7話『なにキオン・なにージュ』
“ぴゅん。無知であることは無恥ではないが、無知であることに無知であることは無恥である”
――という、田塚の言を借りるなら、俺は無恥な人間なのであろう。
なぜなら、自分が自分の思っている以上に無知だということに、これまで大した自覚が無かったのだから。
そう、俺は知ったのだ。自分の価値観から逸脱した作品というものが、実際には一体どれだけ自分の価値観から逸脱したものであるのか、そしてそれらが自分の価値観から逸脱した数だけ多様に存在していることを自覚することで、自分の無知さの程を――程を。
もちろん、自分が無知だという多少の自覚が無かったわけではないが、その無知さが思っていたよりもずっと酷かった――未知の世界が想像していたよりも未知だった――ということである。言ってしまえば、程度の誤差を言っているのだから、無知であることに完全に無知であったわけではないのだけれど――しかし、そんなことを言い始めてしまえば、誰にだって何にだって多少なりとも程度の差の問題という言い方が、多少なりとも程度の差はあれど当てはまってしまうのだから、だからそこはなんちゃらの綾だとしよう。
無知であることに無知であることは無恥、ね。
まあ、普通に考えたら無恥は言い過ぎなような気も、微妙にずれているような気も、漫画や小説の多様性を知らなかったぐらいで無恥だと言うのもいささか贔屓目が過ぎるような気もするけれど、――その辺は発言者田塚も踏襲した上で、敢えて分かりやすい形を選んだのだろう――だから、この言葉を、確か田塚はこう続けていた――“ぬめん。何も、漫画や小説に限定した話など、吾輩はしていないのである。無知は知識の側面に必ず存在するのであるからして”。つまり、この世に自分の存在の及ばぬものが、自分の存在の及ばぬだけあることは、自覚した方がいいという旨の話だ、きっと。
そんなわけで、何が言いたいかと言うと、めちゃくちゃ感動したという話。
漫画面白い! 小説面白い! 正直なめてた!
そしてそれらを知った俺は無敵と化した!
この世に、俺の知らないことなど、もう無いに違いない!
だから俺に描けない漫画など無い、こんな俺の描いた漫画が面白くないわけがない、誰もが感動しないわけがない、俺最強、フウウウウウウウウウ!!
あまりのテンションに秒速で一つの漫画を仕上げてしまう。一度日がお休みし、更におはようした気もするけれど、俺の感覚時間では秒速なのである。
勢い込んで田塚家へ特攻する。
「田塚、見よ! 俺の漫画をとくと見よとくと焼き付けよ目と頭とトラウマにとくと!」
が、留守だった。
田塚の言いつけを思い出す――“まぷんば。吾輩こう見えて、常駐に忙中なるからして、不在ありきが茶飯事。成果物の概評を即座覿面に求むるなれば、他を往訪しろである”
「と言うわけで、どうしよう俺さん。田塚がダメとなると、もう他にいないんだけど、漫画を見てもらう相手なんか」「俺がいるじゃないか」「あんたはいらない」
困った。自分の社会性の無さに頓挫してしまいそうだ。
「そんなに焦って誰かに見てもらう必要があるのか?」
「ある! 俺の才能は逐一レボリューションしてんだよ、一分一秒が至宝なんだよ、この俺の噴火の如き才は、一刻も早く人の目に触れなければならないんだよ!」
「うわあ……そうか分かった、分かったから落ち着け」
俺さんが大いに引いている。なぜ引く必要があるのか。同じ俺だろうに。いや、同じ俺だからだろうか。
「で、俺さん、誰かいないの? あんたの知り合いに、まともに漫画の批評してくれそうな人。田塚以外に」
「俺? いないなあ。お前は?」
「俺? いないなあ。あんたは?」
「俺? いないっつってんだろ」
実に使えない俺であった。
「うーむ、困った困った」
現在の交流のある知り合いなんてバイト先の方々ぐらいだし……過去の交流となると、ちょっとなあ、わだかまりがあってちょっとなあ、気軽にはなあ。
「しかし、田塚とは自然に接せたんだから、他のやつとも、いざ会ってみれば案外すんなり普通に接せるんじゃないか? 昔みたいに。どうだ? いつまでも引きずっていても仕方がないだろう」
