交渉人の日常
時々、思うことがある。
絆は、ぼくと出逢って良かったのだろうか?
ぼくは交渉人をやっている。
だが、普通の交渉人ではない。裏世界の、資格のない、組織に属さない、非正規な実績しかない交渉人だ。死んでもドラマ化はされないだろう。望んでいる訳じゃないけどさ?
普段は高校生をやっている。成績は普通なんだが、出席日数がヤバい。正直、ギリギリ。仕事柄しょうがない。学校に通用する言い訳ではないが。
交渉人は中学生からやっている。あの頃は真似事同然だったけど。拙いって言うか、荒かった。雑だった。より簡単に言えば、強引だった。言葉より暴力の方が使用していた。思い返せば懐かしい。いや、恥ずかしい。掘り返して欲しくない。
今のぼくになるきっかけが何かと尋ねられれば、答えは簡単だ。足し算よりチョロい。そして、恥ずかしい。
そんなぼくを変えたのは、絆だ。
斑崎絆だ。
もっとも、彼女にその自覚はない。何故なら、絆は知らないからだ。ぼくが交渉人であることを。
そして、これからも出来れば知られたくない。
彼女が彼女である為に。ぼくがぼくである為に。
彼女が『普通』である為に。
ぼくが『普通』になる為に。
□
ぼくの朝は基本的に、喧騒から始まる。
「畜生! 誰だ俺のヨーグルト食べたの!」「あ、あたしじゃないもん! 食べようとしてたけど!」「私も知りません。でも花さんのお弁当を作る時には既にありませんでしたよ?」「何ぃ!」「ゆっきー、それいつ?」「確か、六時前でしたよ」「昨日の十一時にはあったぞ」「つまり六時間の間に誰かが……」「あ、それ、たぶんあたしだわ」「え?」「あれ? 流水さんじゃないですか。いつ帰国を?」「昨晩。いや、もう今日か。深夜の便で」「流水ぃ! てめえ、あれが師走牧場の限定品だと知っての狼藉か!」「ごめんごめん。酔ってたから。いやー、買った覚えのないヨーグルトのカップが手にあったから、何かなーとは思ったけど」「じゃあ何か? てめえは俺のヨーグルトを食っておきながら、味の感想すら覚えてねえのか?」「うん」「ざけんなあ!」「朝からうるさいですよ!」「うっせえ!」「うるさいのは千影さんです! 盗聴器の音が聞こえないじゃないですか!」「朝から何聞いてんだ!」「な、何って……、セクハラです!」「何で!?」「ちーさん、女子がセクハラって言えば、それはもうセクハラなんだよ」「冤罪だ! 日本の法律はおかしい!」「残念でしたね。国は私の味方ですよ」「畜生! 誰も守ってくれねえ!」「皆さん、もうじき朝食が出来ますから席に着いてください。早くしないと、時間になってしまいます」「ほーい」「一番に返事すんな。てめえはどこに行く用事もねえだろうが」「ふっふっふっふ。残念だったね、ちーさん。今日あたしは、ゆっきーと一緒に狩りに行く。故に急がねばならん」「どうせオンラインゲームの話だろ」「何故バレた」「由紀がリアルな狩りなんか行く訳ないだろ。後、いつものことだし」「それもそうだったね」「私は後で頂きます。もうちょっと、一言の声を聞いていたいですから」「ひゃー。なぎちゃん、恋愛してるねー」「かなり間違えた方向ではあるがな」「いんじゃない? なぎちゃん可愛いし。可愛いなら大抵のことは許されるんだよ?」「暗に、自分も可愛いから家出だろうとニートだろうと許されるって言いたいのか?」「うん」「全国のブスに謝って来い」「セクハラです」「今のが!?」「セクハラって言うか、差別だよね」「いやいや! 最初に可愛ければ何でも許されるって言ったのはてめえだろうが!」「それとこれとは別」「何と都合のいい論理」「まあ、世の中大体のことがそうだよ」「一理ありますね」「人間って、分かんねー」「ちーさん、人間と違うからね」「まあな」
