1.
ザザァ、ザザァという音の中で、ユシャイエは立っていた。
流れ着いたビンを手に、ユシャイエは首を傾げる。
それ自体はよくある漂着物だ。この海岸には、よく判らないものが魚に混じって大量に漂着する。
しかし、このボトルのように紙の入ったものは初めてだった。
このボトルは硬質だった。ツルッとしていて、厚みがある。そして緑色。
こういう場合、中身というのは大抵の場合空だ。何かが入っているとすれば腐った食べ物や腐敗の進んだ水分が精々で、紙の束がねじ込まれたそれは、珍しいものだったのだ。
あまり質の良くない紙なのか、ビンの外からでもざらざらとしていて茶色いことがわかった。
ユシャイエも日記を書いているが、そのノートの紙はもっとツルッとしていて薄水色だ。
「ユシャイエ!」
母に呼ばれてユシャイエは「はぁい」と返事をした。魚が溜まったので、母に向かって駆けていく。
「ユシャイエ、魚以外のものが混じっているじゃないか」
母はそう言うと、モクザイで編まれたカゴの中からそれを取り出し、そして海岸へと放り投げた。ポチャン、と少し可愛い音を立て、イシが水の中に消える。
「魚以外のものを拾ってはいけないといつも言っているだろう。神様がお怒りになるよ」
「母さま!」
じゅう、と指先についた僅かな海水が母の指を僅かに溶かす。ユシャイエは慌てて母の指を自分の衣類で拭った。
「なに、これくらい大丈夫さ」
「大丈夫じゃないよ……! 危ない」
まったく、大人の体は不便で仕方がない。
母さまも直接イシを触ったりしなければいいのに——、そう思うが悪いのはユシャイエなので、様々な意味を込めて素直に「ごめんなさい」と謝る。
キラキラして綺麗なイシだったが仕方がない。ユシャイエは懐にひっそりと忍ばせたボトルを撫でながら、その中身に思いを巡らせた。
濡れたボトルが腹には冷たかったが、その中身の紙の方が、綺麗なイシよりも気になったのである。
それに色もよかった。淡い緑色は、大好きなサリューの瞳と同じ色だったのだ。
「さ、帰るよ」
「はぁい」
母に手を引かれて歩く。少しカサついた手は、海水で爛れたせいだけではないようだ。
でもあのイシ綺麗だったなあ——、と後ろ髪引かれる思いでちらりと振り返る。あのイシはどこに行くのだろう。波に乗って外の世界に流れたら、もう二度と出会うことはないだろう。それが少し残念だった。
「こーら、ユシャイエ。あまり海岸を見るんじゃないよ。溶けてしまうじゃないか」
「はぁい」
ユシャイエは大人ではないから海の水で溶けたりはしないのに、と考える。
でも仕方がないのだ。
母はユシャイエが世界の外に興味を持つことを極端に恐れていた。
母を不安にさせたくはない。だからユシャイエは母の言葉に従っている。
魚拾いの当番も、本当はさせたくないようだが、これは持ち回りだから仕方がないのだろう。でもそうでない時は、できる限りユシャイエを海岸から遠ざけようとしていた。
だからユシャイエも母の気持ちを汲んで、なるべく外の世界にそれほど興味がないように振る舞っているのだ。
本当は外の世界が気になって仕方がない。
あの立ちこめる霧の向こうはどうなっているのだろう? だが、やはりそれを口にすることはできなかった。
母は、ユシャイエが海の水に触って溶けるのではないかとヒカガクテキなことを心配しているのだ。
エンブリオは水に溶けないから魚拾いができるのに、とユシャイエは考えた。
「ユシャイエ」
母に腕を引かれた。
と、世界が緩やかに大きく揺れる。これもいつものことだ。よろめいたユシャイエの背中を、母の腕が覆った。それでも地面はなお揺れる。
ゴゴゴ、グググ、ゴゴゴ。
この世界を構成する要素の一つであるその音は、絶えず鳴り響いている。
おっと、とユシャイエは壁に手をついた。ぬるい温度と、ドクドクと脈打つ振動が手に伝わる。
——母さま、なぜ壁や地面はドクドクというの?
