魔王様、視察はもう勘弁してください。占領地の住民は「毎月来て」と言っていますが・・・
魔王オルムが帳簿を閉じた。
音は小さかった。
統治官アルジェは、それだけで今夜の睡眠を諦めた。
「予の名で税を増やしたそうだな」
征服から三月。人間の町を治めていた男爵は、執務室の中央で深々と頭を下げた。
「は。陛下の軍をお迎えするため、領民にも相応の負担を――」
「その税が、なぜ予の国庫にない」
男爵の額に汗が浮いた。
窓の外では、冬支度のための荷車が石畳を軋ませている。
この町から届いた報告では、不作のために税収が減っていた。その一方で、城に赴いた商人は、占領税、駐屯税、忠誠税と三種類の新しい税を口にした。
聞いた覚えのない税だった。
アルジェが商人の受領証を持って町へ来たのが、昨日の夕刻である。
「一時的に、私の蔵へ保管しておりました。折よく陛下がお越しくださったことですし、すべて献上を――」
「予の財を返すことを、贈り物と呼ぶな」
男爵の口が止まった。
魔王は椅子に座ったまま、指を一本動かした。
壁が透けた。
その向こうの廊下も、隣の部屋も、庭の土も、薄い硝子のようになった。屋敷の地下にある隠し蔵が、執務室から見渡せる。
積まれた穀物袋。銀貨の箱。酒樽。
男爵が保管場所はここだけだと誓った蔵の、三倍はある。
「不作か」
魔王の声には、怒鳴る必要すらないという静けさがあった。
男爵は腰の護符を握った。
隠蔽の魔法を破られたと悟ったらしい。床に緑色の円が広がる。逃走用の転移陣だった。
「予はまだ、退室を許しておらぬ」
円が消えた。
護符だけが、男爵の手の中で砂になった。
「爵位と統治権を剝奪する。財産を押さえ、横領額を確定せよ。余罪も調べろ」
扉のそばに控えていた将軍フェルが、男爵の両手を背へ回した。
人間の腕を折らぬよう、慎重に力を加えている。事情を聞き終える前に壊せば、自分が叱責されるからだ。
「お待ちを! この土地の徴税も、倉庫の管理も、私が握っております! 私を失えば、誰も――」
「貴様一人が欠ければ止まる程度の統治か」
魔王は、今度はアルジェを見た。
「帳簿も手順も引き継がせよ。誰を替えても、予の領地が滞らぬようにしろ」
「御意」
「それと、アルジェ」
背筋が勝手に伸びた。
「なぜ商人に言われるまで気づかなかった」
「領主の提出した集計を、そのまま採用しておりました。町での徴収と照合しておりません」
言い訳はしなかった。
できなかったのではない。確認する項目に入れていなかった。それを隠せば、次に提出する報告も信用されなくなる。
「一度は許す」
魔王が帳簿を押し返した。
「次も同じ理由で予を煩わせたなら、お前を替える」
銀色の髪の下で、アルジェの耳が冷たくなった。
彼は征服後の人間領を任された統治官である。
替える、と言われた。
何に替えるのか、どこへ替えられるのかは聞かなかった。
魔王は立ち上がった。
「明朝、城へ戻る。それまでにこの町の実額を出せ」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかる。
アルジェは、ようやく息を吐いた。
「フェル。徴税役を連れてきてくれ。下働きも、倉庫番もだ。誰が何を知っているか、先に調べる」
「全員、牢へ入れるか」
「違う。事情を聞く。働く者までいなくなったら、明朝の報告に『統治停止』と書くことになる」
フェルは一瞬考えた。
「それはまずいな」
「とてもまずい」
二人はうなずき合った。
この町の未来について、最初に意見が一致した瞬間だった。
*
男爵の屋敷には、文字の読める人間が十七人いた。
そのうち、徴収額と蔵の中身が合わないことを知っていたのは六人だった。六人のうち三人は男爵と銀貨を分け、残る三人は仕事を失うのを恐れて黙っていた。他の十一人は、担当する仕事の外で何が行われているか知らなかった。