「たでーまー」「あ、お帰り、かっさん」「うーいー」「夜勤ご苦労……、大丈夫か?」「うーいー……」「大丈夫ではなさそうですね。朝食はどうします?」「たーべーる」「分かりました。少し待ってください」「うーいー……。あれ? 流水さん、帰ってたんですか?」「うん。今朝。いやー、帰国してから飲み過ぎたみたいでね。いつ頃家に着いたかは覚えてないんだよ」「玄関に潰されたゴキブリみたいにノビてたの、もしかして流水さんだったの?」「たぶん。目が覚めたのも玄関だったから」「ん? ちょっと待て」「はい?」「流水、お前、玄関に倒れてたんだよな?」「ああ。由紀の目撃証言もあるから間違いない」「玄関で倒れてたのか?」「確信はないが、暫定的に肯定しておこう。荷物も玄関だし。予想でしかないが、帰宅した瞬間に意識を失ったんだろう。記憶がないから何とも言えないが」「だったらお前、どうやって冷蔵庫のヨーグルト食ったんだ?」「………あ」「玄関で倒れた人間がキッチンの冷蔵庫にあるヨーグルト、どうやって食うんだ? ヨーグルトが玄関まで出歩いたのか?」「……………」「犯人は、別にいる。キラーン」「いや、要らないから。そういうの」「ガーン」「てかリアルに誰だ? 今なら一回殴るだけにしてやるから、名乗り出ろ」「あ、あたし、本当に違うから。まだ食べてないから」「私だって知りません。他人の物など盗りません。一言の物ならともかく」「私も知りませんね。もし食べたとしても、カップだけ残すなんて真似はしません」「てめえらは最初から疑ってねえよ……おい、そこのロリコン」「え? ちーさん何でこっち見て……、うげ!」「ちっ。気付かれた」「舌打ちすんな」「キモ! いつからあたし背後に!」「……キモいだと?」「な、何さ」「ふん。やはり罵倒されるのは十五歳以下に限る」「…………」かける七。「藍、もっと言え……、ぶがは! 灯台下! 貴様、何をする!」「何をやってんだはてめえだ! 十三歳相手に何を言ってんだてめえは!」「黙れ。貴様に俺の趣向を非難する権利はない!」「あるに決まってんだろうが! 日本の法律はてめえの敵だ!」「知っている! とっくの昔にな! この国の法律はおかしいんだ!」「やめろ! ついさっき同じ発言をしたことが全力で恥ずかしいじゃねえか!」「確かに言ってたね」「まあ、それはともかく、てめえ、俺のヨーグルト食ったろ!」「残念だったな! 冷蔵庫から出したのは俺だが、食したのは俺ではない!」「あん?」「あれは玄関に倒れていた清水が『何か食べる物持って来て』と言うから持って行っただけだ!」「あ、思い出した。そうだそうだ、そうだった。ありがとう、万屋」「おい流水! 結局、てめえかよ!」「ごめんごめん。まあ気にするな」「気にするわ!」「ちーさん、うっさい。食事の邪魔」「嘘だろ!? お前敵なの!?」「まあね♪」「畜生!」「早くしないと朝食が冷めますよ」「今それどころじゃねえ!」「だからうるさいですよ! 電波が乱れます!」「人間の声で電波が乱れるかあ!」「千影、人間じゃないじゃん」「だからって、電波は乱せねえよ!」
「………………」
朝っぱらから何やってんだ、アンタら……。
ここはシェアハウス『ホームズ』。ぼくの家だ。住み始めて二年になるが、もう実家みたいなもんだ。それなりに快適。部屋は狭いけど。まあ、寝るには問題ない。
「だあ! てめえら自分勝手過ぎるんだよ!」
このうるさいのは灯台下千影。人間になることを諦めた妖怪。結構頑張ったらしいけれど。何の妖怪なのかは知らない。『ホームズ』の住人の中では、一番でかい。二メートルくらいある。外見年齢は三十後半。実年齢は三百歳くらいだったと記憶している。精神年齢は、まあ、はっきり言って低い。何の為に三百年も生きたんだと言いたくなる程。
「まあまあ。落ち着きなよ、千影」
このマイペースに妖怪に話し掛けるのが、清水流水。お節介が好きなトレジャーハンターだ。どういう所がお節介かと言えば、初対面の相手に説教したり世話を焼いたりだ。家出人なんかはその恩恵と被害を同時に受けている。でも、結構適当で無責任な人。
「そうそう。だいたい、ちーさんはヨーグルト一個にムキに成り過ぎなんだよ」
