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水精淑淑

作者: 矢麻みつき

一部、暴力シーンを含みます(それほど激しくはありません)

苦手な方はご注意ください。

 大切にしてね。

 母はそれを、幼い息子に手渡して言った。

 亡くなる直前のことだった。

 彼の手に遺されたのは、小さな水晶の珠。

 母が、それをとても大切にしてきたことを、彼はよく知っていた。

 はしばみ程の大きさのそれは、軽やかに手の上を滑る。

 取り落とさないようにしっかりと握り締めると、暖かな波動が手のひらに伝わってきた。

 母の温もりが、まだ残っているような気がした。


                   ***


 豊かな秋の陽光が川面に降り注いでいる。

 だが、川は綺麗とは言いがたかった。

 連日の長雨が川を褐色に染め、水かさも増している。濁流と言ってもいいだろう。

 祥可しょうかは、渡し舟の上でまぶしそうに目を細めた。

 日よけを被ってはいるが、水面の照り返しは遮りようがない。

 渡し舟は小さく、勢いを増した川の上ではいささか心もとなかった。今にも転覆しそうだが、なんとか均衡を保っている。

 悪天候で運休していたためか、渡し舟は利用客でごった返していた。旅行客の風体をしたものが大半だが、中には商人風の者達もいる。

 予想外の足止めを食ってしまったのだろう、行き交う人々は皆慌しい。


 祥可はといえば、さして急ぐ旅ではなかった。あてなどないと言ってもいい。

 母はとうに亡くなり、父もこの程他界した。

 祥可は一人になった。

 彼ももう18。親の助けがなければ生きられない年齢ではない。

 祥可は一念発起した。生まれ育った田舎を出、都へ行ってみようと決意したのである。

 家を出て一月。

 ここへきて、彼は見通しが甘かったことを実感し始めていた。

 路銀はまだある。親が残してくれた財産は多くはなかったが、しばらく旅をするだけの額はあった。

 とはいえ、それも無限ではない。

 このまま使い続ければ、都に着く頃には財布はずいぶん軽くなっていることだろう。

 加えて、祥可は旅慣れていない。行き交う旅人に方角を教わりながら進んできたものの、あとどれだけ進めば都に入れるのか、見当もつかなかった。

「おおい、そんなところに立っていると危ないぞ」

 背後から声がかかった。男の声だ。どうやら祥可に話しかけているらしい。

 振り返ると、いかにも屈強そうだが、人の良さそうな男が立っている。

「危ないって?」

「川が荒れているんだ、そんな船べりにいると高波に攫われるぞ」

 意味がわからずに聞き返した祥可に、男は丁寧に教えてくれた。

 こういう時はなるべく縁からは離れた方がいいらしい。

 確かに男の言う通りかもしれなかった。先刻から、舟に当たって跳ねる飛沫が祥可の腕に時折降りかかっている。大きな波が来れば川に落ちることもあるだろう。

 水面を眺めていたかったのだが、祥可とて落ちたくはない。仕方なく舟の内側に入ろうときびすを返した。

 祥可は小さくため息を吐いて襟元に手をやった。革紐に提げた水晶の珠が指に触れる。

 何かというと襟元に手をやるのが祥可の癖だった。

 はじめは、母からもらったそれを失くしていないかを確かめるためだったが、いつの頃からか、考え事をする時などにも触れるようになった。

 それを握っていると心が落ち着くのだ。護符だと言って大切にしていた母の気持ちが今ではよくわかる。

 それを右手に収めて物思いに耽ろうとして、祥可は失敗した。

 がくん。

 舟が、波を受けて大きく揺れた。

「おおっと」

 思わず声が漏れた。祥可らを乗せた小舟が右に傾く。

 転ばないように踏ん張った。

 転覆を免れた舟は、今度は左に大きく振れた。幾度かそれを繰り返し、揺れが次第に小さくなる。

 収まったかと安心して正面を見やって、祥可の動きが凍りついた。

 ごくりと息を呑む。

「!!」

 先刻よりずっと大きな波が前方に迫っていた。


 祥可はその波を、ただ呆然と眺めていた。時の流れがいつもの倍にも感じられる。

「きゃあっ」

「な、なんだ?」

「このままじゃ転覆するぞ!」

 乗客が口々に悲鳴をあげるのが聞こえた。

「転覆? 冗談じゃない!」

 祥可の背筋がぞくりと粟立った。この激流に呑まれたら、命の保障はない。

 船頭が必死で櫂を動かす音が周囲に響く。

 舳先が少しだけ波から逸れた。だが、完全に大波から逃れられた訳ではない。

「危ない!」

 誰かが叫んだ。いや、もしかたらそれは自分だったのかもしれない。

 巨大な壁を思わせる大波が舟に手を伸ばしていた。

 船頭の必死の甲斐あってか、船は大波をすれすれで避けて行く。

 しかし、ほっと息を吐いたのはつかの間だった。その余波が再び舟を襲った。

「うわっ!」

 祥可が体勢を崩した。船べりに居たのが災いした。重い水が彼を絡め取る。

 彼の両足が、木の床を離れた。


 冷たい。それがまず初めに感じたことだった。

 川に落ちたのだとすぐに理解する。

 なんとか浮上しようともがくが、水中で衣服がまとわりついて身体を拘束する。

 息が続かない。喘ぐように唇を開くと、冷たい水が気管に流れ込んだ。

 荒波は容赦なく祥可を押し流してゆく。

(もう、駄目かもしれない……)

 そう思った直後、背中に強い衝撃が走った。

 何が起きたのかなどわかるはずもない。祥可はただ、意識を手放すことしかできなかった。


                    ***


――祥可。

 呼ばれた気がした。温かで優しい、女性の声だ。

――母さん?

