第7話 流麗な下書きと、不揃いな看板
秋の深まりを告げる乾いた北風が、墓地の木々を低く鳴らし、冬枯れの気配を運んできていた。
小屋の重い引き戸が軋んだ音を立てて開き、足首まで覆う長いフード付きのコートに身を包んだルナが、冷気に染まった白い息とともに土間へと滑り込んできた。
頭のてっぺんからすっぽりと被っていた厚手のフードを払い落とすと、高い位置で結われた細く長いツインテールが、解き放たれた鳥のように軽やかに揺れる。
「ふう、外は思っておったよりもずっと風が冷たいのじゃ!ケイ、ローランド、今日も無事に屋敷の目を盗んでやってきたぞよ!」
快活な声を響かせながら、ルナは首元の留め金を器用に外し、防寒用のコートを脱いで壁の木釘へと掛けた。
分厚い防寒着の下から現れたのは、およそ墓場という陰鬱な場所にそぐわない、鮮やかな気品と軽快さを兼ね備えた独特の装いだった。
上質な藍色の薄手生地で仕立てられたワンピースは、まだ幼さの残る顔立ちとは裏腹に、生地を内側から押し上げる豊かな胸元の起伏を際立たせている。
大胆にも太ももの半ばほどで切り揃えられたスカートの裾からは、年頃の娘らしい健康的で引き締まった肉付きのよい素足が惜しげもなく伸びていた。
手入れの終わったシャベルを抱えて土間へ戻ってきたローランドが、その眩しすぎる立ち姿を一瞥した瞬間、深く刻まれた眉間の皺を寄せて露骨に顔をしかめた。
「おいおい、お嬢さん。屋敷の目を盗んできたのは結構だが、伯爵家の令嬢がそんな足を丸出しにした格好で墓場をうろついていいのか?王都の貴族ってのは、いつからそんな破廉恥な身なりが流行りになったんだ」
「失礼なことを言うでないぞよ!流行りなわけがあるまい。屋敷でもな、母上や姉上たちから『お前は冒険者気取りか!』と顔を合わせるたびに叱られておるのじゃ!」
「叱られてる自覚はあるんじゃねえか。だったら少しは改めろ」
「改めるわけがなかろう!あんな足首まで引きずるような堅苦しいドレスを着ておったら、屋敷の塀を飛び越えることも、風に乗って全力で駆け抜けることもできぬではないか!身体を動かすには、この服装と短い上着が一番動きやすくて心地よいのじゃ!」
「走って塀を飛び越えて逃げ出す貴族の令嬢がどこの世界にいる。怒られるべくして怒られてるだけじゃねえか」
呆れ果てたローランドがこめかみを押さえる横で、ルナは何を思い立ったのか、短いスカートの裾を気に留める様子もなく片足をピンと水平に高く跳ね上げてみせた。
惜しげもなく露わになった健康的で引き締まった太ももに、ケイが反射的に視線を逸らしかけた瞬間、ルナは得意げに鼻を鳴らした。
「安心するがよい!裾の中にはな、こうして短くてピッチリとした下履きを重ねて穿いておるのじゃ!これならどれだけ高く跳び跳ね回ろうとも、決して中は見えぬからのう!」
「……見えなきゃいいってもんじゃないんだよ、この世間知らずが。あのなケイ、お前からもこの規格外のお転婆娘に何か言ってやれ」
助け舟を求めるように話を振られたケイは、視線を正面へ戻しながら、極めて真面目な面持ちで口を開いた。
「ええと……私はここら辺の服飾文化なのかと考えていたのですが、やはりルナさん個人の特別な好みなのですね」
「当たり前だろ!こんな格好の貴族令嬢が王都の大通りを歩いてみろ、教会の連中が卒倒して破門状を叩きつけてくるぞ」
「むぅ……二人してわらわをからかうでないぞよ!これでもちゃんと、上には革の羽織りものを重ねておるし、外を歩く時は長いコートで隠しておるのじゃから、実害はないはずじゃ!あ、かまどの湯が沸いておるのじゃな、お茶を淹れてくるぞよ!」
頬をリスのように膨らませて抗議したルナは、踵を返して土間の奥へと駆け出していった。
短いスカートの裾を揺らしながら鉄鍋へと向かう少女の後ろ姿を見送った瞬間、ローランドが音もなくケイの背後へと回り込んできた。
元騎士は使い古された革手袋の指先でケイの脇腹を小突き、口端を皮肉げに吊り上げ、低く乾いた囁き声をその耳元へ落とした。
「……で、実際のところはどうなんだよ、ケイ」
「何がでしょうか、ローランドさん」
