第61話 名の回廊
黒の塔の扉が開いた瞬間、
世界が裏返った。
風の音が止まり、
空気が沈黙という形を取る。
二人の足元の大地が、
まるで“紙”のように白くなっていく。
カイはリラの手を掴んだ。
「……中に、入ったのか?」
リラが頷く。
「ここが――“名の回廊”。
世界のどの地図にも載っていない、記録の裏側よ。」
◇ ◇ ◇
目の前に広がるのは、
無数の扉が浮かぶ長大な通路。
それぞれの扉には、
淡い文字のような模様が刻まれている。
けれど、そのどれもが途中で掠れていた。
名を持たぬまま、
書かれかけて消えた言葉たち。
「……ここは、“忘れられた名前”の墓場だ。」
カイの声が、空間に吸い込まれていく。
リラは指で壁をなぞった。
触れた部分が微かに光り、
誰かの声が流れた。
『――勇者に敗れた者。
その名を呼ぶ者なし。
ゆえに、私は影となる。』
リラの顔が強張る。
「やっぱり……魔王の記録がここに残ってる」
◇ ◇ ◇
奥へ進むほど、
回廊の空気が重くなっていく。
まるで名前そのものが彼らを見つめ返しているようだった。
やがて、一際大きな扉の前で二人は立ち止まった。
そこには、ひとつだけはっきり読める文字が刻まれていた。
“■■ナ”
リラが呟く。
「途中までしか……。でも、“ナ”で終わる名前?」
カイは首を振る。
「……違う。“ナ”は最初の文字だ」
リラがはっとする。
「じゃあ、この扉は――“名”そのものの始まり?」
カイが扉に手を当てた瞬間、
光が奔り、回廊全体が震えた。
◇ ◇ ◇
扉の向こうに広がっていたのは、
“記憶の海”だった。
無限の水面が、言葉でできている。
波のひとつひとつが、
かつて語られ、消えた名の響き。
『……ようやく来たのね。』
声がした。
水面から現れたのは、
漆黒の衣を纏う女性の影。
その姿は、かつて見た“魔王”と同じ輪郭をしていた。
だが、その瞳には悲しみよりも静かな慈しみが宿っていた。
『名を探す者よ。
私を見つけることは、
あなた自身の“始まり”を探すこと。』
カイは息をのむ。
「……あなたは、魔王なのか?」
彼女は微笑む。
「“魔王”という名も、誰かが与えたもの。
本当の私は――まだ、あなたたちの口から呼ばれていない。」
◇ ◇ ◇
水面に波が走る。
無数の声が囁く。
『ナ……ナ……ナ……』
リラが耳を塞ぐ。
「だめ、聞いたら取り込まれる!」
カイは一歩踏み出した。
「名前は呪いじゃない。
それを“呼ぶ”ことが、彼女をこの世界に還すんだ!」
『では問おう。
あなたは誰の名を呼びたい?
勇者の名か、私の名か――』
カイは迷わず答えた。
「……“あなた”の名を!」
◇ ◇ ◇
瞬間、海が割れた。
水が光の粒となって宙に舞い、
空間いっぱいに、ひとつの文字が浮かび上がる。
“ナリア”
その名が響いた瞬間、
回廊のすべての扉が一斉に開いた。
風が吹き抜け、世界が揺れる。
リラが叫ぶ。
「カイ! 世界が……再構成されてる!」
カイは微笑んだ。
「いいさ。
――これが、“彼女の物語の始まり”なんだから」
◇ ◇ ◇
【虚空】
紫の勇者が立ち上がった。
「名が呼ばれた……。“ナリア”か。
ようやく、真実の舞台が開いたな。」
黒い霧の奥で、
微笑む女の影が囁く。
『勇者よ。
今度は、私の世界を見て――』




