第58話 風が運ぶ名もなき声
その朝、風は少し違っていた。
冷たくもなく、暖かくもない。
けれど確かに――言葉のような匂いを含んでいた。
カイは丘の畑で鍬を止め、顔を上げた。
空が流れている。
風の筋が、薄く、まるで“文字”のように形を変えていた。
「……また、だ」
家の方からリラの声がした。
「どうしたの?」
「風が……何か言ってる」
リラは戸口で手をかざし、風を掬うように指先を伸ばした。
その掌に、淡い光の粒がひとつ乗っている。
それは小さな羽のようでもあり、紙片のようでもあった。
カイが近づき、それをそっと覗き込む。
光が淡く明滅し、そこに言葉が浮かんだ。
『……私は、まだ終わっていない。』
リラが息をのむ。
「まるで……誰かの、声」
カイはその紙片を握りしめ、
「風が運んできた“欠片”だ。
この世界のどこかに、まだ語られていない“続き”がある」
と呟いた。
◇ ◇ ◇
夜。
家の中、机の上に欠片を置き、
二人はランプの灯を落として光を見守っていた。
光の中に、断片的な映像が浮かぶ。
古い城、黒い王座、そして――玉座の影に座るひとりの少女。
「……あれは?」
リラの声がかすれる。
『我は、魔王。
だが、私の物語は“勇者”によって書き換えられた。
だから今、風に問う。
本当の終わりとは何か――』
映像が途切れる。
カイは拳を握った。
「……魔王の、記憶だ」
◇ ◇ ◇
翌日。
丘を越えた向こうに、かつての塔の跡地がある。
“筆の塔”が崩れたあと、
そこには光る砂だけが残っていた。
二人はそこへ向かい、風の欠片を埋めた。
まるで墓標のように、静かに。
だが、地面が微かに震えた。
砂が舞い、淡い光の輪が広がる。
リラがカイの腕を掴む。
「……何か、来る!」
光の中に、薄紫の霧が立ち上り、
やがて輪郭を持つ。
――女性の姿。
長い髪を風に流し、
瞳は夜の闇のように深い。
『……勇者の時代は終わった。
ならば今度は、“黒の時代”を語る番だ。』
カイは息を呑んだ。
「……魔王……?」
彼女は微笑む。
「呼び名など、もうどうでもいい。
私は、“勇者の影に書き残された存在”。
――終わりの後に取り残された物語よ。」
◇ ◇ ◇
風が強く吹き、砂が舞い上がる。
空がうっすらと暗くなり、
太陽の縁に紫の環が生まれた。
リラが叫ぶ。
「カイ! この現象、まるで“筆の塔”が動いてるみたい!」
カイは目を見開く。
「……世界が、また“書かれよう”としている」
魔王はその言葉に微笑み、
風の中に溶けるように姿を消した。
『探しなさい、勇者の後継。
私の名を。
それが、物語の最初の鍵。』
◇ ◇ ◇
風が止んだ。
残されたのは、小さな黒い羽。
その表面には、かすかに“名もなき文字”が刻まれている。
リラがその羽を手に取り、
静かに呟いた。
「……名前を、探せってことね」
カイは空を見上げた。
空はもう紫ではない。
けれど、どこかにあの時の光の名残があった。
「なら行こう。
もう一度、風の向こうへ。
今度は――“彼女の物語”を聞きに行く。」
◇ ◇ ◇
【虚空】
紫の勇者が目を開ける。
風が彼の頬を撫で、
遠くに“黒い影”の光が揺れていた。
『……やはり、物語は終わらない。
だが今度は、“語られなかった者たち”の番だ。』
彼はゆっくりと微笑む。
「いいだろう。
ならば――聞かせてくれ、“魔王の真実”を。」