アルジェは帳簿と受領証を並べ、別々に話を聞いた。
魔王の軍が町へ入ったとき、旧王国の税は当面そのまま徴収することになっていた。ところが男爵は、そこへ勝手な税を積み重ねた。
住民からは取り、魔王には渡さず、不作と報告する。
何もかもが、上手くいっていたのだ。
昨日までは。
「当面、定めのない徴収はすべて止める」
アルジェの言葉に、屋敷の書記たちが顔を上げた。
「陛下のお許しは……」
「陛下がお定めになっていない税だ。取り続ける方が、陛下に逆らうことになる」
誰も異論を挟まなかった。
この説明は、魔王の家臣にも人間の役人にもよく効いた。
町の広場に、税の種類と額を記した板を立てる。
読み書きのできない者には、週の市で係が読み上げる。
納めた者には、日付と額と印を入れた受領証を渡す。書記が一冊、倉庫が一冊、それぞれ記録を持つ。照合する役は、徴収する役と分ける。
手順を書き残し、一つの仕事を最低二人が扱えるようにする。
朝までに、当面の税収と保有する穀物の数が出た。
横領の総額だけは、まだ確定できない。
アルジェはその点も報告書に書いた。確かめてもいない数字で魔王を満足させようとするのは、寿命を縮める最も簡単な方法だった。
「七日以内に残りを出せ」
「もう一点。無断で徴収された分は、納付を確認できた者へ返したく存じます」
魔王が顔を上げた。
「予の蔵へ戻したものをか」
「不正な徴収のため、正規の税まで払えなくなった者が出ております。種麦や商いの資金も失っておりますので、このままでは次の税収も減ります」
「額と相手を確かめてからにしろ。同じ銭を二度返すな」
「御意」
魔王は報告を読み、余白へ一行書き加えた。
「他の領地も調べろ」
アルジェは深々と頭を下げた。
顔を上げるまでの間に、管轄する領地の数を思い浮かべた。
十一。
昨夜、一睡もしていない。
「人手が不足します。城の書記六名と、監査の権限を頂きたく」
「使え」
即答だった。
魔王は窓の外へ目を向けた。
「予が一々、虫どもの財布を数えるためにお前を置いていると思うな」
「心得ております」
虫どもの財布を数える者が、六人増えた。
アルジェはそのことに、心から感謝した。
*
ひと月後、魔王が再び町へ行くと言い出した。
アルジェは予定表を見た。
徴税記録の照合は済んでいる。男爵と共犯者は裁定を待って牢にいる。不正な税で奪われた分は、押収した財産から確認できた者へ返還を始めた。
町の収入は、魔王の国庫へ滞りなく届いている。
大丈夫だ。
口には出さなかった。言うと何か起こる気がした。
何かは、町の門の手前で起こった。
荷車が長い列を作り、魔王の馬車が止まったのだ。
関所の人間が、商人へ袋を差し出している。
「なぜ止まった」
馬車の中から声がした。
アルジェは外へ飛び出した。
「橋の通行料を集めております。すぐに道を空けさせます」
旧王国では、川に橋を持つ貴族が通行料を取っていた。この橋も、男爵の一族が管理していたものだ。通行料の額は旧王国の定めどおりで、橋を直す費用もそこから出ていた。監査では不正のないことを確かめたが、料金そのものは残していた。
担当者は魔王の紋章を見た途端、袋を後ろへ隠した。
「陛下の馬車からは頂きませんので!」
「予の橋を渡る者から、誰が許して取っている」
アルジェは、料金の記録を差し出した。
「旧王国で認められていた料金です。修繕費にも使われております。現在は領主の財産とともに管理下へ置いていますが、廃止には橋の維持費を別に用意する必要がございます」
馬車の窓が開いた。
魔王の金色の目が、列をなす荷車を見た。
「予の領地で、道を塞ぐな。修繕費は必要額を国庫から出せ」
「では、徴収を止め、橋の管理は町へ移します。他の領地でも、同様の料金を見直してよろしいでしょうか」
