第65話 余白の果実
朝の光が差し込む。
風がやさしく丘を撫で、草の香りが漂っていた。
カイは目を覚まし、
いつもの天井を見上げた。
もう、紫の空も、崩れゆく劇場もない。
ただ静かな現実だけがあった。
隣で、リラがうとうとと寝息を立てている。
枕元には乾いた羽――
あの、ナリアから託された紫の羽が置かれていた。
◇ ◇ ◇
彼はそっと起き上がり、
窓を開けた。
空は透き通るような青。
どこまでも続く風の音が、
まるで「もう大丈夫」と言っているようだった。
「……終わったんだな」
呟く声は小さく、けれど確かだった。
リラが目をこすりながら起き上がる。
「おはよう、カイ。夢、見てたの?」
「いや、現実を見てた気がする」
彼女は首をかしげ、微笑んだ。
「変なこと言うのね」
カイは笑いながら、
机の上に置いていたノートを開いた。
中身は真っ白。
けれど、そこにはもう“書かなきゃ”という焦りもなかった。
◇ ◇ ◇
二人は丘の畑へ出た。
小麦の芽が、朝露に濡れてきらめいている。
リラが空を見上げる。
「ナリアは、もうどこかへ行っちゃったのかな」
カイは頷く。
「きっと“風”になったよ。
語られない物語は、風になって世界をめぐるんだ」
リラは小さく笑った。
「じゃあ、風が吹いたらナリアの声が聞こえるね」
「そうだな。
――だから、耳を澄ませよう」
二人は畑の真ん中に立ち、
吹き抜ける風に身をゆだねた。
◇ ◇ ◇
【昼下がり】
木陰の下で、リラがバスケットを開く。
パン、果実、ハーブティー。
何も特別じゃない。
けれど、その“何もない時間”こそが尊いと思えた。
「ねえ、カイ。
これから、どうするの?」
「どうもしないさ。
生きて、聞いて、笑って……
それを続けるだけで、もう“物語”だろ?」
リラは頬を赤らめ、
パンを千切って彼の口に差し出した。
「……じゃあ、今日の一節はこれね」
「ん? 何の?」
「“二人で食べた昼のパンは甘かった”――ほら、
ちゃんと語りになってる」
カイは吹き出し、
空を見上げた。
青がまぶしい。
◇ ◇ ◇
【夕刻】
太陽が沈む。
風車がゆっくりと回り、
丘の影が長く伸びる。
リラは空を見上げながら言った。
「ねえ、カイ。
あなたはまだ、“勇者のこと”を覚えてる?」
「もちろん。
でも、あの人はもう“誰かの勇者”じゃない。
自分の生を全うした一人の人間だよ。」
「……そうだね」
リラは目を閉じ、
風に吹かれる鈴の音を聞いた。
チリ……チリ……。
あの音は、どこかでまだ“物語”を生きている証のようだった。
◇ ◇ ◇
夜。
二人は灯を落とし、
焚き火の前に並んで座っていた。
カイは紫の羽を手に取り、
それを火の中へそっと投げ入れた。
羽はすぐに灰になり、
柔らかな光を放ちながら消えていく。
「さよなら、ナリア。
君の名は、もう語られなくても――
ちゃんとここに、生きてる。」
リラはその肩に頭を寄せた。
「……語られない物語って、少し寂しいね」
「だからこそ、美しいんだ。
語られないものは、永遠に変わらないから。」
◇ ◇ ◇
風が焚き火を撫で、
灰が宙に舞った。
星空が広がり、
その一つが流れ落ちる。
リラが小さく囁く。
「ねえ、カイ。
流れ星って、風の物語の“句読点”なんだって」
カイは頷いた。
「いい言葉だな」
「でしょ?」
二人は笑い、
夜風の中で肩を寄せ合った。
◇ ◇ ◇
――その夜、
世界のどこかで、風が静かに囁いた。
『ありがとう。
あなたたちの“生”が、
この物語の最後の章よ。』