流水さんに助け舟を出すのが、井伊藍。本名かどうかは微妙。口うるさい家出人だから。現在はトレジャーハンターの居候。仕事柄部屋を留守にすることが多い流水さんに、留守番を任されている形だ。『ホームズ』からほとんど外出しないので、ニートとも言う。家出人で、居候で、ニートの十三歳。社会不適合者まっしぐらである。
「ん? ひっしょんがあたしを失礼な目で見ているような」
勘のいい奴。
「キノセイダ」
「うわあ。分かりやすいねえ、ひっしょんって」
うけけけけ、と愉快そうに分かりやすく笑う藍。怒った訳ではなさそうだ。
「そういや、ひっしょんさー」
「そのフルーツか英単語みたいなあだ名、いつになったら止めるんだ?」
「えー。『ひーちゃん』がダメだって言うから、『ひっしょん』でガマンしてんのに」 上目使いで抗議してくる。うむ。卑怯である。絆の次くらいに可愛い顔である。
「……分かったよ。ひっしょんでいい」
向こうも妥協していることだし、こちらも妥協することにした。
「ありがとう、ひっしょん」
眩しい笑顔だ。この生意気な性格には似合わない、無邪気な笑顔だ。相手が四歳下であると分かっていても、照れてしまう。
だが、それを表に出す訳にはいかない。家出人になめられるとか気持ち悪がれるとかではなく、
「ぬおほほほほ」
「千影さーん。藍ちゃんの笑顔を見て、万屋さんが気持ち悪い笑い声を上げていますけど、どうしましょう?」
「無視しろ」
「分かりました」
「後、藍に近付かないように見張ってろ」「ぬおほほほほ」
……この家でロリコンと認識されることは、この変態と同類と認証されるということだ。そんな最悪な事態は何としても避けなくてはならない。
しかし、本当に最悪なのは、ぼくの知人には、彼以上の変態がいるということだ。想像を絶する変態を、ぼくは知っている。だから、あのロリコンが多少の変わり者程度にしか見えない。ある意味、悲劇だった。
「そういや、藍。さっき、何か言おうとしてなかったか?」
遮ったの、ぼくだけどさ。
「ああ、うん。ひっしょんさ、きずなんと喧嘩でもした?」
藍の言葉に、リビングにいた全員の視線がぼくに集まる。ああ、『きずなん』ってのは、絆のあだ名ね。
藍しか使わないけど。
……………………。八秒くらい沈没、もとい沈黙。九秒目に入る前に、持ち上げ……じゃない、返答した。
「ナンノコトカナ?」
「ひっしょん分かりやすー。交渉人の癖にー」
また、うけけけけと笑う藍。改めて見ると、下手くそな笑い方だな。
「こ、胡椒でもあるのか?」
「証拠ならあるよ。後、胡椒もある」
胡椒の瓶がドンとぼくの正面に置かれる。うわ。恥ず。動揺が一ミリも隠せてない。交渉人失格だ。
「昨日、やけに急いで家出たよね? まあ、帰って来たのはそこそこ遅かったけど」
「あ、ああ。デートだったからな。絆と」
「ダウト」
「嘘じゃない」
「ダウト」「本当だ。急いでいたのは、時間に遅れそうだったからだ」
「んー、微妙にダウト」
……こいつ、家出人で居候でニートなだけじゃなくて、エスパーか? いや、それは別のキャラだ。
「デートに『遅れそうだった』、じゃない。ひっしょんは『遅れた』んだよ」
びしと指さされた。
「つまり、ひっしょんはデートの待ち合わせに遅れて、きずなんを怒らせた」
「おいおい。絆がそんなことくらいで怒ると思ってんのか? あいつ、普段は自分が遅れるんだぜ?」
普通に一時間とか遅れて来るんだよな。まあ、待つのは嫌いじゃないから問題はない。悠長でない程度に気長でないと、交渉人なんて務まらない。
しかし藍はぼくの反論を嘲笑った。様になってないけど。逆に、小生意気で嗜虐欲をそそる、可愛らしい様になっている。
「だからこそ、なんじゃない?」
だが、ぼくに、おちょくられ気を良くするような被虐趣味はない。少なくとも愉快ではない。多ければ不愉快だ。
「………………」
探偵にトリックを見破られて追い詰められる犯人の気分だ。いつもは追い詰める--追い込む探偵役をやっているだけに、嫌な気分だ。
「ひっしょん。昨日、何時に家出たっけ?」
「じゅ、十一時だけど……」
「はい、アウト」
藍は何かを確信したように言い、また、ぼくを指差す。
