5.
大通りでは相変わらず言い争う人がいた。
あっ、と思った瞬間にはもう片方の人が殴られており、あちこちで悲鳴が上がった。
管理棟はなにをしているのだろう。なぜ神はこの争いを放置するのだろうか。
「ユシャイエ!」
呼ばれて振り返ると、シッシルがいた。
無視して家を目指す。今は一番見たくない顔だった。
「ユシャイエってば!」
シッシルが腕を掴む。
「離して!」
「大事な話がある! 何もしない! 話を聞いて!」
いつになく必死な様子だ。
いつものようにニヤニヤとした目ではない。
「……なに……」
「……ここでは話せない」
「ここで話して」
「頼む、ここじゃダメなんだよ」
「話したくない。手を離して」
「……リグラについての話」
シッシルが声を顰めて言った。
リグラ。そういえば、今日は見ていない。
大通りに出ればユシャイエは毎日のようにリグラに会っていたというのに、だ。
「来て! 緊急事態なんだって!」
言われて、仕方がなくシッシルについていく。
大通りから逸れた人気のない場所へとどんどんと入って行った。
人が疎らであまり長居はしたくない場所だ。
完全に人がいなくなるのを待って、シッシルが「リグラが……」と言った。
それから口籠もり、「……リグラの……」と言ったきり何も言わなくなった。
頭に来た。
これはきっと言い訳だ。こんな静かな通りにユシャイエを誘い込むためにリグラの緊急事態だなんて嘘を言ったに違いない。
「帰る」
踵を返すと、今度はシッシルが手首を強い力で掴んだ。
「やめて!」
「話す! 喋るよ!」
必死の形相だ。
「……リグラの恋人って誰」
「教える必要ないじゃん」
シッシルがなぜそれを知りたがるのか判らなかったが、どうせ碌なことではない。
ユシャイエはシッシルをじっと見て、次の言葉を待った。
「じゃあ……、じゃあ、リグラが交尾しているのは番?」
「……」
「判った、番じゃないわけだ。そうか……ああそうか……」
シッシルがしゃがみ込んだ。
「ユシャイエ、これを言ってお前がどこまで理解するか判らないけど……、」
「なに? なんなの?」
シッシルはチラリとユシャイエを見てため息をついた。
いつものシッシルとは何かが違う。
何を考えているのかが判らないいつものシッシルの影が、今日のシッシルには見当たらなかったのだ。
修正を疑ったが、これほど意識がはっきりしているのなら、その可能性は低いと考えた。それに修正の噂はすぐに出回るのだ。
ではなぜ、今日のシッシルはこうまで違うのだろう。というか、今日はクジラの中全体がなにかおかしい。
「よく聞け」
シッシルが声を顰めて言った。
「……リグラが妊娠した」
「にんしん?」
「……お前、妊娠って判んないの?」
ユシャイエは首を縦に振る。
それからシッシルは哀れむような顔でユシャイエを見た。なぜそんな顔をするのかが判らない。
「……妊娠ってのは……、つまり繁殖したってこと」
「え? そんなはずないよ。だって結婚してない」
そう言うと、シッシルは鼻で笑った。
「交尾すりゃできる時はできるんだよ」
本当に何も知らないのな、とサリューが呆れ顔で言った。それかれブツブツとなにかわけの判らない独り言を言う。「結婚でなんかのギミックが外れると思ったけど違うわけか」などと言っているが言葉の意味がユシャイエには判らなかった。
それよりも、リグラだ。リグラが繁殖した? そんなはずはない、とユシャイエは考えた。
「ん? 交尾って意味が判んない? ああ違うか、そうか、お前もサリューとヤッてんだもんな」
「え? え? な、なんで知ってるの、というかリグラ、リグラは、」
「リグラ、修正入るぜ。最悪処分だ」
「処分? 修正なんで? え、なんで? だって、」
「非効率的だから。腹ン中の最良ではないエンブリオなんて要らないだろ。いちいち堕胎だのなんだのと面倒なことをせずリグラごと処分して教えに従順な新しいエンブリオを育てた方が安全だろ」
