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2.

「ユシャイエ!」


 耳慣れた声だ。

 その声に呼ばれると、ユシャイエの口角は自然と持ち上がる。サリューの声である。

 ユシャイエは振り返ると、サリューに向かって走っていった。


「仕事終わった?」


 尋ねられて頷く。


「終わったよ。そっちは?」


「こっちも終わった」


 二人は手を繋いで歩いた。

 すれ違い様に人々が『仲がいいね』と微笑ましげに言ってくる。


「行こう」


 サリューに手を引かれて歩く。


「ユシャイエ!」


 友達のリグラの声だ。振り返ると手を振っていた。

 ユシャイエも「あとでね」と手を振り返す。

 リグラには悪いが、ユシャイエはサリューを優先することにした。ユシャイエたちに残された時間は短い。たくさんサリューと時間を作るべきだと考えたのだ。


「今日はなにしてた?」


 サリューに尋ねられ、あれこれと話をする。


 朝食べたものの話、父が新しい服を仕立ててくれると言ったこと、母と魚拾いをした時のこと。それから、シッシルがまた変なことを言ってきて嫌な気分になったこと。


 ユシャイエはサリューに何でも話す。

 ユシャイエとサリューはずっと一緒だ。

 ユシャイエはサリューが一番好きだ。


 暇な時間は誰よりも長く一緒にいるし、気づけば一緒に遊んでいる。それに、色んな初めてを一緒に経験した。


 ——裸になるようなことも。


 クジラの奥深く、秘密の洞穴で二人で裸になるのも慣れたものだ。お互いの体に触れる遊び。

 なんとなく母と父——、神様に飲み込まれた父の代わりに来た新しい父だ——、には秘密にしなくてはいけないということには気づいていた。

 生物の授業では交尾と言っていた。本来繁殖のための行為らしいが、しかし何が起きると繁殖するのか判らなかった。おそらくエンブリオたちは、結婚をしなければ繁殖しない仕組みなのだろう。


 ひとしきりお互いの体に触れたあと、ようやく一息つく。


「海岸で拾った?」


 服を着ながら着てるサリューが尋ねた。右肩に押された49の文字に指先で触れるとサリューが「くすぐったいよ」と言って身を捩る。ユシャイエの右肩にある数字は9だ。


「そう。ビンの中に紙が入ってた」


 暖かい地面にピッタリと頬を寄せながらユシャイエは言った。


「風邪引くよ。中身は? 見たの?」


「まだ。一緒に見よう。途中で隠してきた」


「なんで?」


「おじちゃんにもらったパンを持って、もう片方でサリューと手を繋いだら持っていられないじゃん」


 そういうとサリューは少し笑って、「言ってくれれば持ったのに」と言った。

 なるほど、全部自分で持つ必要はなかったのだと初めて気づく。


「サリュー、いつ時間ある? 一緒に見ようよ。帰りに拾って帰るから」


「うん、時間を合わせよう……、ねえユシャイエ、服着なってば」


 誰かに見つからったらどうするの、との言葉にユシャイエは笑う。


「見つからなよー」


 ここは秘密の洞穴だ。


 ツルッとした地面と壁。柔らかい壁の入り口をこじ開けることで中に入ることができる。

 他の住居とそう仕組みは変わらないが、唯一の違いといえばその入り口の小ささと内部の広さだろうか。住まいと呼ぶには小さすぎる。ただ、壁や床が脈打つ感覚はそう変わらなかった。


 この狭い空間に二人はランタンを持ち込んでいたが、それがなければ真っ暗だ。

 二人で入るにはちょうどいい広さだが、あまり長居をすると酸欠になる。

 だからそろそろ出なくてはいけない。ユシャイエは身支度を整えると伸びをした。


「……ユシャイエ、猫って知ってる?」


「ネコ? 知らない」


「ライブラリで見るといいよ」


「ネコってなに?」


「生き物。ユシャイエに似てる」


「ふうん。可愛い?」


「たぶん」


 そう言いながら、サリューはユシャイエの額に唇を落とした。


「ほら、帰ろうよ」


「帰りたくないなあ」


「そろそろ夕食の時間だよ。鐘が鳴る前に帰らなきゃ」


「うーん……」


 気が進まない。


 ユシャイエが一番好きなのは、サリューと一緒にいる時間だ。


 母も父も好きだけど、一番好きなのはサリューなのだ。

 交尾。あの最中に溶けて一つになれたらいいのにと思う。そんなことはできないとよく判っているのだけど、とユシャイエは洞穴から這い出しながら考えた。入り口が狭いから出るにも入るにも苦労する。


