6.
表現は抑えてありますが、性的な暴行シーンが存在します。
ご注意ください。
「うん、いいね、しっかり磨けているよ」
「うん」
いつも通りに食事を済ませて、母に歯磨きのチェックをしてもらってから自分の寝床に引っ込む。
日に三回の薬を断ち始めて二日が経ったが、変化らしい変化といえば軽い頭痛だろうか。
ユシャイエはモヤモヤとした気持ちを抱えたまま過ごしていた。
このまま体に何かしらの変化があるではないか。
シッシルに担がれたのではないか、シッシルの意味深な言葉はなんだったのか。
気になることはたくさんあったが、しかしユシャイエはそれを誰かに相談することもできずに嫌な気分を抱え続けているのだ。
だが、それよりも確認作業の続きを行わなければならないだろう。日記内容の精査である。
いつもなら朝食後に出て行くユシャイエを両親が不審に思わぬよう、「リグラは修正中だしサリューとも喧嘩したから会いたくない」として、自室に引っ込む尤もらしい言い訳は提示しておいた。
サリューとの喧嘩も殊更に強調した。
これで昼頃までユシャイエが部屋にいても問題はないはずだ。
両親のどちらかが突然部屋に入ってきた場合に備えて、配布物の本も寝台に用意した。これでユシャイエは読書中だったように見えなくもないだろう。
本棚に置いた日記を取り出して一ページずつ確認をしていく。
今回のユシャイエは、生まれてから二日後に意識を取り戻した。
それから母がつきっきりで世話をして、四日後には歩行も可能となり、一週間後には修正者のための学校に通って、修正によって失われた知識の補填教育を行われたのだ。
それから健康診断をして、身長は一六〇センチ、体重は四十八キロと言われたのである。
健康状態は「良」だが少し痩せているのでエンブリオとして子供を作るためには少し体重を増やすように、と通知があった。
それからの日々の生活や楽しかったこと、嫌だったこと、嬉しかったことが綴られていて、それは間違いなくユシャイエの記憶と合致していた。
これは昨日までに確認した、今回のユシャイエの日記だ。
続いて二冊目を確認する。つまり、前回のユシャイエの日記だ。
やはり異常はなかった。
ぼんやりと、うっすらとユシャイエが記憶している前回の人生の記録たちは、腹の奥に眠っていた記憶を蘇らせた。
そういえばこんなことあったっけ——、と日記を読みながら思い出す。
ユシャイエは、シッシルにまたしても揶揄われたのだろう。
だが、本当に? 本当にシッシルはユシャイエを揶揄っただけなのだろうか。
自問自答する。
そう、あの日シッシルに会ってから、ユシャイエはどこかおかしい自分に気づいていた。
何がおかしいかとは、はっきり言えないが、自分にまつわる記憶があやふやなことに疑問を抱いている自分がいる。そこに違和感があるのだ。
薬を取らなくなったせいだろうか。
シッシルの「思い出せ」という言葉が妙に引っ掛かる。
というか、そもそも、なぜシッシルは突然変わったのだろうか。
子供の頃は乱暴で頻繁にユシャイエの髪を引っ張ったりしたのに、シッシルは確かにここのところは妙なことを言う程度に留まっており、以前のような乱暴さはなりを潜めていたのである。
あの頃はまだユシャイエも身長が小さくて、シッシルは上から見下ろすようにしてユシャイエの髪を掴んできたから、ユシャイエはシッシルがとても怖かったのだ。
だからユシャイエはシッシルが嫌いで——、嫌いで?
そこまで考えて、ユシャイエは日記をめくる指先を止めた。
子供の頃。
小さい身長。
見下ろすシッシル。
時々叩いてきたりもした。なぜ?
シッシルはユシャイエとサリューが親しくしていると決まって意地悪をしてきた。
だが、子供の頃とはいつの話なのか。
ユシャイエは生まれてようやく一〇〇日を突破した個体だ。
エンブリオは皆一様に十七歳前後の体で生まれてくるのではなかったのか。
——母さま、なぜ壁や地面はドクドクというの?