シッシルはしゃがんだまま髪をかきむしった。それから「家畜かよ」と小さく吐き捨てるが、やはりユシャイエには言葉の意味がよく判らなかった。
「処分? なんで? だってリグラはまだエンブリオで」
「エンブリオだから処分されないって? ユシャイエ、それ本気で言ってる?」
「だってエンブリオが、エンブリオは善なる存在だから……」
だって先生も母さまもそう言っていた。エンブリオは「善なる存在」で「とても大切」なのだと。
だからなにかエンブリオに問題があれば修正されればいいだけだ。
修正されてより良い個体になる。それはこの世界の常識だ。当たり前だ。だからリグラが修正されるのなら、なにか問題があったと言うことだから仕方がない。
だが処分? なぜ修正をされずに処分されなくてはならないのだろう。
「なんで? なんで処分?」
「だからそれは非効率だからって言ってんじゃん。ユシャイエは、少し他の奴らと違うのかもって思ったんだけどな……、なんだ、同じか。本当ここの奴らって……、なんで素直にお薬飲んじゃうかな……めんどくさい」
「なにそれ……」
馬鹿にされたことだけは判った。
苛立たつが、今日のシッシルにはなにも言い返せなかった。
「ユシャイエさあ……、いつも言ってた意味判んないか? なんのための番だよ?」
シッシルは懐から取り出した保存食の乾燥魚を齧りながら尋ねた。
「……それは、人口を増やすためで」
シッシルの頬がグニャグニャと動き、魚を咀嚼していく。
「それ、ユシャイエは納得してんの? ユシャイエは、好きでもないやつなんかと結婚して最良のエンブリオを作んなきゃなんないのはなんで? って思わないわけ?」
「思ってるよ! シッシルとなんか結婚したくないよ!」
でも、それは決まりだから避けることはできないのだ。人口を増やすのはエンブリオの役目なのだから仕方がない。
シッシルがごくん、と魚を飲み下す。
「それはなんで?」
「なんでって……決まり、だから……」
「誰が決めたわけ?」
シッシルの青い目がジッとユシャイエを見る。
居心地が悪い。気分が悪い。そんな当たり前のことを尋ねないでほしい。
「か、神様が……」
「神様って誰? なんで決まりに従う必要があんの?」
シッシルの目が怖い。青い瞳が、ジッとユシャイエを見るのだ。胸の奥の、なにか開けてはいけない蓋をこじ開けるような目だ。
「……判んないよ! 意味が判らない言葉ばかり言わないで!」
「——そうやって逃げんの?」
シッシルがやけに冷たい声で言った。
「え……?」
「不満があるくせに決まりだから仕方がないってなーんにも考えないで結局諦めているじゃん。どうにかしようと思わないわけ?」
シッシルは立ち上がって、ユシャイエを見下ろすと「お前らは本当に馬鹿だな」とまた嫌な顔をして笑った。
「考えてるよ! 馬鹿にしないで!」
「で、なんでユシャイエは好きでもない相手とエンブリオを作らなきゃいけないわけ?」
「だからそれは……! そうじゃないとエンブリオはできないから、」
「できてんじゃん、リグラは」
「最良じゃないと、」
「最良じゃないとなにが問題なんだよ?」
「生まれるエンブリオに問題が起きる可能性が、」
「誰にとっての問題?」
「え……?」
「誰が困るんだよ。というかどんな問題がおきるっての? ユシャイエ、本当にちゃんと考えてる?」
シッシルは壁にガリガリと爪を立てている。止めなければならないと思うが、だが注意する言葉がどうしても出なかった。
代わりに出てきたのは「もうやだ」という意味のない言葉だ。
ユシャイエにもその言葉がただの逃避に他ならないとは気づいてきた。だが、一刻も早くシッシルとのこの、何か危険なものに触れてしまいそうな会話を切り上げたかったのである。
「変なことばかり言わないでよ!」
「ほら、すぐ逃げる」
シッシルは口元を歪ませて笑った。