「そう言うけどさ、俺さん――分かるだろ、俺の気持ち、あいつらの気持ち」
「いや、お前の気持ちは分かっても、分からんよ、あいつらの気持ちは」
「ああ……そうね。わかんねえから苦労してんだっけね」
「しかし、あいつならいけそうな気がしないか?」
「あいつ?」
「ああ、あいつ」
「あいつ……えー、あいつかあ」
「そう、そのあいつだ。アンゾキオン・ボマージュ」
「アンゾキオン・ボマージュ!?」
「ああ。アゾロキオン島出身の」
「アゾロキオン島!?」
「あれ? 十年前の俺、まだ会ったことなかったっけか? トンガ諸島を南南東へずっと行ったところに位置する南の島、アゾロキオン島のアンキソロン王国王都アロゾンキンロソから来日したアンキンソゾロン語を母語とする、アンゾキオン・ボマージュだぞ、あの」
「あの、とか言われても……あんた、よくそんな、やけに言いにくい上に覚えにくい名称の羅列を覚えてられんね、死ぬ以前の記憶もその範囲も曖昧なくせして」
「曖昧な部分にもわりかし偏りがあって、覚えていることは覚えているんだよ。アンゾキオン・ボマージュは、その内お前のバイト先に面接を受けに来る、陽気な外人さんだ」
「マジで」
「落ちるがな」
「マジで。じゃあなんで詳しいんだよ、アンゾキオン・ボマージュに関して」
「いや、落ちた後の後ろ姿が、あまりにも哀愁漂っていたから、たまたま居合わせた俺が軽く慰めの声をかけたらな、あれよあれよという間にアミーゴになってたんだ」
「アミーゴて」
「実家に残した十五人の妻と五十五人の子供を養うために、出稼ぎに来たんだと」
「うおお、一夫多妻制を酷使し過ぎだろボマージュ。バイト程度で養えるんか、そんなに」
「まあ、子供の何人かと、妻の何人かも母国で働いてるらしいからな。が、それだけの稼ぎじゃ、貧しい国で多くの子供を養うには、さすがにジリ貧だから、出稼ぎに来日したらしい。密輸船に乗って、命からがら」
「密輸船て……話が暗澹として来たんだけど」
「偽造パスポートを自慢げに見せつけて来たボマージュに、俺は言ってやった。“お前、パスポート見たこと無いだろ”。やつが日本に滞在出来ていたことは奇跡以外のなにものでもなかった」
「後先考えなさ過ぎだろボマージュ。そもそも、金がないのに無闇に子供作り過ぎるなよ」
「はっはっは、そう思うだろ? でもな、ボマージュの魅力は、まさにその“後先を考えないところ”でな――五十五人の子供は全員養子だ」
「うそん」
「十五人の妻も、全員、危うい身分であった孤児を、抱え込んだものだ。もともとアンキソロン王国の貴族だったあいつは、金も名誉も地位も投げ打って、困った人間に手を差し伸べ続けたんだ。本当に、後先考えずな」
「俺の中のボマージュ株が鰻上りなんだけど。男前過ぎる。なんか誤解してごめんボマージュ」
「あいつの名言。“誰だって家族になれるんダヨ。ナゼかって? ボクが居るからダヨ!”」
「それはモテるわあ」
「こんな名言もある。ボマージュが、とある薄幸の乙女に言った言葉。“幸せな人が、人を幸せにするんダヨ。だからボクはキミを幸せにするし、キミはいつか誰かを幸せにするんダヨ”」
「聖人か」
「その反面、世紀のアホでもあるんだがな。それでも無事でいられたのは、本当に日頃の行いの賜物としか思えない」
「で、結局どうなったん? ボマージュは。面接落ちて、しかも偽造パスポートも使い物にならない紙屑で、ヤバイじゃん」
「うーん……いやあ、思い出せないんだよな、残念ながら」
「えー」
気になるなあ。そんなナイスガイと、俺はこれからアミーゴになるとは。ちょっと楽しみだ。
「話を戻すけど、俺さん。俺の思い浮かべた“あいつ”は、アンゾキオン・ボマージュじゃない」
「みたいだな。じゃあ、誰なんだよ、お前の言うあいつは。なにキオン・なにージュだよ」
「なにキオン・なにージュじゃねえっつの」
いちいち話の腰を折るな。
「大体分かるだろ――誠だよ。社寺 誠」
田塚と同じく、かつての同期の名を口にする。
「まこと……それはまことか!?」
「まことだよ」
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