第百五十八話 救出
「余りにも長い時間の緊張状態は、
精神はおろか肉体にすら影響を与える」
精神医学の基礎知識
「……」
カイルは馬車の荷台に設置された檻の中で、膝を抱えたまま黙りこくっていた。
檻とは言っても単なる木製のそう頑丈でもない代物なのだが、まだ十歳にもならないカイルには鉄製のものとそう違いが無い物なのだった。力自慢の大人の獣人ならば簡単にぶち壊せるだろうが、幼い彼にはまだまだ歯が立たない。それは攫われて以来最初に自覚させられたことでもあった。
「……グスン」
何度も何度も泣いて腫れぼったくなった目じりにまた涙が浮かぶ。
父が、母が、村の人達や友達が思い出され、際限なく涙が溢れてくる。泣いたところで事態が解決などしない事は幼くとも自得するしかなかったが、だからと言ってそれ以外に出来る事もなかった。
(どうしてこうなっちゃったんだろう?)
これもこうなってしまって以来何度も考えてきた事である。
そして結論もいつも同じだった。ただ単に自分がいけなかったのだと。
カイルが攫われた直接的原因は、ただ単に彼が子供らしい好奇心のまま行動してしまったからだった。具体的に言うならば、両親の目が離れた隙をついて、一人で集落のすぐ側の森に行ってしまったのである。
ついでに付け加えるならば、どうにも運が無かったからでもある。彼のようなまだ幼い子が一人でトコトコ歩いていたら、見かけた村人の誰かが確実に引き留めてくれただろう。更に言えばそのまま家まで送り届けてくれさえしたに違いない。その程度の世間的良識は獣人であろうが大差は無いのだ。
だがカイルは誰にも出くわさず、誰の目にも留まらずに村の外に出てしまった。
そしてそこをナブル達が良い機会とばかりに搔っ攫っていったのである。
不運ここに極まれりといった風情だが、そんな事はカイルには分かりはしない。ただただ親や周りの大人の言い付けを聞かなかったのが悪かったのだと思っていた。それはそれで事実なのだが、これもカイルにとってはどうでもよい話だろう。
まぁ攫われたと言っても酷い扱いを受けてはいない。
味気ない物だが食事はきちんと出されるし、生きていれば必然的に出るモノはそれ用の桶が用意されていた。傍らにミルンの葉が何枚も入った箱付きでである。
ちなみにミルンの葉とはアースガードでトイレットペーパーの用途で使われている物で、20㎝四方程の大きさの葉っぱに非常に柔らかい繊毛がびっしり生えている代物である。非常にありふれた樹木でそこいらの森であれば一本程度は確実に生えているので、旅の必需品且つ補充も容易であるという便利な物だった。
ちなみにかなり強烈な消臭効果すら持っている。お陰で日本でいうところの田舎の香水の匂いはアースガードでは大昔から無縁だった。
洸もこちらに来て以来、最も驚かされた事がこの匂いの点である。
それでも現代日本に比べればそれなりに妙な臭気がすることはあるが、男性である洸にとってはそれほど気にはならなかった。女性であれば何か別の意見があるかもしれないが。
勿論最初は家に帰りたいと素直に泣き叫んだ。しかし当然何の反応もなく、怒鳴られることも殴られることすら無かったが、その代わり完璧に放っておかれた。
それが数日続いてからカイルもある事を悟った。何をどうしようが彼らは自分を返してはくれないのだと。もう優しい母親にも大きくて逞しい父にも、一緒に遊んだ友達にも、他の顔見知りの村人たちにも、もう会う事はないのだと。
それからはどうにも無反応になってしまい、食事も口にすれこそ、ただ栄養を摂取しているだけとなった。時間感覚すら曖昧になり、捕まってから何日が経過したのかなど考える事すらやめてしまっている。
洸が見れば緩慢に自殺しようとしているとみなしかねない状況だった。
だからこそ今日になってそれまで入れられていた洞窟の中の檻を出されて、馬車の荷台の檻に移されても何の反応も示さなかった。どこか別の場所に囚われていた同年代の獣人が四人順番に入れられてきても何もしなかった程である。
まぁ他の子たちも似たような態度であるあたり、境遇も似たようなものなのだろう。
いや、あるいはもっと酷いか? 兎耳を持った女の子など殆ど反応を示さなかったのだから。