あの時の自分の視線は、今のそれよりもはるかに低く、母をうんと見上げなければならかった。
「なにこれ……」
——思い出せ。
ポケットに入れられた七錠の白い錠剤が気になった。
ユシャイエはポケットを確かめると、ツルッとしたそれが指先に触れる。背筋を冷たい汗が伝った。
ユシャイエは本棚を探った。
修正されるごとに書いていたわけではないから、数は修正回数よりも少ない。だがそこには、歴代のユシャイエの記憶が並んでいる。
同じ本棚に収められたいつくかの日記帳をめくっていく。
なにも異常はない。
これはユシャイエが生まれて、修正されるまでの毎日の記憶だ。
現在から過去へと遡って確認していくが、日付はまばらで、今回のユシャイエよりも大雑把に記していることに気づく。
昨日確認済みの八代目の自分、七代目の自分、六代目の自分。ノートを一冊ずつ開いていく。
だが、そには一冊目、二冊目、三冊目がなかったのだ。ユシャイエの記憶では、日記はかなり幼い頃から付けており、毎日記さずともそれなりの日数、記していた記憶があるのだ。
だが本棚にはそれがない。
それに、それに、だ。四冊目のノートは異様に文字が幼かったのである。そう、まるで文字を描き慣れていないかのような——。
手が震えた。
日記はどこに行った?
なぜない?
だがそれは重要なことなのか? ともう一人の自分が問う。
なぜ重要だと感じない?
なぜ重要だと感じる?
頭がぐるぐるとする。
ユシャイエは寝床で頭を抱えて蹲った。
『日記をつけたら?』
不意に、誰かの声が頭の中で響いた。
そうだ、ユシャイエは誰かに勧められて日記をつけ始めたのだ。
『思い出とかさ、全部書こうよ。嫌なことも楽しかったことも全部』
「誰……?」
『ユシャイエ』
伸ばされた手。
それを取る自分。
小さな洞穴。
裸になる。体をピッタリとくっつけてお互いの体に触れ合う。
『ユシャイエ』
瞳が、ユシャイエを見ている。優しい目。
『うるせぇ! こっち向けよ!』
誰かに頭を殴られる。
地面を押さえつけられた背中が痛い。
顔を殴られる。
痛い、怖い、嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
緑色がユシャイエの視界に現れる。
それを見たくなくて、ユシャイエは目を逸らして、遠くで何かを叫ぶその人を見た。
『助けて! 嫌だ! 助けて、』
あれは、あれは。ユシャイエを見て泣き叫ぶあれは、あの人の瞳は。
——青い瞳。
『せっかく番になったんだからさ、仲良くやって行こうよ』
青い瞳が笑んだ。
優しくユシャイエの手を握る。
優しすぎて修正されたエンブリオ。
優しすぎて暴力に晒されたユシャイエを助けられなかったあの人。
大きな影がユシャイエを屈服させて組み敷いて、無理やり体をこじ開ける。
体が痛い。
怖い、怖い、痛い、怖い、怖い。
『嫌だ! たすけて、たすけて、』
殴られる。痛い。痛い痛い痛い。
『たすけて、たすけて!』
シッシル!
ヒュッと呼吸が詰まる感覚がある。
呼吸が浅くなる。指が、肩が震える。
この記憶は、なに?
なに?
修正が重なるたびに過去の記憶は薄れて行く。それは普通だ。だけど、ユシャイエはなぜ前回修正が行われたかまでをも忘れている自分に気づく。
『ユシャイエ』
誰かがユシャイエを呼んだ。
頭が痛い。記憶が幾重にも重なっていて、どれがいつの時代のものか判らない。
ユシャイエ、ユシャイエ、ユシャイエ。
誰かがユシャイエを呼ぶ。
ユシャイエ、ユシャイエ、ユシャイエ。
頭が痛い。
「ユシャイエ、開けるよ」
駄目、開けないで。
だが頭痛がして言葉が紡げない。
「ユシャイエ?」
母がそこに立っていた。
「ユシャイエ!」
母の悲鳴が聞こえた。
「あなた! ユシャイエが!」
父がユシャイエの寝床に駆けつけるのが見えた。
父の腕も母と同じく四本ある。体に対して大きな瞳。
頭がグラグラする。
ユシャイエとは姿形の違う両親が、心配そうに見下ろし抱えてきた。
「ユシャイエ!」
二人がユシャイエの頬や額に触る。
「か、さま……と、さま」
両親が何かを言ったが聞こえない。
なぜ、両親はこんなにもユシャイエたちと姿形が違うのだろう。
薄れゆく意識の中で、ユシャイエは今更ながらそう考えたのである。




