「鳩臭い女は要らない。鳩など餌をやれば帰る」と婚約破棄されたので、港の報せは三日早く王都の皆様にお届けします
「鳩臭い女は要らない。鳩など餌をやれば勝手に帰る」
ヴィクトール・ベルナール様がそう言い放ったのは、伯爵家の鳩舎の三段目、十四番の巣箱の前で、わたくしが若鳩の脚環を確かめている最中でした。
鳩舎の戸口は狭いので、ヴィクトール様は半歩だけ中に入り、袖口を鼻に当てておられます。その後ろには、薄い黄色のドレスの令嬢がおひとり。羽根が裾に付かないよう、ドレスをつまんで持ち上げていらっしゃいました。
「百二十羽は伯爵家の財産だ。お前の持ち物ではない。身一つで出ていけ」
「承知いたしました、と申し上げる前に、そちらの方は」
「イザベル・ドルーエ嬢だ。ドルーエ商会の。来月、俺と婚約を発表する」
「はじめまして、ミレイユ様。わたくし、鳩って可愛いと思いますの。白いのが特に」
伯爵家の鳩舎に、白い鳩は四羽しかおりません。
四羽とも見目はよろしいのですが、いちばん帰りが遅い子たちです。そこは黙っておきましょう。
「お前がこの三年でやったことは餌やりだ。下男にでもできる。そのあいだ、婚約者らしいことは何ひとつしなかった」
婚約者らしいこと、が何を指すのか、三年のあいだ一度も伺う機会はございませんでした。
伺う暇がなかったのです。わたくしは毎朝、夜明け前に梯子を上り、百二十羽に一羽ひと握り半ずつ、朝と夕に分けて量っておりましたので。
三年前、伯爵家の鳩便は王都の商会に「三日に一度は迷う」と言われておりました。それを、王都から四十里の町までなら朝に放って昼には届く、と言っていただけるまでにしたのも、餌やりの一種ではございますけれど。
わたくしは十四番の脚環から手を離し、若鳩を巣箱へ戻しました。
「かしこまりました。百二十羽、すべてそちらのものです」
「……ずいぶん素直だな」
「鳩のことで、ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「放つ前の晩は、豆を十五粒までに減らしてくださいませ。満腹の鳩は、帰り道に寄り道をいたします。それから、雨の朝には飛ばさないでください」
ヴィクトール様は笑いました。イザベル様も、少し遅れて笑いました。
「豆を数えるのか。十五粒。聞いたか、イザベル」
「まあ、ひと粒ずつですの? お指が疲れてしまいそう」
「鳩は帰る。それが鳩だ。お前がいなくてもな」
申し上げるべきことは申し上げました。
二度は申しません。
その日の昼過ぎ、わたくしは衣装櫃ひとつで伯爵家を出ました。鳩舎の鍵は家令に返し、餌袋はいつもの棚に、豆の升はいつもの釘に掛けたままにしてございます。
乗合馬車の窓から見えた伯爵家の屋根の上を、鳩が三羽、輪を描いておりました。あれは昼の運動の時刻を覚えている子たちです。明日からは、誰が戸を開けるのでしょう。
わたくしの知ったことではございませんわね。
◇
三日目の夕方、子爵領へ向かう街道の宿場で、わたくしは呼び止められました。
「ミレイユ・ファルジュ嬢でいらっしゃいますか」
旅装の殿方でした。背が高く、外套の裾に乾いた泥が跳ねております。馬を替えながら追っていらしたのでしょう。
「オーギュスト・ヴァルデンと申します。王家穀物庫をお預かりしております。伯爵家の鳩舎を見に伺ったところ、育てた方はもうおられないと言われまして」
「育てた者はおりませんが、鳩は百二十羽おりますわ」
「鳩を見に行ったのではありません。鳩を育てた方を探しておりました」
「わたくしを、でございますか」
