第百二十六話 齟齬
「唯一の真の英知とは、
自分が無知であることを知ることにある」
ソクラテス
「……私達、何をやっているのかしら」
その場にいた本人達も自覚がない程の長時間、沈黙に支配されていた室内にレイラの気落ちした声が響く。
その表情は暗く、内心と完全に一致していると言うべきだが、どうにも二十歳にならぬ若者がしてよいものではなかった。
ただ少なくとも場にそぐわない空気ではないのが救いと言えば救いだろうか。
これが贅を尽くした王侯貴族用の部屋であれば、場の雰囲気にそぐわないこと夥しかっただろう。しかし彼等がいるのは、単なる雨露がしのげればよいという納屋ではない一般人であれば文句など付けようのないという意味では立派な部屋である。逆に言うと、今の彼等の心情にはこの部屋の方が合致していると言えるかもしれない。
「何をやっているかではありませんよ。何もやっていないんです」
内容そのものは酷く辛辣なのに、表情と声音はレイラとひどく似かよった調子で、レイラの体面にいるファルステンは言い切った。
ちなみに二人は小さな丸テーブルを挟んで、それぞれ椅子に腰掛けている。こういう場面では香茶の入ったカップでもあるのが普通なのだろうが、テーブルの上には水の入ったコップすら無いあたり、その落ち込み具合がわかろうというものだった。
いわゆる令嬢と言われる類の女子達にとてつもない人気を誇る彼の美貌は、血の気が引いたどころではない青さであった。
人によってはこちらの方が魅力的だという者もいなくはいだろう。
ただし彼の美貌がもたらす本来のモノでは決してなかった。
「繰り返しますよ? 僕らは何もしていません。あの賊を切り捨てる事は勿論、誰とも切り結びすらしなかったんです。それどころか自分の身すら守れていません。ただ剣を抜いて、突っ立っていただけです」
「…………」
さらに重ねられる辛辣な物言いに、レイラは沈黙をもって答えるしかなかった。それが全くの事実であるがゆえに。
だからといって素直にそれを認められるかというと、それも不可能だった。
レイラもファルステンも、剣術を始めとした武技の鍛錬を怠った事などこれまでの人生で一度も無く、その点の己の技量に関してはそれなり以上の自信があった。最初から敵無しに無双できるなどとまで自惚れてはいなかったが、少なくとも敵に遅れをとるなどという醜態を晒すことなど無いと考えていたのである。
だが現実は大違いだった。
多少の手傷を負うなどの苦戦以前の状態、つまりは何も出来ずにその場に立ちすくんでいただけなどというのは、彼らの想像とはかなりかけ離れていた。
言い換えれば自分たちの思い描いていた理想の英雄像からすれば、無様さの極みである。
他者からすると実に現実的であり、だというのに傷一つなく生き残っている時点で途轍もない幸運であったと言えるのだが、そこまで二人の考えが及ぶ筈もなかった。
ただ更なる他者、要は実戦をくぐり抜けた騎士や兵士達に言わせれば、レイラもファルステンも漸く本物の騎士としてのスタートラインに立ったのだとみなしただろう。
つまりは己に何が出来て何が出来ないのかを悟り、少年や少女という未熟な子供という域を脱しようとしているのである。それこそが大人になる際に経なければならない精神的通過儀礼に、二人が足を踏み入れかけている事の証だった。
人は生きている限りは成長し続けなければならず、逆に言えばいつまでも子供のままではいることは出来ない。
少なくともこの二人は自分たちにはまだ何かが足りないと自覚できる、若者らしい柔軟さがあった。
素直に己がまだ何も知らず何も出来ない子供であると認める事は不可能でも、そうなのではないか? と疑問を持つ事が出来たのである。
それはそれで素晴らしい精神的成長ではあった。
両親を始めとする年上の者達であれば、嬉しさのあまり微笑を浮かべるであろう程に。
ただしそれはレイラとファルステンに限っての話である。
残りの一人に関しては、また別の話だった。
「ジェイル?」
レイラはふとその事に気付いて、先ほどから会話に加わってこない残り一人の仲間に問いかける。
ファルステンも同様に気付いたらしく、顔をそちらに向けた。
ジェイル・ラグロンドはベッドの一つに腰をおろし、上体を前に倒したままブツブツと何かをうわ言のように口にしていた。
手は膝に肘をつけて差さえとし、手のひらで顔を覆っている。
そこから覗ける顔色は、レイラ達とはまた別の意味で他人を不安にさせるものだった。
二人のモノが他者を心配させる類のものであるならば、ジェイルのそれは言うなれば不気味さを喚起させるものだった。
別に死人じみた顔色の悪さではないのだが、内心の何かがにじみ出ているのか極めつけに不健康そうな印象を見る者に与えていた。
それに気が付いた二人とも即座に顔をしかめる。しかし何か言葉をかける事には躊躇してしまった。
ジェイルの様子はそれほどに不吉さを感じさせたからである。
しかし仲間を放っておく事も出来るはずもなく、ファルステンはおずおずと声をかけてみる。当然まともな返答が返ってくることを期待してのものであり、それ以外の反応に対する心構えなど一切していなかった。
「ジェイル、大丈夫か?」
それに対するジェイルの反応自体は、ファルステンもレイラも予想していた通りのものだった。顔を覆っていた手をはなし、はじかれたかような速度で目線を上げただけだったからである。
