姉さんいたよね。花子だったりするのかな?」
「いや、それはさすがに出来すぎでしょ」
声高な会話に釣られて、べつの女性が「なんの話?」と首をつっこみ、話題は広がっていく。
テレビで見た人、思わず件の週刊紙を買ってきたという人もおり、当該記事の回し読みが開始される。
「山田さん、だいじょうぶ?」
かけられた声に肩を震わせた。
周囲の声に集中するあまり、気配にまったく気づいていなかった。
声の主は鈴木優子で、住子はほっと胸をなでおろす。
「なんか顔色悪いよ。具合悪いの?」
「……いえ、平気です」
やりとりを小耳に挟んだ誰かが、ぽろりと呟いた。
「なんか聞き覚えある名前だと思ったら、そうだ、山田さんだわ」
「あー、山田さん」
「芸能人から、一気にそのへんの人だよね」
その場を支配する笑いに、住子はこれ以上ないぐらい息苦しくなった。
彼女たちに、悪意があるとは思わない。
もしも本人を知らなければ、住子だっておなじような気持ちを抱いたかもしれない。
いかにも外国人といった風貌の青年が「太郎」なんて名乗っているのを見聞きしたとして、なんの違和感も覚えないというほうが嘘になるだろう。
林太郎はずっと、こんな空気のなかで生きてきたのだ。
彼があれほど「山田林太郎」という名を遠ざけようとしていた理由が、よくわかった。
自分ではどうしようもないこと、動かしようのない事実。
周囲がひそやかに囁くそれらは、こちらの心を知らず知らずのうちに削っていくことを、住子は知っている。
あの玲子さんが生んだ子ども。
住子は常にその視線に晒されてきた。
時々帰宅して、こちらの顔を見るだけ見て、すぐにいなくなってしまう女の人。
住子にとって、自分を産んだ母親はそれだけの人で、まともに会話をした記憶もない。
けれど、世間はそうは見ないのだ。
住子は山田玲子を体現した存在で、彼女への不満や侮蔑、嘲笑を向けるのにちょうどいい存在だった。本人が近くにいないなら、血縁者に言えばいいじゃないかと思ったのかもしれない。
そして死んでしまってからはさらに顕著になり、過去に受けた所業を幼い子どもに返していく人が多かった。
泣きもせず、笑いもしない住子を不気味がり、そのくせ放っておいてもくれなかった。
住子が受けた視線と、林太郎が受けた視線はちがうけれど、本人にはどうしようもない部分に対して、好意とはいいがたい感情を向けられたという点ではおなじだろう。
(……山田くん、きっと落ちこんでるわよね)
自分になにができるだろう。
元気づけたい、力になりたいだなんておこがましいけれど、ほんのすこしでもいいから役に立ちたい。
祖父母以外の人に――家族以外の人に対してそんなふうに思うのは初めてで。
いままでなら即座に否定してきたであろう感情を前向きに捉え、住子は自分のデスクへ足を向けた。
◇
昼休みにも、林太郎からのメールはなかった。これもまた、いままでにないことだ。
雑誌社に対して、なんらかの苦情を申し立てているのかもしれない。
個人情報保護が叫ばれる昨今、芸能人にそれらがどこまで適用されるのかは知らないけれど、なんらかのペナルティーは課せられるのではないだろうかと思うのは、住子の願望だろうか。
いつになく早く退社して、住子は家に向かう。
林太郎が帰っているとは思わないけれど、せめて待っていたかった。
ともに暮らすあの家で、彼の帰りを待ちたかった。
駅からマンション方面へ足を向け進んでいくと、前方の建物脇に人が立っているのが見えた。
ひとけのない道というわけでもないし、誰かがいたとしてもなんら不思議ではないが、それが妙に目についたのは、その人物が周囲に溶けこんでいなかったせいだろう。
不審人物という意味ではなく、とても若い女の子。
色鮮やかな服装に、明るい栗色の髪。ミニ丈のスカートに、前を開けたパステルカラーのロングコートを合わせている。細い足を惜しげもなくさらし、まるでファッション雑誌から抜け出してきたような姿は、地味が服を着て歩いているような住子とは別の意味で、この場所で浮いていた。
若者が集まるスポットならまだしも、ここはどちらかといえばビジネス街。店といえるのは、せいぜいコンビニぐらいなのだ。あきらかに彼女は異質だった。
そそくさと通りすぎた住子だったが、しばらくしてなにかを感じる。カバンから取り出した小さな鏡を顔の前でかざすと、さっき見かけた女の子が後をついてきていることがわかった。
こちらに用事があるだけかもしれない。
けれど、なんとなく嫌な予感がしてマンションを通りすぎ、隣の建物との脇道へ足を踏み入れて、立ち止まる。
そうして振り返り、やはり追ってきていたらしい女の子と対峙した。
「……あの、なにかご用ですか」
「あなたなんなの? 記事にもなってないし、なんでリンの名前がどーとかいう話になってるの?」
記事、リンの名前。
それらの言葉が示すのは、林太郎の名前が載ったという雑誌のことだろう。
けれど、それと住子になんの関係があるというのか。
そもそもこの女の子は、誰なのだろう。
訝しむ住子に業を煮やしたのか、彼女は甲高い声で話しはじめた。
自分はリンのパートナーとなるべく、頑張っていたこと。
それなのに、住子がそれを邪魔したこと。
「パンピーのくせに、なんでリンと一緒にいるのかと思って調べてもらったら、とんでもない人じゃない。そういうの隠してリンに近づくとか、みぃあが助けないとって思ってリークしたら、なんでかリンの名前がどーとかいう記事になっててさ」
「……おっしゃっている意味がわかりません」
言いようのない不安が押し寄せる。
この子はなにを言っているのだろう。
「だからー、あなたがママに捨てられておばーちゃんに育てられたような人なのに、リンみたいな人に取り入ってたことだよ」
ぷうと頬を膨らませて、子どもじみた態度で文句を言いつらねる。
「可哀想だから、リンの目を冷まさせあげようって思ってたら、リンの名前が山田林太郎とかいうヘンテコな名前が出てきて、なにそれってなって。だからリンはもういいよ。人気投票もイマイチだったし、あれもリンのせいだよ」
「人気投票……?」
「みぃあ、女優さんのお仕事もやってるんだー。こないだ『恋模様』ってドラマにも出たんだけど、順位があんまよくなくてさ。ファンの子にも投票お願いしてたのに、サイアク」
そう言うと、幾人かの女性の名前を口にして、容姿について言及しはじめた。
ここにきて住子にも、目前の女の子が誰であるのか、わかってくる。
詳しくは知らないけれど、『恋模様』で林太郎と共演していた女の子――名前は、愛田美衣亜といったか。
たしか、雑誌で対談もしていたはずだ。林太郎にしてはめずらしく、ドラマや雑誌を見せたがらなかったため、印象に残っていた。
「みぃあの彼氏にするのはもういいの。だから、あなたもやめたほうがいいよ。めちゃくちゃカッコイイけど、りんたろーだよ? ありえないよ」
忠告してあげようと思って待ってたんだと言い、愛田美衣亜は笑顔で胸を張った。