「ひっしょん、待ち合わせ時間は何時かな?」
「じゅ、十二時だけど?」
「ダウト」
「ん? 何でダウトだって分かるんだ?」
千影さんが首を傾げる。
「ひっしょんはね、と言うか、ひっしょんときずなんは基本的にね、出来るだけ一日一緒にいたいんだよ」
「うん?」
流水さんが眉をしかめる。
「急にそんなバカップル話をされても」
「ほら、早くに家出ると、それだけ長い時間一緒にいられるじゃん?」
「…………」
「だから、正午に待ち合わせなんて有り得ない。……と言うか、二人いつも十時待ち合わせを基準にしてんじゃん」
「そんなのただの統計だろ?」
ぼくは反論した。
「昨日はたまたま十二時だったかもよ?」
「そんなこと言う時点で認めたのと同じだけどねー」
「それは、あれだ、ドラマの話だろ?」
我ながら何と苦しい反論。
「ふっふん」
案の定、藍は『そんなことか』と言いたげな顔で、得意そうに笑う。調子に乗ってやがる。
「じゃあ決定的な証拠を聞かせてあげようか、ひっしょん」
け、決定的ですかい?
「昨日、二時くらいかな? きずなんからこんな電話がありましたー。『聞いてくれる藍ちゃん! ひっくんてばデートに遅刻しやがったの! 考えられる!? 普段あれだけ自分が時間にうるさい癖にだよ!』みたいな?」
「……………」
「一時間くらい愚痴を聞かされたおかげで見たい再放送見逃したんだけど」
恨みったらしく言う藍。
いやいや。その証言、決定的証拠どころじゃなくね?
見ろ、周りにいるトレジャーハンターと妖怪とストーカーと魔術師とテロリストの顔を。はは、視線が痛いぜ。
そうか。
二時間も遅刻したぼくを散々罵倒したあの後、どこに行ったと思ったが、藍に愚痴を垂れていたのか。道理で携帯に出ない訳だ。使用中だったのか。そりゃ通じないはずだ。
しかし何故だ。何故、藍が出た。ああ、ニートだからか。家から出ないからか。家出人なのに。
「あの実は……」
何かのイヤホンから耳を離したストーカーが、おずおずと挙手した。
リビングが変な空気になった。いや、最初から変なんだけど。普通な瞬間なんてないんだけど。いつだって。
「続けろ、凪茶」
妖怪が促す。促すな。
「昨晩、一言を双眼鏡で観察していたら、斑崎さんから電話が掛かってきたんです」
聞くのが、めっちゃ怖いんですけど。
「『聞いてよ凪茶ちゃん! ひっくんの奴、デートに遅刻やがったのの! それでね、あたし怒って走ったの! 逃げたの! 普通さ、追い掛けて来るじゃん! なのにひっくん、影も形も見せないの! 有り得なくない!?』と」
理不尽だ。
「聞いている内に、一言を見逃しました」
だろうな。七丁目に感謝されるかもな。
「とりあえずさ」
藍は心配そうな顔になる。久しぶりに見たと思う。
「ひっしょん、きずなんと別れたりしないよね?」
「こんなことで別れて堪るか」
縁起でもねえ。
ぼくにとって、絆はそんな簡単な存在じゃないんだよ。
ぼくの即答がおかしかったのか、藍は笑った。にぃーと。
「なら良し」
余計なお世話だと思った。有り難い心配だとも思った。
□
「しっかし、あれだな。お前ともあろう奴が、失敗したな」
「しょうがないだろ。仕事が遅くて寝不足だったんだ」
「言い訳でしかないって」
「言い訳じゃない。弁解だ。絆には言えないけど……って、君にだけは、どんな失敗をしても君にだけは、『失敗した』とは言われたくないね」
「それは面白いな」
「否定するのか?」
「いいや? 肯定するぜ。認識してるぜ。俺くらい失敗が似合って、俺くらい成功が不似合いな殺し屋は、裏世界深しと言えど、俺しかいないだろうな」
「ああ。何だよ、任務達成率一割以下って。ぶっちゃけ、ふざけている」
「ふざけている?」
「有り得ない」
「有り得ない?」
「馬鹿げている」
「馬鹿げている?」
「君は、殺し屋として終わっている」
あるいは、始まってすらいない。
「それも面白い。でもよ、統計が異常な数字になってんのは、お前も同じだろう。なあ? 『無敵』」