「伯爵家の鳩便を使っている商会に聞きました。三年前は三日に一度迷っていた鳩が、この二年は一度も迷っていない。何が変わったのかと尋ねたら、三人とも同じことを言いました。子爵家のお嬢さんが来てから、と」
伯爵家の方々は、一度もそうはおっしゃいませんでしたけれど。
宿の土間の隅で、ヴァルデン様は帽子を取り、立ったまま話を続けられました。わたくしが椅子を勧めるまで、お座りになりませんでした。
「南の港から王都まで六十里。早馬で三日かかります。その三日のあいだに、港の噂だけが先に走って、小麦の値が上がったり下がったりする。噂を早く掴んだ者が儲け、遅れた者が損をします」
「よくあるお話でございますね」
「港の入船を、早馬より先に、王都の全員へ同時に知らせたいのです。王家穀物庫の門に貼り出せば、誰も噂で儲けられなくなる」
そこで、ヴァルデン様は少し言葉を切りました。
「あなたの鳩舎を、王家の名で、穀物庫の屋根に建ててもよろしいですか。断ってくださって構いません」
わたくしは、宿のおかみさんが運んできた白湯をひと口いただきました。
鳩は、餌をくれる家へ帰るのではございません。初めて目を開けて、初めて空を見た屋根へ帰ります。だから伯爵家の百二十羽は、どこへ連れて行かれても伯爵家へ帰る。わたくしが連れ出したところで、何の役にも立ちません。
けれど、新しい雛を、新しい屋根で育てるのなら。
「六十里を、夜明けに放って昼前に届けるには、四十日はいただきます」
「四十日」
「雛は祖父から譲り受けます。三十六羽。鳩舎の造りと餌と、放つ日はわたくしが決めます。雨の朝は、どなたに急かされても放ちません」
「それで構いません」
「でしたら、お引き受けいたします」
ヴァルデン様が何か言いかけたので、わたくしは先に申し上げました。
「王家に頼まれたからではございません。わたくしが、そうすると決めました」
「……承知しました。ありがとうございます」
殿方に頭を下げられたのは、三年ぶりのことでした。
◇
五日目の朝、祖父ジョゼフが荷馬車で王都へ着きました。
荷台には柳の籠が六つ。中で、灰色の雛が身を寄せ合っております。
「三十六」
祖父はそれだけ言って、籠の縄を解きました。数えろ、という意味です。わたくしは一羽ずつ手のひらに載せ、羽の生え具合と、嘴の付け根の色を見て、三十六まで数えました。
王家穀物庫の屋根には、すでに鳩舎が建っておりました。わたくしの描いた図面どおり、南東に開いた着地板、巣箱は四十、床は毎朝掃けるように板を外せる造りです。入口の上には、仮の札が掛かっておりました。
――ファルジュの鳩舎。
「名は、あなたに伺ってから決めるつもりでした。仮に書いたものです。外しても構いません」
梯子の下から、ヴァルデン様がおっしゃいました。
「そのままで結構でございます。今は」
その日のうちに、三十六羽すべてに脚環を通しました。脚環は、脚の骨が太りきる前にしか通りません。真鍮の輪に刻むのは、鳩舎の印と生まれ年。印は『穀』の一字にいたしました。
祖父は黙って最後の一羽を押さえてくれました。白い斑が胸に散った雌で、三十六羽の中でいちばん大きな子です。
「名は」
「ノエルにいたします」
祖父は頷き、その日の夕方に子爵領へ帰っていきました。
◇
鳩の訓練に、近道はございません。
はじめの十日は、屋根を覚えさせるだけです。籠から出して着地板に並べ、穀物庫の煙突と、隣の聖堂の鐘楼と、川の曲がりを見せる。飛び立っても、屋根の上を一周すれば戻ってきます。
給餌は一羽一日ひと握り半。わたくしの手で、朝と夕に分けて量ります。帳面には毎日、羽数と、残った餌の量と、糞の具合を書きました。残りが多い日は、どこかの子が具合を悪くしております。
