1話『だからこれは俺と俺の問題』
二十歳になったことに気がついたのは、誕生日から二日後のことだった。
「あ、俺もう大人じゃん」
うわー、マジか。びっくりすほど自覚無いなあ。自分ですら自分の誕生日忘れるってどんだけ寂しい人間なんだよ。
まあいいや、そんなことより眠い。夜勤明けなので全てがどうでもいい、俺の人生などどうでもいい。ねむねむ。
「この豚野郎おおおおおおお!!」
「げばあっ!?」
鳩尾の衝撃が、俺を微睡みの淵から強制帰還させる。
ドロップキックをかまされたのだと悟ったのは、五分ほど毛布の中でゴロゴロのたうち回った後だった。
地獄の痛みから冷めやらぬまま、蛮行の主を俺は睨む。
「だ、誰だ、お前は」
「俺はお前だあああああああ!!」
そいつは叫びながら俺の胸ぐらを掴み寄せる。なんだなんだ強盗かと、混乱の内に間近に迫った相手の顔をまじまじと直視する。
俺だった。
いや、確かに相手は俺だと名乗ったが、今はっきりとそれが証明された。
俺が俺の胸ぐらを掴んでいる。
何だ夢かと目蓋を重力に任す。
「寝るなたわけええええ! 起きろ、起きろ、今すぐ起きろ! 永遠に寝かすぞクソ蝿野郎!!」
ガックガックと縦横無尽に揺すられる。脳味噌がシェイクされ、そろそろ耳から吹き出すかと覚悟し始めたところで、ようやく掴まれていた胸ぐらを離される。
「うおぇ、吐きそっ」
「黙れ豚蝿野郎。吐きながらでもいいからまず俺の話を聞け」
俺をシェイクから開放した自称俺は、ようやく少し落ち着いたのか、忌々しげに吐き捨てる。
「俺はお前だ」
「いやいや、でも俺は俺だし」
「俺もお前も俺なんだよ!」
意味が分からない。
「正しく言うと、俺は未来から来たお前だ」
「はあ。言われてみると、確かに俺より老けて見えるな、具体的には二分の三倍ぐらい――待て待て待て待て」
現実離れし過ぎた発言と鬼気迫る相手の勢いに、思わす自然と受け入れてしまいそうになる。
「あの、ちょっと、ちょっと待って下さい。ええと、現実でOK?」
「紛れもない現実だ! いいか、これは現実だ、これが現実だ。俺はな、お前なんだよ。信じられないだろうけど、俺もちょっと半信半疑だけど、とにかく受け入れろ」
「えー」
「いいか。よーく聞け」
俺――自称未来の俺は、くわっと目を見開き、無慈悲に告げる。
「俺は死んだ! そして俺は死んだまま十年前に戻って来た!」
「えー」
「つまり俺は十年後のお前! 死んでも死にきれず、悔恨の果てにここに辿り着いたんだ」
「えー」
「なぜ俺が死にきれなかったか分かるか? 分からんだろうな、お前のような糞豚蝿には分からんだろうな。あのな、お前はな、これから、明日も明後日も、一週間後も一ヶ月後も、一年後も二年後も、ずうううっと下らなくつまらなく無駄で無為で無用なクソッタレな同じ毎日を! 死ぬまで! 送り続けるんだ!!」
「えー」
「えーじぇねええええええんだよおおおおおおおおおおお!!?」
今日最大の雄叫びを上げながら、十年後の俺が俺の顔面を思い切り打つ。
渾身の一激に、耐え切れなくなり、俺はよろよろと後退し、しまいには壁に背中を打ち付けてしまう。
なんだこの迸る激情は、俺のどこにそんな気力が眠っていたのか。同じ俺とは思えない。
「お前はいつもそうだ。飽きもせずえーえーえーえー、面倒なことは全てそれで誤魔化そうとする。何事にも関わろとせず、やる前から諦め、自分が何で生きているのかも判然とせず、ただなんとなく今が良ければそれでいいと思い、別に今が良くなくともそれでもいいと思い、何気無く明日を迎え、将来に漠然とした不安を抱えながらも考えることを怠り、すぐに思考を放棄し、曖昧に楽観し、その場の感情に屈服し、妥協し、停滞し、諦観し、だらっだらだらっだらその日暮らし。バイト以外の時間はほとんど寝てるって……なんなんだお前は、どんだけ眠いんだよ、既に生きてると言えるのかそれは、本当に何のために生きてるんだ、いっぺん死んでみないと分からないんじゃないか?」
「いやでも、あんた死んでるよ」
「そおおおおですよおおおおお死んでますうううううううう!!」
うおお、いちいちびっくりするなあ……。
ていうか元気だな、十年後の俺。
死んだ方が生き生きするのな、俺。