「任せると言ったはずだ」
窓が閉じた。
アルジェは、その場で徴収の停止と記録の保全を指示した。
橋を維持する人手は残す。徴収していた者には、別の仕事を割り振る。
単に袋を取り上げれば終わる話ではなかった。
十一領の道と橋が、頭の中に増えていった。
町では、別の問題が待っていた。
「臭い」
魔王が言った。
魔導官スタンの丸眼鏡が、曇った。
市場の横を流れる排水溝が、腐った水を溜めている。男爵の蔵を調べた際、屋敷の外にまで手は回っていなかった。
「予の町を、豚小屋にする気か」
魔王は鼻先に指を当てた。
通りを風が駆け抜けた。
窓を鳴らさず、看板も揺らさず、悪臭だけをさらっていく。
スタンはその魔法に、思わず見入った。
気流の層が最低でも十二ある。人の息を邪魔せず、屋内にも踏み込まず、匂いのある空気だけを抜き取っていた。
「何を見ている」
「解決方法を考えております」
鑑賞しておりました、とは言わなかった。
「次に予が通るまでに済ませろ」
「御意」
魔王の姿が角へ消える。
スタンは排水溝へしゃがみ込んだ。
「浄化の術を常時回すか」
フェルの提案に、魔導官は首を振った。
「それでは私が倒れた日に臭くなります」
「代わりを置けばいい」
「代わりも倒れます」
泥の深さを測る。下流を見る。町の職人を呼ぶ。
古い水路の出口に土砂が詰まっていた。男爵が修繕費を削り、掃除を止めていたのだ。
溝を掘り直し、流れを戻し、捨てる場所を決めればいい。清掃の賃金を払う財源は、修繕用として徴収されながら蔵に眠っていた金だった。
スタンは袖をまくった。
「将軍。兵を二十名、お借りします」
「敵はどこだ」
「ここです」
泥を指した。
フェルは、難しい顔で自分の剣を見た。
*
夕刻、魔王は町の中央で足を止めた。
商店が、次々と戸板をはめていた。
「早いな」
パン屋の主人が、青い顔で頭を下げる。
「日が落ちますので」
「だから何だ」
主人は、魔王よりもフェルを見た。
大きな角。黒い鎧。腰の大剣。
見ているだけで怯える相手だったが、今は話を聞いてくれるなら誰でもよかった。
「暗くなると、裏通りで荷を奪われます。店を閉めるのが遅いと、帰りに……」
フェルの眉が動いた。
彼の兵は門と倉庫を守り、旧王国軍の残党を警戒していた。町の人間同士の小さな揉め事までは、報告が上がっていない。
住民が、魔族の兵へ訴えに行くのを恐れていたことにも気づいた。
魔王が、焼き上がったばかりのパンを一つ手に取った。
アルジェが代金を払う。
払わず持っていけば、次の視察で同じ品が並んでいる保証はない。
「フェル」
「は」
「予の町で、予の民から物を奪う者がいるそうだ」
パンの端が、魔王の指の間で折れた。
「お前の兵は、何を守っている」
将軍の背筋が、軍議のときより真っ直ぐになった。
「今夜から巡回を置きます」
「見かけだけの巡回なら、要らぬ」
「捕らえます」
その夜、フェルは黒い鎧を脱いだ。
古い外套を羽織り、大きな頭巾で角を覆った。町の荷運びに道を教わり、金の音がする袋を腰へ下げて裏通りを歩いた。
三人の男が出てきた。
一人が短剣を抜いた。
フェルは嬉しかった。
泥より、ずっと扱いやすい敵だった。
翌朝から巡回の経路を変え、人間の元衛兵を雇い直した。誰に何を訴えればいいのか、広場の板へ書き足す。夜の相談所には、人間の係も座らせた。
スタンは簡単な灯りの魔石を取り寄せ、修理のできる職人へ扱いを教えた。
市場は、日暮れの後も開くようになった。
帰り道に明かりが灯った。
子どもたちが、夕食の買い物に出ても叱られなくなった。
住民たちは口々に言った。
「魔王様が、夜道を心配してくださったんだって」
フェルは、その噂を聞いて何も言わなかった。
彼の夜道は、当分長そうだった。
*
税が減り、道が空き、水が流れ、夜も商いができる。