幼い頃にそう尋ねたユシャイエに、母は眉間に皺を寄せながら「世界とは、クジラはとそう言うものだ」と言った。
また、「世界とは何?」と尋ねれば、「ユシャイエは善なる存在であるエンブリオなのだからそんなことを考えてはいけない」とも言ったのだ。
世界とはなんだろう。クジラとはなんだろう。
クジラとはこの世界で、世界とはここにあるすべてだと先生が言った。しかしユシャイエは、未だそれを理解できずにいた。
では海岸に届く魚や漂着物はなんなのだろう世界の一部ではないのだろうか。
ユシャイエは母に言わせれば「変わった子」らしい。人々がそう気にしないことばかりを気にする、とのことだった。
揺れがおさまった。
「どこもぶつけていないかい?」
母がユシャイエの頭を撫でて問う。
「うん、大丈夫」
「ああ、こんなに服を汚して」
いつ汚したんだい、と言いながら、母は地面に膝をつき、衣類の汚れを払ってくれる。ついでにサンダルの紐も結び直してくれた。
「動きにくくないかい?」
「大丈夫」
「あんたももうすぐ成人して結婚するんだからしっかりしなさい」
「……はぁい」
ユシャイエは曖昧に笑った。
「ほら、カゴをこちらに寄越して。母さまが運ぶよ」
「うん」
「今日は魚の煮物にしようね」
「うん」
「卵の塩漬けはどうする?」
「食べたい」
「じゃあ硬めのパンを用意しようね」
「うん」
結婚。
そう、ユシャイエはもうすぐ結婚をする。
憂鬱だ。
ユシャイエは本当は結婚などしたくなかったのだ。しかしどうやらそれは、神様に決められたことだから仕方がないことのようだった。
ユシャイエは成人を迎えると同時に、同い年のシッシルと婚姻しなくてはならないのだ。
繁殖のためには仕方がないらしい。とはいえ、シッシルと結婚すると聞いた時は大泣きしたものだ。
どうせなら幼馴染のサリューと番になりたかったが、それは駄目だと言われてしまった。
ユシャイエとサリューでは「形」が合わないのだそうだ。母の説明はよく判らなかったが、結局のところ、サリューと結婚することはできないということだけは理解できた。
それにしても、とユシャイエは考えた。
相手はよりによってシッシル——、ユシャイエの髪を引っ張ったり、時々叩いたりしてきた嫌なヤツだ。
それは成長と共に落ち着いたが、それでも時折は道ですれ違うとユシャイエに変なことばかり言うのである。
本当にシッシルが嫌いだ。あんなやつ、交換されてしまえばいいのに、とさえ考える。
大体、小さい頃の話とはいえ、髪を引っ張ったり意地悪をしてきたヤツなんて、好きになれるわけがないのだ。
そう言えばユシャイエの父も母を時々殴っていた。神様に飲み込まれたので、もう今はいないが、アレは嫌な思い出だ。
「ユシャイエ?」
「なに?」
「急に静かになってどうしたね?」
「……結婚のことを考えていたの」
優しい母も、結婚に関しては「仕方がない子だね、母さまに任せてごらん」とは言ってくれない。ただひたすらに、シッシルとの結婚は決められていることだと諭すばかりだ。
いつか母が「ほら、もうなんにも心配はないからね」と言ってくれるのではないかとユシャイエはずっと期待していたのだが、しかし今日までの間、母が結婚に関して、一度としてそう言ってくれたことはなかったのである。
「……そんなにシッシルが嫌なのかい」
「だってあいつ、変なことばかり言うんだもん」
「シッシルとお前が結婚するのは決まりだから仕方がないんだよ」
「この間も変なこと言ってきたんだよ」
「なんと言ったんだい?」
「……言いたくない」
ムスッとすると、母は笑った。
「……大丈夫さ。シッシルがあんたにこれ以上嫌なことをするのなら、神様がお許しにならないよ。安心しなさい」
「……はぁい……」
母に手を引かれて歩く。
結婚式の衣装は伝統的なものがあるから心配する必要はないこと、結婚式では美味しい食べ物がたくさん出ること、そして神様の祝福があることを聞かされた。
それは何度も知らされたことだから、ユシャイエも理解していた。