「だから! 死んで気付いたんだよ! 目が覚めたんだよ! いや、永遠に目覚めなくなっちまったんだけども!」
「へえ、それはそれは御愁傷様、はっはっはっ」
「他人事じゃねえんだよ、お前の事なんだよ、今のままいくとお前は俺と同じになるんだよ分かるだろ分かれよボケ、死にさらすぞ畜生」
なんだか凄い滑稽なこと言ってるなこの人。俺だけど。
「なんだか凄い滑稽なこと言ってるなあんた。俺だからか」
口に出してみた。
無言で殴られた。
ひどい。俺が俺をいじめる。
「お前はっ、本当にっ、呆れたやつだな。我ながら――本当に我ながら情けない」
未来俺は大袈裟に手で顔を覆い、過去の己を嘆く。
「まあそう悲観なさるな、生きてれば良いことあるさ明日があるさ俺にもあるさ」
「生きてねえから良いことも明日もねえんだよ殺すぞ」
「殺したきゃ殺せ、されど俺は寝る」
「ここまで来るとすげえなお前、こんな人類史上でも稀過ぎる珍事によく眠気を優先できるな、もっと驚くとか取り乱すとか訝しむとかするだろ普通。もし俺がお前だったら……いや俺はお前だった。俺すげえ」
「そんなに自画自賛するなよ、照れるぜ」
「なんだこの新感覚のマッチポンプは」
奇遇なことに俺も同じことを思っていた。いや必然か。
「いやあ、別に俺だって驚いてないわけじゃないよ、未来の俺さんよ。ただしばらく生きる気力が薄すぎたせいか、いまいち現実感無いんだよな。なにもかもどうでもいいというか、どうにでもなれというか、ことさら眠いというか寝ていい?」
「寝るな、頼むから寝るな。あー、くそ、そうだ、この時の俺は確かにこんなやつだった。俺が一番よく分かってることだ、今になってようやく分かった、本当に駄目だこいつ。俺だけど」
ぶつぶつと惜しげもなく怨恨の籠った罵詈雑言を撒き散らす未来俺。
「で、結局あんたは何がしたいわけ? 死後の後悔の果てにこの十年前にやって来たとして――もはや漫画か何かとしか思えないぐらい頭の悪い怪現象だけど、眠いからそこはこの際流すとして、何? 人生を惰性に捧げる俺を叱りに来ただけ?」
いい加減面倒くさいので、ちゃちゃっと話を進めることにする。夜勤明けの微睡みを邪魔するものは、誰であろう――まさしく誰であろう、俺が許さない、俺であろうと許さない。
「なら、もう十分に反省したからさ、帰ってくんない? 誓うからさ、頑張るよ、明日から頑張るよ、この誓いは絶対に保ち続けるぜ。嘘だと思うなら、明日からの俺を見てやるといい、明日も明後日も毎日言ってるから、明日から頑張るって。反省の色が見えないと思うなら、ほら見ろよ、この懺悔の蠢きを」
俺は四肢をあらぬ方向にぴょろぴょろと蠢かせながら、ひょっとこのような間抜け面で「めごんねー、頑張るんべー、明日からぬー」と謝罪する。
うわ、我ながら心底イラつく上に気持ち悪いな。
「殺すぞ」
「待ちたまえ、悪かった、俺が悪かった」
あまりの殺意に思わず素直に謝ってしまう。しかし、俺が悪いのだろうか? どちらかと言うと、いきなり押し掛けて安眠妨害に張り切る俺さんの方が悪いのではないか? ああ、俺が悪いのか。
ところで考察、俺が俺に殺されたらどうなるのだろうか? 俺が思うに、未来に影響は無いだろう。なぜなら、過去を変えることで未来に影響が出るのであれば、そこには多くのタイムパラッドクスが表出してしまうからだ。このタイムパラッドクスという概念は物語上では頻繁に直面しそうになるのだが、いやちょっと待てと言いたい、そもそもパラドックスというのは矛盾のことであり、矛盾は存在し得ないのだから矛盾なのであって、多くの矛盾を必然的に含有する“過去を変えることで未来に影響が出る”という現象も非常に存在し難いのだ。しかし、こうして目の前に未来の俺がいるということは、この世界観に置いて、タイムスリップ自体はどうやら存在するらしく――と言っても、この自称未来俺が俺似の異常者である可能性なども全く有り得るのだが、というかむしろまだそちらの方が現実的に思えるのだが、いちいち突っ込んでいてもキリがないし今の俺は極めて適当な性格なのでほっぽり出すとして――、このタイムスリップの性質は、“過去は変えられるけど定まった未来は変えられない”というものになる――過去を変えられるというのは現在進行形で俺が俺により体験している。