第62話 黒の記憶、目覚める
――静寂の底で、誰かが息をした。
その吐息は風に溶け、
波紋が記憶の海をゆっくりと広げていく。
世界が白紙に戻るたび、
彼女の意識もまた、深く沈み、そして浮かび上がる。
『……また、始まるのね。』
黒衣の女――ナリアは目を開けた。
彼女の周囲には、崩れかけた城壁、
そして宙に漂う黒い羽の群れ。
過去の断片。
“かつて勇者と対峙した時”の記憶が、
ひとつずつ、彼女の中で再生されていく。
◇ ◇ ◇
光と闇の境で、
ナリアは膝を抱えて空を見上げた。
空はまだ名前を持たない――
勇者がまだ存在しない、物語の前夜。
『人はなぜ、名を求めるのか。
名を得た瞬間、自由を失うというのに。』
その問いに、
答えたのは、背後から聞こえた少年の声だった。
「……名前がなければ、誰も君を呼べないだろ?」
振り返ると、そこに立っていたのは、
若き日の勇者――
まだ世界に希望の意味を知らなかった頃の彼。
◇ ◇ ◇
『あなたは……』
「まだ勇者じゃない。
ただの人間さ。
でも、君の孤独を知ってる気がする。」
ナリアは微かに笑った。
『孤独を知る者は、やがて“黒”に染まる。
それを恐れぬのなら――あなたもまた、同じ場所に立つことになる。』
「それでもいい。
君が闇の中にいるなら、僕はそこへ行く」
勇者の言葉に、
ナリアの胸がかすかに震えた。
けれど、次の瞬間――
彼女は微笑んで、その心を閉ざした。
『ならば覚悟して。
光はいつか闇を裏切る。
それでも、君は私を呼ぶ?』
「呼ぶさ。
たとえ誰も望まなくても、僕が呼ぶ」
◇ ◇ ◇
――そして、世界は分かたれた。
勇者は光に、
ナリアは闇に。
それが、すべての始まり。
すなわち“終わり”の起点。
◇ ◇ ◇
現在。
ナリアは静かに立ち上がる。
世界が再構成される音が聞こえる。
彼女の足元には、
白と黒の境界が揺らめきながら繋がっていた。
『彼が、また私の名を呼んだ。
ならば、私も彼の時代に応えよう。』
ナリアの指先から、
黒い光が風に乗って飛び散る。
それは“再演”ではない。
――“再生”の兆し。
『私はもう、敵ではない。
けれど、この世界に残る“歪み”だけは、終わらせなければ。』
◇ ◇ ◇
その時、
彼女の前に、ひとつの影が現れた。
影は紫の輝きをまとい、
懐かしい声で囁いた。
『……久しいな、ナリア。』
ナリアは振り向く。
そこに立っていたのは、
勇者ではなく――“紫の勇者”だった。
彼は微笑んで言った。
「ようやく、君自身の物語を始める気になったか。」
ナリアは目を細める。
「あなたが導いたのね。……彼を、私の名へと。」
「導いたのは“風”だ。
君が残したものだよ。
彼――カイはもう、勇者でも観客でもない。
“語り継ぐ者”でもなく、“聞く者”だ。」
ナリアはそっと微笑んだ。
「……そう。なら、彼には見せてあげないと。
“黒の時代”に、どんな真実が隠されていたのかを。」
◇ ◇ ◇
空が震えた。
黒の塔の残響が世界中に響き渡る。
大地の奥で眠っていた古の力――
“忘れられた神々の声”が、再びざわめき始めた。
『名が呼ばれた。
ならば、過去もまた、名を取り戻す。』
ナリアは振り返り、
闇の奥へと歩き出す。
「……行くわ。
この世界が“光に支配される前”の記録を――
すべて、思い出すために。」
◇ ◇ ◇
【虚空】
紫の勇者が静かに目を閉じた。
「黒の物語が動き出した。
勇者が救った世界の裏側が、
ようやく語られる番だ。」
彼の視線の先で、
黒い羽がゆっくりと落ちていった。
『――ようこそ、“黒の時代”へ。』