翌月の町の収入は、以前より増えた。
「取る額を減らして、増えたのか」
城で報告を読んだ魔王が、首を傾けた。
「横領分が国庫へ届くようになりました。また、橋の通行料がなくなったことで商人の往来が増えております。橋の維持費を差し引いても、町の市税は増収です」
アルジェは答えた。
隣には、泥の落ちた軍靴を履いたフェルと、図面を抱えたスタンがいる。
全員、少し痩せた。
「商人は銭のある場所へ集まるのだな」
魔王は帳簿を置いた。
「当然か。虫も餌には寄ってくる」
スタンが眼鏡を押し上げた。
アルジェは、その足を机の下で軽く踏んだ。
いま虫と呼ばれた者たちが、陛下のために感謝祭を準備しています。
そう言えば、魔王はきっと、祭りの収支も見せろと言う。
「では、他の町も同じ程度には整えろ」
来た。
アルジェは手元の資料を一枚めくった。
「既に監査を進めております。ただし、水路の修繕は地形ごとに異なります。現地の職人を使い、優先順位を――」
「細目は任せる。金が要るなら額と使い道を出せ」
「御意」
話が通る。
仕事も増える。
それが、一番逃げ道のないところだった。
*
三度目の視察の日、町の広場には花が飾られていた。
パン屋は蜂蜜入りの焼き菓子を売り、子どもたちは黒い紙の冠をかぶっていた。
アルジェは、まず祭りの会計を確認した。
商人組合と住民の寄付。参加も出店も自由。税からの支出はない。
よし。
次に、警備の配置を見た。
フェルがうなずく。
広場に面した建物も前日に点検し、旧礼拝堂の塔は無人であることを確かめて施錠した。鍵を預かる管理人には、視察が終わるまで開けるなと命じてある。
水路と井戸は、スタンが朝に確かめている。
よし。
今度こそ。
馬車が門をくぐると、歓声が上がった。
「魔王様、万歳!」
「陛下、ありがとうございます!」
窓の向こうで、魔王が眉を寄せた。
「何を騒いでいる」
「陛下を歓迎しております」
「仕事はどうした」
「市が立っておりますので、普段以上に商いをしております」
魔王は窓から広場を見た。
菓子を売る手も、串焼きを焼く手も、確かによく動いていた。
「ならよい」
アルジェは胸の中で、商人組合の長に礼を言った。
祭りを朝から夕方までの市と併せたい、と相談してきた男である。
魔王を喜ばせる才能なら、城の家臣より彼の方があるかもしれない。
広場に馬車が止まったとき、フェルへ小さな伝令鳥が降りてきた。
魔術で作った鉄の鳥だ。
将軍は翼に刻まれた文字を読んだ。
表情を変えず、アルジェの肩へ手を置く。
「東の水門で、見張りが三人を捕らえた」
「盗賊か」
「油と、発火の魔石を持っていた。橋と穀物庫を焼くつもりだったらしい」
アルジェの口の中が乾いた。
監査を始めてから、他の領地でも着服が見つかっていた。
旧王国の貴族たちは、黙って財産を差し出してはいない。役人へ口止め料を送り、帳簿を燃やし、魔王軍への反感を煽る者もいた。
アルジェはその動きを将軍へ報告し、橋と蔵の警備を厚くしていた。
それが働いた。
働いたのに、まだ背中が寒い。
「黒幕は」
「隣領の伯爵の紋章が出た。もう一人いるそうだ。放火が失敗したら、塔の術師が広場を焼いて逃げ道を作る手筈だと――」
広場の上で、鐘が鳴った。
祭りの鐘ではない。
旧礼拝堂の塔から、赤い線が空へ伸びた。
空気が熱を帯びる。雲の下に魔法陣が開き、その内側へ炎が集まっていく。
スタンの顔色が変わった。
「《焔冠》……!」
城壁を破るための攻城魔法だった。
塔の窓際に並べられた魔石が、赤く輝いている。
その窓からは、東の水門が見渡せた。縄を掛けられた三人が、兵に連れられていく。
術師の背後には、白い転移陣が用意されていた。橋と穀物庫を焼けなかった以上、広場へ炎を落として追手を足止めし、その間に逃げるつもりらしい。魔王を倒すための魔法ではなかった。