 尋ねようとするが、声が出ない。それどころか、唇を動かすことさえできなかった。

 額に手が添えられたのがわかった。その温かさにほっと息を吐き、すぐに自身の境遇を思い出す。

 祥可は瞼を押し開けた。

「祥可、よかった。目が覚めたのね」

 視界いっぱいに広がる、見覚えのない女の顔。母の声だと思ったのは、どうやらこの女のものだったらしい。

「……誰?」

 かろうじてそれだけを紡いだ。

 かすれてはいたが、きちんと言葉にはなっていたようだ。

 女は安心したように微笑した。

「私は姚朱ようしゅ

「姚朱……あなたが、俺を助けてくれたのか」

「ええ、そうよ」

 笑顔のまま、姚朱はうなずいた。

 落ち着いて来ると、いろいろとよく見えるようになってきた。

 けっこうな美人だ。祥可よりも幾分年上だろうか。長い黒髪には艶があり、物腰には品がある。

 不躾な祥可の視線を咎めることもなく、朗らかな笑みで彼を見つめ返してくる。

 全く知らない女なのに、どこか懐かしさを感じさせる、不思議な女だった。

 祥可は重い身体を解すように腕を上げた。そのまま襟元に持っていき、はっとする。

 革紐はいつも通りそこにあった。しかし。

「珠がない……!」

 慌てて身体を起こすと、背中に激痛が走った。流されている間に流木にでも打ちつけたのかもしれない。一瞬息が詰まった。

「くっ」

 うめいて身体を半分に折る。そんな祥可を、姚朱が両腕を回して支えた。

 呼吸を整えながらきょろきょろと周囲を見回した。が、それらしき物は見当たらない。

「どうしたの?」

「母の形見がないんだ。大切な物なのに! どこかで見かけなかったか? 小さな水晶の珠だ」

 訝しげな表情を向ける姚朱に、祥可は叫んだ。

 指で大きさを示してみせる。

 姚朱は首を左右に振った。否定だ。

 祥可はがっくりと項垂れた。

 流される途中で外れてしまったのだろうか。だとしても、探しもしないで簡単に諦められるものではなかった。

 もしかしたら近くに打ち上げられているかもしれない。そんなはかない望みを抱いて探しに立とうとした祥可を、姚朱が押し止めた。

「祥可、落ち着いて。あなたはそれを失ってはいないわ」

 彼女の言葉に祥可の動きが止まった。

 妙な違和感を覚えたからだ。不審に思った祥可だったが、すぐにその理由に思い至る。

 引っかかったのは言葉の内容ではなかった。

 祥可の視線が厳しくなった。責めるように姚朱を見る。

「なぜ、俺の名を知ってる?」

 名乗った覚えはない。名が知れるようなものも身につけていなかったはずだ。にもかかわらず、姚朱は祥可の名を知っていた。

 気味が悪かった。

 だが、姚朱は不思議そうな表情を浮かべるだけだ。なぜ睨まれるのか理解できないといった様子だった。

「知っているわ、祥可。私はあなたのことをよく知っているわ」

 微妙に会話が噛み合っていない。聞きたいのはそんなことではないのだ。

 祥可はいらだたしげに髪をかきまぜた。

「君は一体何者なんだ?」

 不信感に満ちた声で祥可が問い詰める。

 姚朱は困ったように首を傾げた。

「私は水精。あなたが持っていた水晶の珠が、私の元の形」

「……はあ?」

「私は、あなたの水晶。あなたの護り手。言ったでしょう? あなたは母上の形見を失くしていないと」

 それは、祥可から言葉を奪うには十分すぎる告白だった。

 にわかに信じられる話ではない。

 水の精? 人ではないというのか?

