第52話 筆の塔
光の海を渡り終えたとき、
そこは――言葉のない世界だった。
海の代わりに宙を漂う文の粒子。
風の代わりに流れる“物語の声”。
船はゆっくりと浮遊島の一つへと接近していた。
「……ここが《ネオ・アルカナ》」
リラが呟く。
眼前に見えるのは、塔。
黒曜石のような艶を放ちながら、
その表面に無数の文字が浮かんでは消えている。
近づくごとに、言葉たちがざわめき、
まるで生きているかのように彼らを見つめ返していた。
◇ ◇ ◇
船が島に接岸する。
ヴァンが甲板から飛び降り、ロープを結びながら口笛を吹いた。
「こいつは……建築物ってより、意思そのものだな」
リラが周囲を見渡す。
「誰もいないのに、声がする……」
カイは剣を背に収め、静かに塔を見上げた。
「行こう。
勇者の記憶が言っていた。
“舞台の灯は、筆によって再び描かれる”って」
◇ ◇ ◇
塔の内部は、まるで巨大な書庫だった。
天井まで届く書棚。
しかし本は一冊もない。
あるのは――空中を漂う無数の「語句の断片」。
『約束』『祈り』『裏切り』『笑い』……
それらが宙に浮かび、時折組み合わさっては消えていく。
リラが手を伸ばすと、
“願い”という言葉が指先に触れ、淡く光った。
「……温かい」
「生きてるんだよ」
カイの声が響く。
「この世界では、“言葉”が命なんだ」
◇ ◇ ◇
塔の中央に、一本の階段があった。
登るたびに、周囲の光景が変わる。
まるで各階が“別の物語”になっているようだ。
第一層は戦いの記憶。
第二層は祈りと再生の記録。
第三層には、勇者の心象が映っていた。
彼の笑い、怒り、そして孤独。
それらが紫の霧となって流れていく。
ヴァンが低く唸った。
「こいつは……人の“記録”そのものだな」
カイは頷く。
「“筆の塔”ってのは、世界のシナリオライターなんだ。
誰かがここで書いた物語が、現実になる」
◇ ◇ ◇
最上階――。
そこには、巨大な机と、一本の“羽根ペン”が浮かんでいた。
ペンの軸には古代語が刻まれている。
《SCRIPTOR MUNDI》
――世界を書き換える筆。
リラが思わず息をのむ。
「これが……勇者の言っていた“筆”……」
そのとき、部屋全体が微かに震えた。
ペンがゆっくりと宙に浮かび、
どこからともなく声が響く。
『誰が、ここに踏み入った?』
◇ ◇ ◇
声は、男とも女ともつかない。
冷たく、しかし澄んでいた。
空気が凍りつく。
カイが一歩前に出る。
「俺たちは《勇者の手記》を継ぐ者だ。
“物語の核”を受け継ぎ、新しい世界を書くために来た」
沈黙ののち、声が低く笑った。
『勇者、か。
あの“黒幕”を名乗った滑稽な演者の後継とは、皮肉だな』
カイの背筋が凍る。
「……お前は誰だ?」
『私はこの塔の主。
物語そのもの――《アークス》と呼ばれた存在だ』
◇ ◇ ◇
床が光り、無数の文字が空中で形を成す。
それは人の形をした“文字の塊”。
金属ではなく、文章でできた鎧。
“彼”がゆっくりと姿を現した。
「お前が、物語を書いているのか?」
『否。私は書かせている。
観客が望む結末を、脚本家に“強制する”のが私の役割だ』
リラが顔をしかめる。
「それって……世界の自由を奪うってことじゃないの?」
『自由? 無秩序のことを言うのか。
物語は整合性を持たねばならぬ。
勇者が消えた今、私は新しい脚本を求めている。
――君たちに、書いてもらおう』
◇ ◇ ◇
空気が変わった。
壁の文字が蠢き、床の文が鎖のように動き出す。
カイは剣を構えた。
「お断りだ。
俺たちは、観客に操られる“登場人物”じゃない」
アークスが冷たく笑う。
『では証明してみろ――“語り手の資格”を』
塔全体が震え、無数の“未完成の物語”が具現化した。
剣士、魔女、竜、英雄――
書きかけの登場人物たちが次々と現れ、襲いかかる。
ヴァンが銃を構える。
「くそっ、これ全部“文章”が敵ってわけか!」
リラが杖を掲げる。
「書かれたなら、上書きすればいい! ――《リライト・スペル》!」
魔法の光が走り、文字の怪物が弾け飛ぶ。
カイは前へ踏み込み、紫の剣で一閃。
「俺たちの物語は――俺たちが書く!」
◇ ◇ ◇
アークスが一瞬だけ黙り、
やがて笑みを浮かべた。
『ならば、見せてもらおう。
勇者の系譜――その筆致を。』
塔の中心に紫と金の光が交錯する。
そして、世界が再び“書かれ始めた”。




