第一話 切欠
「現実とは比類ない強固さがある物だと大抵の人は思っているだろう。しかしそれは幻想に他ならない。自分の現実と他人の現実はどこかしら歪が生じているのだ。そしてその歪が大きくなり過ぎれば……その時、あなたの世界はありとあらゆる意味において破綻するだろう」
ある精神学者のリポートより
夕日に照らされてあの独特の色に染まった町は、街道脇の宿場町としては全くの日常と言っていい声が響いていた。
喧騒と言ってもいい酒場の中では、客の注文の大声、それに答える店員の声、乾杯のグラスの音、あるいは客同士の雑談か言い合い、果ては酔った末の殴り合い、そのどれもがありふれた光景だった。
さらに時が過ぎて完全に日が沈み、夜光灯の灯りが陰影を濃くして、周りが静けさを増しても此処は大して変わりはしない。いい加減に酔った常連客が家に帰り、腹もふくれた旅人はすぐ隣という便利さを誇る宿屋に多少ふらつきながらも戻って行く。そんなところだ。
しかしたまには例外もいる。奥の目立たないテーブルでエールを舐めている黒髪の青年がそれだった。
男性としては不潔さを感じさせない程度に延ばされた黒髪に茶色の瞳は、髪と瞳の色がやたらと多彩なこの世では、珍しくはあっても異質ではない。
そして背の高さはそれなりだが、見た目は細身ではありながら、旅人らしい特徴の無い上下に包まれた肉体は目に見えている部分だけでも十分に鍛えられている事が分かる。
彼は閉店までほとんど席を立たず、店主に閉店を告げられると礼を言って勘定を払い、そのまま宿屋とは逆方向に歩いて行った。
店主はそれを見て妙な客だと思いながらも、それきり気にも止めず片付けを始める。客商売をしている彼のような者は、あの程度では不審には思わない。逆に言えば、もっととんでもない奴の相手をした事もあるのだ。そう、酔っぱらったドワーフの集団と比べれば、あの黒髪の旅人はまだまともな方だ。
しかし翌日の昼頃に店を開けた店主は、昨夜の自分を罵りたくなった。例の旅人がすぐにやって来て、そのまま昨日と同じ席に座り、そして入り口を見ながら寛ぎ始めたからである。
「なあ、兄ちゃん。誰かを待ってるのは分かるが、店開いてすぐに来るってのは俺はどうかとおもうぞ」
「全く持ってその通りだよ。反論できないね」
無理からぬ店主の言葉に、黒髪の若者は苦笑と共に答えた。
「でも僕も今回の依頼をすっぽかす訳には行かないんだ。あなたには迷惑だろうが、生活が係っているんだよ」
「ほう」
その返答で店主はこの若者の素性を正確に察した。
彼はギルドに所属している冒険者なのだ。そうでなければ依頼などという単語は出てこない。
冒険者ギルドは幾つもある公的に認められたギルドの一つだが、他の所謂職業的ギルドと違って個人による差が非常に大きい。その為に人によって単なるならず者か犯罪者予備軍とすら見なされる事もある。
だが目の前で入り口に視線を向けて静かに座っている若者は、その手の連中が発散しているある種の野卑さが欠片も感じられなかった。
この商売を始めて、と言うより親からこの店を引き継いでもう二十年になる店主は、客がどんな奴か第一印象で見極める事も客商売の必須だと分かっていた。
そして彼の経験によれば、この若者は明らかに高い教養と礼儀を身に着けた人物と思われた。先程の返答もこちらの立場を慮ってのものであり、単なる店主である自分に「あなた」などという敬称を使っている。こんな対応をされたのは、この長い商売でも初めてだった。
(いや、だったら何でこいつは冒険者なんかやってるんだ?)