「………」
「『不戦』? そんなの、お前がお前である為の一部でしかないだろ。側面であり、断面であり、一面でしかないだろ。馬鹿げているってなら、そっちの方が馬鹿げてんだろ」
「……………」
「あの頃のお前だって、戦っていた頃のお前だって、その気になれば今くらいのことは出来たろうに。今とお前の違いって、それこそ絆くらいだろ?」
「くらいって言うな」
軽んじるな。ぼくの彼女だぞ。
「そうムキになるなって。悪かった悪かった。ほれ、ドードー」
馬を宥めるようにする殺し屋。
今度はぼくが軽んじられているようだ。うーむ、気に入らない。相手がこの間が悪い殺し屋、麻川塁だと余計に癪に障る。正直、うぜえ。
「だが軽んじたつもりはねえよ。つうか、軽んじられる相手じゃないって」
塁は嫌みたっぷりに言う。
「あの『唯原飛翔』の『恋人』だぞ?」
「それが、問題だったりするんだよな……」
「ん?」
塁は怪訝な顔をするが、当たり前の問題なんだ。
一般人が、一般人として、ぼくと関係を持つなんて。
危ない橋を渡るような話だ。危なっかしい。見ていられない。ぼくは、こんなにも狂ってやがるのに。何で、絆と一緒にいられるんだろう?
ぼくみたいな、ろくでなしが。
いつか、ぼくの恋人というだけで、絆に危険が及んだら、絆が裏世界に巻き込まれたら、ぼくはどうしたらいい?
いつも、そのことでビクビクしている。
藍にはああ言ったけど案外、今回のことを気に、絆との関係は絶った方がいいのかもしれない。
「そうとも限んないだろ」
塁の言葉は本心だと信じることは出来るが、真実だと信頼することは出来ない。
だって、間が悪い殺し屋なんだから。間が悪いってことは、勘が悪いってことだから。
だが、一応聞いておいた。今後の参考の為に。いや、今回か。
「普通に考えて、お前の知人に手を出す奴なんていねーよ。お前、既に若き伝説だぜ? この裏世界でも『無敵』なんて呼ばれるの、歴史上でも二人しかいない。そんな奴の恋人、彼女だぜ? 何人もいるならともかく、たった一人の恋人だ。どれだけ大切か、想像は簡単だ。何かしてみろ--殺され尽くされる。違うか?」
「違わない」
ぼくは首を横に振る。
絆に危害を及ばした奴を、ぼくは迷わず殺すだろう。間違いなく、迷うことなく、戦わずして殺すだろう。塁の言う通り、殺し尽くすだろう。後悔だけでは足りないくらい、恐怖だけでは語れないくらい、酷い死に方を与えるだろう。
死にたくなる程、殺すだろう。
絆の存在は、ぼくの中では大きい。大き過ぎる。
「なら、死ぬまで一緒にいてやれよ。死ぬまで、守ってやれ」
塁に背中を叩かれた。あるいは押された。
「幸いにして、向こうもお前を愛してる。精々、他の男に盗られないよう気を付けな」
「……ありがとよ」
「いいって、いいって」
殺し屋は笑った。実に爽快に。彼らしく。
「精々お前は成功しろ。俺はいつでも失敗するけど」
笑顔で言うな。
「成功したいなら真面目にやれ」
「嫌だね。俺は真面目にやりたくないんだよ。真面目に成功するより、ふざけて失敗したいんだ」
「……呆れたよ」
だからお前は、失敗ばかりなんだ。
「そういや今日、斑崎は?」
「病欠らしい」
「珍しいな」
「ああ」
肯定する。タフとまでは言えないが、病弱とは縁遠いはずだから。小学校で無欠席なのを自慢していた(つまり遅刻はあったと予測)。
そんな絆が欠席とは。
早く昨日のことを謝りたいが、放課後までお預かりだ。今は精々、謝罪の言葉でも考えておくか。
「そういえばさ、七丁目は元気か?」
ふと、彼の同僚について尋ねてみた。
「大将? 相変わらずだ。死にたがってる」
「ふーん」
死に違っているのか。自殺志願も変わらないな。あのストーカーの苦労はいつ、報われるのだろう。
□
例えばの話。
人間が人間である為には、何が必要だろう。自分が自分である為には、個人が個人である為には、何が必要だろう。
ぼくの場合は、今のぼくの場合は、それが絆だって話なんだろう。
ただ、絆の側からはどうなんだろう?