 まじまじと姚朱を見つめるが、どこからどう見ても人間の女にしか見えない。

「信じられない?」

「当然だ」

 祥可が即答すると、姚朱はまた、困ったように笑った。

「でもそれが事実だもの。嘘は言わないわ」

「……本当に真実だとして、そんなに簡単に人に変化へんげできるものなのか?」

「できないわね」

 今度は姚朱が即答する。あまりに屈託なく正体を語る彼女に、祥可は唖然とした。

「ではなぜ今は変化してるんだ?」

 祥可がたずねると、姚朱の表情に影が差した。

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。すねたような目で見られてどきりとした。

「あなたの命が失われようとしていたからに決まっているでしょう」

 こともなげに姚朱が答えた。

 彼女の瞳はあくまで真摯だ。少なくとも、嘘をついているようには見えない。

 無条件に信じることはできないが、悪意を持ってたばかっているとも思えなかった。

 猛烈な脱力感が祥可を襲った。驚きを通り越して呆れてしまう。

 母は護符だといっていたが、まさか人格を持つ結晶だとは思ってもみなかった。

 とんでもない代物を受け継いでしまったものだ。祥可は思った。

 とはいえ、彼女がこの命を守ってくれたことは間違いない。その心を無下にすることはできなかった。

 礼というわけではないが、姚朱を受け入れることが、彼女に応えることになるのだろう。

 それが誠意というものだ。

 祥可は一度息を吐いて頷いた。

「わかった、信じるよ」

「本当?」

 姚朱の表情が輝く。華やかに笑う様子は、彼女をずいぶんとあどけなく見せた。

 最初に見たときは年上だと思ったものだが、こうして笑っていると同い年か、ともすれば年少にさえ見える。

 思わず目を奪われた。急に心が騒ぎ始める。

 それをごまかすように、祥可は口を開いた。

「ああ、本当だよ」

「……ありがとう。祥可なら分かってくれると思ったわ」

 姚朱がにっこりと微笑んだ。

 どうやら全幅の信頼を寄せられているらしい。

 ここまで無邪気に喜ばれるのなら、きっと自分は正しい選択をしたのだろう。

 多少、胡散臭い気持ちは残ったが、そんなことは大した問題ではないのかもしれない。

 気がついてみれば、すっかりと姚朱を受け入れてしまっている自分が、そこにはいた。


                    ***


 旅は二人になった。

 祥可の怪我は、案外軽いものだったようだ。背中の傷も、多少の打撲跡が残るだけで痛みはそれほど大きくない。

 やはり姚朱が守っていたからなのだろう。3日も経った頃には、その跡さえもすっかりと消えてしまった。

 徒歩の旅だが、姚朱は一言も不満を口にすることはなかった。女性の足に長旅は楽ではないはずなのに、祥可と並んで歩く姚朱の足取りは軽い。

「だって、祥可と一緒にいられるのだもの。ちっとも苦ではないわ」

 連れ立つようになってすぐ、そんな疑問を口にした祥可に、姚朱はそう言って笑った。

 姚朱の基準は全て祥可であるらしい。

 あまりに直接的な返答に赤面し、祥可はそれ以上尋ねるのをやめてしまった。


 その日は朝から風が強かった。嵐が来そうな、生暖かい風だ。

 嫌な予感を覚える。

 旅を始めてから1ヶ月近くが過ぎていた。さすがに天候くらいは読めるようになっている。

 案の定、日が傾くに連れて、空を黒雲が覆い始めた。

 一雨きそうだと判断した祥可は、少々早めに街道沿いの宿に入ることにした。

 しかし――

「部屋がない?」

 主人の言葉に、祥可はがっくりと肩を落とした。

 彼は道中、きちんと宿を取ることにしている。野宿をしたことがないせいだが、加えて、今では姚朱が同行している。

 彼女のためにも宿は必要だった。

 だが、天候の悪化を悟ったのは祥可だけではなかったらしい。早めに宿を取った旅人達でいっぱいになってしまったと言う。

 この辺りに他に宿は見当たらない。別の宿を探すとなれば数里先まで歩かなければならず、その前に嵐が来ないとは言い切れなかった。

 祥可は思案に暮れた。

 と、その時。