そこまで考えて店主は新たな疑問を覚えた。
これほどの教養と礼儀を身に着けているなら、地方領主が何の問題も無く召抱えるだろう。それどころか王都の大商人や十大貴族ですら大丈夫だ。さすがに王室は簡単には行かないだろうが、多少の時間さえかけられるなら採用されるのは目に見えている。それほど若者の態度は立派なモノだった。
(なら訳ありだな)
店主はそう判断した。
考えてみればそうでなければ冒険者などには成らない。
脛に傷持つとまでは行かなくても、逃れ難い何らかの過去がこの若者を縛っているのだ。
納得した店主は理解を含んだ溜息を吐きつつ、言葉を重ねる。
「分かったよ、好きにしてくれ。何か注文はあるか?」
「ありがとう、今はいいよ。そのうち腹が減ったら何か頼むから」
「そうか、じゃあな」
微笑みつつ店主はテーブルを離れた。
彼の推測は大部分が当たっていた。特に何らかの訳ありだろうという所は。
しかし真相は店主の推測の遥か上を行っていた。
いくら人生を積み重ねてきた彼であっても、若者がこの世界で生を受けた人間では無いなどというのは、どうあっても想像の埒外だった。
真田洸は接触すべき人物が未だに現れない事に不安を募らせていたが、だからと言って即座にこの町を離れる訳にはいかなかった。
何しろここに来る以前のある場所で、既に依頼は受けてしまっている。
旅人であり、ギルドに所属する冒険者でもある洸は、この依頼を破棄できない。正確には破棄するための違約金が払えないのだった。手持ちの金は今日明日の飯も喰えない程ではないが、違約金には明らかに足りない。
なんたる我が身の情けなさよ。
ため息をつきつつも入り口に視線を向けながら、洸はざっと六ヶ月前の事を、この異世界に来た日を思い返していた。
真田洸はこの世界……アースガードの出身ではない。地球は日本の生まれで、あの事件でアースガードに来た時は二十五歳になったばかりだった。
彼のこれまでの人生はドラマのようななどという表現とはかなり無縁の物だった。
義務教育と高校と大学生活を人並みに過ごし、東京近郊の都市で就職も無難に果たしたどうという事の無い生き様である。
まあ、劇的な出来事と言えば、二十三歳の時に両親が事故で死んでしまった事だろう。兄弟もおらず、親戚もひどく遠い地方にいる彼は、生まれ育った家と土地を売却してその金を定期預金として銀行に放り込むと、そのまま大学時代から住み続けているアパートで暮らしていた。
それ以来故郷にはお盆にしか帰っていない。
昔の友人知人は殆ど全てが故郷を離れてしまっているからだ。
懐かしさを覚えない訳ではないが、こちらで培った人間関係は、洸にとって昔のそれと比べても劣るものではない。
会社の上司はまあ人間的に若干の問題があるが仕事のできる人であり、友人知人は救いようの無い阿呆は一人もいない。今は別れたが、大学時代には付き合っていた彼女もいた。
濃密とは行かないまでも、満足すべき生活。
あの時まで彼はそう思っていた。
そう、この異世界に飛ばされたあの日まで。
勤めていた会社でお盆休みと追加で3日の有休をもらった洸は、休暇の初日に久々にあるゲームを起動した。
VRコンソールを使用したVRゲームソフト<another real warfare>である。
このゲームは所謂ワンマンアーミーと呼ばれる種類のゲームである。
FPSやTPSの流れを汲む、自分を一人の兵士……と言うより特殊部隊隊員と化して次々に下されるミッションをクリアしていくというある意味オーソドックスと言っていいゲームだ。
しかし以前とは桁違いになったCPU性能とメモリ容量、そして何よりもVRと言う人類の夢である技術によって構成される仮想空間は、従来のテレビ画面やモニターによるFPSやTPSを完全に時代遅れにしてしまった。
なにしろ制限があるとは言え、注意して見なければほとんど見分けが付かない周囲の環境の中を、バランス良く鍛え上げられた兵士の肉体を持つ自分が動いているのだ。
