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8.

 大通りではなるべく普通に振る舞った。

 いつも通りの、普通のユシャイエに見えるように、挨拶をして、フライを受け取り、それから手を振って少しばかりの会話をする。

 あちこちで言い争いや喧嘩が勃発しているが、それは最早いつものことになりつつある。

 もう、それらに恐怖さえ感じない。


「ユシャイエ!」


 大好きだった声に呼ばれても、ユシャイエは振り返らずに無視を決め込み、あちらこちらの道へと入り込んでサリューを撒いた。


 シッシルに会わなければならない。


 波の音が聞こえる方向、海岸へと向かって走っていく。

 今は魚取りの時間ではないから、人は殆どいないはずだ。


 全力疾走すると、ようやくそこが見えてきた。

 霧が僅かに海岸に押し寄せている。

 そこでは人影が、立ったりしゃがんだりを繰り返していた。

 何かを引き上げようとしている。


 波の音が聞こえる。


「シッシル……!」


 シッシルが振り返った。

 青い目がユシャイエを見て、それから視線を逸らす。


「……何だよ」


 干した魚を噛みながら、シッシルは尋ねた。

 巨大な流木を引き上げ、それから口に含んだ干し魚の骨を捨てた。


「……ああ、思い出したか。何日薬やめた?」


「二日……」


「早いな。俺は五日掛かった。俺の方が洗脳が強かったのかな」


 それで? とシッシルは首を傾げてみせた。


 シッシルに会ってどうするかは決めていなかった。

 何も話さないユシャイエに、シッシルは侮蔑の籠った視線を投げかけ、流木を引きずって海岸から離れていく。


「あの、」


「俺が好きだったお前は今のお前じゃない。お前が好きだった俺も俺じゃない。俺が好きだったユシャイエは死んだ」


「死んだって……、」


「気にするな。俺の独り言だ」


 気にするなと言われたところで今のユシャイエはもう今までのユシャイエとは違う。

 だが、どうしたらいいかまでは判らないのだ。

 そもそも、ならばなぜシッシルは「思い出せ」などと言ったのだろう。

 リグラのことだって、シッシルがあんなことを言わなければきっとなにも気にすることなかったのだ。

 処分がリグラの身に降りかかっているなどと知らないまま、ユシャイエは呑気に「リグラ、いつ戻るのかなぁ」などと考えていたはずだ。


 ——違う。そんなことを考えても意味がない。


 シッシルの所為だと責めて自分の気持ちを紛らわせたところで事態は変わらない。そう、逃げたところで意味がないのだ。

 ユシャイエには他に考えるべきことがいくつもあるはずだ。


 流木を引きずるシッシルが不意に振り返った。


「あ、そうだ。この世界、もうすぐ無くなるぜ」


「……え?」


「クジラの管理が追いついていない。いや、敢えて放置しているのかもな。たぶん、俺の見立てじゃそう立たずに終わりが来る」


 足元が大きく揺らぐような感覚があった。

 クジラが揺れたのか、それともユシャイエが揺れたのか判然としない。


 ユシャイエはドクドクと脈打つ壁に手をついて、それからしゃがみ込んだ。


「……なんで?」


「見りゃわかるだろ。クジラが機能していない。クジラに俺たちを守る気がない」


 確かに近頃、治安が悪化していた。真っ先に神に飲み込まれるべき人々がそのままとなっていた。

 リグラは修正——、或いは処分に連れて行かれたが、それはリグラの親が申請したからに過ぎないのかもしれない。


「……クジラが終わる……」


 流れ着いたビンの中身を思い出す。その手紙にも、世界が終わる旨が記されていた。

 世界の終わり——、それはつまり、この世界のすべてが失われるということだ。


 じっとりとした冷や汗が背中に浮かぶ。

 終わったらどうなるのだろう。

 ユシャイエも、両親も、思い出の全てが海に消えるということだろう。


 なぜ?