しかし彼の顔のある一点を目にした途端、二人は驚愕の表情を浮かべる事となった。
その原因はジェイルの眼だった。
血の涙をながしたかのように真っ赤とはいかなくとも泣き腫らしたあとのように血走ったそれには、二人にとっては異様に思える色が浮かんでいた。二人のまだ長いとはとても言えない人生で、そんなモノは見た事が無かった。
少なくとも如何なる意味でも常人が浮かべてよいモノでは無い。思わず浮かんだ思考は、その程度のものだった。
「……大丈夫さ」
そう答えるジェイルだったが、レイラもファルステンもそのまま信じなかった。いや、そう出来なかったというのが正しいだろう。
眼の色のこともそうだが、彼の浮かべている表情が不自然過ぎた。
あの惨劇の場面で何もできなかったのは二人と変わらないのだから、ある種の焦燥感が張り付いていてもおかしくはない。いや、それが普通だろう。
だというのにその顔面には不思議なほどにそれが無かった。
それどころかどうにも爽やかさすら感じられるものが浮かんでいたのである。
「どうしたんだよ、二人とも。俺達はこれからやらなきゃならない事があるんだぜ? その為にも今のうちに休んでおかないとな」
至極真っ当な物言いに、レイラもファルステンも返答に窮してしまった。
顔面に現れているモノが普段のジェイルには似つかわしくないのは変わらないのだが、言っている事自体はまったく正しかった。その点に関して二人ともおかしいとは思ってはいた。
しかしそれを無造作に、または遠回しにでも指摘する事が、何故だか出来なかったのである。
その理由は本人達は理解してはいなかったが、突き詰めればやはり人生経験の少なさゆえだった。
このような状況の他人に遭遇した事などなかった二人は、無意識の内に向き合うことを回避してしまったのである。このような違和感を先送りにした場合どのような結果を招くか、全く想像が及ばなかったのだった。
かくて三人はそれぞれのベッドに体を横たえ、心身の疲労を少しでも癒そうと努力することとなる。
ただしレイラもファルステンもジェイルが顔を伏せていた時に呟いていた台詞が何なのかを知れば、もっと別の心配をしていただろう。あるいは非常事態であるとでも思って、彼を拘束、そうでなくとも大事を取って予定を遅らせるなり最悪中止までも視野に入れていたかもしれない。
しかしそうはならず、全ては当初の予定通りに事態は進んでいった。
「こんなのは間違ってる。こんな結果は俺達のやった事じゃない。そうさ、俺はまだ本気を出していないだけだ」
こんなどこかのニートが言いそうな事をジェイルが言っていたのを、二人は最後まで知る事はなかった。
「コウ、あの子達だけど、やはりあの金髪の若い子は妙な具合になってるわね。どう聞いてもまともに事態を把握できていないわよ」
「そうか」
例の盗聴魔法で三人の様子を探っていたローザから結果を聞いて、洸は軽くため息を吐いた。
「他の二人は?」
「今の所は大丈夫じゃないかしら。少なくとも取り乱しはしていないわね。冷静沈着とはさすがにいかないけど、現実が認められなくて右往左往してはいないわよ」
そんな会話を交わしてから、洸は今度は安堵の息を吐いた。
ここは彼等の隣の部屋なのだが、造りは明らかに劣っていた。その分壁の厚さも大したものではないので、盗み聞き程度ならエルフである二人なら難しくはなかろうが、洸としては会話の詳しい内容が知りたかったのでローザにこっそり頼んでおいたのだった。
正確にはレイラの衣服に小粒の端末を忍ばせておいたのである。
あまり長時間の使用が出来ないのだが、べつに永続的な監視体制におきたい訳でもないので、その点は看過して構わなかった。
「コウ、こんな状況になる事が分かっていたんですか?」
不思議そうに尋ねてくるリーアに、洸は微笑みながら答える。
「最悪の場合は、三人とも現実を認められないんじゃないかと危惧していたんだけどね。レイラは流石は女性だけあって、並みの男より現実認識は優れているのかな。あの色男は意外だったけど、そのぶん対人関係の経験がジェイルよりあるんだろう。歳はほぼ同じだと聞いていたんだが」
「でも女の子であっても、その点でみんながみんな同じ反応をしますか? やはり人それぞれだと思いますけど」
「だろうね。まったくもってその通りさ。僕が言ったのは、単なる一般的な傾向だよ。だけど彼女が思ったより落ち着いているのは、やっぱり良い事なのは変わらないよ」
「分析はそこまでにしておきなさい、二人とも。言っては何だけれど、ワタシたちの本当の依頼からすると、本番はここからよ」
スルリと会話に紛れてきたローザの台詞に、洸は表情を引き締めた。
「だよなぁ。まったく重要度が高いのはわかるけど、その分やっぱり面倒ではあるよなぁ……」
その言葉にリーアもローザもレイラ達と出会った日の夜の事を思い出していた。
色々と書いていたら、久しぶりに四千字を超えていました。
ただし相も変わらず話がまったく進んでいませんが。
ちなみに今回のジェイルの台詞にあるニートの常套句に、変な感慨を覚えてしまいました。
作者の大嫌いな言葉の一つなんですが、これを自分で打ち込む日が来るとは思っていなかったので。
あとお知らせが一つあります。詳しくは活動報告にて。
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