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9.

 話すべきではないのだろう。こっそり旅立つべきだ。

 両親はきっとユシャイエの決断を支持しないだろうし、もしかしたらユシャイエを部屋に閉じ込めるかもしれない。


 でも、ユシャイエは長いこと自身を育ててくれた両親にはすべてを告げてから出て行きたかったのだ。


 食卓につくと、両親はにこりと微笑んだ。

 それからいつも通りの夕食。

 今日の中で、一番楽しかったことを話して、それが終わるとユシャイエは黙りこくった。


 言わなければならない。

 両親が、いつもと違う目でユシャイエを見ていた。


「父さま、母さま。今日ね……、行こうと思うんだ」


 どこへ? と両親は聞かない。


 きっとユシャイエのことなどお見通しなのだ。だって、母は九回もユシャイエの親だったのだ。

 父は短い間ではあったが、ユシャイエを大事に育てくれた。


「そうかい」


 そう言ったきり、両親は寂しそうに笑った。


「……最初のユシャイエは赤ん坊だった」


 神から託されたユシャイエは、3000グラムきっかりの、健康なエンブリオだったと母は言う。

 健康面に問題のないエンブリオとは、それだけで素晴らしいものだとユシャイエも教わってきた。


「ところがさ。十歳の時に、結婚なんかしたくないと言って大暴れさ」


 母はおかしそうに笑う。


 ユシャイエは何度修正しても同じような性質を有していたと母は言った。

 それがピタリとおさまったのは八回目の修正の後、らしい。


「八回目のユシャイエは、シッシルととても仲が良くてね。これでやっとユシャイエは結婚に至るのだと思ったら……」


 それから母は口を噤んだ。

 あの記憶が甦りそうになり、ユシャイエは首を振るった。

 サリュー。今回のユシャイエはサリューが大好きだった。だけどそれももう遠い記憶に感じられた。


 いや、そうあろうとユシャイエは努めているだけなのかもしれない。

 あの記憶はユシャイエから今後消えることはないのだろう。無くしてはならない記憶のはずだ。ユシャイエも忘れたくはなかった。


 ただ、思い出したくはないのだ。だからこそ自分の心の奥にある箱にしまっておこうと決めたのだ。

 嫌な記憶として、である。


「ユシャイエ、行くんだね」


 不意に母は言った。

 ユシャイエはそれに応えるように、頷いた。


「……母さま、父さま、ごめんなさい」 


「いいさ。()()の発生はよくあること。ユシャイエはとてもいい子だったよ。ユシャイエが去ったなら、私たちは新しいエンブリオを迎えるだけさ」


 ああでも、と母は言った。

 ガシャン、と大きな音が、家の外でした。続いて何かを叫ぶ声。


「もう新しいエンブリオは来ないのかもしれないね……」


「父さま……?」


「ユシャイエ、お前も気づいているだろう。交換が追いついていない。修正は続いているけれど、交換が遅れているということは、神はこのクジラはもう不要と判断されたことの証だよ」


 クジラで何が起こっているのか、神とは何なのか。それは最早どうでもいいことだった。


 ただこの場所が失われる——、あらゆる虚構で固められたこの世界ではあるが、どうやらそれだけは紛れもない事実のようだった。


 ここはなんなのだろう。


 きっとユシャイエたちを育てるためだけの場所なのだろう。

 だけどユシャイエたちエンブリオが、なぜ育てられているのかは、ユシャイエたちにも判らないのだ。

 ここは謎が多すぎる。

 こんな場所に両親はずっといなくてはならないのだ。


「……ねえ、母さま、父さま。一緒に行かない? ううん、一緒に行こうよ」


 手を伸ばし、それからギュッと抱きつくと、母は「おやおや甘えん坊だね」と言って、ユシャイエを引き剥がした。

 それから母はユシャイエの頭を撫でて、再び痛いくらいの力で抱きしめた。


「行けないよ。母さまたちはね、エンブリオを育むだけの存在さ。クジラと同じだよ。未来あるエンブリオとは違うのさ」


「母さま、父さま……」


「ほら、お行き。決めたんだろう? ここに留まるよりは幾分かいい」


「……」


「元気でね、最後のユシャイエ。愛していたよ」


 両親が合計八本の腕でユシャイエを抱きしめた。

 その匂いを思い切り吸い込む。

 洗濯物と、よく知った父と母の匂い。

 これが最後になるのだろうということは、流石のユシャイエにもよく判っていた。


「ユシャイエ、これを持っていきなさい」


「父さま」


 父の手には光るか何かが乗っていた。

 耳飾りと指輪だ。

 短い時間で作られたものだろうに、それは両親の手によって、しっかりとした宝飾品になっていたのだ。

 ここのところ、夜遅くまで明かりが灯されていた。

 だが、とユシャイエは父を見た。


「二種類……?」


 父の手の中にあるのは、黄色と緑の石が嵌め込まれた、耳飾りと指輪であった。

 