 考えるまでもない。

 つまり、「非効率的」だからだ。リグラと同じ。

 なぜか神に飲み込まれない大人たちの存在がそれの最たる例だろう。

 いちいち修正をして、エンブリオを守る必要がなくなったということだ。


「神様ってなに……」


 波の音に自分の声がかき消されそうになる。

 神様だけではない。


 なぜエンブリオがいるのか、なぜ大人たちはエンブリオと姿形が異なるのか、ユシャイエたちエンブリオが信じているこの世界とは一体何なのか。


 疑問は尽きないが、しかしユシャイエにはそれを知りたいのかどうかさえ、もう判らなかったのだ。


「お前さ、サリューはもういいのかよ」


「……何でそんなこと聞くの?」


「別に。サリュー、サリュー、サリューってしつこいぐらいだったのにな、って思っただけ」


 シッシルは流木を引き摺っている。

 そういうシッシルの奇妙な行動を止める大人はなぜか存在しない。


「シッシル……、神様ってなに?」


 大声で問うと声が波の音に混じって反響した。シッシルは振り返ると口角だけを持ち上げて見せ、それから指先を真上へと掲げた。


「あの辺で俺たちを監視しているキモいやつ」


 そんな言葉を使っちゃいけない——、以前のユシャイエならばそう思ったことだろう。言わなくとも、腹の中はシッシルを批判する言葉でいっぱいになったはずだ。


 だが今はどうだ。疑問の方がはるかに大きくて、シッシルを批判する気にもなれないのだ。


「俺たちは監視されて、いい個体だけを選別されているんだよ」


「選別……?」


「生まれてきても……、いや、生まれることさえ許されず、生きることを許されないエンブリオは多いってこと」


「……どういう意味?」


「海岸に流れ着く魚、よく見ろよ」


「……?」


「変な形だって思わないか?」


「……思わない……」


 魚は魚だ。ユシャイエは海岸流れ着く魚しか見たことがないから何が変なのか判らない。


「判らないなら判らないままでいい。俺はそれがきっかけだったから」


「きっかけ?」


「ここがおかしいって思ったきっかけ」


 シッシルは流木を引き摺って歩いていく。

 あの流木をどうするのだろうか。おそらく尋ねたところで、シッシルは答えてくれないだろう。


 人影が海岸に迎えってくるのが見えた。


「ユシャイエ!」


 その人物は、ユシャイエに向かって手を振っていた。

 緑の目——、サリューだ。


 どうしよう。そう思うがシッシルを追いかけるのも不自然だし、無視を決め込む勇気もなかった。

 今はサリューに会いたくなかったのだが……。


 サリューがシッシルを追い越していく。

 お互いにお互いの顔を確認する様子はなかった。おそらく、意識的にそうしている。


 迫り来るサリューが怖かった。優しげな目でユシャイエを見るが、どうしても態度が不自然になる。

 後退って、サリューから目を逸らす。

 サリューを目にするのが怖い。


「ユシャイエ!」


 ユシャイエの前までやって来たサリューはいつも通りだ。


 前回のサリューはユシャイエに酷いことをした。

 思い出した記憶が、勝手に脳を駆け巡る。


 怖い。


 このサリューは修正の際に性格も改変され、暴力行為の記憶も削られているに違いない。

 だからユシャイエに話しかけてくるし、殊更優しく振る舞って……、いや、優しく改変されて、その性格に則った態度でユシャイエに近づいたのだ。

 今回のサリューに悪意はないに違いない。

 だが、割り切れない部分がどうしても多い。


「ユシャイエ、話が……、ユシャイエ?」


 嫌な汗がじんわりと浮かぶ。

 単純な生き物だ。

 ユシャイエは記憶が蘇る前程の気持ちを、サリューにもう抱くことができないようだ。


 記憶にひどく左右されている。

 

 自分がシッシルを嫌い、サリューに惹かれた事実さえ、なにか胡散臭いもののように感じられてならなかった。


 本当の自分が判らない。

 手を握ってくるサリューが怖かった。


「ユシャイエ?」


「……ごめん、サリュー。用事があるんだ」


 なるべく自然な振る舞いをして、サリューの手を解く。


「ごめん。また今度ね」


 サリューが困惑した顔をしている。サリューには加害の記憶がないのだから、少しばかり喧嘩しただけという認識だろう。

 なのにユシャイエは避けている。困惑するなと言うのが無理な話だ。


「ユシャイエ」


 だが、サリューは再びユシャイエの手首を掴んだのだ。


 少し力が強い。

 痛くはないが、しかしユシャイエはサリューから逃げたくてたまらなかった。


「ごめん、サリュー。今はサリューと話したくない」


「……なんで? シッシルに何か言われた?」


「違うよ」


「じゃあなんで話したくない、なんて言うの」


 緑の目がユシャイエを睨むように見つめた。


「……思い出しただけ……」


「思い出した? 何を?」


 サリューはユシャイエを見つめる。不自然さのない、いつものサリューだ。

 サリューは前回のユシャイエにしたことを忘れてすっかり身綺麗になって生きている。


 ではサリューの罪は?