スタンは両手を広げた。
青い防壁が、屋台の上へ張り出す。
フェルが兵へ怒鳴った。
「塔を包囲! 住民を石造りの建物へ入れろ!」
人々が悲鳴を上げる。
逃げる子どもの冠が、石畳へ落ちた。
「陛下、お下がりください!」
アルジェは言ってから、しまった、と思った。
魔王は、ゆっくり彼を見た。
「誰に言っている」
炎の輪が、広場へ傾いた。
スタンの防壁が軋む。町を守る広さにまで薄く延ばした壁では、長くは耐えられない。
魔王が手を上げた。
「止まれ」
炎が止まった。
輪も、火の粉も、熱に歪んだ空気さえも。
スタンの防壁へ押し寄せていた力が、消える。
塔の上の術師が、何かを叫んだ。
赤い魔石がさらに輝く。
輪が動くことはなかった。
「予の町を燃やす許しは、誰にも出しておらぬ」
魔王が指を曲げた。
炎の輪が縮んだ。
空を覆っていた攻城魔法が、林檎ほどの大きさになる。そこからさらに小さくなり、一粒の赤い玉となって、魔王の掌へ落ちた。
塔の上で、術師が胸を押さえてよろめいた。魔法を操っていた両手が、窓枠へ落ちる。
魔王が玉の表面を爪でなぞると、黒い封印が一周した。赤い光は内へ沈み、掌の上で揺れていた熱気も消えた。
それだけだった。
スタンは、防壁を張った姿勢のまま固まった。
魔法陣を崩していない。
炎を水で打ち消したのでもない。
術師が込めた魔力をまとめて奪い、その形を変えてしまったのだ。
魔王は玉を、スタンへ投げた。
魔導官は両手で受け止めた。
「使えるか」
「は、はい。出力を調整して蓄熱炉へ回せば、冬の間、共同の焼き窯に……」
「好きに使え」
塔の窓から、人影が身を乗り出した。
背後の白い転移陣が開く。
術師は炎で足止めする時間さえ得られず、逃走の術へ魔力を注ぎ込んだ。
「それも許しておらぬ」
魔王の一言で、陣がほどけた。
階段を駆け上がった兵たちが、術師を押さえる。フェルの指示で、塔の魔石も一つずつ取り外されていった。
広場に、静けさが戻った。
魔王はアルジェを見た。
「予の財を掠めた者が、今度は予の町を焼こうとしたか」
「関与を調べます。実行役と証拠を押さえ、隣領の兵にも連絡を」
「フェル。逃がすな」
「御意」
魔王は、地面に落ちた紙の冠を見下ろした。
子どもが母親の背に隠れ、震えている。
「市を再開するまで、どれほどかかる」
アルジェは広場を見回した。
倒れた屋台が一つ。踏まれた籠が二つ。逃げる途中で転んだ者がいる。
まず負傷者と、火の残っていないことを確かめなければならない。
「安全確認を先に行います。その後、商人と相談を」
「済み次第、報告せよ」
魔王は馬車へ戻った。
母親の背に隠れていた子が、顔を出した。
「魔王様が、火を消してくれた……」
誰かがうなずいた。
別の誰かが、魔王の馬車へ頭を下げた。
そして、広場のあちこちから声が上がった。
「魔王様、万歳!」
アルジェは、返事をする余裕がなかった。
怪我人を診る者を呼び、倉庫と橋の無事を確認し、捕まえた者の証言を別々に取る手配をした。
歓声は、どんどん大きくなった。
仕事も、どんどん増えていった。
*
フェルは隣領の駐屯兵へ伝令を飛ばし、伯爵の屋敷と蔵を同時に封鎖させた。記録を処分する前に、伯爵と出納係を拘束する。
屋敷からは、焼き討ちの費用を払った記録が出た。
術師の供述とも一致した。
術師は、魔王が炎を防ぐ間に転移できると思っていたという。放った魔法を支配ごと奪われ、魔力の反動で転移の開始が遅れたのだった。
旧礼拝堂の管理人へ渡った金も、その中にあった。管理人は前日の点検が済んだ後、塔の鍵を開け、修繕用の箱に詰めた魔石を運び込ませていた。
魔王は伯爵の統治権を奪い、共謀した者を牢へ送った。空いた役職には、監査で仕事ぶりを確認していた者を置く。
町を焼こうとした者が町を治め続けるより、住民にはよほど分かりやすい交代だった。