十五日目、初めて一里先の丘から放ちました。前の晩は豆を十五粒。三十六羽すべてが、半刻もかからずに屋根へ戻りました。
二十日目に三里。
二十二日目の朝は雨でした。
「今日は放ちません」
梯子の下で、ヴァルデン様は空を見上げられました。
「一日遅れても、間に合いますか」
「間に合うように、四十日いただいております」
雨の日の鳩は、目印の鐘楼も川も見えません。濡れた羽は重くなり、知らない屋根に降りてしまう。わたくしは雨の朝、鳩舎の戸を閉めて、巣箱の藁を替えるだけにいたしました。
二十六日目に十里。三十三日目に二十里。
二十里の朝は、荷馬車に籠を六つ積んで、夜明け前に城門を出ました。積み込みの前、ヴァルデン様は籠の脇に立って、わたくしにお尋ねになりました。
「籠を持ってもよろしいですか。揺らさない持ち方を、教えていただければ」
「底を両手で。取っ手は持たないでくださいませ。取っ手で持つと、籠が傾いて、中の子が片側に寄ります」
ヴァルデン様はそのとおりに持ち、六つすべてを荷台へ運ばれました。王家穀物庫をお預かりする侯爵様が、鳩の籠を底から抱えて梯子を下りてくる姿は、穀物庫の人足の方々にはずいぶん珍しく映ったようです。
ヴァルデン様は毎朝、穀物庫の帳場へ行く前に梯子の下へ来られました。
「上がってもよろしいですか」
鳩が落ち着いている日は「どうぞ」と申し上げ、換羽の始まった子がいて気が立っている日は「今日はお待ちくださいませ」と申し上げました。お待ちくださいと申し上げた日、ヴァルデン様は本当に梯子の下でお待ちになり、わたくしが降りるまで、帳面の数字を一緒に読み上げてくださいました。
「十里で、三十五羽が一刻以内。一羽が一刻半」
「十八番でございます。左の翼の羽が一枚抜けかけております。次の放鳩は休ませます」
「休ませるのも、訓練のうちですか」
「休ませないと、次に帰ってこなくなります」
三十八日目、ノエルが巣箱で卵を二つ温め始めました。
抱卵中の雌は、巣へ戻ろうとする力がいちばん強くなります。卵を残して放たれた雌ほど、まっすぐ速く帰る。祖父から最初に教わったことのひとつです。
四十日目、四十里。三十六羽のうち、ノエルを含めた十二羽が、四十里を二刻半で揃って帰りました。
四十二日目の朝、わたくしはその十二羽を籠に入れ、王家の早馬に託しました。港まで三日。港に着いて二日のうちに放てば、籠にいるのは五日。それ以上になると、鳩は籠の中で屋根を忘れはじめます。
港の穀物庫の書記どのへ宛てた文には、こう書きました。
放つ前の晩は、一羽豆十五粒。
雨、濃霧の朝は放たない。
入船を確かめたら、夜明けに。籠に入れて五日を過ぎるなら、知らせがなくとも放つこと。
残りの二十四羽は、四十五日目まで四十里の訓練を続けました。
◇
伯爵家のほうのことは、後になって港の書記どのの手紙で知りました。
ヴィクトール様は三十日目に、四十羽を籠に詰めて港へ送っておられたそうです。南の穀物船団の入港を、誰よりも早く王都で知るために。
籠は港の倉の隅に置かれ、十二日間、そのままでした。餌は誰かが籠の上から撒いていたそうです。数えずに。
四十五日目の朝、港は雨でした。伯爵家の使いの者は、その朝、四十羽を空へ放ちました。
港の書記どのは、わたくしの文のとおり、わたくしの十二羽を籠から出しませんでした。
その日の夕方、王都も雨でした。鳩舎の戸を閉めていると、ヴァルデン様が梯子の下から声をかけてこられました。
「伯爵家の鳩舎に、三羽戻ったそうです」
「三羽」