 ようやく這い出ると、照明がオレンジ色に変わっていた。もうすぐ夕方ということだ。

 壁に刺さった照明は、時間の経過とともに中央センターで調整されるらしい。ユシャイエもよく判らないが、母が言うにはここの住民はみんなユシャイエたち未来あるエンブリオのために働いているのだそうだ。


 壁に「目指せ三十億。現在の数は五千万」と書かれた紙が貼られていた。

 五千万が三十億になるには何年かかるのだろう、とユシャイエは考えた。


 ユシャイエはまだこの世界から出ることはないが、赤ちゃんを作ればこの世界から出ることもできるらしい。授業でそう教わった。


 でも、そのためには中央センターが「最良」と判断したシッシルと結婚し、赤ちゃんを作り、何人かを輸出しなくてはいけないのだそうだ。


 シッシルとユシャイエの遺伝子が合ってる、と言われても、ユシャイエからしてみれば「だから何」と思うばかりで、サリューと結婚できないことを不満に思う気持ちは消えない。


 サリューと結婚したいし、子供を作るための相手はサリューがいい。


 でも、とユシャイエは考える。


 その別の世界とやらはどんなものなのだろう。

 それは海岸の外に広がる外の世界とは違うのだろうか。


 赤ちゃんだったユシャイエがいた世界もまた別にあるらしいが、そことは違う場所なのか。まったく、判らないことだらけだとユシャイエはため息をついた。


 それにしても輸出、輸出、輸出——、なんだかまるで——、そう、それではユシャイエたちはモノみたいだ。みんなそれが普通のことだと受け入れているようだけど、ユシャイエは何かモヤモヤとしたものを感じてならないのである。


 輸出は遺伝子の()()()()()を広げるためには仕方のないこと、と学校で教わったが、どうにも釈然としなかった。

 特別なエンブリオたちが行ける楽園も、本当はどんなところか判らないし、どうやったらそこに行けるのかも判らない。


 ユシャイエは、ユシャイエ自身のことなのになにも知らされていない。


 友達と話していても、みなこの世界を出ていけることが最良と考えているようではあるが、しかしユシャイエはなにか砂を噛むような嫌な気持ちが芽生えるのだ。


 自分の行く先が何ひとつ判らないことがこんなにも不安——、いや、違う。これはそう、そうだ、とても()()()だとユシャイエは考えたのだ。


 不愉快。そうか、とユシャイエは納得した。勝手にそれが最善とされ、好きでもないシッシルと結婚さ()()()()。その上、何ひとつ教えてもらえない。


 不愉快だ。


「ユシャイエ?」


「……うん」


 サリューに手を掴むように言われて、ユシャイエは溜息をつきながらその手に触れた。


「サリューと結婚できたらいいのに……」


「仕方がないよ。神様が決めたんだから」


「神様なんて無視すればいいんじゃないの? なんでサリューと結婚できないの?」


「形が()()だから」


「それもよく判らないよ。母さまもサリューと形が()()()()からダメって言ってた。意味が判らない。なんで形が違うとダメなの? なんで自分のことなのに自分で決められないの?」


「ユシャイエ」


 シイッとサリューが人差し指を口に当てた。


 サリューはユシャイエと結婚したくないのだろうか、と考える。ユシャイエは不満だった。

 

 サリューとて、ユシャイエが一番で、誰よりも好きなのは明らかなのに、それでも結婚できないことには納得している。ユシャイエはそれがなぜだか理解できなかった。


 結婚したらずっと同じ洞穴で生活をしなければならないし、交尾もしなくてはいけない。ユシャイエはシッシルに触りたくもないし触られたくもなかった。


 同じ洞穴で生きて体に触り合う義務があるのなら、サリューがいいし、サリュー以外は考えたくなかったのだ。


「サリューがいいよ」


 ユシャイエより少しだけ背が高いサリューに抱きつく。いい匂いがした。


 形が同じ、形が合わないとはなんだろう。正反対のことを言っているではないかと思うが、中央につながる『先生』と呼ばれる神の存在をインストールした知能に尋ねたが、どうやらそれはどちらも間違っていないようだった。


