第57話 風にまぎれた物語
それから、五年が過ぎた。
世界は穏やかだった。
戦も、神話も、奇跡も、もう誰も口にしない。
人々はただ、朝に起き、働き、笑い、夜に眠る。
それだけの毎日を、ようやく取り戻していた。
丘の上に、小さな家が建っていた。
あの草原――かつて“物語が終わった場所”。
いまは風見鶏が軋み、畑が広がる静かな暮らしの場になっている。
カイは鍬を肩に担ぎ、土をならしていた。
風が吹くたび、風車が回り、鈴がかすかに鳴る。
チリ……チリ……
その音は、遠い勇者の記憶のようだった。
◇ ◇ ◇
「カイー! お昼できたよー!」
家のほうから、リラの声が響く。
彼女はもう魔導士のローブを脱ぎ、
白いエプロン姿で台所に立っている。
テーブルの上には焼きたてのパン、スープ、
そして――小さな花束。
「……誕生日、だよね?」
「……よく覚えてたな」
カイは少し照れくさそうに笑う。
「そりゃあ、覚えてるよ。だって“現実”で迎える五回目の誕生日だもの」
リラはカイの前にパンを置き、
「もう“物語”に守られない世界だけど、
ちゃんと祝うのよ。これも、私たちの脚本だから」
と微笑んだ。
◇ ◇ ◇
昼下がり。
二人は家の前のベンチに並んで座り、
のどかな風を感じていた。
ふと、リラが空を指差した。
「ねぇ……あれ、見える?」
高い空の上、淡い光の線が流れていた。
それは流星のように見えたが、
どこか違う。
まるで“文字のかけら”が空を横切っているようだった。
カイが目を細める。
「……風に混じって、何かが書かれてる」
風が吹き、微かな声が聞こえた。
『――もしも、また語られる日が来たなら、
次は、あなたの番だ。』
リラが息を呑む。
「……勇者?」
カイはゆっくり首を振った。
「いや……違う。
これは、“風の言葉”だ。
物語が、世界そのものに溶けたんだ」
◇ ◇ ◇
夜。
カイは机の上に古いノートを開いた。
かつて“筆の塔”で使われていた古代紙だ。
リラがランプを灯しながら尋ねる。
「書くの?」
「ああ。……ただし、今度は誰のためでもなく、自分のために」
カイはペンを取り、
最初の一行を書いた。
『風が語るなら、僕はただ、耳を澄ます。』
リラが微笑む。
「それって、まるで“聞き手の物語”ね」
「そう。
語らなくても、伝わる。
そのほうが、きっと真実に近い気がするんだ」
◇ ◇ ◇
窓の外では、風が吹いていた。
チリ……チリ……
古い鈴の音が響く。
その音に呼応するように、
家の前の風車がひとりでに回り始めた。
紫の光が一瞬だけ灯り、
そしてすぐに風の中へ消えていく。
リラが目を細めた。
「ねぇカイ。
まだ、どこかで“物語”が息をしてるのかもしれないね」
カイは笑った。
「だったら――聞こえる限り、聞こう」
◇ ◇ ◇
【虚空】
風の中で、
紫の勇者がひとり、目を閉じていた。
『……そう、それでいい。
語られなくても、物語は生き続ける。
心の中で囁かれる限り。』
彼はそっと手をかざし、
空を撫でた。
無数の風の粒が流れ、
それぞれが新しい物語の芽となって散っていく。
◇ ◇ ◇
丘の上の家に、夜風が吹く。
窓辺で灯るランプの下、
カイのペン先が動き続けていた。
“終わった物語の続きに、
人々の暮らしがあった。”