「お嬢さん一人なら、俺達が預かってやってもいいぜ」

 背後から声が投げられた。下卑た男の声だ。

 お嬢さんというのが誰を指すのかを察して、祥可は振り返った。

「断る」

 姚朱を背にかばうように、男達の間に身体を割り込ませた。

 男は三人。

 祥可とて小柄な方ではないが、男たちはその祥可よりもずっと背が高かった。威圧するように見下ろしてくる。

 酔っているのだろう。降りかかる呼気はかなり酒臭かった。

「行こう」

 かかわらない方が得策と判断して、祥可は姚朱の手を取った。そのまま表へ出ようとする。

「待ちな。せっかく誘っているんだ、ゆっくりして行けよ」

「なっ!」

 男の一人が、祥可の二の腕を掴んだ。強い力で締め付けてくる。

 姚朱を彼の手から奪おうとしているのは明らかだった。

「外へ出ていろ」

 姚朱に向って、祥可が告げる。

 でもと言いよどむ姚朱だったが、じろりと祥可に睨まれてびくりと肩を揺らした。

 祥可が手を離すと、彼女は頷いて扉へと走った。

「へえ、格好いいねえ」

 揶揄するような声。姚朱が外へ出たのを確認して、祥可は振り返った。

 格好をつけているという自覚はあった。三対一だ。当然のことながら勝てるとも思っていない。

 だが、姚朱が蹂躙されるのだけは許せなかった。彼女が害されるくらいなら、自分が傷ついた方が何倍も増しというものだ。

「遊び相手は女の方が楽しいんだがなあ」

 そう言いつつ、男の一人が腕を振り上げた。そのまま祥可の鳩尾に拳を埋める。

「ぐっ…ふっ…!」

 どすんと重い衝撃が腹部を襲った。膝が折れる。

 しかし、祥可が床に倒れこむことはなかった。男の一人が未だ彼の二の腕を捕らえたままだったからだ。

 全体重が掴まれた腕にかかる。痛い。肩が抜けそうだ。

「まだ日が高いぜ? お休みするのは早いってもんだ」

 更に別の男が祥可の顎を掴んで顔を上げさせる。

 男の肩越しに帳場が見えたが、宿の主人は不快な顔をして騒ぎを眺めているだけだ。下手に口を挟んで騒ぎを大きくするのを嫌っている風でもある。

 場末の宿にとって、こういう騒ぎは日常茶飯事なのかもしれなかった。

「余所見をしている暇があるのかい? 余裕だねえ」

 今度は張り手が飛んでくる。

「がはっ」

 力いっぱい殴られて、視界が一瞬白く弾けた。

 次いで、口腔内に鉄の味が広がる。

 抗う気力などない。全身から力が抜けた。

「おいおい、もう終わりか?」

 男達の声が次第に遠ざかってゆく。野卑な笑い声が耳にうるさい。

 殴られたところが火を付けられたように痛んだ。

 ぐったりとしてしまった祥可に興を削がれたか、男が祥可の腕を解放する。

 投げ捨てるように床に放り出されて、祥可は小さく呻いた。

「もっと楽しませてくれると思ったんだがなあ」

 つまらなそうに吐き捨てたのが聞こえた。

 それを最後に、祥可の意識は暗い闇へと沈んで行った。


 目が覚めて最初に見えたのは、薄汚れた天井だった。

 ここは、どこだろうか。状況がいまいち把握できない。

「祥可、大丈夫?」

 声が降ってきた。姚朱だ。

 頭の下には枕でも置いてあるのだろうか、柔らかな感触が心地よい。

「姚朱、ここは――くっ」

 言いかけて、痛みに顔をしかめた。口の中が切れているらしい。歯が折れていないのがせめてもの救いだった。

「物置でよければ使えって、宿のご主人が」

 静かな声で姚朱が答えた。

 その言葉で祥可の記憶が繋がる。

 自分は酔っ払いに絡まれて気を失ったのだ。それを哀れに思った主人が納屋を貸してくれたと、つまりはそういうことらしい。

 失神している間に降り始めたのか、雨滴が規則的に屋根を叩く音が周囲に響く。

 秋の雨は冷たい。姚朱が傍らに居るおかげで寒さは感じないが、大分気温も下がっているはずだ。

 祥可は横になったまま、覗き込んでくる姚朱の頬に手を伸ばした。

「君は、何もされなかったか?」

 彼をいたぶった後、姚朱にも手を出したのではないかと疑った祥可だったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。

