「婚約は解消する。でも妹の世話は続けてほしい」
朝の光が差し込む客間で、元婚約者の妹であるマノンは黄色い靴箱を大事そうに抱えて立っていた。
昨日の夕方、あんな騒ぎのなかで私は婚約を破棄されたばかりだというのに、彼女は何事もなかったかのように微笑んでいる。
「お姉様、明日の拝謁で履く靴なのですけれど、これで大丈夫か見てくださる?」
そう言って、彼女は淡い黄色のエナメル靴を取り出し、私の膝の上へ置こうとした。
片方のリボンが少しほどけて垂れ下がっている。
私が手を伸ばさないでいると、マノンは不思議そうに眉を寄せ、困ったように靴を持ち直した。
「明日の付き添いは、ご一緒しませんよ」
「では、靴の確認だけでもお願いします。ドレスの裾を踏んで転んだら大変だから、前日にもう一度合わせましょうって、お姉様が仰っていたでしょう?」
私は膝の上で重ねていた指をそっとほどいた。
4年間染みついた習慣で、ほどけたリボンを結び直してやろうと動きそうになった右手を、硬い陶器の受け皿へ戻す。
「靴合わせもいたしません。これからはご自分のお兄様か、新しいお相手に相談してください」
マノンは私の冗談だと受け取ろうとしたのか、引きつった笑みを唇に浮かべたまま動きを止めた。
「……まだ、お兄様に怒っていらっしゃるのですか?」
まだ、という無邪気な言葉が、ちくりと胸に突き刺さる。
昨夕の広間で、彼女の兄から突然の婚約破棄を突きつけられ、一睡もできずに朝を迎えたばかりなのだ。
泣き腫らした瞼が熱くて、朝食のスープを口に運ぶ匙さえ重かった私に対して、彼女は昨日の出来事をすでに終わった話として流そうとしていた。
母を亡くしたこの子の支えになりたいと願い、義理の姉になる準備を重ねてきた4年間だった。
けれど、約束が消えてなくなった翌朝くらい、他人の靴の心配などしたくなかった。
「昨日、皆様の前ではっきりと決まったでしょう。私はノルベール様と結婚しません。あなたのお姉様になるお話も、すべて白紙に戻りました」
「でも、それと明日の拝謁の支度は別でしょう?」
16歳の少女は、本気で話が通じないという顔で小首を傾げた。
そのあどけない瞳を見つめているうちに、ようやく理解が追いついた。
私たち二人は昨日、まったく違うものを失ったのだ。
私は愛していた婚約者と、大切に慈しんできた未来の妹を奪われた。
だが彼女のほうは、兄の隣に並ぶ相手が代わっても、便利な世話係である私を変わらず呼びつけて使えると思い込んでいる。
ダルメ侯爵家の長男であるノルベール様と婚約を結んだのは、私が18歳の春だった。
母を亡くしたばかりだった12歳のマノンは、初めて顔を合わせた日、喪服の袖口をぎゅっと噛み締めて誰の手も握ろうとしなかった。
兄の陰に隠れて震えていた少女が、帰り際になって私のドレスの裾を掴み、すがるように見上げてきた日を今でも覚えている。
「今度は、いついらっしゃるの?」
次の日曜日にまた来るわ、と約束した。
その日から毎週日曜日に侯爵邸へ通い、癖のある柔らかい髪を結い、散らかった部屋で刺繍針を一緒に探し、社交の挨拶を間違えて泣き出したときには夜まで練習に付き合った。
寂しさを抱える少女が自分を頼ってくれること自体、とても誇らしくて幸せだった。
ノルベール様も初めの頃は、庭に咲いた薔薇を切って私を出迎えてくれた。
マノンが安心して眠ったあとに、二人で並んで温かい紅茶を飲む夜もあった。
あの穏やかな時間まで嘘だったとは信じたくない。
けれど、いつの頃からか、彼は私が屋敷へ顔を出す時間を見計らって外へ出かけるようになった。
「プリュネルが来てくれるなら何も心配はいらない。マノンを頼むよ」
二人で出かけるために選んだお気に入りの帽子をかぶったまま、私は侯爵邸の居間で妹の刺繍を見守った。
婚約を結んだ記念日であっても、何か月も前から約束していた観劇の日であっても、マノンが一人で過ごしたくないとぐずれば、私たちの予定は跡形もなく消え去った。
