狂った世界、彼女の爆弾
この世界は、狂っている。そう気づくまでもなく、ぼくは穢れた大人になっていた。朝のご飯を食べて、今日のニュースを確認する。悲惨なニュースを、観て、可哀想だなんて、思ってしまう。
この世界が狂っている。あの人気アイドルに、殺害予告が。それを観て、けいさつは動いた。テレビは、お涙頂戴な演出をしていた。建てたのが、前だったのか、後ろだったのか。
ぼくたちは、わからなくなっている。なんて。
あの日。爆弾を抱えてやってきた彼女の、名前を知っていて、その人のことを、覚えている。
あれは、ぼくが、なにもかも信じられなくなった、会社帰りのある日。つまり、車の運転をしていた時、大きな黒っぽい猫のような生き物が、路上で倒れて血を流して死んでいる容体なのを見つけたあの時。
信号待ち。どの人の車も、野良猫の死骸を避けるように、通行しているようだった。視界の隅で、その存在を認めていた、はず。だれも、その生命の儚さに、心を痛めない。と思っていたのに。
向かいの車の、助手席のドアから、黄色い帽子と、赤いランドセル。小さな子どもが出て、駆け寄った。そのあまりの、突飛さに、放心してしまう。その血は、グロテスクで、ぼくは思わず目を背けてしまいたくなる、臓物が出てしまった猫。
「う、――」
えずいたのではなく、その声の主は、泣いているようだった。何かをしゃべっているようだ。よく聞こえない。その猫を、路肩に引きずって、誰にも邪魔にならない位置に。
手を合わせて、なにかを祈っている。
そんなのは、全然普通じゃなかった。常識的じゃなかった。轢かれた猫に、そこまでするなんて。狂っている。それを静観している、彼女の母親とおぼしき運転席にいる存在も。おかしいな、と思いながら、この出来事を見ていた。
ふと、その彼女が、停止していたこの車の運転手。ぼくの方を、ちらっと見た気がした。
「――」
くちの形が動いて、何かを喋っているようだ。だが、聞き取れない。ただ、その時の彼女の目からは、朝の日差しで僅かに光るものが落ちていた、気がした。この世界で、誰も気に病まない、動物の死に、心を痛める存在。なんてのは、早計で、ぼくの早とちりかもしれない。
あれは、彼女が飼っていたペットだった可能性はある。行方が不明になった家族が、交通事故にあって亡くなってしまったのかもしれない。それなら、あそこまで、心配するのは、わかる。嘆いてしまう感情だって。
でも、あの目の彼女は、どこまでも真相の果てを見据えているようで、正直、ぼくはこわいな、と思ってしまったのだ。小学生の児童に向けて、そんな感情を。周囲の視線を、気にした様子もなく、自分のしたいと思ったことを、正しく、できる。
そこには、ウソが、なかったのだろう。不気味なほどに、あの時の彼女は、正しかったのだ。
踵を返そうとする彼女のブレザーの胸元に見えてしまった、名札の『雨宮あいり』という文字を、ぼくは、しばらく忘れられそうになかった。
あの光景を思い出す。あの信号前の停止車線を通るたびに。あの横断歩道の前にも、もう一つ横断歩道があって。そちらは信号のない横断歩道だ。人が立っていても、止まらないのが常識になっているぼくたちは、今日も、周りの空気を読んで車を運転していた。
横断歩道なのに、横断できないなんて。やっぱり世界は狂ってる。
といつも通り、停止車線を通り過ぎて行こうと思いながら、ふと、その横に人がいることに気づいた。背がすらりと高く。微かに黄色い、日傘をさして。紅色の、ポーチをショルダーでぶら下げている。白を基調とした服装は、どこか、気品のあるお嬢さまのような出で立ち。
ぼくが、思わず停止してしまったのは、彼女が美しかったからだけではない。その手がぴんと、澄んだ空に向けてまっすぐに伸びていたからだ。その手と腕の動きは、お手本のような挙手。横断させてほしい、という意思表示だろう。背筋が伸びているのも相まって、姿勢が綺麗な人だと思わせる魅力を感じた。
横断歩道を渡る前に、ぺこりとぼくの方をお辞儀をして、歩いた。その堂々とした歩き方に、ぼくは十年前の、あの彼女を想起した。
車道で転がっていた猫。明らかに、死んでいるほどに容体の悲惨な、ちっぽけな生命に、彼女は、その小さな身体で、駆け出して、きっと、涙していたのだろう。
横断を終えた後、また、こちらを振り向いて一礼した時、なぜか、彼女がにっと笑って、意味ありげな表情を浮かべていたのは、なぜだろうか。それは、ぼくにはわからない。ぼくも、あれから歳を経て、おじさんになってしまった。まだ、三十だけれど。
あの彼女は、今頃、なにをしているだろう。
ある日、彼女がぼくの号室の扉を勝手に開けて、やってきた。今日は、ぼくの誕生日だったなんて。そんなことは、知っていたけれど。それを祝ってくれるような、親戚はみんな死んでしまったし、わざわざ祝いに来てくれるような奇特な知人が、周りにいないと思って生きていた。
その両手一杯に、大きな爆弾を持っていた。それは、このぼくの、この息苦しい秩序の世界を、混沌に狂わすには、あまりに成功していた。
愛の形、がなんとか、なんて陳腐なセリフが口から漏れそうになる。あれから、ぼくは、なぜか彼女のような人と、付き合ってしまい、彼女のような人と結婚してしまった。しまった、なんて。
そんな、ことはないのに。それが、ぼくにとってのウソだということは、自覚している。彼女が『雨宮あいり』だということも。