 姚朱は大丈夫と小さく笑った。

「心配、したのよ」

 か細い声で、姚朱は囁いた。

 日は既に落ちているのだろう。灯火一つきりの室内は暗く、姚朱の表情はよく見えない。けれど、その声が震えているのは分かった。

「悪かったよ」

 祥可が告げると、姚朱は勢い良く首を左右に振った。

 その動きが、祥可の頭部に直接伝わってくる。不思議に思ってよくよく見ると、枕だと思っていたのは姚朱の膝だったらしい。

「ご、ごめん」

 慌てて起きようとする。女性の膝枕で眠っていたとは思わず、激しい羞恥心が襲ってきた。

 だが、姚朱は手のひらを祥可の額に当てて、彼の動きを制する。

「急に動いてはだめよ。代わりになる物がないの。もう少しこのまま休んで」

 姚朱が触れている部分が暖かい。そこから、彼女の持つ清浄な気が流れ込んでくるような気がした。

「……わかった」

 頷いて、再び彼女の膝に頭を預ける。

 子供のようだと思わないでもなかったが、悪い気はしなかった。


「どうしてあんなことをしたの?」

 姚朱が尋ねた。

 質問の意味を図り損ねて、祥可は姚朱を見上げた。

「あんなこと、とは?」

「あの人たちの申し出を受ければよかったのに」

「……え?」

「部屋を貸してくれると言ったのでしょう?」

 姚朱の言葉に、祥可は思わず眉を顰めた。

 彼女は心底不思議そうだ。その表情は、彼女が男達の言葉を額面通りに捉えていることをはっきりと物語っている。

 祥可はひどい頭痛に襲われた。

 無知にも程がある。

「あいつらが、ただ部屋を貸してくれるだけだと思うのか?」

「違うの?」

 きょとんとして祥可を見返してくる。

「当たり前だろう!」

 祥可は思わず気色ばんだ。声が若干荒くなった。

「じゃあ、どうなるの?」

 姚朱は、そんな祥可の様子に驚いたようだが、めげずに更に問いを重ねてくる。

 祥可は頭を抱えたくなった。本当に、何も分かっていないらしい。

「三人に手籠めにされてたところだ」

「てごめ?」

 姚朱は更に首を傾げた。

 どうやら言葉での説明は意味がないらしい。祥可は諦めたようにため息を零した。

「こういうことだよ」

 祥可は身体を起こした。

 女性の手を振りほどく程度の力はある。驚く姚朱の肩を押して床に組み敷いた。

「祥可?」

「あいつらについて行ってたら、今頃三人がかりで襲われてたよ。こうしてね」

 言って、白い首筋に唇を寄せる。

「!!」

 びくりと姚朱の身体が揺れた。

「それでも、ついて行った方が良かったか?」

「しょう、か…っ!」

 姚朱の声に不安が滲んだ。幼子がいやいやをするように、小刻みに首を振る。

 彼女が怯えているのは明らかだった。

 直接触れないぎりぎりの所で留めていた祥可だったが、姚朱自身が身動きしたことで思わず口づけてしまいそうになる。

 彼女が動くたびに、髪からは甘い香りが漂った。

 くらりと頭の芯が疼いた。香りに引きずられるように、口づけたい衝動に駆られる。

 その思いを必死で押さえ、祥可は姚朱から無理やり身体を引き剥がした。

「俺は、お前が汚されるのが我慢できなかった。だから断った。理由はそれだけだ」

 半身を起こした祥可に対し、姚朱はまだ動けずにいる。

 彼女の全身が小刻みに震えていることに気づいて、ちくりと胸が痛んだ。いくら腹が立ったとはいえ、あんな荒っぽいやり方はすべきではなかったかもしれない。

「……ごめん、やりすぎた」

