3.
「最悪さあ、シッシルを交換してもらえばいいじゃん」
友達のリグラに言われてユシャイエはパンの塊をぼろりと落としてしまった。
リグラは最近太ったから、と言ってパンは要らないという。
クジラの奥、ここは大人が神に飲み込まれる場所の近くだ。物騒だから近づく人はあまりいない。
「……交換?」
「そうそう。ああ、交換っていうか、処分かなあ。ウチは母さまがよく叩いてきたから、それを父さまに訴えたら交換してもらえたよ」
今の母さまはすごく優しい、とリグラは満足気である。
「大人は交換できるけど、エンブリオはできないって」
「だから、結婚したらすぐに交換して貰えばいいんだって」
「結婚してから交尾しないと大人にならないでしょ? 大人になるためにシッシルと結婚して交尾なんてしたくない」
「ええ? 結婚したら大人なんだよ。結婚したらエンブリオじゃなくなるんじゃないの? 交尾するかどうかは別じゃない? だってユシャイエ、サリューと交尾しているでしょ? でもエンブリオのままじゃん」
「リグラ!」
唇に人差し指を当てて静かに! という。
「なんで? 誰も聞いてないよ。それに、番じゃない大好きな人との交尾なんてみんなやってるよ」
「みんな!? え、リグラも……?」
「うん。シャハナと」
「シャハナ!?」
背がちょっと低くて、可愛い子だ。こぼれ落ちそうな目が特徴で、笑うとエクボができる。
シャハナとリグラが恋人同士なのは意外だった。
「……リグラはさ、シャハナと結婚したくはないの? 番と結婚するのなんて、嫌じゃない?」
「それは仕方ないんじゃない? シャハナとは遺伝子の相性がよくないんだって。形は合ってるんだけどねえ……」
形は合っていても、遺伝子の相性が良くないと結婚はできないのだ。
逆に、ユシャイエとサリューのように遺伝子の相性がよくても形が合わないと結婚はできない。
例えシッシルを交換してもらっても、ユシャイエに迎えられる番は遺伝子の相性が良くて形が合っているサリュー以外の別のエンブリオだ。
それでは意味がない。ユシャイエは、サリューとしか結婚も交尾もしたくない。
シッシルと結婚もしたくないし交尾もしたくないが、結局のところ、その両方をしたいのは、サリューだけなのだ。
サリュー以外の体に触れたくないし触れられたくもなかった。
「エンブリオは繁殖のための存在だしさ、それは諦めなきゃ」
「えええ……」
「最良の組み合わせでたくさん子供を作らなきゃ」
「絶滅しちゃうもんね……」
「そうそう。繁殖のためにこのクジラはあるんだよ。繁殖を拒否するエンブリオには存在意義がないってこと」
はあ、とユシャイエは溜息を吐く。
みんな、精神的に成熟しているなあ、と感心する。ユシャイエは生まれてもう一〇〇日も経っているのに、未だにサリューとの結婚を諦めきれていないのだ。
リグラはこうして話を聞いてくれているが、他のエンブリオの中にはユシャイエのような思想を持つ者と極力関わり合いになるのを避けようとする者もいる。
リグラは番以外の好きな人、つまり恋人のシャハナとの交尾に罪悪感や抵抗感はないようだが、それを良いことではないと考えるエンブリオも多い。
ユシャイエでさえ、サリューと交尾をしてはいるが、それを他人へと公言するのはあまりよくないことなのだろう、という認識であったのだ。
「……みんな好きな子がいて、交尾してる?」
「してるよ。結婚したらもう恋人と交尾はできないんだから今のうちに楽しまなきゃ」
なんでもないことのようにリグラは言う。
みんな、恋人以外との結婚に拒否感がなさそうだ。それがとても不思議だった。
シッシルに触れる。想像するだけで怖気が走る。
「気持ち悪っ……」
オエッと舌を出すと、我儘だなぁとリグラが呆れ顔をする。
「さっさとたくさんエンブリオを作って、サリューと楽園を目指したら?」
「だから、それが嫌なんだってば……、海岸から外に行けないのかなあ……」
ポツリと言うと、空気が急激に冷えたような、奇妙な感覚があった。
「——ユシャイエ、それは駄目だよ」
急にリグラが真剣な顔になった。
「駄目だよ、ユシャイエ」
地面についた手が、クジラの拍動を拾う。
この世界がなんであるのか、ユシャイエは知らない。
ユシャイエたちはよく判らない仕組みの中で、ただ穏やかであれ、と育てられているのだ。
リグラは、サリューは、なぜこの枠組みを信じ切れているのだろう。なぜエンブリオは繁殖しなくてはならないのか。
絶滅する?
それの何が問題なのか、正直なところ、ユシャイエには判らなかったのだ。
だが。
「……冗談だってば、本気にしないでよ」
リグラの気迫に思わず茶化すような返事をする。
「やだな、リグラ。ちょっとした冗談じゃん。顔怖いって」
「……なんだ、びっくりしたあ。そんな馬鹿なことを本気で言ってるのなら母さまに報告して神様に修正してもらわなきゃって思っちゃった」
リグラが笑った。ユシャイエも笑うふりをした。
サリューが、かなり大らかにユシャイエの発言を受け止めているのだ、と今更気づく。
母は外の世界に興味を持つこと、婚姻そのものを拒絶すること、それらの発言についてはユシャイエを厳しく窘めるが、それでもリグラのようにこの世のすべての罪を煮詰めた釜を覗き込んだような、侮蔑とも、嫌悪とも、批判ともつかない恐ろしい顔をされたことはなかったのだ。
この話は気軽にしてはいけないのだ。
だがそれでもユシャイエは気になるのだ。
外はどうなっているのだろう。
結婚する意味はあるのだろうか。
なぜ赤ちゃんを増やさなくてはいけないのか。
「あーなんかちょっと眠くなっちゃった。帰るね」
リグラはいつものように笑って言った。
自由気ままだ。
リグラはあと二〇日で結婚することが決まっていた。
そうなると、あとはエンブリオを作るための管理された交尾に専念しなくてはならなくなるため、暫くは会えなくなるだろう。
それはつまらないが、この世界で生きるためには仕方がないことらしい。
リグラと一緒にユシャイエも立った。
大通りまで行くと、またもや喧嘩が勃発していた。
あちらでは女同士、こちらでは男女、少し進んでいくと今度は男たちがなにやら言い争っていている。
——治安が悪くなってしかたがない。
母の言葉を思い出して、ユシャイエは眉間に皺を寄せた。なぜあの大人たちは神に飲み込まれないのだろう。
「じゃ、ここで」
リグラが腕をブンブンと振った。
ユシャイエもそれに応えると、リグラが家に入るまで見送ったのだった。