 悪いサリューはどこに行ったのだろう?

 ユシャイエがされたことの苦しみは?


 シッシルを好きだったユシャイエはもういない。

 でもサリューを好きだったユシャイエももうそこにいないのである。


 どうしたらいいか判らなかった。

 正直に話すべきだ。


「……ごめん、サリュー。もうサリューとは今でみたいには一緒にいられないと思う」


「なんで? ユシャイエが外に行きたいって言うのを否定したから?」


「違う。()()サリューは悪くない。でももうサリューのそばには恋人としてはいられないと思ったんだ」


「なんで!? どうして!? ユシャイエ、ユシャイエ!」


 サリューが悲痛な声でユシャイエを呼んだ。

 サリューと共にはいられない。


 たが。


 それは確かであるが、サリューをここに置き去りにすることも怖かった。


 もしもクジラが終わるのが本当だというのなら、一緒に外に行きたいと思うくらいには、サリューが大切であった。

 前回のサリューを怖いと思う反面、しかしどうしても切り捨ててしまうことはできなかった。


「……サリュー、もうすぐこのクジラは終わるんだって。一緒に行く?」


「何言ってるの? 終わるわけがない」


 サリューはおかしなものを見る顔をしてユシャイエを見た。


「最近、喧嘩が増えているでしょ。神がきちんと機能していないんだって。だから終わるんじゃないかって……」


「誰が言ったの」


 シッシルだ。


 サリューへとそれを正直に告げられないのは、後ろめたさからかもしれない。隠し立てをするような関係ではないが、それでもあれほど嫌っていたシッシルの発言を丸ごと信じている自分のことも、ユシャイエは理解できない。


 だがあのビン。


 漂流したビンの中に束ねられていたあの手紙に記されていた「クジラが朽ちる」という文章。

 ユシャイエはそれにそこ知れぬ恐怖を抱いたのは、紛れもない事実だ。


 そこにはシッシルから聞かされた事実によってユシャイエへと与えられた感情はない。


 だからそう、ユシャイエはサリューを連れ出したいのだ。

 怖かったから、朽ちることを信じたから、だから恋人であったサリューを置き去りにしたくない。


「ビン……、ごめん、一人で見ちゃった。海岸で拾ったあれには手紙が入っていて、送り主のクジラも朽ちるって書いてあった」


「だから?」


「クジラが朽ちることはあるんだよ。ここがなくなるっていうのも、嘘じゃないかもしれない。ねえ、一緒に行かない?」


「……行かない」


「ここは終わるんだよ?」


「終わらない。そんなの嘘だ」


 サリューは首を振った。


「ユシャイエ、ここにいようよ」


「ううん、それは無理。もう決めたんだ」


「……どうしても行くの?」


「行くよ」


「……ユシャイエはいいよね、次がある」


「サリュー?」


「ねえ、一緒にいてよ。次は五〇回目なんだよ。今回失敗したらもうないんだ」


 気持ちが揺らぐことはなかった。

 ユシャイエはもう決めていた。

 誰に何を言われても、もうこのクジラから出ていくしかないのだ。


「ごめん。無理だよ……、ごめん」


 サリューの手を解いて背中を向ける。


 両親は修正に積極的だ。

 だがユシャイエは修正を受ける気はなかった。


 すべてを忘れて、綺麗さっぱり何も覚えていないユシャイエとして生まれ変わること——、それについて今までのユシャイエは、おそらく少しの抵抗も感じていなかったのだろう。


 だが今はそれが怖かった。


 修正を拒否したらどうなるのだろう。

 結婚の拒否は?


 だが尋ねたところでそれを答えてくれる人はどこにもいないはずだ。


 だから自分でちゃんと考えなくてはいけない。

 ちゃんと考えた結果が、サリューに告げたそれだ。


 シッシルはクジラが終わると言うが、それが本当なのかは判らない。

 判らないが、でもユシャイエは決めていた。


 もうここにはいたくない。


 クジラの外の世界がどんな世界かは判らない。

 だが、この世界の決まりを拒絶した場合、どんな目に遭うか判らないのだから、逃げるしか選択肢がないように思えたのだ。

 それはユシャイエがユシャイエを守るための最良の選択だと考えたのである。


 ユシャイエは外に——、外の世界へと出て行くことを決めていたのだ。

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