さらに推移していくと、この条件に当てはまる世界の構造としては、俺がパッと思いつく範囲では、分岐型と並列型が考えられる。いわゆる分岐型は、未来からの影響により過去が変更される事象が存在する場合においてその後の未来も独立して存在する、というものであり、これならば、いくら過去を変えようとその度に違う未来が独立して発生するだけで、定まった未来の形を変えずに過去へのタイムスリップが存在出来る。いわゆる並列型は、全ての異なる状態の世界が全て独立して存在している、というものであり、この場合での過去へのタイムスリップでは、その人物が過去に戻ることでその独立した世界の未来が決定するのではなく、その人物の辿る先が決定されている状態の世界がそもそも既に存在しているという、逆アプローチ的な見方であり、しかしながら、この並列型の構造の範囲や認識の概念を考慮すると、どれだけ可能性を推測しても時間が足りなくなるぐらい膨大で複雑に成り得てしまい、そこまでいくと次元的な解釈からしてまずああそう言えば眠かったねむねむぐー……、
「何をどさくさに紛れて眠りに落ちようとしてるんだ」
「いや、語るに落ちなくて仕方なく」
叩かれる。腑に落ちない。
くそう、独白に紛れてあやふやなまま寝てしまえばなんだかんだで全て片付くと思ったのだけど、そうもいかないらしい。当たり前である。
まあこの際タイムスリップや世界の構造どうたらなどどうでもいい。問題は目の前だ。こいつがいると眠れない。世界より安眠である。
「じゃあ、俺さん、どうしたら帰ってくれる? というか、成仏してくれる?」
下手に出てみよう。
「俺の未練が無くなったら」
「どうしたら未練無くなる?」
「お前が、十年後死んでも俺のような後悔を、しなくなるぐらい充実した日々を送れるようになったら」
「永遠に漂うしかないな俺さん、可哀想に」
「永遠にお前の安眠を妨害することになるのは俺も不本意だ」
「うっわ、タチ悪いなあんた! 自分が良ければそれでいいのか!?」
「俺が良ければそれでいいんだよ」
「俺が良くないんだから良くねえよ」
「良くないなら良くするしかないな。そのために俺は化けて出たんだ」
ゲンナリする。どうしてこんなことに。そんなに駄目なのだろうか、ぐだぐだライフ。俺の人生じゃん、俺の好きにさせろよ、他人が口を出すなよ……いや、他人じゃなくて俺が口出しに来てるんだっけ。最大の敵は自分だな。
「まずお前は目標を持て。夢と言ってもいい。人生の標を作るべきだ。そうすれば先も開けてくるだろう。最終的には毎日が充実し、化けて出るほどの後悔する人生を送るようなこともなくなり、俺の未練は消えるはずだ」
どうやら未来の俺さんは、この場から去ってくれる気は皆目無いようなので、仕方がないが付き合ってやるしかないみたいだ。敷いてあった布団を脇に詰め、部屋の片隅に立て掛けてある折りたたみ式の卓袱台を中央に組み立て、威圧するように腕を組んで仁王立ちする俺さんに対面する形で腰を下ろす。ようやく話に応じる気になった相手にひとまず満足したのか軽く鼻を鳴らし、同じように卓袱台の前に腰を落ち着ける俺さん。同じ顔の青年と壮年――しかも片方は死んでいる――が、明朝から進路会議とは、なかなかシュールな図かも知れない。
「目標、夢、標、ねえ。そんなこと突然考えろとか言われてもさ。正直困るわ寝ていいかな」
「寝るな。何かあるだろ、何か。例えば、ほらお前、何か趣味とか無いのか? 好きこそものの上手なれって言うだろ。趣味が高じて進路になるって、基本だろ、夢作りの。車好きが整備士になりたいとかさ、そういう感じの」
「趣味? あんたにはあるの?」
「俺? 無いな」
「じゃあ俺も無いよ」
「ぐっ」
いきなり壁に突き当たる。これで諦めてくれるかな。
「じゃ、じゃあ、あれだ。趣味とは言わなくとも、何か特技とかは無いのか? 人に勝るものって、それだけで自分のアイデンティティに数えられるだろ。それを武器に、就職計画とかさ、立てられるんじゃないのか?」
「特技? あんたにはあるの?」
「俺? ……無いな」
「じゃあ俺も無いよ」
「ぐうっ」
また壁に突き当たる。これで諦めてくれるかな。