一度だけ、私もあなたと二人きりで街へ行きたかったと寂しさを漏らしたことがある。
「母親を亡くしたあの子を一人にしてまで出かけたいのかい? 君はもう家族同然だろう。姉としてしっかりしてくれ」
そう諭されたとき、私は返す言葉を見つけられなかった。
マノンに惨めな思いをさせたいわけでは決してなかったから、行き場を失った自分の孤独だけを胸の奥へ押し込めるしかなかった。
そして昨夜、侯爵邸の晩餐会には親族のほか、古くから付き合いのある3つの家が招かれていた。
翌々日に迫った宮廷での拝謁を前に、マノンの社交界デビューを祝うための華やかな席だった。
そこでノルベール様は、来賓として座っていたアニエス嬢の細い手を取り、居並ぶ全員の前で宣言したのだ。
「プリュネル、君との婚約を白紙に戻したい。私はアニエスと結婚することに決めた」
食器が擦れ合う音がぴたりと止まり、銀のナイフが皿に落ちる甲高い響きがいくつか重なった。
私は手元に視線を落としたまま動けなくなった。
握り締めていた硝子の脚があまりにも冷たくて、強張った指を一本ずつ外すのにひどく時間がかかった。
アニエス嬢は椅子から立ち上がり、こんな席で突然告げられるとは思っていなかったと青ざめた顔で弁解した。
彼女に対して何を言えばいいのか、頭が真っ白になって何も浮かばなかった。
そのとき、私のすぐ隣に座っていたマノンが、重ねていた自分の手をためらいもなく引き抜いた。
「アニエス様がお姉様になってくださるの? それなら私、明日からの舞踏会のお話もたくさん聞けるわ。プリュネルお姉様は、いつも窮屈なマナーやお支度のお話ばかりだったもの」
食事の前に私が丁寧に結び直してやったピンクのリボンが、彼女の肩の上で軽やかに揺れていた。
私は確かに、準備の話ばかりしていたのだろう。
あの子が恥をかかないように、周囲から笑われて傷つかないように、失敗の芽を摘むことばかりに気を配っていた。
私だって流行のドレスやダンスの話を楽しみたかったのに、4年もの月日を費やして、その気持ちすら何一つ伝わっていなかった。
侯爵様は息子の短慮を激しい言葉で怒鳴りつけ、私の父は静かに椅子を引いて立ち上がった。
両家の間で後日正式に話をつけさせてもらうと父が告げる横で、私は左手の薬指から指輪を抜いた。
「婚約の解消に異論はございません。明後日の拝謁への付き添いも、私から辞退させていただきます」
ノルベール様は指輪を掌に受け取ったあと、妹への付き添いを断る言葉にだけ不満そうに眉をひそめた。
「そこまで意固地になる必要はないだろう。明後日はあの子の大事な晴れ舞台なんだぞ」
その身勝手な台詞を耳にした瞬間、私は自分の心が完全に冷え切ってしまったのを感じた。
そして今、マノンは我が家の客間で、当たり前のように靴箱を抱えているのだ。
「アニエス様は、急なことで明日のご都合がつかないとおっしゃったの。お兄様もお仕事があるから、拝謁の付き添いは予定どおりプリュネルお姉様にお願いしなさいって」
「昨日、その場でお断りいたしました」
「たった1日だけのことよ。明日が無事に終わったあとで、お兄様と仲直りしてくださればいいじゃない」
「仲直りの問題ではありません。婚約自体がなくなったのです」
マノンの大きな瞳にみるみる涙が溜まっていくのを見て、私は無意識に長椅子の肘掛けを強く握りしめた。
あの子が泣き出すたびに、いつも隣へ滑り込んで背中を撫でてきた。
今だってハンカチを取り出して涙を拭いてやりたいし、優しく肩を抱けば元の無邪気な笑顔に戻ることも分かっている。
けれど、昨晩ひとりで泣き明かした私の部屋へ、この子は来てくれなかった。
今朝わざわざ訪ねてきた理由も、自分の靴の心配だけだった。
「私のことが、嫌いになってしまったの?」
「あなたが困っていると聞けば、自分の約束をすべて投げ出してしまうくらい、大切に思っていました」
抑えていた声が微かに震えてしまい、自分でも情けなくなった。
