天 使
1
閉めたカーテンの隙間から黄昏の光と共に、学校帰りの子供達のはしゃぎ声が漏れてくる。夢と現の間で電話が鳴ったような気がしたが、殴られた後のように脈打つ二日酔いの鈍い痛みを後頭部に感じ、早く鳴り止んで欲しいと願うと、やがて電話の音と子供達の声が消え、上の階から、微かに真理と学の楽しそうなおしゃべり声が聞こえてくる。聖が微笑むと、鳥が飛び立つ様な音がして、二人の声は徐々に遠く小さくなっていった。聖は散らかった床の上で丸くなり、再び浅い微睡みに戻った。
それからどれくらい時間が経ったか分からないが、聖の意識は徐々に明確になり、薄暗闇の中、汁に青と白のカビが浮いているカップ麺の容器、残った飲料が変色しているペットボトル、すえた臭いがして小蝿がたかっているビールの空缶やウイスキーの空瓶と一緒に何ヵ月も床に転がっている壊れた一眼レフカメラに焦点が合う。カーテンから漏れてくる光や声はもう無く、秋の虫の声が聞こえてくる。身体中がだるく、あらゆる臓器が重たい。昨晩は飲み過ぎたが、いつからこの様な時間を繰り返しているのか意識が麻痺してしまって、もう思い出すことはできない。
聖は散らかった食卓の上からウイスキーの瓶を取り、ためらいなく汚れたグラスにドボドボと注ぎ一気に飲み干す。唇や頬の粘膜が麻痺し、喉が焼け爛れ、溶けた鉄の塊が胃に溜まり、しばらくすると視覚が朦朧とし、平衡感覚が失われてくる。そして、聖はよろけながら食卓の上の開いたままのノートパソコンに向かった。
聖が会社に行かなくなってもう半年になる。
2
結婚後、妻の真理は専業主婦となり、赤ん坊ができるまではOL時代の蓄えで習い事をしたり、ボランティア活動をしたり、時折女友達との旅行を楽しんだりしていた。七年前に一人息子の学が生まれ、学が三つになったとき、二人はなけなしの頭金とローンで郊外に小さな中古の一軒家を購入した。息子の誕生以来、聖は残業や宴席を巧みにかわし、まっすぐ帰宅して子供の世話をすることしていた。週末はよく近くの公園に行って学を他の子供達と遊ばせたりした。以前はどちらかと言うと子供が苦手だった聖は、真理の出産に立ち会ったり学を抱っこしたりしている間に、あたかも人格が書き換えられてしまったかの様に自分の息子のみならず子供という存在自体が愛おしく感じられるようになっていた。
3
浅草寺に近い浅草パノラマホテル十三階の一室に落ち着き、ミカはゲイブと共に疲れ果てて部屋の大半を占める小さなダブルベッドに倒れこんだ。
アイルランド西海岸の小さな町からバスで首都ダブリンまで行き、飛行機で中東のアブダビを経由し成田に到着後、ゲイブの一年間のワーキングホリデー在留カードの手続きやら何やら有って、結局出発から到着まで三十時間も掛かってしまった。窓から黄昏の光が射し込んでいる。
*
おとぎの世界の様に風光明媚だが人情とアイリッシュパブと音楽以外に大して何もないこの町で、ミカは生まれ育った。ダブリンの大学を卒業後、地元で大手生命保険会社の支店に勤務した。地元でウェッブデザイナーとして生計を立てていたゲイブとは、地元の友人の紹介で意気投合し、三ヵ月の交際の後結婚した。
ある日ミカはゲイブに、「ワーキングホリデー」で日本に行ってみたいので一緒に行く気は無いかと言われた。
労働許可を得て一年間滞在できる制度らしい。フェイスブックで見たフランス人男性がこの制度を利用して日本に滞在していることを知ったのだと言う。子供の頃テレビで『ドラゴンボール』や『風雲たけし城』に親しみ日本文化に憧れていたゲイブは、「ワーキングホリデー」でこの神秘の国を究めることのできる最終年齢に達していた。
結婚後、生命保険会社でテレワーカーとして働いていたミカは、タイムゾーンの違いによって生じることになる勤務シフトに難色を示したが、結局ゲイブの熱心な説得に押し切られる形で計画を承認した。それに、ミカ自身も小さい頃テレビで観た『セーラームーン』が日本で制作されていたことは何となく知っていたので、少し不安ではあったものの、次第に日本を訪ねてみるのも悪くないという気持ちに傾いていった。
