第55話 終幕の筆
静寂の劇場。
観客のざわめきは止まり、
ただ一つ、舞台の上に立つカイとリラの呼吸だけが響いていた。
紫の光がゆっくりと幕を照らす。
その奥から――新しい“勇者”たちが歩み出てくる。
銀の鎧を纏った者、紅の魔女、黒翼の天使。
どれも見覚えがある。
過去の時代に語られた“英雄譚”の残響たち。
『私たちは観客の願いが生んだ勇者。
お前たちが否定した“終わらない物語”の化身だ。』
カイは剣を構えた。
「……終わらない物語は、もう終わらせる」
◇ ◇ ◇
初代の影が前に出る。
その瞳は光を失っていた。
「終わりを描く者よ、証を示せ」
カイは胸の“物語の核”に手を当てた。
そこから紫の光が広がり、
剣の形に変わる。
「――これが、勇者の最後の遺稿だ」
リラが隣で頷き、杖を掲げた。
「脚本を塗り替える。《Rewrite=転章》」
彼女の呪文とカイの剣閃が重なり、
舞台上に光の筆跡が描かれていく。
その軌跡は、観客たちの“記憶”を削り取っていった。
『物語が……消える?』
『やめろ……終わりたくない……!』
声が溶け、光が舞う。
だが、ひとつだけ穏やかな声が混ざった。
『ありがとう。やっと、眠れる。』
◇ ◇ ◇
観客たちの影が、次々と舞台に溶けていく。
それは敗北ではなかった。
“完結”という名の帰郷。
リラの頬に涙が伝う。
「……みんな、やっと……終われたんだね」
カイは頷いた。
「終わることは、悲しみじゃない。
語り尽くすことが、愛なんだ」
◇ ◇ ◇
そのとき、劇場の天井に巨大な“筆”が現れた。
かつての《スクリプトル・ムンディ》。
だが今は、誰の手にも握られていない。
それがゆっくりと落下し、
カイの足元に突き刺さった。
紫の勇者の声が、遠くから響く。
『受け取れ。
これはもう、脚本家の筆ではない。
“終わりを書ける者”の筆だ。』
カイはその筆を両手で握る。
重い。
世界の重さそのものだ。
「終幕を――描く」
◇ ◇ ◇
筆先が光を帯び、
宙に一行の文字が刻まれる。
“勇者は、観客のために戦うことをやめた。
彼は、物語そのものを救うために立ち上がった。”
瞬間、劇場全体が崩れ始めた。
座席が光に溶け、
観客の影が微笑みながら消えていく。
リラが手を伸ばす。
「カイ! もう時間がない!」
「わかってる!」
カイは筆を高く掲げ、
最後の一文を描いた。
“そして、物語は――終わりを迎えた。”
◇ ◇ ◇
光。
眩いほどの、紫の光。
それは破壊ではなく、解放だった。
劇場の闇が消え、
文字が雨のように世界へと降り注ぐ。
その一つ一つが、
人々の“心”として再び生まれ変わっていった。
◇ ◇ ◇
【虚空】
紫の勇者が、微笑んでいた。
「ようやく、舞台が閉じたね。
……ありがとう、カイ。
君が“終わり”を描いたことで、
この世界はやっと“始まり”に戻れた。」
◇ ◇ ◇
【現実世界】
カイは目を開けた。
朝の光。
リラの手が、彼の頬を包んでいる。
「……戻ってきたの?」
「ああ。もう劇場はない」
空には、かつての紫が淡く残っていた。
それはもう“舞台照明”ではない。
ただの、穏やかな空の色だった。
リラが笑う。
「じゃあ、これが……本当の“終わり”?」
カイは静かに首を振った。
「いや。
――これが、本当の“始まり”だよ。」
◇ ◇ ◇
その瞬間、世界が息をした。
風が流れ、花が咲き、
誰もが無意識に、空を見上げた。
もうそこに、勇者はいない。
けれど、心の奥で誰もが知っていた。
――彼が終わらせたからこそ、
私たちは、今日を生きている。