だけど、それでも憂鬱な気持ちはおさまらない。
海岸から暫く行くと、少しずつ人が増えていく。まるでユシャイエの不安が増えていく様を表しているかのようだ。
遠くで男が、配給窓口の職員を怒鳴っているのが見えた。
「ユシャイエ、見るんじゃないよ」
母に言われてユシャイエは目を逸らした。
「まったく、管理棟はなにをやっているんだか。治安が悪くなるじゃないか……」
母が小さくため息交じりに言った。男が一際大きな声を出す。
「母さま、怖い……」
母に言うより早く、その胸にぎゅうっと抱きしめられた。
「エンブリオたちに悪い影響を与える」
と誰かが言った。
「エンブリオが歪んでしまう」
別の誰かが侮蔑混じりに言う。
憲兵隊が走っていくのが腕の隙間から見える。彼らが出動することはあまりない。
治安を著しく害するものは神に飲み込まれるからだ。それは特に珍しいことではない。ユシャイエの最初の父もそうやって消え、そして新しい父と交換されたのだ。
憲兵に男が連れて行かれたのを見送ると、ようやく母の腕から出ることができた。
「ほら、もう大丈夫だよ」
母に頭を撫でられ、ユシャイエもようやく微笑む。
それから再び母と手を繋いで歩く。
「ユシャイエ、いい魚は獲れたかい?」
道すがら、近所のおばさんに声をかけられ「うん」と返事をする。
「ユシャイエちゃん、パンを持っていくかい?」
おじさん言われて、ユシャイエは頷いた。
誰も彼もがユシャイエを知っていて、ユシャイエも彼ら全員を知っている。
なんとも窮屈だがこれがここでの日常だ。
大通りに出ると、多くの人が歩いていた。
集めた魚を集積所に提出したあとは自由時間となる。
「あまり遠くへ行くんじゃないよ。鐘が鳴ったらすぐに洞穴に帰ってくるんだよ。薬は大事だからね」
「判ってる」
手をブンブンと振ると母が笑顔で手を振り返してくれた。
大通りを歩くのは好きだ。
色んな人がすれ違う。みな知り合いではあるが、全員と親しいわけではない。特別親しい人とだけ挨拶を交わしてそして通り過ぎる。
「ユシャイエ」
「……」
シッシルがそこにいた。
シッシルは当たり前のようにユシャイエへと近づくと、返事も挨拶もされないのに後をつけてくる。
何だというのだろう。
「ついてこないでよ」
「またサリューか?」
サリューの名を出されて、ユシャイエは自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
サリューと会うなら何だというのだろう。
いくら結婚が決まった番だと言ってもそれまではユシャイエの自由のはずだ。
「話しかけないで」
「なんのための番だろうな」
シッシルの言葉に苛立ちがつのる。
ユシャイエだって、シッシルなんかと結婚したくなどない。なんのため、なんて繁殖のために決まっている。シッシルはたびたびこういうことを言うが、要はユシャイエとサリューの、親密すぎる関係に釘を刺しているのだろう。
シッシルが本当に嫌いだった。
噂では海岸で木を拾っている、なんて話もあった。
噂になるくらいだから堂々と拾っているのだろう。
とにかくシッシルは不気味で、ユシャイエはあの真っ青な瞳も気持ち悪くて嫌いだった。
「シッシルには関係ない」
シッシルから逃げるようにして、ユシャイエは走った。走って走って、道ゆく人がまばらになった頃、それから人通りが少ない裏路地に入ったのだ。
呼吸を整えながら、それからキョロキョロと周りを見回して、ソッとそこをこじ開けビンを放り込んだ。
小さな洞穴だ。人が住むには小さすぎるその場所は、柔らかな蓋で閉じられていた。
この世界にはそう言う切れ目がいくつもあり、それをこじ開けると大抵は大小様々な空間が広がっているのである。大きい洞穴は住居かあるいは店舗だ。
まるで唇と口の中みたいだ、とユシャイエはいつも考える。
これで大丈夫だ。ビンをしまったから、パンを片手に持っていてもサリューと手を繋げる。誰かに見られた様子もない。
それからユシャイエはさりげない仕草でその場を離れ再び大通りに戻った。