 短い沈黙の後、祥可は姚朱から視線を外して呟いた。

 いくらか落ち着いたのだろう、姚朱もまたゆっくりと上体を起こす。そして静かに首を左右に振った。

 彼女の長い黒髪が、暗闇の中で揺れた。

「いいえ」

 か細くかすれた声で姚朱が囁く。

「悪いのは私の方だわ。私が何も知らないから。私の無知が、祥可を害してしまう」

「姚朱?」

「護り手なんて言っておきながら、その実、護られていたのは私の方」

 姚朱の声が揺れた。

 泣いている。視線を外しているにも関わらず、祥可には彼女が涙を零していることが手に取るように分かった。

 祥可は一瞬だけ逡巡し、そっと手を伸ばした。

 姚朱の頬を伝うその雫を指先で掬い取る。

 美しい宝珠のようだと祥可は思った。透明で清らかな水晶の欠片――

「別に、姚朱のせいじゃない」

 涙の跡を消すように、今度は手のひらで姚朱の頬に触れた。止まらない涙は祥可の手をも濡らしていく。

「私が、人の形をとったのは間違いだったのかもしれない……」

 祥可の言葉を聞かず、姚朱は更に呟いた。沈痛な声音が痛々しい。

 なぜ彼女がそこまで自分を責めるのか、祥可にはわからなかった。

 確かに家宝だと言われていたし、姚朱が護る役目を負っているというのは理解できる。

 だが、その役目がここまでの重みを持つものだとは、祥可には思えなかった。

「ごめんなさい、祥可――」

「姚朱」

 謝り続ける彼女をさえぎるように、祥可が彼女を呼んだ。先程よりも幾分厳しい声が出た。

 彼女を問い質すつもりはなかった。しかし聞いてみたいと思った。彼女がここまで思いつめるその理由を。

 祥可はしっかりと姚朱を見据えた。彼女の方も澄んだ瞳で彼の視線を受け止める。

「君にとって、俺を護るというのはどういうことなんだ? 俺の命が失われたわけじゃない。それでも、護れなかったからといって泣くほど、重大なことなのか?」

 祥可の問いに、姚朱ははっきりと頷いた。迷いなど微塵もない、明確な肯定だった。

「それこそが、私が存在する意味だから」

「存在する意味……?」

 予想以上の答えだった。言葉を失う。

 祥可が当惑しているのが伝わったのだろう、姚朱は困ったように笑った。

「私を生み出したのは、祥可の一族よ。護るのは当たり前のことだわ」

「俺の一族が君を生み出したって?」

 祥可の戸惑いが更に大きくなった。

 尋ねる前以上に混乱する。人が、結晶に命を与えるなどということがあり得るのだろうか。

 しかし姚朱は断固とした瞳で、祥可の問いを肯定した。

「長い年月、彼らは私を大切にしてくれた。幸福が訪れますように。病が癒えますように。成功しますように。様々な願いを抱いて、彼らは私に触れた。その彼らの想いが凝り固まって、『姚朱』になったのよ」

 姚朱の目が遠くを見つめる。

 かつての持ち主達を思い起こしているのだろうか。懐かしむようでいて、哀しむような、思慕の思いに満ちた表情だった。

「でも、人の形になったのはこれが初めて」

「そうなのか?」

 遥かな過去を見つめていた姚朱の双眸が、真っ直ぐに祥可に向けられた。

 暗闇に慣れた彼の目が、彼女の視線を正面から受け止める。

 姚朱の寂しげな笑顔が祥可の心を刺した。

「あなたが川に落ちた時、どうして私には腕がないのかと思ったわ。足があれば、身体があれば、あなたを助けることができるのに、私はただの石でしかない。それがとても苦しかった」

