第47話 遺された書
それは、紫の時代が始まってから十年後のことだった。
世界は穏やかだった。
争いは消え、人々はそれぞれの夢を追い、
魔法と科学、信仰と理性が同じ机に並ぶ時代。
“勇者”という言葉は、もう伝説の一節として語られていた。
けれど、その名が完全に忘れられることはなかった。
なぜなら、誰もが心の奥で知っていた。
この世界をここまで導いた“誰か”がいたことを。
◇ ◇ ◇
【リュミエール=カルマ共和国:中央図書塔】
「ねぇリラ、この棚って何百年分あるの?」
高い脚立の上から声をかけたのは、少年カイ。
短い黒髪に紫の瞳――
この時代では珍しくなった“混色の瞳”を持つ青年だった。
下で本を受け取っていた少女リラが笑う。
「百年も経ってないわ。
でも、積もり積もった“物語”の重みはそれくらいあるかもね」
カイは棚から一冊の古びた本を引き抜いた。
表紙には、二重の環の刻印。
その中央に、小さく文字が刻まれていた。
『勇者の手記』
◇ ◇ ◇
二人は埃を払い、静かな一室に移動した。
ランプの光が本のページを照らす。
カイが声を潜める。
「……伝説の“紫の勇者”の記録、か」
「そんな本、存在するなんて信じられないわ」
ページを開くと、筆跡は途切れ途切れで、
それでも確かに“誰かの言葉”が刻まれていた。
――物語は終わらない。
それを語り継ぐ限り、勇者は死なない。
この世界が再び迷う時、
心を持つ者が、新たな舞台の幕を開けるだろう。
カイは読み上げた後、リラを見つめた。
「……なあ、これって預言じゃないか?」
「かもね。でも、“心を持つ者”って、誰のこと?」
◇ ◇ ◇
その瞬間、ランプが揺れた。
風はない。
だが、ページの隙間から微かな光が溢れた。
カイが慌てて本を閉じようとした瞬間――
光が形を取り始めた。
紫の残光が空中で渦を巻き、
ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
「……誰?」
リラが一歩退く。
影は静かに笑った。
「驚かせたね。僕はただの“残響”だよ」
その声は、どこか優しく、懐かしかった。
◇ ◇ ◇
「まさか……勇者、なの?」
リラが呟くと、影は小さく頷いた。
「そう呼ばれていたこともあったね。
でも、今の僕はただの“物語の一部”さ。
君たちがこの本を開いたことで、
また舞台が少しだけ動いたんだ」
カイは息をのむ。
「……舞台?」
「そう。
僕が去ったあとも、世界は物語を続けてる。
でもね――物語には“語り手”が必要なんだ」
勇者の影は、カイの胸に手をかざした。
そこに紫の光が灯る。
「君の瞳の色、珍しいね。
その紫は、昔の僕と同じ“心の色”だ」
◇ ◇ ◇
光が広がる。
古い書庫の壁一面に、無数の文字が浮かび上がる。
それは――世界の裏に刻まれた“物語の設計図”。
リラが震える声で言った。
「これ、全部……世界の記録……?」
勇者の影は穏やかに微笑んだ。
「違うよ。
これは“次の物語”の脚本だ」
カイは拳を握った。
「次の……勇者の物語?」
影は頷いた。
「うん。でも今回は、君たちが書くんだ。
僕はもう観客席にいる。
――舞台を動かすのは、君たちの心だよ」
◇ ◇ ◇
光が消える。
本は静かに閉じ、
再びただの古書へと戻った。
しばらくの沈黙の後、リラが笑った。
「……やっぱり、あなた、ただの本好きじゃなかったのね」
カイは照れくさそうに笑う。
「本を読むだけじゃ足りない。
今度は、俺たちが書く番だ」
彼は窓の外を見た。
紫の空が、ゆっくりと明るんでいく。
「――さあ、幕を開けよう。
“第二の紫の時代”の物語を」
◇ ◇ ◇
【虚空】
遠くの彼方、かつての勇者はその光景を見ていた。
微笑を浮かべ、静かに呟く。
「……いいね。
ようやく観客が、物語の続きを書き始めた」
紫の羽がひとつ、彼の手から零れ落ちる。
それは新しい世界へと舞い降り、
新しい“勇者”の心へ届いた。




