4.
朝目覚めると、両親が「雨が降っているからクジラの機能を水瓶に回すらしい」と話しているのが聞こえた。
道理で肌寒いわけである。
雨は貴重だ。巨大な水瓶の中では雨が降ると絶えず浄化を繰り返す。そうすることで、清潔な水がクジラの住民のために確保されるのだ。
母と父におはよう、の挨拶をして朝ごはんを作ってもらう。
「ユシャイエ、結婚式の耳飾りの石は何色がいい?」
父が水を飲みながら尋ねた。
「耳飾り……」
「耳飾りは父親が、指輪は母親が作る決まりなんだ。知っているだろ?」
ユシャイエは「そんなものいらない」とは言えずに困りながら、それでも「緑色」と答えた。サリューの目の色だ。
「判った。緑色だな。神に緑のシーグラスを申請しよう」
「……うん」
サリューの瞳の色。
それでふと思い出した。
ビン。そうだ、ビンを回収しなくてはならない。
ユシャイエは今更それを思い出して、沈んでいた心が少しだけ浮き立つのを感じた。
あのビンの中身は、なにかユシャイエの知らないことや、期待する何かが記されいてるかもしれない。
早くご飯を食べて回収しにいこう。
「ユシャイエ、ちゃんと噛みなさい」
父が目を細めてユシャイエを見ていた。
外に出ると、大通りでもないのに人がたくさん出ていた。
ざわざわとなにやら話している。だが彼らは一様に、エンブリオが近づくと声を顰めた。
「ああおはよう、ユシャイエ。寒くないかい?」
「おはよう。大丈夫」
何かおかしいような気がしたが、おじさんもおばさんもいつも通りの笑顔だ。
「なにかあったの?」
おばさんに尋ねるが「何にもないよ。水瓶に機能が回されているからみんな寒いのさ」と言った。
道ゆくとおじさんが「おはよう」と言いつつ店先を指差した。
「ユシャイエ、魚のフライは食べるかい?」
「さっき朝ごはんを食べたから大丈夫」
「そうかい? あまり遠くまで行くんじゃないよ」
「うん」
行く先々で大人たちがユシャイエに声をかける。
大人たちはエンブリオをとても大切にする。何くれとなく世話を焼き、気を使い、そして手助けをするのだ。
基本の世話は両親がするものの、この世界のエンブリオはこの世界の大人全体が庇護し、慈しみ、そして世話をするのである。
エンブリオはみんなのためのエンブリオ。未来のための存在。
「ああユシャイエ、首の紐が外れそうだよ。どれ、おばちゃんが結んであげよう」
「ありがとう」
じっとしていると、そらできた、とおばさんが言う。
それからユシャイエの肩を見て「あんたは優秀だねえ、まだ九回目かい」と言った。
ユシャイエは頷いて、「そうだよ」と返事をする。
「このまま大人になれるといいねえ。良くない個体だと五〇回目だとかいうのも、そう珍しくないからね。結婚まで五〇日くらいだろ? 母さまの言うことをよく聞いて、神様の教えをよく守って、今度こそ頑張るんだよ」
「うん。ありがとう」
当たり障りのない会話をして、それからユシャイエはなるべく自然な動作で大通りから逸れる。それからひっそりと建物の影へと身を潜ませ、あの洞穴を探った。
「あった」
目当てのボトルを取り出し、エイ、と多少の力を込めてそれを地面に打ちつける。壁は少し柔らかいから、割れづらいだろうと考えたのだ。
一瞬だけ、サリューの顔が脳裏をよぎる。
しかし、サリューとは絶賛喧嘩中だ。一人で見るんだ、とユシャイエはビンを何度か地面へと叩きつけた。
判っている。残された時間は少ないのだから、早く仲直りをすべきなのだ。
だけどそうと割り切れない時だってある。
誰かに言い訳するように、ユシャイエはビンを握る手に力を込めた。
二、三回ほどそんな動作を繰り返すと、ビンが割れる。
それから中身の紙を取り出すと、たくさんの文字が書き込まれているのが見てとれた。
絵は何もなく、ただびっしりと文字だけが二枚の紙に書かれていたのである。
