第60話 黒の塔の残響
風が冷たくなった。
季節の変わり目でもないのに、空気の層がひとつずれている。
まるで世界そのものが“書き換えの前兆”を見せているようだった。
カイとリラは北へ向かって歩いていた。
旅立って三日。
足元の道は徐々に石畳から黒い岩肌に変わっていく。
遠くの地平に、
細くそびえる影が見えた。
黒の塔――
かつて、魔王の居城だった場所。
◇ ◇ ◇
丘を越えた先の村で、
二人は一人の老人と出会った。
彼は焚き火のそばで、黒いマントを肩にかけ、
古い楽器を手にしていた。
「旅人か……? この先は荒れておるぞ」
カイは頷き、腰を下ろした。
「黒の塔へ向かっている。
“名を探す”ために。」
老人は楽器の弦を弾き、
低く笑った。
「……また、“あの名”を求める者が現れるとはな」
リラが身を乗り出す。
「あなた、知っているの? 魔王のことを!」
「知るとも。
わしの祖父は、“魔王の従者”の一族だった。」
◇ ◇ ◇
火の粉が舞う。
老人の瞳が、橙の光の中で揺れた。
「かつての魔王は、誰かに討たれたのではない。
――自ら“名を棄てた”のだ。」
カイとリラは同時に息を呑む。
「名を棄てた?」
老人は頷いた。
「名を失えば、存在は“物語の外”に退く。
それが彼女の望みだった。
勇者との決着は、勝ち負けではなかったのだよ。」
リラが手を握る。
「……でも、どうしてそんなことを?」
老人は焚き火を見つめ、
ゆっくりと弦を鳴らした。
「“語られる者”である限り、
人は自由になれぬ。
だから、彼女は“無名”を選んだ。」
◇ ◇ ◇
風が強く吹き抜けた。
黒い羽がひとつ、火の中に落ちる。
瞬間、炎が紫に変わり、
老人の顔が淡い光で照らされた。
カイが声を上げる。
「あなた、まさか……!」
老人は微笑んだ。
「安心せい。わしはただの語り部だ。
だが、“無名の主”はまだこの世界のどこかに眠っておる。
風が、彼女の名を探しておる。」
リラが小さく呟く。
「じゃあ、私たちは――その風を追えばいいのね」
「そうじゃ。
だが気をつけろ。
“名を呼ぶ”その瞬間、
お前たちはもう“観客”ではいられなくなる。」
◇ ◇ ◇
夜更け。
老人の家を後にし、
二人は再び北の道を歩く。
黒の塔が近づくにつれ、
風の音が重くなる。
耳の奥で、何かが囁く。
『名を……思い出して……』
リラが足を止めた。
「カイ、今の……聞こえた?」
「ああ。
もう風そのものが、“彼女の声”になってる」
二人の足元で、
黒い羽がひとつ、静かに光った。
◇ ◇ ◇
塔の麓に着いたのは、夜明け前。
黒い石の表面には無数の刻印が走り、
その一つ一つが微かに呼吸しているように脈打っていた。
カイが剣の柄に触れる。
「この塔……まだ“生きてる”」
リラは魔導書を開き、
光の魔法で文字を照らした。
そこに刻まれていたのは、
一行の古い碑文。
“名なきものよ、風の終わりに還れ。”
リラが震える声で言う。
「これ……封印の詩文よ。
魔王は“風の終わり”に還ったって……どういう意味?」
カイは静かに呟く。
「“風の終わり”――
それは、この世界が語りを失う場所だ。」
◇ ◇ ◇
黒の塔の扉が音を立てて開く。
風が逆流する。
闇の奥から、女性の声が響いた。
『……勇者の末裔よ。
なぜ私の名を求める?』
カイは一歩踏み出した。
「終わらせるためじゃない。
――受け継ぐためだ。」
一瞬、風が止まった。
そして次の瞬間、
塔全体が光に包まれた。
◇ ◇ ◇
【虚空】
紫の勇者が目を閉じた。
「ついに、彼らは“名の外”に触れたか……。
その先にあるのは、
再生か、それとも――再演か。」
黒の霧の中で、
一つの声が笑った。
『終わりのない物語が、また動き始めたわね。』