リアリティの差があり過ぎて、旧型に戻ることなど当時のユーザーは誰一人として考えもしなかった。
またもう一つの主役である兵器も似たようなモノだった。いや、それどころか手に持つという特性を考慮してか、明らかに有名な銃器メーカー……コルトやH&K,FNHといった有名所が外観資料データを提供していると、まことしやかに囁かれていた。
さらに米軍が一枚噛んでいるという話まである。理由は登場する車両やヘリが、明らかにやり過ぎなまでに描写が細かかったからである。 通常は簡略化される筈のハンヴィーのステップや、ブラックホークの内部構造まで分かるほどで、単なる開発者の好みと言うにはやり過ぎであり、ARWは軍が実戦用シミュレーターとして開発した物を基にしていると言う噂にかなりの信憑性を与えていた。
だからこそ発売当初から大ヒットとは言えないまでも、順調にユーザーを増やして行った。
この手のゲームはどうしても一般受けのするジャンルでは無い。特に日本では一昔前ほどでは無くても、銃や兵器という単語を耳にすると血圧の跳ね上がる人種がまだいる。
だからこそその手のマニア達にとって正に夢のゲームだった。
メーカーの公式ホームページではオンライン対戦を可能にするアップデートが近い将来に行われるという記事が載り、ユーザーはその日が来るのを興奮と一緒に待ちわびている。
洸もその一人であり、地道に経験値を稼ぎつつ、ステータスを増加させていた。
洸が久々に(実は前回プレイしたのは去年の暮れだった)arwをやろうとしている理由は、単純にこの約八ヶ月は全く時間が取れなかったからである。
ブラック企業ではないが暇を持て余している訳でもない彼の勤め先に、今年に入ってから大口の仕事が舞い込み、それが八月の頭まで長引いた事が最大の原因だった。
サービス残業は無く、労働基準法に違反する事無く日曜は休みだったとは言え、異例の長期(彼にはそう思えた)に亘る仕事の連続は二十代の若さであっても精神的肉体的にかなりの疲労を覚えさせていた。
肉体的疲労はこの休暇で癒せるだろうが、精神的疲労はどうするか?
決まっている。自分の一番好きなことをやるのだ。
何しろ前回の時に遂にステータスがカンストに至り、揃えたいと思っていた装備と支援機器を全て手に入れていた。(ちなみにゲームに存在する全てでは無い。洸はその点のコレクターではなく、自分の好みを反映させた物を必要十分に揃える事にしている)
一晩ぐっすり眠って朝食も腹に入れて体調もまずまず、ならば早速とばかりにVRコンソールを持ち出し準備をする。
コンソールの外観は箱型のハードと、それに繋がったヘッドギアで構成されたシンプルなものだ。
S○Oの様にヘッドギアだけというのが理想ではあるだろうが、昔と比べてもこれだけで隔世の感がある。
VRが商品化された時は、ハードはゲームセンターの筐体並みの大きさであり、読み込みにもまだまだ時間がかかった。
もちろん価格は個人で手が出せるのは日本に数人しかいないのではないかと噂された程で、実際にこれを個人で購入した記録は無い。
最初は勿論と言うべきか、大手のゲームセンターが設置して体験コーナーとして稼動させた。
まだ物珍しさが勝っていた頃で、技術的にも商売としてもこれが当時の限界だったと開発チームの責任者はインタビューで語っている。
そして時が過ぎて進化の果てに、遂にVR技術はコンパクト化と低価格化を成し遂げた。
洸のベット脇で電源に繋がれているVRコンソールはその進化の極致なのだ。
ヘッドギアを被り、ソフトがハードにあることを確認し、ベッドに仰向けになって電源を入れる。
すぐに視界が白一色になった後、メーカーロゴとタイトルである<another real warfare>が表示される筈だった。
しかし次の瞬間、失明を引き起こしかねない光が眼前に溢れ、洸は悲鳴を上げた。
そして同時に意識が途切れ、真田洸の肉体は地球上から完璧に消失した。
全くの初登校です。その場の勢いで書いているため、誤字脱字がありましたら、ご勘弁の程をお願いします。