*
ダブルベッドに仰向けに寝転び、ゲイブはスマホを操っていた。壁に据付けの小さなライティングデスクの椅子に腰掛けノートパソコンで会社のメールをチェックしていたミカは振り返って言った。
「早くどこか住む所を探さないとね。このホテルそんなに高くないけど、ずっと滞在し続けると馬鹿にならないわ。それにちょっと狭すぎるし・・・場所は便利だけど」
ゲイブはニヤッと悪戯っぽく笑い、ミカにスマホを差し出し言った。
「例えばこんなのどうだい?」
民泊サイトの物件情報が表示されている。
・小田急線沿線(駅から徒歩10分)
・戸建二階建て
・3ベッドルーム、1バスルーム(面積 80㎡)
・家賃月10、000円(但し現状有姿で賃借のこと)
東京の中心部ではないにしても、月75ユーロとは・・・ホテル一泊の値段だ。記載の間違いでは?一体どんな部屋なんだろう。
こぢんまりして快適そうな家の外観写真をスクロールして現れた室内の写真にミカは衝撃を受けた。
床、テーブル、ソファの上に、腐ったカップ麺の容器、変色したペットボトル、ビールの空缶とウイスキーの空瓶、それから腐乱した食物のような物体が無秩序に散乱し、これらが全て地層の様に堆積しているのだ。
ミカは前衛芸術のインスタレーションを見ている錯覚に襲われた。
「何これ? モダンアート?」
「現状有姿だって。このまま部屋を引き渡すって意味だろ。それにしてもよくこんな写真載せるよ・・・ゴミの山から死体でも出てきそうだな」
それを聞いた瞬間、ミカの背筋に寒気が走った。
「しかし見た目の不快さを上回る安さだなぁ」
愉快そうに笑いながら、ゲイブが言った。
「まさかこんなとこに住もうって訳じゃないでしょうね!」
ミカは金切り声を上げた。
「まさか。でも面白そうだから明日見に行ってみない?」
「気でも狂ったの? 絶対に嫌。行きたいなら一人で行って!」
「行かないさ」
苦笑いして、ゲイブは物件の検索に戻った。
ミカはゲイブに背を向け、目を瞑って眠ろうとするが、さっきの部屋が頭から離れず、スースーと熟睡するゲイブの隣で朝まで寝付くことができなかった。
4
翌日、二人はネットで見つけた外国人賃貸専門の不動産屋を訪ねた。
現地の相場を理解するにつれ、ホテルから西ではなく、できるだけ東の方角の物件を探す必要があることがわかってきた。
「ご予算の範囲ということでしたら、連帯保証人のいらないこの物件はいかがでしょうか? 場所はここから電車で一時間位の所です」
二十代後半に見えるナオミという日本人女性のスタッフが、たどたどしい英語で紹介したのは、千葉県に近い築四十八年、十七平米、バスルーム無しの木造の古アパートだった。
「シャワーも無いのですか?」
ミカが驚いて尋ねた。
「近くに銭湯がありますよ。パブリックバスです」
ナオミが答えると、ゲイブの目が輝いた。
「それって温泉のことですか?」
「一応、名前は『コトブキ温泉』と言います」
「すごい! 毎日温泉に入れるんだ」
「私は知らない人と同じお風呂に入るなんて真っ平よ」
ミカはゲイブを睨みつけて言った。
「では、この物件はいかがでしょうか?」
次にナオミが取り出してきたのは、同じエリアで築三十年、三十平米、バスルーム付きのマンションだった。
「ただし、家賃がご予算の倍で、日本人の連帯保証人が必要となりますが・・・」
ミカはゲイブと顔を見合わせた。家賃を払うと生活費が賄えない。それに二人は連帯保証人どころか日本人の知り合いすらいないのだ。
更にナオミに何物件か紹介された後、何も決まらず二人は不動産屋を後にした。ミカは例の民泊物件を見に行ってみようというゲイブの提案を渋々承諾した。
*
午後連絡を取り、二人は指示された駅で電車を降りた。
