第5話 王都の影と囁き
王都の朝は喧騒と鐘の音で始まった。
石畳を行き交う人々、朝市を開く商人たち、路地裏で子供たちが追いかけっこをしている。
窓から見下ろすと、すべてが整えられた舞台のように見えた。
「勇者さま、陛下より次の任務が下されました」
侍従が部屋を訪れ、恭しく頭を下げる。
差し出された封書には、赤い蝋印で王国の紋章が押されていた。
「内容は?」僕は受け取りながら問う。
「城下で囚人が脱走し、暴れております。討伐を……」
……囚人?
王都に来て最初の依頼がそれか? 魔王でも古竜でもなく、ただの人間の脱走劇?
舞台は豪華なのに、脚本は凡庸すぎる。
◇ ◇ ◇
「勇者、俺たちが出るまでもないだろう」
ジークは剣の鞘を撫でながら呟いた。「兵士たちで十分に対処できる」
「まあまあ」ミディアは扇で口元を隠して笑った。「勇者病をこじらせるより、体を動かして気を晴らした方がいいですわ」
「……罪人を討つのは心が痛みますが」アマリアは視線を伏せた。「善行ポイントには加算されるはずです」
僕は三人の顔を順に眺め、にやりと笑った。
──罪人? 違う。観客が差し込んだ“幕間”かもしれない。
凡庸な脚本のように見えて、裏にはきっと仕掛けがある。
「行こう」僕は立ち上がった。「舞台は観に行かないと始まらない」
◇ ◇ ◇
囚人が潜伏していると噂されるのは下町の外れだった。
石造りの大通りから外れた迷路のような路地。古い倉庫が並び、湿った匂いが漂う。
「気配がする」ジークが剣に手を掛ける。
次の瞬間、鉄の扉が弾け飛び、血走った目の男が飛び出してきた。
手には錆びた斧、腕には鎖が絡みついている。
「うおおおおっ!」
叫びながら突進してくる囚人に、ジークが即座に立ち塞がり、剣で受け止める。
ミディアが詠唱を唱え、足元の地面に炎が走る。
アマリアが祈りの言葉を紡ぎ、光の結界が僕らを包む。
僕は動かない。
……囚人の瞳を見ていた。
狂気の奥に、見覚えのある“影”が揺れていたからだ。
◇ ◇ ◇
斧と剣がぶつかり合い、火花を散らす。
囚人は鎖を振り回し、獣のように唸りながら暴れる。
だが僕は知っている。これはただの暴走じゃない。
「おい、勇者! 何をしている!」ジークが叫ぶ。
「まだだ」僕は低く答えた。
囚人の目。
その奥に、昨夜の宴で僕を見ていた黒外套の青年の笑みが浮かぶ。
──観客。
やはり、あいつが関わっている。
「……“役”を与えられている」僕は呟いた。
「なに?」ミディアが振り向く。
囚人は怒号を上げ、最後の力で斧を振り下ろそうとする。
僕は前へ踏み出し、右手を掲げた。
「その役は、ここで終わりだ」
言葉が、呪のように空気を震わせた。
囚人の動きが一瞬止まり、目の奥に浮かんでいた影が薄れる。
斧が地面に落ち、鎖ががしゃりと鳴った。
囚人はその場に崩れ落ち、荒い呼吸だけを残した。
◇ ◇ ◇
静寂。
ジークは剣を納め、ミディアは詠唱を解き、アマリアは額の汗を拭った。
「……勇者、今のは何をした?」ジークが低く問う。
「役を降ろさせただけだ」僕は肩を竦める。
「意味が分からん」ジークは眉をひそめるが、それ以上追及はしなかった。
ミディアは目を細め、僕を観察するように見つめていた。
「勇者ちゃん、少しずつ……舞台監督めいてきましたわね」
アマリアは困惑しながらも、囚人に祈りを捧げていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
客間に戻ると、窓の外に黒外套の影が立っていた。
「勇者」
低い声が夜風と共に入り込む。
「よくやった。あれは試練だった。君が“役”を与えられるかを、確かめるための」
僕はゆっくりと笑った。
「次は何の舞台だ?」
青年の口元がわずかに吊り上がる。
「近いうちに、大きな幕が上がる。君が欲する役を──魔王さえも恐れる役を──手に入れる時が来る」
そう言い残すと、影は夜の闇に溶けて消えた。
胸の奥で、青い火花がまたひとつ弾けた。
それはもう、ただの囁きではない。確かな灯火となり、僕の中で燃え広がろうとしていた。