冷静に大人の対応をするつもりだったのに、感情がどうしても追いつかない。
「でも、昨夜の広間であなたが放った言葉は、私を深く傷つけました。今日この場で、あなたの靴を笑顔で整えてあげる気持ちにはなれません」
マノンはぽろぽろと涙を零しながら、手元の箱へ視線を落とした。
私の膝の上に、もう二度と自分の靴が置かれることはないのだと、ようやく理解したようだった。
御者を呼んで馬車を用意させると、彼女は力なく靴を箱の中へ戻した。
ほどけたままのリボンも、乱雑に収められたまま蓋の下へ隠れて見えなくなった。
妹が去って昼過ぎになっても、何を手に取ればよいのか分からず呆然と過ごした。
いつもの日曜なら、マノンの礼法の稽古を見守るために侯爵邸のサロンに座っている時間だ。
自分の部屋で好きなように過ごしていいのだと頭では理解していても、大時計の針が進むたびに胸が落ち着かない。
机の上を片付けていると、数日前に届いていた手紙が目に入った。
ケルヴァン公爵家の当主、ユーグ・ケルヴァン様から届いた、王都の画廊で開かれている写生展の案内状だった。近衛騎士団長を務める兄君が家督を辞退したため、若くして公爵位を継いだ方だ。
兄君が侯爵邸を訪ねる折に同行していた彼と、庭園の東屋で何度か言葉を交わしたことがあった。
私が暇つぶしに描いていた、草むらで丸くなって眠る猟犬の素描を見て、彼は声を上げて笑っていたものだ。
おかしな絵を描いたつもりは毛頭なかった。
庭にいた犬が、本当にあんな不恰好な顔で眠りこけていたのだ。
展示への誘いには、妹の支度があるからと丁寧に断りの返事を出していた。
私は引き出しから便箋を取り出し、今からでも間に合うだろうかという短い文面を走らせた。
一度断った誘いに4日も経ってからすがりつくなど、あまりにも身勝手で図々しい行動だと分かっていたが、静まり返った部屋に一人でいることに耐えられなかった。
その日の夕暮れ時、返事は手紙ではなく差出人本人と一緒に届いた。
「展示は明後日の夕方まで開催しています。明日でも、明後日の都合の良い時間でも構いません」
客間に現れたユーグ様は、帽子を手にしたまま早口で告げ、私の顔をまじまじと見つめたあと、気まずそうに口を噤んだ。
泣き腫らして赤くなった目元を隠せてもいなかった。
客間へ降りる前に、一度鏡を覗き込んで化粧を直すべきだったと今更ながら後悔する。
「……婚約がなくなったお話を、耳にされましたか?」
「兄から、少しだけ。詳しい事情までは伺っていません」
「お恥ずかしい話ばかりで、今日は詳しくお話しできる気力がありません」
「それなら、絵の話をしましょう。実は私の描いた犬の絵も、端のほうに飾られているのです」
「ユーグ様の絵が?」
「兄が飼っている軍用犬です。友人たちからは毛玉にしか見えないと散々酷評されましたが、下に大きく犬と書き添えておきましたから問題ありません」
彼の真面目腐った語り口がおかしくて、私は思わず噴き出してしまった。
乾いていた目の奥がじわりと痛み、笑い声と一緒に涙がぽろりと零れ落ちる。
ユーグ様は驚いたように慌てて上着のポケットへ手を突っ込み、取り出しそうになった布地を確かめて、すぐに引っ込めた。
「……馬の毛がついていました。これでお拭きになるのは避けたほうがいい」
「自分のハンカチがありますから大丈夫です」
鼻をすすりながら告げると、彼は心底ほっとした様子で長椅子の向かいに腰を下ろした。
傷口が塞がったわけでは決してない。
それでも、明後日になれば新しい絵を見に行けるという約束が、暗闇の中で小さな灯火のように思えた。
夕食の支度が整う少し前の時間になって、今度はノルベール様が我が家へ怒鳴り込んできた。
ユーグ様には父が別の応接室で対応を引き受けてくれたため、私は客間で元婚約者と対峙することになった。
昼過ぎから少しずつ固形物を喉に通せるようになっていたのに、彼の顔を見た途端、胃のあたりがきつく締め付けられる。