「姚朱」

「気がついたら、祥可を抱きしめていたわ。どうして人の形になれたのかは私にもわからないけれど、あなたを助けられたことを天に感謝したわ」

 言って、姚朱は自身の両手を見やる。幸福そうな、しかしどこか憂いを感じる表情だ。

 姚朱が両手を握り締めた。膝の上に置かれた小さなこぶしの上に、透明な雫が散る。

「あなたが大切だから、あなたを愛しているから、だからどうしても助けたかった」

「!」

 姚朱の言葉が、祥可の思考を止めた。

 はっと息を呑む。

「君が、俺を……?」

「私の主となった人は少なくないわ。でも、片時も離さずにいてくれたのは祥可、あなただけ。私はずっとあなたと一緒にいて、あなたを見てきた。私があなたを愛おしく思うのは、おかしなこと?」

 不安そうに姚朱が尋ねる。

 祥可は否定したかった。おかしなことではないと言って安心させてやりたかった。

 だがそれ以上に、受けた衝撃の方が大きかった。

 結果的に、驚きが祥可から言葉を奪ってしまった。

 食い入るように姚朱を見つめる。声は咽喉の奥で凍り付いてしまった。祥可のその態度を彼女がどう受け止めるかわかっていながら、それでも祥可はたったの一言も発することができなかった。

 姚朱は祥可を責めることも、答えを求めることもしなかった。

 身動き一つできずにいる祥可に、姚朱が微笑む。

「でも、駄目ね。あなたを傷つけることしかできない私には、あなたと共にいる資格はないわ」

「姚、朱……?」

 別れのようにも取れる言葉を口にして、彼女は瞼を閉ざした。

 祥可は我が目を疑った。

 急速に、姚朱の輪郭が失われてゆく。

 慌てて手を伸ばす。だが、彼の手は空を切った。姚朱の身体をすり抜けてしまう。

 にもかかわらず、彼女の零す涙だけは実体を持って彼の手に降りかかった。

 それを握り締めて、彼は叫んだ。声は醜くかすれたが、そんなことに構ってはいられない。

「待ってくれ、姚朱!」

 音もなく、彼女は大気に溶け込んでゆく。

「姚朱――姚朱姚朱姚朱!!」

 言葉が出てこない。ただ名前を呼ぶことしかできない。

 何度も手を差し伸べる。その度に、手は空を掴むばかりだ。それでも彼は手を伸ばし続けた。

「ごめんなさい、祥可」

 消え入りそうな姚朱の声が祥可の耳に届いた。

 それが最後だった。

 声と同時に、姚朱の姿が完全に闇に飲み込まれた。

「よう、しゅ……!」

 彼女が座っていた場所に触れる。まだ暖かい。彼女の体温を保つそこに手のひらを押し当てた。

 直後、冷たい何かが祥可の指に触れた。

 反射的にそれを拾い上げる。

「――これは」

 彼の手におさまったのは小さな水晶の珠――ずっと大切にしてきた母の形見。

 丸くて少し冷たいそれは、軽やかに祥可の手のひらを滑る。

「姚朱……」

 祥可はそれをしっかりと握り締めた。

 珠には傷一つなく、相変わらず清らかだ。

 けれど。

 かつて透明だったそれは、真っ白に曇ってしまっていた。


                    ***


 都が近いようだ。

 行き交う人々の様子を見て祥可は悟った。

 自分でもかなり旅慣れたと思う。

 それもそのはず、旅に出てから既に三月が過ぎようとしていた。

 

