五月十二日
「酷いじゃないか。昨日は一方的に会話してきて、その上で一方的に会話をきるなんて。君らしくもない」
大学構内で遭遇した先輩は、僕の姿を確認すると、すぐさま駆け寄ってきて文句の一つを零していた。いや、確かに昨日のことは申し訳ないと思っている。
「夜遅い時間帯でしたから。そういう時もありますって。僕だって人間なんですからね。先輩だってたまにあるでしょう? 酒を飲んで寝落ちしてしまうとか」
「そう言われてしまっては仕方ない。無理をさせるわけにもいかないからな。かくいう私も、そろそろ本格的に研究を始めたいところであるし」
僕の言い分が通ったらしく、先輩は素直に謝罪の言葉を述べてくれる。そんな一連の行動すらも様になるのだから、心底先輩は美しい人なのだろう。僕がもし同じことをしたとすれば、それはそれは情けない姿で映るに違いない。翌日から勘違いで大学構内は溢れかえることだろう。少し想像してみて辟易としてしまったので、するべきではなかったと後悔した。
「人工知能、についてですか」
「あぁ。その中でもとりわけ、まだ誰にも話していないことを君に伝えようと思う」
「へぇ。それは光栄です」
「少しも思っていないだろう」
「そんなことありませんよ。人並みには喜んでいます」
事実、僕は喜んでいた。
普段なかなかそういった類の話はしないだけに、研究の話を聞くことは嫌いではなかった。僕と先輩を繋ぐのは、生産性のない会話のみ。それが、中身のある会話をすることで少しずつ関係性が進んでいるのではないかと思わせられるのだから。
もしかしたらそれは、先輩も同じだったのかもしれない。副島先輩は嬉しそうに、自身の研究内容を語り始めた。
「私が本当に行おうとしているのは、もう一人の自分を作ることだ。人工知能を使った、もう一人の『副島藍』を作りたい」
「もう一人の、先輩ですか?」
心の底から驚いた。危うく言葉が物理となって吐き出されてしまいそうな感覚を覚えそうになった。人工知能を使って、もう一人の自分を作る。
「そんなこと、不可能じゃないですか」
それは最早先輩ではない。
「君が言いたいことはもっともだ。確かに、どれだけ精巧な記憶を植え付けた所で、私のコピーであるという事実に変わりはない。しかし、すべての記憶を保持した上で、その後も生きていくのであれば、彼女もまた『副島藍』になり得るのではないか? 前にも言った通り、機械は生きている。感情がある。思考する。私はそう考えているのだ。だから、もう一人の私は作れる筈なのだ」
「……どうして、先輩はそれを作りたいのですか」
分からないのは、その目的。副島先輩がもう一人の自分を創り出すことで、為し得たいこととは一体何なのか。人の行動は感情によって左右されるし、理由の根底に感情が必ず存在する。だとすれば、先輩が神をも冒涜しかねない事を果たそうとしているのには、『そうしたい』と思わせるだけの事象と感情があるに違いないのだ。
先輩は、まるで欲しいおもちゃを授かった子供のような表情を浮かべながら、語る。
「私は、私と対話をしてみたい。そして、私が何かのきっかけでいなくなってしまった後、君との関係性がなくなってしまうのが非常に惜しい。だから私は、私の為に作るのだ。もう一人の私を。もう一人の『副島藍』を」
あぁ、この人はどうしようもなく『愛』によって突き動かされているのだなと感じてしまう。単純な自己愛ではない。自分を取り巻くすべての環境に対する『愛』。機械に対しても、自分に対しても、もう一人のまだ見ぬ『副島藍』に対しても、そして僕に対しても。この先輩の愛は平等で、そしてそれはとても残酷だった。決定的に突きつけられてしまったのだ。
僕は、副島藍先輩にとっての一番にはなれない、と。
いや、ある意味では一番である可能性はある。事実、自惚れでもなんでもなく、先輩は僕と会話している時間は楽しそうにしているし、他の誰と会話している時よりも満喫しているのは事実だ。しかし、あくまでそれは『人の中では』のことであり、彼女の中の一番にはなれていない。そして僕はそもそも、一番になろうとしていなかった。ただ、この先輩と会話をしている時間が楽しい。対極にある意見をぶつけ合うことに対して、幸福感を抱いていた。
そして、『愛』とはそれぞれの種類によって意味合いが変わることも十分に把握している。人間には人間の、機械には機械の、動物には動物の、植物には植物の。人間に対する愛と、植物に対する愛が同じである筈がない。少なくとも僕はそう考えている。
だが、先輩はそうではなかった。それぞれの種類に、同じような愛を注いでいるのだ。僕と対極の意見を抱く先輩だ。愛に対する考え方の根底だって反対になっている筈なのだ。
だからこそ、先輩にとって『もう一人の副島藍を作ること』は可能なことなのだ。人工知能『副島藍』も、人間『副島藍』も、同等の価値として見出しているのだから。
「けど、本当にそんなことは可能なのですか? 機械の思考とは、データを基にした演算。記憶は記録。そもそも人間と機械では、やっていることが大きくことなります」
「人間だって演算はするし、記録もする。人工知能だって新しいことを覚え、学ぶ。これは立派に人間と同じことをしていると言っても過言ではないと思うが?」
反論する言葉を用意することが出来なかった。この時、僕は初めて『先輩に負けた』と思ってしまった。強固なる意見を変えることは難しい。それに僕は、先輩ならやれると信じてしまった。これだけ固い意志を持っているのだ。やり遂げるまでは死なないだろうと思ってしまった。
故に、僕はそれ以上の反論を止めた。
「負けました。先輩の研究が完成すること、僕は祈っています」
「それはよかった。早速だが、君には手伝って欲しい」
「え、何をですか?」
まさか僕が先輩の研究を手伝わされる運びになるとは思いもしなかった。今までの流れで一度たりとも出たことはなかったし、何より学年が下の僕で、しかも意見が対極に位置する僕が、一体何の役に立てるというのだろうか。
しかし、次の瞬間に先輩が言った言葉で、すべてが納得した。
「君と私との会話パターンを作り出すのだ」
あぁ、確かにそれだけは僕と先輩にしか出来ないことだ。他の人間では出来ない。間違いなく、『僕』と『先輩』だからこそ為し得ること。
不思議と、胸が高鳴った。研究に参加出来ることに対してなのか、それとも先輩と一緒に居られる時間が長くなることに対してなのか、あるいはその両方なのか。いずれでもない別の何かがあるのか。自分の考えが自分で理解出来なかった。
それでも、僕は先輩から差し伸べられた手を掴んだ時、すべてがどうでもよいと思えた。きっと、副島先輩ならばやり遂げる。可能な筈。
「分かりました。協力します」
「ありがとう。感謝する」
その日から僕は、『先輩』を生み出す協力者となった。