アルジェは、徴税の手順に続いて、警備と水路の点検手順も書き残した。
橋や水門へ人が入るときは、工事の許可と人数を確かめる。
視察に使う広場の周囲は、点検後も兵が出入りを管理する。閉鎖する建物には封印を施し、交代のたびに破られていないか確かめる。鍵を預けただけで、確認を終えない。
人間の役人と魔族の役人が、互いの記録を照合する。
町が一つ良くなるたび、隣の町へ教えに行ける者を育てた。
フェルは警備隊の隊長を二人任命した。
スタンは、灯りと水路を扱える弟子を町に残した。
アルジェも、報告を取りまとめる副官を置いた。
それでも、三人が城へ帰ったのは予定より四日遅れだった。
魔王の前で最後の報告書を広げる。
声が掠れそうになり、アルジェは一度だけ水を飲んだ。
「南の二領は監査を終えました。東は引き継ぎの最中です。定期の照合は、各地の担当者が行えます」
魔王は紙をめくった。
「これからも、お前たちが全員で行くのか」
三人の肩が、同時に揺れた。
「緊急時以外は、交代で参ります」
「なら、そうしろ。予の城の仕事まで止めるな」
「御意」
魔王は報告書を机に置いた。
そして三人を眺めた。
「ずいぶん、みすぼらしくなったな」
スタンが慌てて袖の煤を払った。
フェルは顎の無精髭に手をやった。
アルジェは、髪を整えるべきか、姿勢を正すべきか、一瞬迷った。
「疲労で判断を誤る駒は使えぬ。三日休み、使える状態に戻せ」
三人が、魔王を見た。
「聞こえなかったか」
「いえ。ありがたく頂戴いたします」
アルジェは頭を下げた。
フェルも、スタンも続いた。
休める。
本当に。
副官がいる。隊長がいる。修繕の担当者もいる。
三人がいなくても、明日の灯りは点く。
「次の視察は北にする。日程は休み明けに出せ」
頭を下げた姿勢のまま、アルジェは目を閉じた。
北。
まだ魔王が一度も歩いていない町だった。
*
その頃、南の町では共同の焼き窯に火が入っていた。
冬じゅう使えるという赤い魔力の玉は、魔王の封印の上からスタンが出力を調整する術を施し、頑丈な炉へ納めた。
職人が火力を確かめ、焼き上がったパンを並べる。
町のパン屋は、順番を決めてこの窯を使っていた。窯の手入れに出し合う銭を含めても、店ごとに薪を買って焼くより安く済む。その分を、パンの値と大きさに回せるようになった。
以前より安い。
しかも大きい。
「今度も陛下がお越しになるかね」
パン屋の主人が言った。
「ぜひ来ていただきたいねえ」
粉屋が答えた。
今月は、橋を渡るたびに銅貨を抜かれずに済んだ。
主人の妻は、受領証の束を大事に箱へしまっている。
今年は、冬用の靴を子ども二人に買えそうだった。
「今度は、もう少し上等なお菓子を用意しようか」
「魔王様なら、きっと喜んでくださるよ」
窯の中で、パンがふくらんだ。
夕方の通りに明かりが灯った。
城では、アルジェが北の地図を机へ広げかけていた。
扉の外から副官が咳払いをする。
「統治官殿。休めとのご命令です」
アルジェの手が止まった。
フェルとスタンが、廊下で待っていた。三人とも、休む日に何をすればいいのか忘れたような顔をしている。
「……明日にしよう」
「三日後です」
副官が地図を巻いた。
アルジェは、何も持たずに執務室を出た。
そのことが妙に心細くて、それ以上に嬉しかった。
南の町から帰ってきた荷馬車が、城の門をくぐった。
商人が門番へ、賑やかな祭りの話をしている。
「皆、言ってますよ。魔王様には、来月も来ていただきたいって」
三人は足を止めた。
アルジェはフェルを見た。
フェルはスタンを見た。
スタンは、北の方角を見た。
「来月も、行くのか……」
三人の声が重なった。
門の向こうから、商人の明るい笑い声が聞こえた。
魔王の領地は、今日もよく栄えていた。