「サリュー、役目を果たしたら楽園に行けるって本当かなあ……」


「楽園ね」


 サリューが後頭部を撫でてくれる。

 サリューと結婚したいと言うのは我儘なのだろうか。


「外ってどうなっているんだろう」


 不意にそう言うと、サリューの手が止まった。


「外に行きたいの?」


「判らない。でも楽園より近いかなって。だって行こうと思えば海岸からすぐに出られるよ」


「危ないよ。戻って来れなくなるよ」


「サリューと二人なら怖くない」


 そうユシャイエが言うと、サリューは溜息を吐いた。


「無理だよ。海岸に流れ着く死体みたいになるだけだよ」


 時々漂着物に混じって死んだ人間がたどり着くこともある。きっとそれは父のように神に飲み込まれた存在なのだろうとユシャイエは理解していた。


「大丈夫だよ。流れ着いたエンブリオは見たことないもん。みんな膨らんでいるか骨になってるじゃない。あんなエンブリオ、いないでしょ?」  


「ユシャイエ」


 そうか、とユシャイエは気づく。


 こっそりと外に出てみればいいのだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう、と考えた。


「サリュー、聞いて。エンブリオは母さまと父さまがちゃんと管理するから太って膨らむことも痩せて骨になったりもしないでしょ? だからきっと、海岸に流れてくるのは神様に飲み込まれた悪い大人なんだよ」


 大人は海岸の水に触れられない。触れると手が爛れる。だから外に出ようとも思わないはずだ。でも流れ着いてくる死体はエンブリオのそれとは似ても似つかない。

 だからあれは「神に飲み込まれた大人」だとユシャイエは結論づけたのだ。


 ではエンブリオが外に出たらどうなる? 

 それは果たして悪いことなのだろうか?


 ユシャイエもユシャイエの友達もサリューも、実際に外に出てみようとしたことはない。

 だが、外に出て実際に何か問題が起きるとは思えなかった。


 なぜならユシャイエはエンブリオだ。


 エンブリオは善なる存在で、修正されることはあれど神に飲み込まれることはなければ海水で皮膚が爛れることもない。


 そうだ、とユシャイエは思いつく。


「結婚する前に一度外に出てみればいいんだよ! それで二人で生活できなさそうならこっそり戻ってくればいいんだ!」


 エンブリオは、大人とは違って善なる存在だとユシャイエは教わっていた。そう神様が決めているのだから、それは間違いがない。


 つまり、大人になって結婚をする前ならば海岸から外に出ることは「悪いことをした」と見做されないだろうとユシャイエは考えたのである。少し怖いけど、きっと大丈夫だ。


 だが、サリューは呆れ顔でユシャイエを見つめるばかりだ。


「サリュー?」


「……ユシャイエ、それ本気で言ってる?」


「? 本気だよ。一緒に行こうよ」


「行かない」


 サリューが冷たく言った。


「なんで? このままだとシッシルと結婚しなきゃいけなくなる」


「ユシャイエ、世界はずっと同じ場所にあるわけじゃないって教わっただろ? ずっと漂流している」


「知ってるよ。でも、見失わないようにずっと見ていれば大丈夫だよ」


「現実的じゃないよ。それに、エンブリオは神に飲み込まれない代わりに修正されるだろ」


「でもそれって死ぬわけじゃないじゃないでしょ?」


「そうだけど……、」


 善なる存在であるエンブリオは欠陥部分の修正が頻繁に繰り返されるのだ。より良い個体になるためだ。

 ユシャイエは今のユシャイエになってから修正された履歴はない。サリューもだ。


 今回二人は恋人同士になった。だから、今のまま修正されないよう二人で生きていきたいとユシャイエは考えていたのだ。

 でも修正されたからと言って記憶が消えるわけでもないし神に飲み込まれるわけでもない。であれば、二人でいられる選択の一つとして、実験的に外へと出てみればいいだけの話だ。


 なのにサリューは先ほどからユシャイエの意見を否定してばかりいる。

 サリューはユシャイエとずっと一緒にいたくないのだろうか?