「港で放った四十羽のうち、三羽です。脚の文は雨で滲んで、一字も読めなかったと。鳩便を頼んでいた商会が、三つとも伯爵家に押しかけています」
三十七羽は、帰り道のどこかの屋根に降りたのでしょう。降りた屋根で、また誰かが餌をくれていればよいのですけれど。
「それと、市場に噂が出ています。――南の穀物船団、嵐で沈む」
わたくしは鳩舎の閂を下ろしました。
「確かめる手段のない噂は、噂のままでございます」
「ええ。ですが、確かめる手段を失った者は、噂に乗るかもしれません」
◇
四十六日目、ヴィクトール様は商人ギルドから金貨三千枚を借りられました。
ご自分の手元にあった金貨千八百枚と合わせて、四千八百枚。それで王都の市場に出ていた小麦を、一袋銀貨十二枚で八千袋、買い占めになりました。平時の値は一袋銀貨六枚です。二倍の値で、八千袋。
南の穀物船団は二十四隻、積荷は小麦三万袋。それが沈めば、王都の小麦は足りなくなる。値は十二枚どころか、二十枚にもなる。そういうお考えだったのでしょう。
担保は、ベルナール伯爵家の王都屋敷でございました。
その日の午後、ヴィクトール様は王家穀物庫の門前へ馬車で乗りつけられました。わたくしが屋根の上で藁を干しているのが、下から見えたのでしょう。
「鳩臭い女が、今度は王家の屋根か」
わたくしは藁を手にしたまま、着地板の端から見下ろしました。
「ごきげんよう、ヴィクトール様」
「穀物庫の小麦も、じきに足りなくなるぞ。俺が八千袋押さえた。欲しければ売ってやる。王家相手なら一袋二十枚だ」
「港の報せは、届き次第、この門に貼り出されます。どなた様にも、同時に」
「鳩でか」
ヴィクトール様は笑いました。
「雨で文も読めん鳩で、何がわかる」
それ以上は申し上げませんでした。
門前には荷車の列ができておりました。噂を聞いた方々が、小麦を一袋でも多く買おうと並んでおられたのです。その方々にも、明日の昼には同じ報せが届きます。ヴィクトール様にも。誰にも早くも遅くもなく。
その晩、空は晴れておりました。
◇
四十七日目の夜明け、南の港で、穀物船団の最後の一隻が錨を下ろしたそうです。
書記どのは桟橋で船を数え、二十四と書き、十二枚の薄紙に同じ文を写して、十二羽の脚の筒に収めました。前の晩の豆は十五粒。籠に入れてから五日目の朝。空は晴れ。
十二羽は、港の空で一度だけ輪を描き、北へ向かったと手紙にございました。
王都の屋根で、わたくしは夜明けから着地板の前に座っておりました。
鳩が六十里を飛ぶのに、およそ四刻。夜明けに放てば、昼前に着きます。わたくしにできることは、もうございません。豆を数え、雨の朝を待たせ、籠に入れる日を数えた。手順は全部、済ませてあります。
「上がってもよろしいですか」
梯子の下から、いつもの声がいたしました。
「どうぞ」
ヴァルデン様は着地板から少し離れて腰を下ろされました。鳩の降りる道を塞がない位置です。四十日のあいだに覚えてくださいました。
聖堂の鐘が、昼前の三つめを打った頃でした。
南の空に、白い点がひとつ。
点は川の曲がりで一度低くなり、鐘楼の脇をかすめて、まっすぐこちらへ。翼を立てて速さを殺し、着地板へ降りると、そのまま鳩舎の中へ駆け込んで、自分の巣箱へ。
胸に白い斑。ノエルでした。
卵の上にうずくまるノエルの脚から、わたくしは筒を外しました。爪で紙を広げると、書記どのの細い字が乾いたまま並んでおります。
――四十七日目夜明け、南の穀物船団二十四隻、全隻入港。積荷小麦三万袋、損なし。
「読んでいただけますか」
わたくしは紙をヴァルデン様へ差し出しました。ヴァルデン様は声に出して一度読み、ご自分の目でもう一度読み、それからわたくしの顔を見ました。