ぼくはこんな奴だから絆が初恋だけど、絆はそうじゃない。初恋の相手でも初めての恋人でもない。キスはぼくが初めてらしいけど。自主規制が掛かる行為に関しての経験は当然ない、はずだ。キスが初めてなんだから。うん。
ちなみにこの話、同じ屋根の下で生活している藍とストーカーと医者と魔術師に話したら、順に『変態』『セクハラです』『リア充が』『馬鹿がいます』と罵られたっけ。女性は厳しい。
回想していたら不意に、
「カーラースー、なぜ泣くのー。カラスの勝手でしょ」
ご機嫌な歌声が聞こえてきた。
声のした方を見れば、予想した通り、原チャリがこちらに向かって走っていた。右目に眼帯をしているからか、非常に安全運転である。
「花さん」
「やあ、飛翔君じゃないか」
名前を呼ぶと、相手も微笑でこちらに応じる。
「今帰りですか?」
「いや。仕事中だ。出前散髪」
自分で言っておかしかったのか、花さんは「あははは」と草がこすれるような声で笑う。
「一応聞きますけど、何ですか? 出前散髪って」
「そのままの意味だよ。散髪の出前。髪切りに来いって言うから、こっちから向かってんだよ」
新しいサービスの形だ。と、花さんこと、首塚花道は嘯く。殺し屋とは違う、実に爽やなかスマイルだった。
全く、誰が思うだろう。こんな爽やかなスマイルの持ち主が、殺人鬼だなんて。正確には殺人鬼、だったんだったりして。
今や伝説の一部として囁かれる切り裂き魔。
しかし警察もマスコミも正体を掴めず、本人はこうして呑気に床屋で働いている。元殺人鬼が頭上で刃物を振るっているなんて、ぞっとしない話だ。
「ちなみにどちらまで?」
「河北の爺さん……絆ちゃん家の隣だよ」
「へえ。ちょうど良かった。乗っけて貰えますか?」
「許可を出す前に乗るなよ」
発進と同時に、花さんが尋ねてきた。
「どういう風の吹き回しだい? 君が絆ちゃんの家に自分から行こうなんて珍しい」
いや、一応ぼくら恋人関係にありますから。家にくらい行くでしょ? と言いたかったが、事実その通りなので飲み込んだ。
「聞いてませんか? 昨日から絆と喧嘩しているんですが、ぼくが折れて謝りに行く感じなんですよ」
「昨日? まさかとは思うけどさ、デートに遅刻したとか?」
ギク。
「や、やだなあ、花さん。ぼくが遅刻なんてするはずないでしょ?」
「ははは。それもそうだね。いや失敬失敬。てっきり、一昨日の夕方から昨日の早朝に掛けて続いたあの交渉に疲れて、家に帰って仮眠を取るつもりだったけど熟睡して、気付いたら待ち合わせの時間を過ぎていて、遅刻したことに絆ちゃんが激怒して、その場から立ち去って、昨日の内に君が謝罪出来ず、挙げ句の果てに絆ちゃんが学校を休むなりしたからお預かりを食らい、こうして家に向かっている羽目になったんだと思ったけど、僕の早とちりか。ごめんごめん」
「は、はは。笑えない冗談ですね」
本当に冗談じゃねえ。
アンタ、過去視の能力でもあるのか? 超能力者はアンタの親友の肩書きだろうが。あの人にそんな時間的な能力はないけどな。
「そういや、淵内さん元気ですか?」
「ん? 何でこのタイミングで外縁の名前が? まあ、普通に元気なんじゃない? 最近逢ってないけど」
「親友でしょ?」
「悪友だよ」
赤信号で停車してから、花さんは素っ気なく言った。
素っ気なさに、誇らしさが見えた。と思う。
「飛翔君」
急に名前を呼ばれたので反応が遅れた。
「あ、はい。何ですか?」
「もうすぐ到着」
「……了解」
覚悟を入れ直した。
「僕は仕事終わったらさっさと帰るから、帰りは自分の足で帰りなよ?」
「分かっていますよ」
「ところでさ」
「はい?」
「愛って難しいね」
「………………………激しく同意です」
由紀さんと何かあったのか?