「惚けるな間抜け。目の前であれほどの別嬪さんが格差も偏見も気にせず無防備な姿をみせてくれてるんだぞ。お前さんのその底の抜けた器には何の波風も立たんのか?いくら中身が空っぽだからって、男なら少しくらい鼻の下を伸ばすか、赤面して狼狽えるくらいの反応を見せたらどうなんだ」
意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んでくる眼差しには、冷え切った隠遁者の皮を一枚脱ぎ捨てた、年長者特有の無遠慮なからかいが色濃く混ざり合っていた。
かつての職場であればハラスメントの基準に抵触しかねない種類の揺さぶりに対し、ケイは表情筋を微塵も動かさず、極めて平板な敬語で切り返した。
「業務に不要な感情の起伏を排除するのは基本的な作法ですので。……それに、あれほど健康的で眩しいお姿を直視するのは、目のやり場に困るというのが率直なところです」
「けっ、相変わらず可愛げのない返答をしやがる。少しは男としての隙を見せろってんだ」
ローランドが呆れたように鼻を鳴らして卓へと戻ると、木椀に野草茶を注ぎ分けたルナが、小走りで二人の間へと戻ってきた。
腰の銀鈴がチリンと澄んだ音を立て、卓の上に置かれていた素焼きの平皿に視線が注がれる。
そこには硬い黒パンの切れ端と、土のついた小ぶりなカブが二つ並べられていた。
「ケイ、ローランドと何をこそこそ話しておったのじゃ?それより、このパンとカブはどうしたのじゃ?まさかローランドが近隣の畑からくすねてきたわけではあるまいな」
「失礼なお嬢さんだな。俺は他人の畑の作物を盗むほど落ちぶれちゃいねえよ」
ローランドが反論する中、ケイは卓の上の供え物に穏やかな視線を落とし、心の中に渦巻いていた戸惑いを静かに言葉にした。
「以前、墓参りに来られた方々のお話を少しお聞きしたのですが……その方々が胸のつかえが下りたからと、お礼代わりに置いていかれたのです。私はただ相槌を打っていただけで、特別な知恵を差し上げたわけでもありません。このような施しを受け取るのは、筋が通らないのではないかと悩んでおりまして」
他人の悪意や苦情を受け止めることには慣れていても、純粋な感謝を差し出されると途端にどう応じるべきか分からなくなってしまう。
空っぽの器である自分に対する引け目を吐露したケイに対し、ローランドは手袋を脱ぎ捨て、黒パンの端をナイフで削り落としながら低く笑った。
「生きている奴の施しを突っぱねるのは、死人の前で気取るより質が悪いぞ、ケイ。お前さんの空っぽな相槌であっても、相手にとっては足元を固めるための大事な支えになったんだ。料金表を掲げて金を巻き上げる気がないなら、相手が罪悪感を持たずに気持ちを置いていけるような小さな木箱でも転がしておけばいい」
元騎士の現実的な生活の知恵に、ルナもまた身を乗り出して大きく頷いた。豊かな胸元が机の縁に押し当てられ、細いツインテールが勢いよく揺れる。
「ローランドの言う通りじゃ!ケイは真面目すぎて自分を粗末に扱いすぎる癖があるぞよ。誰かの心を受け止めたのなら、相手が差し出してくれた温もりも、同じように受け取ってやるのが礼儀というものじゃ。……そうじゃ!それならここが何をする場所なのか、外から来た者たちにも分かるように、目印を掲げるべきなのじゃ!」
「目印、ですか?」
「うむ!看板じゃよ、看板!ここがただの陰気な墓守小屋ではなく、誰かの話を聞いてくれる温かい場所なのだと分かれば、迷っておる者たちも敷居を跨ぎやすくなるはずじゃ!」
「ここは墓場だぞ。陰気臭くなけりゃ何だっていうんだ」
思い立ったら吉日とばかりに、ルナは土間を飛び出し、裏庭の薪置き場へと駆け出していった。
短いスカートの裾を翻し、健康的な太ももを躍動させて戻ってきた彼女の手には、手頃な厚みを持つ長方形の木の端材が握られていた。
「薪にするにはもったいない、ちょうどよい板を見つけてきたのじゃ!ケイのあの黒い筒は細すぎて木に字を書くには向かぬからな、卓の羽ペンとインク壺を借りるぞよ!」
丸椅子に腰掛けたルナは、袖口を小さく捲り上げると、羽ペンの先を慎重にインク瓶へと浸した。
先ほどまでの奔放な少女の雰囲気から一変し、ペンを構えた瞬間に背筋がすっと伸び、貴族の教育を受けた者だけが放つ凛とした集中力が彼女の横顔を包み込む。
木の端材の表面へ、ルナの白く華奢な指先が滑らかな軌道を描いてペン先を滑らせていった。