「貼り出してよろしいですか」
「わたくしの鳩舎の報せではございません。王家の報せです。どうぞ」
ヴァルデン様が梯子を降りていくあいだに、二羽目が着きました。三羽目、四羽目。昼の鐘が鳴り終わる頃には、十二羽すべてが巣箱に戻っておりました。十二枚の文は、一字違わず同じでした。
王家穀物庫の門に、その文の写しが貼り出されたのは、昼の鐘のすぐ後です。
わたくしは帳面を開き、十二羽の名と帰着の刻を書き入れました。ノエル、一番、四刻とわずか。最後の一羽まで、半刻の内。
屋根の端から見下ろすと、門の前に人が集まっておりました。貼り紙の前で、粉屋の親方らしい方が声に出して読み上げております。
「二十四隻、全隻入港。三万袋、損なし」
読み上げが終わると、列の先頭にいた方が荷車の向きを変えました。その後ろの方も。誰かが「沈んだって言ったのは誰だ」と言い、誰も答えませんでした。
門前の荷車の列は、半刻でほどけました。
夕刻、市場の小麦の値は、一袋銀貨五枚まで下がりました。
平時より一枚安いのは、三万袋が明日から王都へ運ばれてくるからです。どなたも、昨日までより少し多く小麦を買える。そういう値でございました。
ヴィクトール様の八千袋は、その値でしか売れません。銀貨四万枚、金貨にして二千枚。
四千八百枚で買ったものが、二千枚。
金貨二千八百枚の損でございます。
早馬が港の入船を王都へ伝えたのは、三日後、五十日目の昼でした。その頃にはもう、王都でそれを知らない方はおられませんでした。
◇
五十日目の朝、ヴィクトール様は商人ギルドへ訴え出られました。
「あの女が俺の鳩を盗んだ」
港で放った四十羽のうち、三十七羽が戻らない。その三十七羽をミレイユ・ファルジュが捕まえ、王家の鳩舎で飛ばし、自分の手柄にしたのだ、と。だから四十七日目の報せは盗んだ鳩によるものであり、盗まれた鳩さえあれば、伯爵家は損をしなかった、と。
ギルド長のバルトロ様は、六十になる、白い眉の方でした。
「盗みの訴えは、ギルドの立会いで確かめます。双方、よろしいか」
「構わん」
「かしこまりました」
わたくしは鳩舎へ戻り、四十七日目に港から帰った十二羽を籠に入れました。豆は前の晩に十五粒、与えてございます。
城門を出て一里の丘。わたくしの鳩が、十五日目に初めて飛んだ場所です。
丘の上には、バルトロ様と、ギルドの書記が二人と、ヴァルデン様と、ヴィクトール様と、それから噂を聞いた見物の方々が五十人ほど集まっておりました。ギルドの使いの者がひとりずつ、伯爵家の鳩舎と、王家穀物庫の鳩舎に詰めております。
「隣に立ってもよろしいですか」
籠を下ろしたわたくしに、ヴァルデン様が小声で尋ねられました。
「どうぞ。籠の右側にお願いいたします。風上ですので」
バルトロ様が籠の前にかがみ、一羽ずつ脚環を改めました。
「一羽目、印は『穀』、年は本年。二羽目、『穀』、本年」
十二羽を読み上げるあいだ、丘の上は鳩の喉の鳴る音しかしませんでした。
「十二羽とも、『穀』、本年。伯爵家の紋はなし」
「脚環など、付け替えればいい」
ヴィクトール様がおっしゃいました。
「脚環は、雛の脚にしか通りません。成鳥の脚からは、輪を切らなければ外れませんし、新しい輪を通すこともできません」
わたくしはノエルを籠から出し、脚を指で支えてバルトロ様の前へ差し出しました。真鍮の輪には継ぎ目がございません。脚の骨は輪よりも太くなっております。
バルトロ様は眼鏡を外して見、また掛け直して見ました。
「継ぎ目なし。書記、記録を」