花さん原チャリは絆の家の前で一時停車し、ぼくを降ろした後、隣の家の敷地に停車した。花さんがこちらを見ずに、軽く手を振る。
「さあて」
絆の家を見上げる。三人家族が住むには多少大きい。『ホームズ』くらいある。あっちは十人が生活しているってのに。
車庫に車が二台ある。絆の両親はどうやらいるらしい。
ちっ。 仕事でいないと思っていたのに。二人とも会社員だと聞いていたから、平日のこの時間はまだ勤務中のはずだろう。いや、朝が早ければそうでもないか? 案外、娘の体が心配で早くに帰ったのかもしれない。仕事を休むまでしなくても。
しかし引き返す訳にもいくまい。やましいことする訳じゃない。むしろ、正しいことをするのだ。
しかし出来ればご両親の前で土下座をするのは勘弁して貰いたい。絆が無茶振りをしてこないことを祈る。
意を決してチャイムを押す。
三十秒待った。
無反応だ。
「えー……まさか、無視されてる?」
ご両親ぐるみで? あるいは、ご両親から? うわあ、ひでえ!
それとも、本当に誰もいないのか?
でも車あるし。絆の自転車もあるし。
もう一度押す。
「………………………」
やっぱり無反応。
あんまり反応がないので、連打してみた。
ぼくとしては『何回押してんのよ! ひっくんの非常識!』とか言って出てきてくれることを望んだ。最悪、ご両親でもいい。悪印象を与えてしまうが、そこはどうとでもなる。伊達に交渉人をやっていない。
しかし、そんなぼくの捨て身とも言える行為は、何も生まなかった。良くも悪くも。いや、悪かった。時間を消費しただけだった。
「こうなったら」
ドアを叩いた。ぶち破るような勢いで。
ドアが軋みだした辺りで止めた。いくら何でもやり過ぎだった。後で修理費、弁償しないとな。
まさか、留守とか? ぼくの思い違い? 無駄と思いながら、ドアノブをひねってみた。
「あれ? 開いてる?」
そのままドアを開けた。チェーンも掛かっていなかった。
留守にしろ居留守にしろ、不用心だな。この町にどれだけの危険人物がいると思っているのか。
絆のドアを開けた瞬間、嫌な匂いが鼻を突いた。匂い以上に嫌な予感がした。
家に入る。靴を脱ぐ。スリッパを履く。廊下を歩く。リビングに入る。すぐに廊下に引き返す。見なかったことにした。乱れた呼吸を戻す。急いで階段を登る。絆の部屋に入る!
「絆!」
そこに、絆はいなかった。予想通りと言うか、希望通りではないと言うか。
部屋は荒らされていた。泥棒が入ったか、獣でも暴れたか、警察の家宅捜索でもあったみたいに、荒らされていた。これはひどい。
「畜生!」
傍に転がっていたぬいぐるみを蹴った。
「絆ぁ!」
どこだ? 絆はどこだ?
「はぁ、はぁ……、つぁ、かぅ……、ぎうが……!」
口から意味不明な悲鳴のような物が漏れた。
お、落ち着け落ち着け落ち着けえ! とりあえず冷静になれ! 何が起きているか把握しろ! 理解しろ! 静かにしていろよ心臓!
携帯が着信音を上げる。絆とお揃いにしていた音だ。
ぼくは誰からの通話かも確認せずに出た。
「悪いけど今取り組み中だ! 後にして……」
『ひっくん』
「……絆?」
電話の相手は、何を隠そう、斑崎絆だった。
「き、絆、今どこに……」
『ひっくん』
絆はぼくの言葉を遮り、ぼくの名前を呼ぶ。
今にも泣きそうな声で。
そして、こんなことを言った。
こっちの気も知らないで。
『助けて』