「ま、まだだ。まだある。例えばそうだな、……きょ、興味! 何か無いのか、興味のあることとか、やってみたいこととか。ほら、それこそ人間の原動力だろ、まずはそこから始めてみようぜ、な?」
「興味? あんたはあるの?」
「俺? …………無い、な」
「じゃあ俺も無いよ」
「……」
ぐうの音も出ない壁に突き当たる。いい加減諦めてくれないかなあ。
「というか、分かるだろ、あんた俺なんだから。俺にはなーんも無いよ。なんにも、ね」
俺は悲しむようでも憤るようでもなく、ただ無表情で嘯く。
そう、なんにもない。
――あの瞬間から、俺にはもう、何も残っていない。
当時は夢もあった、希望もあった、未来もあった、充実していたし楽しかったし、仲間も居て、ライバルが居て、生き甲斐があって、好きな奴が居て、大好きな居場所があって、そこには青春があり、俺の人生があった。
けれどもう、とうに崩れ去り、ぐずぐずと屑のような己だけがここにくすぶっている。
つまり眠いという話。
未来の俺さんは、俺と同じ心境に至ったのか、読めない表情で口を開きかけ、そして閉じる。
しかし、数瞬してから、意を決したように、一度閉じた口は再び開く。
「なあ、お前、本当に――本当にそんなんでいいのか? 一度だけの、取り返しのつかない人生だぞ? 世の中、俺達の知らないことなんて数限りなくあるんだ、俺達が知らない楽しさが世界には満ち満ちているんだよ。生きてれば辛いことだらけだし、むしろ辛いこと無しには何も成らないし、それどころか、世界中の過半数が、満足のいく、望んだ、充実した人生なんて上等なものは手に入れられないだろうし、それでも手を伸ばし続ければ、きっと手に入るものはあるんだ。それをお前は、かつては手にしていただろう? うっかり離しちまったけれど、そんなことは、人間なんだから当たり前なんじゃないのか? なんならまた掴んでやろうとも思わないのか? それは確かに、充実してて、楽しくて、希望があって夢があって、大好きなものだっただろ。それなのに、こんな、つまらなくて惨めで怠惰で下らなくてどうでもよくて糞みたいな人生で終わって、お前――本当に悔しくないのか?」
けれど俺は眠いのだ。
俺のやる気は、もうとうに枯渇してしまっているのだから、仕方がない。熱くない鉄には何も響かない。
「ちゃんと聞けよ、誤魔化すなよ、茶化すなよ逃げるなよ」
一転、未来の俺は、ドロップキックをかました直後に俺を罵ったように、激情を顕にする。
「俺は嫌だよ、悔しいんだよ! お前ほんっとうにふざけんじゃねえよ? 俺の人生どうしてくれんの? なんで俺の人生つまらなくて惨めで糞みたいなまま終わらせちまったんだよ、何で俺はくっだらない人生のまま死んじまったんだよ。遅すぎなんだよ、もうどうしようもねえんだよ、それでもようやく思えたんだよ、もっと生きていたかったって、楽しみたかったって、知りたかったって、頑張りたかったって。お前のことだっつってんだろバカ野郎!」
卓袱台が割れそうなほど強烈に、未来の俺は――もう死んでしまった俺は、拳を叩きつけた。
俺は動くことも口を開くことも出来ず、呆然と、俺の未練を聞いていた。
そうか、それは怒りたくもなるだろう、さぞ悔しかったんだろう。気が付いた時には、全てが終わっていたんだから。本当は――俺はずっと、欲しかったんだから――取り戻したかったんだから、あの頃のような、楽しかった日々を。
だから、うっかり戻ってきてしまったんだろう。
一縷の望みをもって、例え、もう終わってしまった自分は終わり続ける以外に道が無いとしても、願わずにはいられなかったんだろう。
十年前に戻りたい、と。
生きろ、と。
「でもさあ、俺さんよ。そんなこと言われてもさ、違うんだよ。俺は――あんたじゃあ、無いんだよ」
酷薄に告げる。
「あんたは俺だけど、俺は俺だ。俺は過去のあんたなんだろうけれど、あんたはあんただ。そこは絶対に交えるつもりはないよ、例え相手が俺であっても」
別の俺は、別の俺でしかない。
「だから、これは俺の問題じゃあない」
シニカルに笑う。
「俺とあんたの問題だ」
やる気は出ないけれど、それでもやってみようかなと、そう思えたのだ。
久方ぶりに、少しだけ、ちょっぴり眠くない。
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