「マノンが泣き腫らした顔で屋敷へ戻ってきたぞ。靴の確認すらしてくれなかったそうだな」
「ええ、お断りいたしました」
「昨日の今日で、君のプライドが傷ついたのは理解している。だが、何も悪いことをしていない妹に八つ当たりをするのは筋違いだろう」
「拝謁の付き添いは辞退すると、昨日の晩餐の席でもはっきり申し上げました。今朝も同じお返事をマノンさんに伝えただけです」
「だから、その頑なな態度を改めてほしいと言っているんだ。明日の付き添いのために私が仕事を休むとなると、職場にも多大な迷惑がかかる」
私は仕立ての良い彼のフロックコートの襟元を静かに見つめた。
4年前、マノンが喪服の袖を噛んで泣いていた頃は、彼も不器用な手つきで妹の髪を梳いてやっていたはずだ。
歪んだ三つ編みを結んでしまって、3人で顔を見合わせて笑い合った日々もあった。
昔は彼自身がやっていたのだ。
私がすべてを肩代わりするようになってから、彼は妹の世話を完全に放棄したにすぎない。
「お仕事のご都合でしたら、私ではなくご自身のお勤め先へご相談ください」
「君は屋敷にいて暇をしているだろう!」
「明日は、自分の部屋で一日中休みます」
思いのほか冷たく響いた私の声に、ノルベール様は虚を突かれたように目を丸くした。
昼過ぎまで泥のように眠るかもしれないし、何も考えずに庭の木々を眺めて過ごすかもしれない。
彼の都合や世間体を守るために、私の時間を差し出す筋合いなどどこにもなかった。
「マノンだって、君を本当の姉のように慕って頼りにしているんだ。私との男女の揉め事とは切り離して考えてくれてもいいはずだ」
「私はあなたと夫婦になり、あの子の家族になるつもりだったからこそ、4年ものあいだ通い詰めたのです」
「これからも、妹同然に可愛がってくれれば……」
「あなたがアニエス様と新しい家庭を築かれたあと、私はどんな顔をして毎週あの屋敷へ通えばいいとお考えなのですか?」
ノルベール様は反論しようと口を開きかけ、そのまま言葉を失って唇を噤んだ。
隣に並べる都合のいい妻と、妹の面倒を無償で引き受けてくれる都合のいい元婚約者。
彼にとっては理想的な配置なのかもしれないが、その都合のいい二人目に甘んじるたび、昨夜の屈辱を一生味わい続けるなど耐えられるはずがない。
「もう二度と、あのようなお約束はいたしません。マノンさんの訪問も、今後は手紙で用件を事前に伺った上で判断させていただきます」
彼が肩を怒らせて去っていったあと、私は客間の革張りの長椅子に深く身を沈めた。
父が夕食の時間を少し遅らせようと扉越しに声をかけてくれたので、甘えるように瞼を閉じた。
誰かに我が儘を言って休むという行為自体、何年ぶりかわからないほど遠い記憶だった。
翌朝、ダルメ侯爵家の紋章が入った馬車が再び我が家の門前に現れた。
私は2階の自室のカーテンの隙間から見下ろしただけで、部屋を一歩も出なかった。
父が玄関先で使いの者をきっぱりと追い返してくれ、私には何も気に病む必要はないとだけ告げてくれた。
正午を過ぎた頃、侯爵様本人からの直筆の書状が届けられた。
昨晩の息子の非礼を詫びる丁寧な文面に続き、ノルベール様が半日の休暇を取り、手探りで妹の支度を整えて夕刻の拝謁に付き添う旨が記されていた。
私が毅然と拒絶したのだから、この一件はこれで幕を閉じるはずだった。
ところが午後の半ば、一昨日の晩餐会に同席していた伯爵夫人から、宮廷の控えの間でお待ちしておりますという短い手紙が届いた。
マノンの紹介が無事に終わったあと、私の今後の身の振り方についてもゆっくり相談に乗りたいという、親切心からの文面だった。
父がすぐに使いを出して裏を取ったところ、ノルベール様が今朝の段階で、プリュネルの付き添いは予定どおり行われると周囲の貴族たちへ触れ回っていたことが判明した。
私が最後には折れて、恥を忍んで駆けつけてくるだろうと高を括っていたのだ。
全身の血が逆流するような憤りで、指先が熱くなった。