かくてカイル達は更なる絶望に向かっての待機状態となっていた。
外というか馬車の近くで何か言い合いをしているのは聞こえてはいたが、自分には関係ないといつも通り無視していた。
だというのに何か聞き覚えのない軽い音が響いた時は、ほんの一瞬だが心が波立った。
そしてカイルの脳裏である一人の女性を思い浮かべる。父が助けた冒険者パーティの一人でカイルにとても優しくしてくれた魔導士を。四人のパーティの中でも特に弟のように接してくれた人の名を。
「ハルスねぇちゃん」
久しぶりに動いた口はどうにも不明瞭な発音しか出せなかった。他人が耳にしても何と言ったのか理解できなかっただろう。
だがそれに応えるかのようにすぐ傍で大声が上がった。
「カイル」
突然自分の名を呼ばれて、カイルは俯いていた顔を上げる。
視界に入ってきたのは、檻の隙間からこちらを涙ながらに見ている、今口に出したばかりの人物だった。
「カイル。本当に大丈夫か?」
「待ってろ。今ここから出してやるぞ」
そして髭面のリーダーを除いた残り二人の若い男性が声をかけてくる。
そしてカイルは途轍もなく唐突にある事に気付いた。
助かった。自分は助かったのだと。両親の元に帰れるのだと。
歓喜の涙が溢れだし、頬を濡らしていく。もう少し元気があれば飛び上がって喜んでいただろう。
他の子供達の中には実際にそうするだけの体力が残っていた者もいたようで、二人ほど実際に飛び跳ねていた。
だがカイルは違った。助けが来た事、それが知り合いである事を認識して、彼の心の中で解ける事のなかった緊張が一気に雲散霧消した。
そしてカイルはその場で寝転がって目を閉じてしまう。だがその寝顔はどこまでも安らかな、実に子供らしい幸せそうな代物だった。
嗅ぎなれた硝煙の匂いは、洸の心理を揺るがすことなど無かった。元から落ち着き払っていた心を、更に冷静にさせただけである。
洞窟内部に突入すると同時に膝をついたカイラスに向けて剣を振りかぶっている誰かを目にして、即座にブローニング・ハイパワーを召喚、瞬間的に狙いを定めて発砲したのだった。
銃弾は見事にそいつの手を打ち抜き、剣をとり落とし、そして絶叫をあげながら手を押さえている。
まぁ確かに貫通してはいるのだが、前腕の上部を軽くえぐった程度で、どう考えても致命傷には程遠い。ほんの少しずれて手首の動脈を傷つけていれば失血死の可能性もあっただろうが、現状ではその心配はないだろう。
ただしそれは荒事に慣れたというか、洸のような知識を有する者のみが考察できる事で、連中のような単なる人攫い共には無理な注文だろう。こういう奴等はどうあろうが抵抗できない子供を相手にする事が常なので、直接的な暴力を振るうことは少ないが、その分何らかの攻撃を受けることに不慣れなのだろう。
恐らくナブルだろうと推察した男の反応から、洸はそんな事を考えていた。
無論同情など一切覚えていない。幼い子供を誘拐するなどという卑怯極まりない行為をしている屑共に、そんなものを覚えてやる道理など一切無いからだった。
無論盗人にも三分の理という諺は知っているし、人が悪党になるにはそれ相応の理由がある事も理解している。ただ単に悪事を働いたというだけで、そいつらを成敗するのが正義であるなどと嘯けるほど若くもなかった。
しかしそれはそれ、これはこれである。今は一目見ただけで精神的に壊れかけている様子すら窺える子供達を救うのが、今の彼の仕事なのだ。
だからこそ銃を構えたままで、つい思い付いた言葉を口にしてしまう。なるべく低い声音で放たれたそれがアースガードで通じる筈のない英語である事に気が付いたのは、口に出してしまった後だった。
「さぁ、ペイバックタイムだ」
どうにか書き上がりました。
今後書きを書いていますが、またどれだけ誤字があるか、少し怯えております。
誤字報告を下さる方々には本当に感謝しかありません。毎度毎度ありがとうございます。
これで今年の投稿は最後になります。
どうにも毎月投稿とはいかない本作に付き合って下さった読者の方々に、作者よりお礼を申し上げます。
来年も本当に気長にお付き合い頂ければ幸いです。
それではよいお年を。
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