改札の向こうで、黒縁眼鏡とツイード姿の、四十代後半だろうか、感じの良さそうな紳士が微笑みながら手を振っている。
紳士は、改札を出た二人に歩み寄り、丁寧なブリティッシュアクセントで、「ミスター&ミセス・オハラですか? 私はツカイです」と言いながら手を差し出して握手を求めた。ツカイはオーナーのエージェントとのことだった。
三人は物件に向かって歩き始めた。
「ここから大体十分位です」
ゲイブはツカイに、「オーナーはどんな人ですか?」と尋ねた。賃貸人について詳しいことは言えないことになっているが、急に海外に行くことになったので、あの様な現状有姿で自宅を民泊に出すことになったとのことだった。「サトシ・クライシ」という人物らしい。
ミカはツカイに、何故か昔から知っている様な懐かしさと、何処かしっくりとこない違和感を感じた。
「この家です」
ツカイが立ち止まって指し示した家は、民泊サイトの写真より少しだけ綺麗に見えた。ツカイは鞄から取り出した鍵で中に入り、「どうぞ、お入り下さい」と言って手招きした。
一階は子供部屋と夫婦の寝室らしい。
子供部屋の床にはミニカーやロボットといったオモチャが散乱している。
「何だか知らない人の裸を見ているみたいで落ち着かないわ」ミカがぽつりと呟いた。
寝室のベッドのシーツは、まるでついさっきまで誰かが寝ていたかの様に乱れている。
「友達の家に上がり込んだって思えば良いさ。一からこれだけ揃えるのも大変だぜ」
ゲイブが冗談っぽく言った。
「例の部屋って二階かしら・・・」
二人はツカイに従って階段を上った。
「えっ」
ゲイブとミカは息を飲んだ。
写真と同じ部屋だが汚物の地層が無くなっている。
それは一階の子供部屋やベッドルーム同様、普通の部屋だった。
ツカイに驚いた様子は無かった。
思いも寄らぬ幸運に、「オーナーの気持ちが変わらない内にカードで家賃を払ってしまおう」と、ゲイブは急いでスマホから民泊サイトにアクセスした。
「あっ」
ウェッブサイトのゴミだらけの部屋の写真が、片付いた部屋の写真に変わっていた。
ゲイブは狐につままれた様子だったが、家賃は一万円のままだったので、「まあいいや」と言って決済した。
5
ゲイブとミカがサトシの家に住み始めて一週間になった。
持ってきた荷物はスーツケース二つとゲイブのギターだけだったが、家の中の物を自由に使って良かったので、購入すべきものは何も無かった。
最初のうち、二人の行動範囲は近くのスーパーと家との間だけだったが、サトシが残していった二台の自転車に乗って辺りを探索するようになってから半径は急速に拡大していった。浅草と違い、周囲にとりわけ観光スポットがある訳ではないが、畑や公園の緑に囲まれ、川も流れている。子供を育てるには理想の環境かもしれない。
*
その夜、ゲイブが日本食にトライしてみようと言い出し、スーパーにスシとサケを買いに行った。
見慣れない種類の生魚の切り身がビネガーライスの塊に載っているのを見て気持ち悪くなったミカは、マグカップに注いだサケと一緒に、スシもレンジでチンしてしまった。生牡蠣は好物なくせに生魚は苦手だった。それに、サケは常にホットで飲むものと思っていた。
二人は熱燗と共に「日本食」を堪能した。
ほろ酔いのゲイブがギターを取り、マンディ&シャロン・シャノンの『ゴールウェイ・ガール』を弾き出すと、ミカも合わせて歌った。
ミカは、大ヒットしているエド・シーランの『ゴールウェイ・ガール』は、何かイングランド人がアイルランド人を馬鹿にしている様で好きになれなかった。
ピンポーンという音がした。
歌は熱気を帯び、二人は気づかない。
再びピンポーンという音がした。
二人は歌うのを止め、耳を澄ませた。
モニターから、四十歳くらいの小柄な中年女性が不機嫌そうに睨んでいる。
ゲイブが玄関の扉を開けると、その女性は少し驚いて後ずさりした。