謝罪の手紙を一筆寄こしたところで、私の声に耳を傾ける気など最初から毛頭なかったのだ。
「お父様、私も宮廷へ伺います。ただし、マノンさんの支度を手伝うためではありません」
父は机の上の書状を見つめ、静かに私の顔を覗き込んだ。
「私が宮廷へ出向いて、すべて説明してきても構わないのだよ」
「一昨日の晩餐にいらした方々が、あちらで私をお待ちになっています。私が自分の意思でお断りしたのだと、私自身の口からお伝えしなければ、いつまでも侯爵家の言い分に利用されてしまいます」
父は深く頷き、我が家の紋章を入れた正式な馬車を用意するよう家令に命じた。
マノンの好きなパステルカラーを避けて地味な色を選ぶ配慮を捨て去り、私は自分が最も好む深い青のドレスに袖を通した。
似合う色を妹のために譲ってやることも姉としての喜びだったが、今日ばかりは誰のためでもない、私自身の装いで立ちたかった。
宮廷の控えの間は、着飾った貴族の令嬢たちと付き添いの親族たちで足の踏み場もないほど混み合っていた。
大きな姿見の前に、黄色いドレスを着たマノンが所在なさげに立っていた。
専属の美容師に結わせたらしく、髪はいつもより窮屈そうに高く巻き上げられている。
足元の黄色いリボンだけが、今朝と同じように歪んで結ばれていた。
私が入室したことに気づいたノルベール様が、安堵と得意の入り混じった顔で大股に歩み寄ってきた。
「やはり来てくれたのだな! マノンを一人で放り出せるはずがないと信じていたよ」
一昨日の晩餐に同席していた夫人たちが、私たちの会話に気づいて一斉にこちらへ視線を向けた。
私は父の腕からそっと手を離し、彼から三歩離れた位置で立ち止まった。
「私がマノン様の付き添いをお引き受けしたという事実無根のお話を、訂正するために参りました」
「プリュネル、何を言い出すんだ。こんな人前で……」
「今朝も周囲の方々へ、私が付き添いを承諾したとお話しになったそうですね。私は一昨日の晩餐の席でも、昨夕あなたが我が家へ怒鳴り込んでいらした際にも、明確にお断りしております」
近くにいた伯爵夫人が、パチンと扇を閉じた。
「まあ、そうでしたの。私どもは、ご婚約の件がどうあれ、妹君の晴れ舞台のためにプリュネル様がご尽力なさると伺っておりましたけれど」
「私は侯爵家の家族になる覚悟で、4年間あの子の支度を務めてまいりました。その婚約が一方的に破棄された今、他家のお嬢様の付き添いを務める筋合いはございません」
最後まで言い切ったあと、大きく息を吸い込んだ。
わずかこれだけの言葉を並べるのに、ドレスの下の膝が小刻みに震えていた。
マノンが青ざめた顔で私の青い袖口へ手を伸ばしてきた。
「お姉様、皆様が見ていらっしゃる前で、そんな……」
私は伸ばされた小さな手を、指先でそっと押し戻した。
「これからは、プリュネル様とお呼びください」
マノンは大きく目を見開いた。
拒絶を口にした瞬間、私の喉の奥も焼けるように痛んだ。
「……本当に、もう私のお姉様ではないの?」
「ええ、もう赤の他人です」
「私、昨日まで、こんなに悲しいことになるなんて思っていなかったわ……」
「私は一昨日の夜から、ずっと悲しかったですよ」
マノンは何かを言い返そうとして、自分の唇をきつく噛み締めた。
泣き出すのを懸命に我慢するときの癖を、私は誰よりもよく知っている。
いつもなら先回りして抱きしめ、背中を撫でて慰めていたところを、私はただ冷ややかに見つめ続けた。
やがて、控えの間に案内役の厳格な声が響き渡った。
マノンの拝謁の順番が回ってきたのだ。
少女はおろおろと兄を見上げた。
ノルベール様は私へ伸ばしかけていた右手を力なく下ろし、妹の震える手を自分の腕へ引っかけた。
「行くぞ。挨拶の口上は、昨日練習したとおりに言えばいい」
「お兄様、私の扇は……?」
「あっ、いけない、どこへ置いた……」
兄は慌てて控室の長椅子へ駆け戻り、妹が置き去りにしていた羽根扇を拾い上げて手渡した。