「伯爵家の鳩の脚環には、ベルナール家の紋と生まれ年が刻んでございます。三年前から、わたくしがそう刻みました。お疑いでしたら、伯爵家に戻った三羽と比べてくださいませ」
「放ってください」
バルトロ様が言いました。
わたくしは籠の戸を開けました。
十二羽は丘の上で二度、輪を描きました。城門の上を越え、右手には伯爵家の屋敷のある丘の手、左手には川と聖堂の鐘楼。
十二羽は、一羽も迷わず、左へ曲がりました。
鐘楼の脇をかすめて、川の曲がりを越え、王家穀物庫の屋根の方角へ。見物の方々が背伸びをして、指をさして、やがて誰も何も言わなくなりました。
四半刻の後、王家穀物庫の鳩舎に詰めていたギルドの使いが、馬で丘へ駆け戻りました。
「十二羽、王家穀物庫の鳩舎へ帰着。脚環はすべて『穀』」
少し遅れて、伯爵家へ行っていた使いも戻りました。
「伯爵家の鳩舎、一羽も来ず」
ヴィクトール様が、わたくしのほうへ一歩踏み出されました。ヴァルデン様が、その間に半歩だけ入られました。手は出さず、ただ立っておられました。
「餌は王家の金で買ったものだろう。王家に飼われた鳩が、王家の屋根へ帰るのは当たり前だ」
「いいえ」
わたくしは空になった籠の戸を閉めました。
「鳩は嘘をつきません。餌をくれた家ではなく、育った家へ帰るだけです」
伯爵家の百二十羽も、同じでございます。あの子たちは、餌をくれる方が変わっても、伯爵家へ帰ろうとしました。雨の朝に、十二日も籠に入れられたあとでも。
帰れなかったのは、鳩のせいではございません。
◇
バルトロ様は、書記の差し出した帳面を、丘の上で開きました。
「ギルドとして、記録を読み上げます」
事務的なお声でした。
「訴えにかかる鳩十二羽は、脚環、帰着先ともに王家穀物庫の鳩舎のもの。盗みの事実なし。虚偽の訴えにつき、訴人ヴィクトール・ベルナールに罰金、金貨百枚」
ヴィクトール様が口を開きかけましたが、バルトロ様はページをめくりました。
「次。四十六日目、訴人はギルドより金貨三千枚を借入。担保はベルナール伯爵家王都屋敷。同日、小麦八千袋を一袋銀貨十二枚、総額金貨四千八百枚にて購入。四十七日目夕刻の相場、一袋銀貨五枚。八千袋の売却額、金貨二千枚。損失、金貨二千八百枚」
「売っていない。値はまた上がる」
「三万袋が入港しております。値が上がる理由はありません。返済期日は本日。売却額二千枚を返済に充てても、借入三千枚に千枚足りません。手元の自己資金千八百枚は小麦の代金としてすでに支払済み。よって担保の王都屋敷は、ギルドへ移ります」
見物の方々のあいだで、誰かが短く口笛を吹きました。
「次。四十五日目の鳩便不着につき、ベルナール伯爵家と鳩便契約を結ぶ三商会より、本日付で解約の届け。年額合計、金貨四百枚」
バルトロ様は帳面を閉じ、懐から封書を一通取り出しました。
「最後に、ベルナール伯爵閣下より、ギルドへの届け出を預かっております。嫡男ヴィクトールを廃し、次男を嫡男とする。以上」
ヴィクトール様は封書を奪おうとなさいましたが、書記の方がそれより早く帳面に挟みました。
丘の下から、馬車が一台上がってきたのはその時です。
降りてきたのはイザベル様と、ドルーエ商会の帳場の方でした。イザベル様は今日も薄い黄色のドレスで、裾をつまんで草を避けていらっしゃいます。
「ヴィクトール様。父からのお言伝ですの」
「イザベル、今は」
「ドルーエ商会といたしましては、本日をもって、ヴィクトール様とわたくしの婚約を解消いたします。持参金の金貨二千枚は、お支払いいたしません。嫡男でない方に嫁ぐ取り決めは、しておりませんもの」