板の上に浮かび上がったのは、息を呑むほど流麗で均整の取れた美しい文字だった。
文字の端々に施された繊細な払いや優雅な曲線は、王都の一流の代筆屋すら凌駕するほどの品格を宿しており、彼女がただのお転婆な娘ではなく、深い学識と教養をその身に宿している事実を雄弁に物語っていた。
「とても美しい筆跡ですね。ルナさんの文字には、見る者の心を落ち着かせる気品があります」
「堅苦しい家庭教師から、これでもかというほど叩き込まれた成果じゃからの。文字の美しさだけは、姉上たちにも負けたことはないのじゃ!」
誇らしげに胸を張ったルナは、文字の並びを満足げに見つめた後、ローランドが腰から外して置いた削り出し用の細身のナイフへと視線を向けた。
「インクで書いただけでは、雨風に打たれてあっという間に消えてしまうじゃろ?この下書きの通りに、わらわが木肌を彫り込んでみせるのじゃ!」
気合十分でナイフを握りしめたルナだったが、硬く乾燥した木材に刃先を突き立てた瞬間、その小さな手首が微かに震えた。
紙の上を羽ペンで滑らせる繊細な力加減と、硬い木目を断ち切るために必要な筋力とは、まったく別の技術だったのだ。
力を込めるたびに刃先が木目に取られてわずかに滑り、流麗を極めていた下書きの輪郭が、不揃いで角の丸い線へと削り取られていく。
「ひゃぅっ……!な、なんじゃこの木は。石のように硬いぞよ……!わらわの文字が生まれたての小熊が引っ掻いたような線になってしまうのじゃ……!」
真っ赤になって涙目になりながら悪戦苦闘するルナの様子に、ローランドが呆れたため息を吐きながら近づき、横からアドバイスを送る。
「無茶をするな、指を切り落とす気か。刃物は力で押し込むんじゃなく、木目の流れに沿って滑らせるもんだ。ほら、刃の背を親指で押せ」
元騎士の無骨で力強い導きによって、不器用に暴れていた刃先がようやく落ち着きを取り戻し、木肌に確かな深さの溝を刻み込んでいく。
ケイもまた、削りカスを静かに息で吹き飛ばしながら、板の端をしっかりと押さえて二人の作業を支えた。
削り上がった木板には、最初の優美で流麗な筆跡とは打って変わった、どこか角が丸く不揃いな文字が刻まれていた。
洗練された職人の細工とは程遠い、ぎこちなさと温もりが同居したその佇まいは、一言で表すならばまさに『拙い文字』そのものだった。
しかし、その不器用な削り跡の一つ一つに、誰かの痛みに寄り添おうとする少女の懸命な熱意が色濃く宿っている。
板の中央には、ただ一言、そう刻まれていた。
「『相談所』……なんだか、思っておったよりもずいぶんと素朴な仕上がりになってしまったのじゃ。せっかくの文字が台無しじゃと、ケイは笑うかの?」
手首をさすりながら不安そうに上目遣いで尋ねてくるルナに対し、ケイは完成した板の表面を掌で優しく撫で、微笑みを浮かべた。
「いいえ、素晴らしい看板です。流麗すぎる文字よりも、この少し不揃いな輪郭の方が、訪れる方の肩の荷をずっと優しく下ろしてくれるはずです」
「ふふ、ケイにそう言ってもらえると、指を痛めてまで彫った甲斐があったというものじゃ!」
ローランドが小屋の梁から丈夫な麻紐を垂らし、軒先の風が通り抜ける位置へとその看板を結び留めた。
秋の冷たい風に吹かれて、吊るされたばかりの小さな木製看板が、微かに木肌を軋ませながら静かに揺れる。
土間の片隅には、ローランドが手近な端材で作った粗末な木箱が置かれ、墓参り客が持ち寄るささやかな気持ちを受け止める準備が整えられた。
看板を掲げたばかりの小屋の土間には、夕暮れの茜色に代わって夜の気配が静かに満ち始めていた。
竈の上の鉄鍋では、お供え分けとしていただいたカブと干し肉を煮込んだ素朴なスープが、温かな湯気を立ち昇らせている。
机の上に広げられた対応記録の白紙には、まだ多くの余白が残されていたが、これからここを訪れる名もなき人々の足跡を受け止めるための確かな器だった。
風に揺れる小さな看板の向こうで、遠くの木々が夜の訪れを告げるようにざわめいていた。
自分自身の望みはまだ見つからないままだとしても、この静かな土間で誰かの言葉に耳を傾け、温かいスープを分かち合う日々のなかに、確かな居場所の温もりが灯り始めていた。