二人が重い扉の向こうへ消えていくまで、私はその場から一歩も動かずに見送った。
扉が閉まると、先ほどの伯爵夫人が私の隣へ静かに歩み寄ってきた。
「先ほどのお手紙は、あなたを追い詰めるようなことになってしまいましたね」
「事情をご存じなかったのですから、お気になさらないでください」
「ええ。ですが、ご本人の意思を直接確かめるべきでしたわ。あなたにも、あなた自身の大切なご予定があるはずですものね」
私は深く一礼して頷いた。
明日にはユーグ様と絵を見に行く約束がある。
今夜は父と二人で、ゆっくりと温かい家庭料理を食べる予定だった。
それを自分の口から他人に胸を張って語れることが、信じられないほど誇らしかった。
拝謁を終えて戻ってきたマノンは、挨拶の言葉に何度も詰まったらしく、泣き腫らした顔で兄の腕にしがみついていた。
私を見つけて駆け寄ろうとしたが、私の冷たい視線に気づいて立ち止まり、そのまま逃げるように階段を降りていった。
父の待つ馬車へ戻ろうとする私を、ノルベール様が息を切らして追いかけてきた。
「アニエスにも事情を話したんだ! だが、あの子の世話までいきなり背負い込むのは絶対に無理だと断られてしまった!」
「それはそうでしょうね」
「君は、文句も言わずに自然にやってくれていただろう!」
彼の整った顔には、隠しようもない疲労と困惑が張り付いていた。
今日仕事を休んだ皺寄せで、明日の早朝から深夜まで残務処理に追われることになるらしい。
妹には新しい専任の家庭教師や付き添い人を雇い、その莫大な費用もノルベール様の給金から支払うよう、侯爵様から厳命されたのだと早口でまくし立てた。
「たった1日だけでも、これほど神経を削られるとは思わなかったんだ……」
「最初からご自分でなさっていれば、私の苦労も理解していただけたのではありませんか」
「頼むから、もう一度話し合う時間をもらえないだろうか。君との婚約のことも、考え直したいんだ」
妹の面倒を見てほしいという懇願ではなく、ようやく私という個人へ向けられた言葉だった。
けれど、彼が別の女性を選んで私を公衆の面前で捨て去り、私の心を木っ端微塵に砕いたという事実が消えるわけではない。
「婚約は完全に破棄いたします。そのお返事を覆すことは未来永劫ございません」
ノルベール様の視線が、何も飾られていない私の左手の薬指へ落ちた。
そこに4年間嵌められていた指輪の重みなら、もうとっくに忘れてしまった。
私は振り返ることなく、迎えに来た父の馬車へ乗り込んだ。
両家による正式な婚約破棄の取り交わしは、それから1週間ほどで滞りなく完了した。
マノンからは、これまでの無礼を詫びる手紙が一度だけ届いた。
宛名はプリュネル様とぎこちなく改められており、文末の署名の前には涙かインクか分からない丸い滲みが広がっていた。
返事を認めるまでに3日悩んだが、私は屋敷を訪ねる約束を一切書かなかった。
手紙は受け取ったと事務的に伝え、今後は訪問を控えてほしい旨を丁寧に書き添えて送り返した。
ノルベール様からの面会要請は、すべて父の手で門前払いにされた。
侯爵家の敷居を跨がない日曜日が2回、3回と重なるうちに、朝起きて時計の針を気にする回数は劇的に減っていった。
展示室で目にしたユーグ様の描いた犬の絵は、本人の予告どおり、確かに大きく犬と書き添えておかなければ何者か判別がつかない代物だった。
その感想を包み隠さずに伝えると、彼は絵の前で肩を落として長いため息を吐き出した。
「兄の犬が眠りこけている隙に描こうとしたのです。起きてしまうと、弾丸のように走り回って捕まりませんから」
「眠っているときであっても、もう少し脚の関節はあるはずですよ」
「あなたは、あの素早い犬の骨格をどうやって捉えていらっしゃるのですか?」
私たちは額縁の前で、犬の関節の曲がり方について驚くほど長い時間語り合った。
その次の日曜日には、街の画材屋へ新しいスケッチブックを買いに出かけた。
