第32話 虚空の再契約
暗闇。
それはただの闇ではなかった。
音も匂いも、時間の流れすら失われた、
“無”としか言いようのない空間だった。
僕はそこで目を覚ました。
地も天もなく、足元にすら影が落ちない。
ただ、自分の鼓動だけが確かに響いていた。
──ここは、どこだ?
問いかける声は、すぐに闇に吸い込まれた。
返事の代わりに、遠くで火花がひとつ、青く弾けた。
◇ ◇ ◇
「ようやく目を覚ましたか、勇者」
声。
その響きに、自然と微笑が浮かぶ。
「またお前か。……仮面の主」
「お前と俺は、同じ場所に堕ちたのだ。
王の間が崩れたとき、浄火の陣は空間を裂き、
我らを“間”の領域へ引きずり込んだ。
いわば、世界と世界の隙間――舞台裏だ」
仮面の主は、暗闇の中にゆらりと姿を現した。
その仮面は割れ、片方の素顔が覗いている。
そこには、微笑とも冷笑ともつかぬ表情が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「舞台裏、ね。……ふさわしい場所だ」
僕は軽く笑いながら、腰の剣に触れる。
だが、その剣は輪郭を保てず、まるで夢のように揺らめいていた。
「ここでは形あるものは溶けていく」
仮面の主が言う。
「だが、意志は残る。
お前の剣が今も光を放つのは、執着が強いからだ」
「執着、ね……」
僕は手を握りしめた。
剣の青い火花が、静かに脈打つ。
◇ ◇ ◇
仮面の主は歩み寄り、僕の前に立った。
「勇者よ。
この世界は、いずれ崩れる。
王も、神も、物語の構造すらも。
だが――舞台裏からなら、書き換えられる」
「書き換える?」
「そうだ。
我らが新しい筋書きを作るのだ。
英雄も悪も関係ない。
“意味”そのものを、我らの手で定義し直す」
◇ ◇ ◇
僕は笑った。
「……つまり、再契約の誘いってわけだ」
「あの時、お前は俺を拒んだ。
だが今、この世界の形は壊れつつある。
次の幕を共に創る者が必要だ。
お前ほどふさわしい“役者”はいない」
「僕を、黒幕に据える気か?」
「違う。脚本家に、だ」
その言葉に、胸の奥の火花が弾けた。
脚本家。
つまり、“物語そのものを操る者”。
──あぁ、なんて甘美な響きだ。
◇ ◇ ◇
僕はゆっくりと手を差し出した。
「いいね。だが条件がある」
仮面の主が目を細める。
「聞こう」
「主役は、僕だ。
お前が紡ぐ筋書きの上で踊るのは、もうごめんだ。
この幕を動かすのは、僕自身だ」
仮面の主はしばらく沈黙し――やがて、低く笑った。
「……やはり面白い。
では、共に書こう。
お前の物語を、俺の手で。
俺の物語を、お前の手で」
◇ ◇ ◇
二人の手が触れた瞬間、
虚空に巨大な陣が展開した。
青と紅の光が絡み合い、まるで二冊の脚本が重なり合うように。
「再契約だ、勇者」
「幕の裏で、新しい物語を創ろう」
光が爆ぜ、闇が割れた。
そこに浮かんだのは――歪んだ世界の断片。
壊れた王城、泣き叫ぶ民、そして祈る仲間たち。
僕はその光景を見下ろし、ゆっくりと笑った。
「さぁ、“第二幕”を始めようか」