 季節は移り、冬に入った。

 昼間といえども気温が上がらない。寒さが肌に突き刺さるようだ。青空に太陽が輝いているのがせめてもの救いだった。

 祥可はしっかりと閉じていた襟元を少しだけ緩めた。途端冷たい風が吹き込む。

 一度身体を震わせて寒さを追い払うと、祥可は懐中から革紐に提げた水晶の珠を取り出した。

 白濁したそれを太陽の光に晒す。

 明るい日差しを受けて、それはきらきらと瞬いた。

「姚朱、もうじき都だぞ」

 祥可は明るい声で語りかけた。語る相手は襟元の水晶の珠である。

 すれ違う旅人達が怪訝な視線を送ってきたが、祥可は気にしない。

「この分なら、今日中には着けるだろう」

 祥可は話し続ける。もちろん、返事などない。

 足を止めて空を仰ぎ見る。冬らしく澄み切った青空が目にまぶしい。

「いい天気だなあ」

 太陽光をさえぎらない程度に珠に指を触れて、祥可は呟いた。

 祥可の声に応えたか、珠からはわずかに柔らかな波動のようなものが伝わってきた。

 それを感じて、彼は安堵した。

 この水晶はまだ死んでいない。つまり、姚朱の存在もまた消えてはいないということだ。

 一人に戻ってから、祥可はずっと考えていた。

 たったの一時も、姚朱のことを忘れたことはなかった。

 彼女の言葉を思い起こせば胸が痛い。

 姚朱は祥可を愛していると言った。

 自分にとっても、姚朱は大切な存在だ。共に過ごした間はもちろんのこと、二月経った今もその思いは変わっていない。

 けれど、それが愛なのかはわからなかった。

 傍に居て欲しいと思った。誰にも触れさせたくないと感じた。彼女の優しさに抱かれていたいと望んだ。彼女を何者からも護りたいと願った。

 この思いはなんと呼べばいいのだろう。

 愛ほど深い思いではない。恋のようにときめくわけでもない。

 それでも、姚朱を自分の手の中に取り戻したいと切望する心は真実だった。

「きっと、もうすぐだよな」

 祥可は、手の内で太陽光に煌く姚朱を見つめた。やわらかく語りかける。

 姚朱はすぐに戻ってくる。そしてこういうに決まっているのだ。ただいま、祥可――と。

「そうしたら今度はずっと、一緒にいよう」

 傷つけたって良い。祥可は思った。そのことにおびえる必要などないのだ。

 共にいないことに比べれば、そんなことは些細な事柄でしかないはずだから。

「そうだろ、姚朱?」

 祥可の声が優しく彼女の名を呼んだ。

 彼女はまだ答えない。だが、呼びかける彼の表情は穏やかで、幸せそうでさえあった。

「さあ、行こうか」

 祥可は水晶の珠をそっと襟の内側に仕舞った。

 服の上から触れると、ふわりと暖かかった。


――祥可。


 再び歩き出した彼の耳に、風が囁いた。

「え?」

 はっとして足を止める。

 呼ばれた気がした。

 周囲を見回すが、目に映るのは忙しそうな旅人ばかりで、姚朱らしき人影などない。

 幻聴だろうか。

――祥可!

 また聞こえた。間違いなく姚朱の声だ。

「まさか……」

 呟いて、胸元に手を当てる。

 手のひらに当たるはずの結晶の硬さが感じられない。

 慌てて取り出してみるが、そこにあるのは、薄汚れた革紐ばかりだった。

「姚朱」

 気づいた時には、祥可は彼女の名を呼んでいた。

 姚朱がいる。根拠はなかったが、漠然と祥可は彼女を感じていた。

「来い!!」

 青空に向って――いるはずの彼女に向って両手を差し伸べる。きらりと太陽光が祥可の目を射た。

 眩しさに思わず目を伏せる。すると、ずしりと両腕に重みがかかった。

 逃がすまいと抱きとめる。

 それはひどく柔らかな暖かさをもって、祥可の胸の内にぴったりと収まった。

 細い腕が、遠慮がちに祥可の身体を抱く感覚が伝わってくる。

 祥可は一度強く抱き返して、瞼を開いた。

 二人の視線が絡み合った。

「ただいま、祥可……」

 喜色に溢れた濡れた双眸で、姚朱が微笑んだ。




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― 新着の感想 ―
[一言] 今日は。はじめまして。 甘楽、と申します。 花籠様の小説を読ませていただきました。 大変文章が綺麗で、ストーリーも素敵な話だと感じました。 話の雰囲気が私的にはとても好きです。 基本私は短…
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