ユーグ様は公爵領から近衛騎士団へ納める飼葉の取引を自ら見ており、王都の市場へ出る日をこまめに手紙で知らせてくれた。
私に家の用事があるときは翌週へ延期し、彼の荷の到着が遅れたときは、都合のついた別の日に二人で並んで画廊へ足を運んだ。
約束の時間にどちらかが遅れれば、相手を気長に待つこともあった。
待たせてしまったことを素直に謝り、お詫びにと小さなお菓子を分け合う日もあった。
そんな当たり前のやり取りを一つずつ重ねていくうちに、次の日曜日に巡り会う予定を考えること自体が、私の生活の中心になっていた。
街の木々が葉を落とし、秋の終わりが近づいた頃、彼から珍しく改まった面持ちで、二人きりで食事をしたいと申し出を受けた。
それまでの外出には必ず私の侍女が付き添っていたし、屋敷へ招くときには父が同席していた。
その申し出が持つ意味を静かに確かめると、ユーグ様はテーブルの上の陶器の砂糖壺をじっと見つめたまま、緊張した面持ちで頷いた。
「あなたと正式にお付き合いをさせていただきたいのです。もし、私のような男でよろしければ」
「嫌でしたら、休日のたびに犬の脚の描き方を教えには参りません」
「……あの絵が目的でお付き合いくださっているのかと心配でした」
最初のうちは少しだけその通りだったかもしれない。
正直に認めるべきか一瞬迷っていると、彼があまりにも不安そうに視線を彷徨わせたので、私は慌てて笑顔で言葉を継いだ。
「私も、ユーグ様にお会いできるのが嬉しくて通っていたのですよ」
彼は紅茶のカップへ落とそうとした角砂糖を滑らせ、受け皿の上でからりと転がした。
その不器用な仕草がおかしくて笑いかけると、自分の頬も同じくらい熱くなっていることに気がついた。
気の利いたお洒落な言葉など、私たち二人には最後まで口にできなかった。
約束した初めての夕食の席に、私は落ち着かない気持ちを抑えきれず、ずいぶん早く到着してしまった。
窓際の席には二人分の硝子皿が並べられており、少し遅れて入ってきたユーグ様は、私を見つけるなり脱ぎかけた上着のボタンを掛け違えそうになりながら駆け寄ってきた。
席に着くなり、彼は手元にあった品書きをこちらへ差し出した。
「プリュネル様は、何がお好きですか?」
口を開きかけた瞬間、マノンの苦手だった強い香草の名前が無意識に脳裏をよぎった。
けれど、もう誰かの顔色を窺って料理の香りを抜いてもらう必要はないのだと気づき、私は白身魚のグリルを指先で示した。
「この魚のお料理をお願いします。それから、デザートに焼き林檎をいただきたいです」
「私も林檎にしましょう。今日こそ絵の話以外の格好いい話題を用意してきたつもりだったのですが、上着のポケットに入っている新しい写生を見ていただきたくて仕方がないのです」
「まあ、今日も持ってきてくださったの?」
彼が誇らしげに取り出した小さなスケッチブックを覗き込むと、今度の絵には確かに四本のしっかりした脚が描かれていた。
上達を素直に褒めようとして、私は尖りすぎた犬の鼻先に目を留めた。
「……今度は、少し馬に似ていらっしゃいませんか?」
ユーグ様が心底情けなさそうに肩を落としたので、私は我慢できずに声を立てて笑ってしまった。
彼もつられて苦笑いを浮かべ、料理が運ばれてくる前にスケッチブックを大切そうに胸ポケットへしまった。
それから、私がこの冬に描いてみたい景色の話に熱心に耳を傾けてくれた。
窓の外の通りには、夕方の帰路を急ぐ馬車が忙しなく行き交っている。
今夜は急いで誰かの元へ帰る必要もなければ、誰かの解けた靴紐を気にする必要もない。
自分の好きな香草がたっぷりと香る温かい皿を待ちながら、私は雪が降る前に川沿いの枯れ木を二人で見に行きたいのだと、目の前で微笑む彼に向かって楽しそうに語りかけていた。
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