「ハ、ハロー。倉石さんは・・・居ます?」
「スミマセン、ニホンゴ、ワカリマセン」
「アー・・・マイネームイズアキ。アキ・マリタ。クライシサンヒアー? いらっしゃる?」
「ウェル、ヒーズノットヒアー」
「えっ、ノットヒアー? ええっと・・・音、ノイジー、ノイジー」
「オー、ソーリー」
「ユー、アメリカン?」
「ノー、アイリッシュ」
「アイリッシュ?ってアイルランド?」
「イエス、ウィヴジャスムーブディン」
「何? 全然わかんない。とにかくクワイエット、クワイエット、プリーズね」
「オーケー」
「じゃあ・・・バイバイ」
「ハヴァナイスイヴニング。サヨナラ、アキサン」
屈託無くゲイブが言うと、鞠田杏樹は機嫌を良くして隣の家に戻って行った。
6
飯田橋の日本語学校に通うことにしたゲイブは、翌朝、手続きのため出掛けて行った。
やはり少しでも日本語が話せないと、ウェッブデザイナーとはいえ仕事にありつくことが難しいらしい。昨晩ロンドンと電話会議をして疲れたミカは寝室で熟睡していた。
ピンポーンという音にミカは起こされた。
もう時計は昼を指している。モニターを見ると、昨夜の隣の家の中年女性だった。ミカはインターホンの通話ボタンを押しながら言った。
「ハーイ、おはようございます。どうかしましたか?」
「ランチ、私の家、一緒に、オーケー?」と片言の英語で言った。突然の誘いにミカは少し戸惑ったが、
「オーケー。じゃあ着替えて十分後にお伺いします」
と答えた。
アキの家とサトシの家とは、造りは似ているが全てが左右逆になっていた。恐らく、元々は建売住宅の同じ区画として売り出されたものなのだろう。
二人はホットプレートでお好み焼きを焼いて食べた。
小麦粉、キャベツ、ポーク、ソースといった、西洋人に馴染みのある食材で作る「ジャパニーズパンケーキ」はミカの口に合った。何よりも、普段自分で何かを焼きながらその場で食べるということがあまり無いため、とても新鮮に感じられた。
食後のグリーンティーを飲みながら、アキは電子辞書を片手に質問を開始した。
「あの男、あなたの夫ですか?」
不躾な質問に、辛うじてミカは微笑んだ。
「ええ。ゲイブと言います」
「ところで、あなたの名前は何ですか?」
「私はミケイラ。ミケイラ・オハラです。ミカと呼んでください」
「オー、あなたの名前はミカ・オハラさんですか? それは日本人と同じ名前ですね」
ミカは笑った。
「私の名前はアキ・マリタです。アキと呼んでください」
「わかりました、アキさん」
アキは、中学生の娘と銀行勤めの夫との三人暮らしの専業主婦らしい。
「あなたたち、どうして、あの家に住んでいるのですか?」
「ゲイブが日本に興味が有って、ワーキングホリデーで日本に滞在してるんです。東京は家賃が高くて色々探してたんですけど、民泊のサイトであの家を見つけて。家賃がとても安かったんです。それで先週から住んでます。色々日本のこと教えてください」
ミカはつい早口で答えてしまった。
「イエス、イエス・・・」
アキは困惑した表情で言った。
「えーっと・・・もう一度リピートしてください」
ミカはフレーズを短く切り、根気強く繰り返した。日本では英語の教師をする外国人が多いと聞いていたが、自分には向かないと思った。
アキの尋問が一段落したところで、ミカは気になっていたことを質問してみた。
「ところで、クライシ・ファミリーは海外に引越したのですか?」
「えっ、本当に!? ・・・知らないです」
クライシは、隣家とあまり親密な付き合いではなかった様だ。東京みたいな大都会では珍しいことではないのかもしれない。
「妻、マリと、たまに、外で、ハローと言って、話しました。彼女は、写真を撮ります」
サトシの妻は写真家なのだろうか。
「息子、マナブは、小学生です。夫、サトシは、サラリーマンです」
サラリーマンとは何だろう? 勤め人のことだろうか?
