第56話 余白の朝
夜が明ける。
雲の切れ間から差す光が、世界の輪郭をゆっくりと描き直していく。
昨日まで“物語”だった世界が、
いまはただの現実として息づいていた。
風の匂い。
土の温もり。
鳥の声。
それだけで、生きていると実感できた。
◇ ◇ ◇
カイは街外れの丘にいた。
かつて戦場だったその場所は、
今は野花が咲き乱れる静かな草原だ。
紫の空はもう消え、
青と白だけが広がっている。
――色を失った世界は、むしろ美しかった。
背後から足音。
リラが紙袋を抱えてやって来た。
「おはよう。パン、焼けたよ」
「また作ったのか?」
「ええ。物語がなくても、お腹は空くでしょ?」
カイは笑ってパンを受け取る。
香ばしい匂いが風に乗った。
「……うまい」
「そりゃそうよ。もう台本通りじゃなく、自分で作ってるんだから」
二人の笑い声が、風に溶けた。
◇ ◇ ◇
丘の下の町は、ゆっくりと再生を始めていた。
工房では子供たちが木を削り、
人々は市場を開き、
神官たちはもう祈りではなく“歌”を紡いでいる。
「ねえ、カイ」
「うん?」
「私たち、これからどうする?」
カイは空を見上げた。
鳥の群れが南へ飛んでいく。
「物語がなくなっても、
生きることは続く。
だったら――俺たちは、
“誰かの物語を聞く側”になればいい」
リラは目を瞬かせた。
「語り手じゃなく、聞き手?」
「そう。
勇者が終わらせた世界は、“語る”ことに疲れてた。
だから次は、“聞く”ことで動かす番だ」
彼は立ち上がり、草の上を歩く。
その足跡の先には、未舗装の道が続いていた。
◇ ◇ ◇
【夕刻】
二人は街の広場にいた。
灯りがともり始め、子供たちが輪になって踊っている。
その中央に、古い石碑が立っていた。
“この世界を終わらせた勇者に感謝を。
終わりは、始まりの形をしていた。”
リラが石碑を撫でながら微笑む。
「この言葉、あなたが書いたの?」
「……ヴァンが書いたらしい。
『観客がいなくなっても、拍手は風に残る』って言ってたよ」
リラは目を細める。
「いい言葉ね」
カイは肩をすくめた。
「俺は、もう筆を握らない。
でも、風の音なら聞こえる。
きっと、それで十分だ」
◇ ◇ ◇
夜。
風が静まり、月が丘を照らす。
リラは焚き火のそばで目を閉じていた。
カイは火を見つめながら、
懐から古い鈴を取り出す。
アマリアの祈り鈴。
――勇者が最初に残した、“心の音”。
チリ……チリ……。
かすかな音が夜空に消えていく。
カイはその音に微笑んだ。
「終わったよ、勇者。
けど、みんなまだ生きてる。
それが、お前の物語の証だ」
◇ ◇ ◇
月の光の中で、
リラがそっとカイの肩にもたれた。
「ねぇ……もしまた、物語が始まったら?」
「そのときは――
観客席じゃなく、
客席の隣で笑っていよう」
リラは小さく笑い、
「……それ、いいね」と呟いた。
二人は空を見上げた。
もうどこにも紫の光はない。
ただ、穏やかな夜の色。
物語が終わった世界は、
ようやく“日常”という名の奇跡を取り戻していた。