嫌な顔だ。あれは、ユシャイエを馬鹿にしている顔だ。
「ユシャイエのことなにユシャイエが決められない。おかしいとは思わないの?」
ギクリ、と嫌な感覚が体を走った。
自分のことなのに、なに一つ教えられずなにも決められない。それは少し前に、ユシャイエ自身が考えたことだ。だが、それに同意うすることはどうしてもできなかった。
「結婚したら決まったタイミングで交尾しなきゃいけないっての、気色悪くないわけ?」
「気色悪い……?」
「はい、今から裸になってくださいね、そうです、足を広げてください、腰振ってください——、なんて監視下でやんの、気色悪いって思わないわけ? ……ああ、思わないのな、ユシャイエ、お前も気色悪いな」
奇妙な沈黙が流れた。
ユシャイエはハッとした。
なぜ、シッシルの言葉を鵜呑みにしているのだろう。シッシルのことだ、またユシャイエに嫌がらせで出まかせを言っているに違いない。
「う、嘘でしょ! リグラにたまたま今日は会えてないだけだ!」
「ああそう。そう思うなら会いにいけば?」
シッシルは慌てた様子もない。だが、シッシルは真底呆れた顔でユシャイエを見たのだ。
「ガキの頃にさ、ユシャイエにちょっかいだして悪かったとは思うけど、嘘をついたことはないよ」
シッシルはため息混じりに言う。
「……そんなにサリューがいいかよ。昔はお前のこと殴ったりしたのにな」
「なんのこと……? そんなことされてない!」
「あっそ。ああそうだ。お前日記付けてたよな?」
「何で知ってるの?」
「思い出したから」
シッシルは事もなげに言った。だが、肝心なことは何ひとつ教えてくれない。イライラとする。たまらずユシャイエは「シッシルは意地悪だ!」と叫んだ。
「そういうところが本当に嫌い……っ」
「……あのさあ、お前だけがこの結婚を嫌がってると思うなよ。こっちだってユシャイエが相手じゃ嫌なんだわ。いいか、思い出せ」
「……なにを……」
シッシルは立ち上がり、それから侮蔑を含んだ目で「そうだな」と言った。
「まずは薬飲むのをやめてみたら?」
「あれは、」
「エンブリオの特殊な体を保つために必要なもの。それ本当だと思ってる?」
「……シッシルは飲んでないの……?」
シッシルが口元をまた歪ませる。それから「めんどくさー」と言いながらユシャイエの横を通り過ぎた。
「ねぇ!」
「……多分、お前はつらい思いをすると思う」
「……どういう意味」
シッシルは振り返らずに歩いていく。再び声を掛ける勇気は、ユシャイエにはもうなかった。
胸がドキドキする。こんな嫌な感覚、初めてだった。
世界は平穏で、退屈で、果てがあって、不満もあった。でもユシャイエの日常は滞りなく過ぎていったのだ。
なのに。
『思い出せ』
なにを? 何を思い出せというのか。
ユシャイエは生まれて一〇五日目。その日々のことをしっかり覚えていて、何もかもが思い出として胸に残っている。
日記だってつけているのだ。
気を抜くと足がすくみそうになる。
怖い。自分のことなのに何も知らされていないのが怖かった。自分のことなのに何も選べないのが怖い。
「……リグラ……」
リグラはどうなったのだろう。
ユシャイエは地面を蹴って、そして走った。シッシルを追い越して行くが、今度は声をかけられることはなかった。
大人が声を掛けてくるが、ユシャイエは碌な返事もできないなままリグラを探した。
走って、走って、よく二人で話をしていた場所にも行ったがリグラの姿はなく、そして大通りにも、リグラはいなかった。
そしてようやく辿り着いたリグラの家を前に、ユシャイエは息を切らして家の外からリグラを呼んだ。
大丈夫、きっといつものようにリグラは出てくる——、そう自分に言い聞かせるが、胸はドキドキと激しく脈打ち続けた。
果たして、家から出てきたのはリグラの母だった。
「……あの、リグラは……? 今日は会えてなくて……」