ユシャイエは文字は読めるが、そこには見たことのない字も含まれていた。難しい漢字は読めない。そこは読み飛ばすしかないだろう。
「私は——、クジラに、住、んでいる——?」
その人物は、そこでの暮らしについて紙に記していた。
手紙の送り主の世界は、クジラと呼ばれていること、神はすなわちクジラだと言うこと、総勢500人ほどがそこにいること。ほど、とは500が数字の最大値であって、それ以上の数は数えられないと言うこと。時々赤ちゃんが生まれるがみんな輸出されること。
そして結婚と交尾の果てにエンブリオは緩やかに、
「緩やかに老化を開始する——、」
老化? とユシャイエは首を傾げた。
それはつまり大人になると言うことだろう。
何が問題が判らなかった。
大人になりたくないのなら、意図的に何か問題を起こして修正を受ければいいだけだ。
なんだ、とユシャイエは拍子抜けした。
この世界とそう変わりないではないか、と思ったのだ。クジラは神様なのだから、クジラが世界だというのは当たり前だ。
なんだ、つまらない。
やはりこのビンは別の世界から来たものであったが、しかし暮らしはそれほど変わらないようで、ユシャイエはがっかりした。
何か劇的な変化がある暮らしをしているかと思ったのに、とユシャイエは一枚目の手紙をめくる。
同じ暮らしなら、この世界を出ていく必要はあるのだろうか?
ずっとここにいれば両親もいるわけで、それならばサリューともずっと一緒にいられる。まあ、交尾はできないが。
やはりサリューと恋人同士でいるには楽園を目指すか別の世界に行くしかないのだろうか。
さて、二枚目だ。
手紙には、「海岸から外へ出て新しい住処を探した者もいたが、帰ってきた事例はない」と記されていた。
と言うことは、海岸から外に行けば新しい生活ができると言うことではないだろうか。
戻ってきた人がいないということは、住処が見つかり新しい生活に満足していると言うことだろう。きっとその生活は、クジラの中の生活よりももっと素晴らしいものに違いない。
ユシャイエの心は弾んだ。
ユシャイエの目的は、シッシルと結婚せずサリューとずっと一緒にいること。
ならばやはりサリューと共に海岸から外の世界を目指すべきなのかもしれない。
だが、ユシャイエの気持ちはその二枚目の手紙を熟読することで萎んでいったのだ。
手紙の主は外の世界についての推測を述べていた。
霧の向こうにはクジラとは違う世界があるかも知れないこと。焚書の憂き目にあった書物には「陸」なる場所があるらしいと記されていたこと。陸は温かくもなく寒々としており、流れ着く魚はみな腐っていて、エンブリオの生存には多くの困難があるかもしれないこと……。
「なにそれ」
ユシャイエは眉間に皺を寄せて奥歯を噛み締めた。
全部が全部、夢がない。
つまらない。こんなものは楽しくない。
そう思うが、ただの手紙、ただの妄想だと笑って、それを丸めて捨てることがユシャイエにはどうしてもできなかった。
最後に書かれた追伸に、恐る恐る目を通していく。
背中が冷える。喉や口が渇いた。なにをそんなに緊張しているのだろう、と思うがその一方で緊張の原因にしっかりと心当たりのある自分もそこにいる。
認めたくない。ユシャイエは、そう——。
ユシャイエは途中まで読み、「え」と小さく声を上げた。
——追伸。クジラは世界の放棄を決定したようだ。婚姻の自主的な拒否が増えたためだと思われる。我々のいるこの世界はもう間も無く、
朽ちるだろう。
世界が終わるとはどういことだろう。
ユシャイエは何か悪いものに触れたような気持ちになって、乾いた喉に唾を流し込んだ。
と、半日を告げる鐘が鳴った。
ユシャイエはハッとして手紙を懐に入れた。
家に帰らなければならない。薬の時間が迫っていた。
これはきっと悪い冗談だ。
だが、ユシャイエの中にいるもう一人のユシャイエは、その嫌な予感に気づいていたのだ。
これは妄想——、いや、推測ではないのかもしれない、と。