帳場の方が、解消の書状をバルトロ様に差し出しました。ギルドの立会いのもとで渡した、という記録を残すためでしょう。商会の方々は、手順というものをよくご存じです。
「それでは、ごきげんよう」
イザベル様は一礼して、馬車へ戻られました。振り返りはなさいませんでした。
わたくしも、振り返りませんでした。
ヴィクトール様が何かおっしゃっていたようですが、丘を下りる頃には、風の音で聞こえなくなっておりました。
罰金が金貨百枚。屋敷はギルドへ。年に四百枚の契約がなくなり、嫡男の座は弟君へ。持参金の二千枚は、最初からなかったことに。
わたくしがしたことは、豆を数えて、雨の朝を待って、港の報せを王都の皆様と同じ時刻に門へ貼っただけでございます。
◇
夕暮れの鳩舎で、わたくしは十二羽の餌を量っておりました。一羽ひと握り半。今日は飛んだので、豆を少し多めに。
ノエルは卵の上で目を細めております。
「上がってもよろしいですか」
「どうぞ」
ヴァルデン様は梯子を上り、着地板から少し離れたところに立たれました。入口の上の、仮の札を見上げておられます。
「二つ、お尋ねしたいことがあります。別々にお答えください」
「はい」
「ひとつめ。王家の鳩舎を、このままあなたにお任せしたい。正式に王家の鳩舎として届け出るにあたり、名を改めることもできます」
わたくしは札を見上げました。
――ファルジュの鳩舎。
祖父の鳩の血を引いて、わたくしが量った餌で育ち、この屋根を最初に見た子たちの家です。
「名は、このままにいたします。ファルジュの鳩舎として、お引き受けいたします」
「承知しました。明日、札を彫らせます」
ヴァルデン様は、そこで一度息を吸われました。
「ふたつめは、仕事とは別の話です。あなたに求婚したい。ひとつめを引き受けてくださったからといって、こちらを受ける必要はありません。どちらも、断ってくださって構いません」
ヴァルデン様は右手を、わたくしの前に差し出されました。掌を上に向けて、わたくしの手の届くところで止めて。こちらから取らなければ、触れることのない位置です。
四十日のあいだ、この方は毎朝、梯子の下で尋ねてくださいました。上がってもよろしいですか、と。お待ちくださいと申し上げた日には、本当にお待ちになりました。
鳩は、餌をくれた家へは帰りません。
けれど、わたくしは鳩ではございませんので。
「わたくしの帰る家は、わたくしが決めます」
わたくしは、餌の升を棚に置きました。
「――ここにいたします」
そして、差し出された手を取りました。
ノエルの卵が孵ったのは、それから九日後のことでございます。孵って七日目、脚の骨が太りきる前に、雛の脚へ『穀』と今年の年号を刻んだ輪を通しました。
帳面のその日の欄には、ヴァルデン様の字で、ひと言だけ添えてございます。
――上がってもよろしいですか、と尋ねてから上がった。
わたくしはその下に、いつもどおりの字で書き足しました。
――どうぞ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。ミレイユと鳩たちの四十日間を少しでも楽しんでいただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると大変励みになります。作者ページには、完結済みの長編『「無能な君との婚約は破棄する」と笑われたので、「かしこまりました」と領地の全収入を持って出て行きました』もございますので、よろしければあわせてお楽しみください。
新しいお話を書いたときにお知らせが届きますので、よろしければ作者をお気に入りユーザに登録していただけると嬉しいです。