笑顔を意識的に作って問うと、おばさんはにこりと微笑んだ。
きっと「ちょっと待ってね」と言った後にすぐ「ユシャイエちゃんが来てるわよ」とリグラを呼んでくれるはずだ。
自由気ままなリグラは食事の後に眠ってしまったのかもしれない。
だが、おばさんは微笑んだまま「ごめんなさいね」と言ったのだ。
「あの子、修正が入ったのよ」
リグラの母は微笑んで言った。修正が入ったからと言って、それは親子の永遠の別れではない。しかしシッシルの言葉がユシャイエの頭を駆け巡って、それは本当に修正なのか、と疑念が湧くのである。
「修正……?」
本当は、リグラは処分されるのでは? などと問えるはずもなく、ユシャイエは口をもごつかせ、それから少し野間を置き「そうなんだ」となんとも間抜けな返事をすることしかできなかった。
「修正から帰ってきたらまた仲良くしてやってね。ああでも、その頃にはユシャイエちゃんは結婚しているかもしれないわね」
「……うん……」
修正から帰ってきたらリグラは元通りだ。そうに決まっている。
そう思うのに、何があったのか、リグラのどこが問題なのかを、ユシャイエは尋ねることができなかった。
「ユシャイエちゃん、ほら、早くお家に帰らないと。鐘が鳴って随分経つから母さまが心配されているはずよ」
「……うん、そうだね……、あの、リグラが帰ってきたら教えて」
「判ったわ。またね」
なぜ何も言えないのか、なぜ何も尋ねられないのか。そんなこと考えるまでもない。
ユシャイエは、シッシルの言葉を信じかけているのだ。
でもなぜ? 大嫌いなシッシルの言葉を信じかけている自分のことが、理解できなかった。
ユシャイエは走りながら家に向かった。
家が見えてくる頃になると、やはり母が軒先に立っており、ユシャイエを探していてた。
「母さま!」
「ユシャイエ。どうしたね、こんなに遅くなって」
「……リグラを探していたの」
「ああリグラを……、あの子は修正が入ってしまったんだよ」
朝、伝え忘れてしまって悪かったね、と母は微笑んだ。
修正なんて、クジラの中ではよくあることとだ。ユシャイエだってかつて何度か受けたのだ。
今更、何を恐れる必要があると言うのだろう。
「……母さま……」
「おやおや、どうしたね」
母の腕に飛び込む。
洗い立ての洗濯物の匂い。
安心する。
「またシッシルに虐められたかい?」
「ううん。違うよ……」
困った子だねえ、と母は四本ある腕のうちの一本で、ユシャイエの頭を撫でた。
「ほら、家に入ろう。薬を飲まなくちゃ」
——薬。
シッシルの言葉を思い出して、体が強張る。
母が「どうしたんだい」と言いたげに首を傾げた。
「ううん、なんでもない。お腹すいちゃった」
「今日はユシャイエの好きな魚の揚げ物だよ」
「うん。楽しみ」
母の腕を引いて室内に入る。
父がソファでくつろいで足を組んでいる。
「ユシャイエ、遅かったね」
「リグラを探してたの」
「そうかい」
父は作業台の上に何やら工具を揃えている。
あれはきっと、ユシャイエの耳飾りを作るための準備だろう。
父の硬質な黒い指の先に、小さな緑色のシーグラスが挟まれているのが見えた。
シッシルの言葉が脳裏をよぎってユシャイエはソワソワと落ち着きのない気分になった。
——思い出せ。
何を思い出せというのだ。何を思い出す必要があるというのだ。
「ユシャイエ、薬だよ」
「……はぁい」
ユシャイエは小さな白い錠剤を受け取ると、それをポケットへと忍ばせたのだ。
「母さま、ご飯まだ?」
「もうできてはいるよ。そら、テーブルまで運んでおくれ。父さまも呼んでくれるかい?」
「うん。父さま、ご飯だって」
父が作業台を離れて食卓へと向かう。
いただきます。
そう三人で声を合わせて言って、それから食事が始まった。
いつもの風景だ。
薬を飲まなかったことの後ろめたさを抱えながら、ユシャイエは食事に手をつけ始めたのだった。