「……なんか今日のサリュー嫌。もう帰る」


「ユシャイエ」


 手に触れようとするサリューを振り切ろうとするが、サリューの手はユシャイエの手首を引っ掴んだ。


「痛い!」


「ユシャイエ、」


「離して! 痛いってば!」


 サリューは何も言わない。


「サリュー!」


 ギチギチと手首を握りしめる力に、ユシャイエはたまらず「やめてったら!」と叫んだ。


 ようやくサリューの手が離される。

 手首が少しジンジンとした。

 サリューは何も言わない。


 ユシャイエはサリューを振り返らずに家路を急いだ。

 今日はもうサリューと話したくないし、顔も見たくなかった。


 サリューが追いかけてくるのを背中で感じたが、しかしユシャイエは振り返らずに大通りを目指す。


 大通りに差し掛かる頃、丁度鐘が鳴った。

 家を目指さなくては行けない時間だ。薬の時間に遅れてしまう。エンブリオの特殊な体を保つためには必要な薬だから遅れるわけにはいかない。


 と、遠くで怒鳴り声が聞こえた。男女の争う声に、人々が注目している。


 最近、こう言うことが多い。一昨日も女の人同士で喧嘩をしているのを見た。

 母が「治安が悪化する」ととても嫌そうに言っていたのを思い出す。


「ユシャイエ」


 呼ばれて振り返るとシッシルだった。

 シッシルがニヤニヤしながらユシャイエを見ていた。


「なあ、お前はああいうの、どう思う?」


 男女は殴り合いに発展していた。そんなことを言うシッシルが心底気味が悪かった。

 どう、とはなんだろう。怖いと思う以外の感覚などないのが普通だろう。


「なんであいつら神に飲み込まれないんだろうな」


「話しかけないで」


 そう言うと、ユシャイエの腕に手を伸ばそうとしてきたシッシルを振り切るようにして走っていった。

 あの紙の束が入ったビンを回収したかったが、シッシルに見られたくなかったのだ。


 と、急に体が後ろにかしいだ。手首が後ろに引っ張られる感覚があって、ユシャイエは反射的に「痛い!」と叫んだ。先ほどサリューに強く握られたせいだ。


「悪い、」


 喧嘩の喧騒にかき消されそうな声であったのに、何人かの大人が気づいてくれて駆けつけてくれた。


「シッシル、またお前か! 何をしているんだ!」


「乱暴な子ね! もっと優しくできないの?」


「ユシャイエ、大丈夫かい?」


 代わる代わるにユシャイエは大人に気遣われ、シッシルは怒られていた。


 女性が「痛かったでしょ、大丈夫?」と気遣ってくれる。


「今日はサリューと一緒ではないの? あの子がいるとシッシルもあなたに嫌がらせをしたりしないでしょ?」


「さっき別々に帰ることにしたの」


「……そう、ここは私たちに任せて家に帰りなさい。お母さんが心配するわ。痛いところはないね?」


「……大丈夫」


「よかった。あなたたちエンブリオは大切な存在なのよ」


「うん、判ってる。ありがとう。帰るね」


 シッシルはなぜ修正されないのだろう、と考える。


 乱暴で、優しくない。正直、あの顔もユシャイエにはひどく醜く見えた。不細工ではないが、サリューのように好ましく感じられる面立ちではなかったのだ。


 つまりは、好きではない。


 青い目も、なんだか怖かった。


 あと数日でシッシルと結婚しなくてはならないと思うと気分は最悪だ。


 ユシャイエたちは十七歳前後の体で生まれて、その後一五〇日程度で結婚する。

 そのため、婚姻の必要性についても幼少期から幾度となく教えられてきた。

 

 それでも嫌なものは嫌なのだ。シッシルと交尾するなど、考えたくもなかった。


 なぜ神様はサリューではなくてシッシルとつがわせようとするのか判らない。

 海岸から外に出られたら、どんなにいいだろう。

 いつのまにか家に着いていた。入り口をこじ開けて中へと潜り込むと、母が出迎えてきた。


「おかえり」


「ただいま……」


「どうしたんだい、元気がないじゃないか」


 ユシャイエのムスッとした顔に異変を感じ取った母は、ユシャイエの頬を撫でた。手から、魚と油の匂いがした。


「……シッシルに手を引っ張られた」


「おや。痛いところは?」


「ないけどー……、ねえ、母さま。どうしても、どうしても結婚相手はシッシルじゃないと駄目なの?」


「……そんなにシッシルが嫌かい?」


 困った子だね、と母が言った。


「嫌。大嫌い。サリューがいい」


「それは駄目なんだよ」


「なんで?」


「形が合わないんだよ」


「父さまみたいに交換できないの?」


「エンブリオは交換はできないんだよ。知っているだろ」

「知ってるけど……」


 さっきは喧嘩したけれど、やはり結婚するならサリューがよかったのだ。


「エンブリオの役目は赤ん坊を増やすこと。私たち両親役とは役目が違う。シッシルはユシャイエの遺伝子と最良の組み合わせなんだよ。サリューも悪くはないけれど……なにせ形が合わない」


「うん……」


「まあ、でもそうだね。結婚までには修正が入るんじゃないかい。シッシルは品質はともかく個体としてのあり方があまり良くない」


「……うん……」


 ユシャイエは母の胸に顔を埋めた。母がおやおや、困った子だねと言いながらも背中を撫でてくれる。


 修正されて、シッシルがどれほど品質のいい個体になったとしても、サリューのそれよりは良くなるとは思えなかった。


 衣類の洗剤の香りに包まれながら、ユシャイエは目を瞑った。


 結婚しなかったらどうなるのだろう。


 それは許されないことだと、母に真剣な顔で説明されたが、許されない婚姻の拒絶を行うとどうなるのかまでは教えてもらっていない。


 ユシャイエは目を閉じた。

 今日の日記は、サリューと交わした楽しい部分だけを記そうと考える。


 シッシルとの結婚まで、あと五〇日しかなかった。

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