「お前がどちらを選んでもいいように、二種類用意したんだよ」


 父は口角を持ち上げそして、どちらがいい? と尋ねた。


 緑色と、黄色。黄色はユシャイエの瞳の色だ。


 迷うことなく、ユシャイエは黄色を取った。


「こっちにする」


 やはり両親は、ユシャイエがどこかに行くことを予感していたのだろう。

 そしてサリューと()()なることも。


「貸してごらんよ」


 母の手の中に収まったそれは、少しだけ太い柔らかな指によって大事に扱われる。それから指はユシャイエの耳を、右、それから左と掠めていった。そして最後に手。

 母の体温がくっついては離れていくというのを繰り返した後に、また頬に戻ってきた。


「本当は結婚する時に渡すのだけど、旅立ちには変わりないからね」


 大きな体はいつでもユシャイエの揺籠だった。


 目が熱くなる。だけどもう泣いてはいけないような気がして何も言えなくなる。

 喉の奥がキュッとなるが、ユシャイエはやっとの思いで「母さま」と小さく紡いだ。


 どの道、ユシャイエは結婚が決まっていた。

 結婚したらそう多くは両親と会えなくなり、いずれはこのクジラから離れることとなっただろう。

 

 そうしたら、親子の別れは永遠だ。


 その永遠が少しばかり早くきてしまっただけのこと。

 そういった未来を知っていたのに、いざ別れが訪れると離れがたい気持ちがザワザワと胸に押し寄せるのだ。


 母の手がユシャイエの髪を撫で、それから決心したかのように離れていった。


「干した魚をたくさん詰めておいたよ」


 のんびりとした声の父に手渡された布の袋——、それはとても重かった。受け取ると、ずっしりとした重みがユシャイエの手から腕へと移動していく。


 それから父はジッとユシャイエを見た。


「いいかい、ユシャイエ。間違っても海の水を飲んではいけないよ」


「うん」


「これは絶対だ。干からびてしまうからね」


 父の瞳にユシャイエの顔が映った。

 ああ、緊張しているのだ——、ユシャイエは自分の顔を見て初めて気づいたのだ。


「うん、判った」


 深く頷くと、父はようやく安心したように笑んでくれた。最初の父とは違って、こちらの父はとてもユシャイエを可愛がってくれた。

 ユシャイエは、ずっとこの両親を忘れることはないだろう。


 そうだ、最後に聞いておかなくてはならないことがある、とユシャイエは思い出す。


 楽園だ。それは本当にあるのか。あるとしたらどこなのか。どうやったら行けるのか。

 また、無断での侵入は許されるのか。

 いや、これは流石に許可されないだろうというのは判っていたが、一応は尋ねておきたかった。


「ねえ、楽園ってあるの?」


 母の眉が顰められた。ユシャイエが少しばかり困ったことを言い出した時の、母のお決まりの顔だった。


「……ごめんよ、ユシャイエ。母さまたちもよくは知らないのさ。だけど楽園は陸だという話を聞いたことはある」


 陸が楽園——、大きな矛盾を感じるが、つまりは母たちでさえよくは知らないのだから、このクジラにいる人たち全員に聞いたところで納得のいく答えは得られないのだろう。

 判った、と小さく返事をして、それからあと一つ、とユシャイエは口を開く。


「母さまと父さまは、何者なの?」


「……さあね、ただあるだけの存在だよ」


 何も知らされていないのは、ユシャイエたちだけではない、と言うことなのだろう。


 ユシャイエは昔、結婚をしたら母と同じような姿になるのだと思っていた。

 腕が四本、足が二本、それから大きな瞳。


 だけどどうやら、ユシャイエたちは永久にユシャイエたちの姿で過ごすらしい。


 このクジラは、いや、世界は判らないことしかない。


 繁殖。


 授業で習ったのは、ユシャイエたちは絶滅寸前だと言うことだ。


 絶滅したら何が問題なのかはついぞ判らなかったが、きっと何者か——、神だ——は、ユシャイエたちが必要な存在だと決めたのだろう。甚だ不愉快ではあるが、世界とは、往々にして理不尽と不可思議に溢れているのだろう。


「……ユシャイエ、父さまはね。父さまたちの腕がユシャイエたちより多いのはね、エンブリオを上手に育てるためじゃないかと思うんだ」


「……父さま」


 ポツリと放たれた父の言葉に、ユシャイエは力強く頷いた。

 そうだ、きっとそうなのだ。


「うん。そうだね。きっとそうだ!」


「……さあお行き。さよならだよ、ユシャイエ」


 父がユシャイエの頬を撫でた。続いて母がユシャイエの頭を。それが済むと二人は背を向けて、もうユシャイエの方は見なかった。


「母さま、父さま、」


 やっぱり一緒に行こうよ——、そんなふうに言えたらどんなにいいか。両親たちは海岸の外へは出られないのだ。


「……新しいエンブリオ、もしも育てるならベビーベッドが必要だね、母さん」


「そうさね。作ってくれるかい」


「勿論だとも。今度は女の子、男の子のどちらを託されるかな」


「健康な子ならどちらでもいいさ」


 二人は次の子供を迎える準備、その話し合いを始めている。ユシャイエなどそこにいないかのように。


「……行ってきます」


「行ってらっしゃい、ユシャイエ」


 小さな声がそう言った気がする。ユシャイエも振り返らずに出口に向かう。


 ユシャイエは家から這い出した。


 もうここには永久に戻れないのだろう。


 寂しい、つらい、苦しい。


 でもユシャイエは、外を目指すと決めたのだ。

 

あと一話か二話で終わりそうです。

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