「彼らを見ません、最近。夫だけ見ました。先月」
7
アキの家を辞して自宅に戻ったミカは、ソファで仰向けになり、しばらくボーッと考え事をしていた。
何故この家族は隣人にも告げずに姿を消してしまったのだろうか? ふと見上げると、天井に長方形の切れ込みが見えた。屋根裏の点検口だろうか? 気づかなかったが、近くの壁に、鈎のついた木の棒が立てかけてある。試しにそれで天井の長方形の表面に埋め込まれている金具を掛けて引くと、折り畳み梯子のついた扉がスーッと降りてきた。天井収納だった。ミカは梯子を伸ばし、用心深く屋根裏部屋に昇って行った。
*
夕方、ゲイブが日本語学校の手続きを済ませて帰宅すると、家は薄暗く静まり返っていた。
二階に上がって行くと、居間の天井から下に梯子が伸びて、屋根裏から灯りが漏れている。梯子をゆっくり昇ると、ダンボール箱に囲まれてアルバムを広げているミカがいた。
ミカは顔を上げて言った。
「きっと何か有ったのよ」
*
何冊にもわたるアルバムには、恐らくマリと思しき女性の丁寧な手書きのコメントが記されている。サトシとマリが付き合い始めてから、結婚し、マナブが生まれ、幼稚園に行き、小学校に上がるまでの家族の歴史が克明に刻まれていることがわかった。
いくら急いでいるからと言ったって、こんな大切なものを放置したまま、一年以上も他人に家を貸して海外に行ってしまうなんて・・・。
「ここ何ヵ月も写真が追加されてないみたいだね」最後のフォトブックを見ながらゲイブが言った。「どうしたんだろう」
ダンボール箱を漁っていたゲイブが、傷のついた一眼レフカメラを見つけた。
スイッチをオンにしても反応が無い。バッテリー切れか、壊れてしまっているのか。ゲイブは一眼レフからSDカードを取り出し、自分のマックブックに差し込んだ。アプリケーションがポップアップし、家族の写真が次々と現れる。ハロウインの仮装をしている写真。クリスマスツリーを囲んでプレゼントを開けている写真。ニューイヤーに神社でお祈りしている写真。そして最後が、川原の土手の満開の桜の写真ーーー近くの川だ。これだけは家族が写っていない。
ミカは違和感を覚えた。
最近妻と息子を見ないーーーアキの言葉を思い出し、ミカは何か嫌な予感がしていた。
「きっとサトシは外国に行ったんじゃなくって、妻と息子を殺して逃げたんだよ。どこかに死体を隠して・・・」
ゲイブが半分冗談めかして言ったが、ミカは笑うことができなかった。
ミカは、家族に何が起こったのか知りたくて、手掛りを探してみることにした。捜索にはゲイブも駆り出された。
二人は、二階の居間、一階の寝室、子供部屋を調べ終え、一階の洗面所を調べていた。ミカが洗面台の鏡戸を開くと、大量のレクサプロが出てきた。抗うつ剤だ。サトシはうつ病なのか?
床下収納を開けたゲイブが「あっ」と声を上げた。
中にはタオルに包まれた新生児の大きさの塊が横たわっていた。
ゲイブは緊張した様子で、ずっしりした塊を取り上げ、ゆっくり包みを開けた。
中からは白木の彫像が現れた。
母親の胸には幼子が抱かれている。まるでラファエロの聖母画の様だ。
「聖母マリアだ」ゲイブが言った。
「違うわ。きっと仏教の女神よ」ミカが言った。
それは彫り掛けて未完成の慈母観音菩薩だった。
8
中道恵里子はNPO法人『ささえ』でグリーフサポートを行なっている。
事故、災害、犯罪、自殺等で愛する肉親を失った人たちが、これらの「グリーフ」に向き合い、それを受け入れ、そして生きていくための手伝いをするのだ。恵里子自身、十一年前、中二の一人息子、幸音を自殺で失っている。学校のいじめが原因だった。その後夫とは離婚し、『ささえ』に参加した。
十分にサポートを受けて助けが必要無くなった人達は『ささえ』を「卒業」していくが、中には途中で急にワークショップに来なくなり、そのまま連絡が途絶えてしまう人達もいる。恵里子は、そういった人達を訪問して問題が無いか確認することにしていた。
*
ピンポーンという音がした。
モニターには、心配そうな表情の、小太りの中年女性が映っている。
ミカとゲイブは、若い頃米国のオレゴン州に留学していたというこのエリコ・ナカミチという女性から、サトシがグリーフサポートのワークショップに参加していたことを知らされた。ここ何ヵ月間か連絡が取れず、心配でやってきたとのことだった。
何故か分からないが、ミカは、写真の足跡を辿ればサトシが見つかる様な気がしていた。
9
写真が好きな真理は、結婚退職を機に、本格的に写真撮影を学んでみようと思い、OL時代の蓄えでデジタル一眼レフを買って写真学校に通い始めた。
一昔前のフィルムの時代であれば、ワンロール三十六枚迄しか撮ることが出来ず、フィルム、現像、焼付けのコストも掛かり、更には、現像してみないとどんな写真が撮れているか確認することすら出来なかった。デジタルの時代になり、SDカードの容量が許す限り何枚でも撮ることが出来、フィルム、現像、焼付けのコスト無しに、撮ったら直ぐに写真をモニターで確認することが出来る様になった。お陰で、以前はプロになるには一年学校に通わなければならなかったが、今では三ヵ月でプロの技術を身に付けることができる。
真理は写真学校卒業後、女性のクラスメイト達と一緒に、ボランティアも兼ねて親子撮影会を主催する様になった。
子供が好きだったし、自分の学んだスキルで、子育てするお母さん達を元気にしたいと思った。撮影会は主婦業の傍ら、月一回のペースで行った。インターネットで告知し、近くの公園や川原で一日二十組撮影する。コーディネーターが子供を笑顔にし、カメラマン達が撮影する。朝から夕方まで子供達と走り回るとクタクタになるが、子供達の笑顔とお母さん達の感謝の言葉が励みとなって、しばらくするとまたやりたくなった。
やがて、真理自身も母親となり、撮影会から離れることになるが、子育ての傍ら、今度は家族を撮り続けた。
学が小二に上がる前の春休みの月曜日の朝、真理は学を連れて、よく撮影会で来た近くの川に行った。
桜をバックに学を撮るのだ。人気は無く、土手の桜は見事に満開だった。前日の雨を持ち堪えた桜の花びらは、澄んだ青空に映えていた。我を忘れて桜を撮っていた真理は、学がいないことに気づいた。ハッとして振り返ると、水嵩を増す川面で手をバタバタさせ見え隠れしながら流されていく学の頭が見えた。真理はカメラを捨て、狂った様に子供の名前を叫びながら川岸を走り、濁流に飛び込み、そして消えた。
10
もうどれ位ここにいるのだろうか?
何年にも思えるし、何時間しか経っていない様にも思える。白髪と無精髭が伸び、異様な臭いを放つ聖は、薄暗いキャンピングテントの中で仰向けに横たわり朦朧としていた。寒い。数錠のレクサプロとウイスキーを胃に流し込む。昼なのか夜なのか分からない。石がゴツゴツとして背骨が痛かったはずだったが、もう痛みを感じない。川の流れも聞こえなくなった。よく三人でバーベキューした川原から、微かに真理と学の楽しそうな話し声が聞こえてくる。聖は微笑んだ。次第に二人の声が大きくなるが、その言葉は自分には理解できない。ゆっくりとテントが開き、眩い光と共に幻の様にスローモーションで姿を現すが、それは真理と学ではなく、見知らぬ男女の異邦人だった。何故か自分の名前を呼んでいる。聖は天使が迎えに来たと思った。そして、二人の天使に抱きかかえられながら、聖の魂はゆっくりと空に昇って行った。
(完)